サトシくんはモテすぎる!
サトシ(17歳)は、なぜか現代の日本の高校に転生してしまった――しかも恋愛の仕組みがまったくわからない。ポケモンの世界では、戦いとパートナーだけに夢中だった彼だが、今ではただひたむきに自分らしくいるだけで、周りの心を次々とときめかせてしまう。
最初に落ちたのは、クラス委員長でサトシのトラブルを片付けるのに忙しく、顔を真っ赤にしてしまう霧島カスミ(17歳)。次に、明るく元気な転校生の木の実ヒカリ(17歳)が、出会ってわずか5秒で「この子は私の新しいミッションだ」と決める。そして、隣の席のクールな優等生、篠崎コジロウ(17歳)までもが、密かに感情を抱き始め、その自分に自己嫌悪を感じてしまう。
一方サトシは、ポケモンセンターがないことや、ピカチュウがいればドッジボールがもっと楽になるのにと嘆くばかり。彼にとって三人はただの友達。あくまで友達。幸せで致命的なほど鈍感なのだ。
文化祭がその舞台となる。サトシは四人全員を同じ模擬店に元気よく志願し、舞台裏では全面戦争が勃発。ついにカスミがキレて大声で告白し、ヒカリも続き、赤面するコジロウも声を上げる。三人を見つめたサトシは「でもみんな友達だよ
サトシくんはモテすぎる! - ポケモンがいない!ここはどこだ——カゼミヤ高校、初登校大混乱!
「[scared]ピカチュウ——ッ!!」
声が出た。
でも返事がなかった。
朝の空気が冷たい。9月のはずなのに、どこか違う匂いがした。サトシは地面に座ったまま、しばらく動けなかった。
ここは……どこだ。
黒くてクセのある髪が、朝の風に少し揺れた。身長170センチの細い体に、見たことない制服が着せられている。白いシャツ、ネイビーのズボン。胸のあたりに見慣れない校章のバッジ。明るい茶色の目が、ぐるりと周囲を見回した。
学校の門?
古びたコンクリートの門柱に「県立カゼミヤ高校」と書いてある。読めた。なんとか読めた。でも意味がわからない。
ポケモンの気配が、ない。
それだけで十分だった。パニックになるには。
サトシは立ち上がった。制服のズボンの砂を払って、息を吸って——走った。
全力で。
ポケモンバトルで鍛えた足は、舗装された坂道を飛ぶように駆け下りた。後で測れば50mを6秒2で走る脚力が、今は完全に逃走に使われている。坂を下ると橋が見えた。「アキツ川」と書いた看板。川面が朝日でキラキラしている。橋を渡ると、アーケードがあった。
シャッターが半分開いた商店が並んでいる。ミナトハラ商店街——後から知る名前を、今のサトシはただ「知らない場所」として走り抜けた。お茶の看板、クリーニング屋の白いのれん、パン屋からただよう甘い匂い。
でも止まれなかった。
線路が見えた。大きな駅舎。「JRミナトハラ駅」。
サトシは改札の前で立ち止まった。ゼーゼーと息をしながら、目の前の光景を見た。
なんだこれ。
ガラスの箱みたいなものが、横に並んでいる。人が次々とそこを通り抜けていく。何かをかざすと「ピッ」と音がして、バーが開く。
機械のカプセルか?
「[curious]あの……それ、どうやって——」
サトシが金属のバーに触ろうとした瞬間、制服姿の駅員が飛んできた。
「お客様、そちらはICカードか切符がないと通れません!」
「[surprised]きっぷ……?」
「券売機でお買い求めください」
駅員が指差した先には、また機械があった。光る画面。数字。知らない言葉がたくさん並んでいる。
サトシは一歩後ろに下がった。
そのままホームの入口で立ち尽くしていると、通勤ラッシュの波が来た。スーツ姿のサラリーマン、制服を着た学生、大きなバッグを持ったおばさん。みんな何かをポケットから出して「ピッ」とやって、どんどん通り過ぎていく。
誰もサトシに気づかない。
いや、一人の学生がちらりとこちらを見た。でもすぐに視線をスマートフォンに戻した。
スマートフォン。薄くて四角いやつ。みんな持っている。
(なんだあれ……ポケモン図鑑みたいな形してるけど、違う)
サトシは改札の横のベンチを見つけた。どさりと座った。
膝を抱えた。
整理しよう。
モンスターボール、ない。ポケモン図鑑、ない。ピカチュウ、いない。オーキッド博士も、カスミも、タケシも——名前を思い出すたびに、胸の奥がきゅっとした。ポケモンの気配が、まるでない。あの感覚——仲間がそこにいる感じ——が、完全に消えている。
ここはポケモン世界じゃない。
それだけははっきりわかった。
ホームの向こうで、電車が到着した。ドアが開いて、人が吐き出されて、また飲み込まれていく。巨大な金属の箱が、人を運ぶ乗り物。サトシは見たことがなかった。でも怖いとは思わなかった。ただ、ぼーっと眺めた。
空が青かった。
よく晴れた、9月の朝。
サトシはポケットに手を入れた。何の気なしに。
……紙?
折りたたまれた紙が入っていた。広げると、文字と、絵が書いてある。
「県立カゼミヤ高校 2年3組 転入届」
読める。なんとか読める。漢字が何個かわからなかったけど、「かぜみやこうこう」「にねんさんくみ」「てんにゅうとどけ」と読めた。
もう一枚、手書きの地図だった。
「JRミナトハラ駅→北へ歩く→アキツ川の橋を渡る→商店街を抜ける→丘を登る→カゼミヤ高校」
地図の絵はシンプルで、川に魚の絵、商店街に「パン」と書いた旗、丘に小さな木の絵が描いてあった。誰が描いたんだろう。絵が妙にうまい。
サトシはしばらくその紙を見つめた。
(誰が用意したんだ……)
わからない。全然わからない。なぜここにいるのかも、なぜこんな服を着ているのかも。ピカチュウがどこにいるのかも。
でも。
じっとしてても、始まらない。
それはわかった。
「[serious]……行くか」
誰に言うでもなく、呟いた。ベンチから立ち上がって、ズボンの後ろをぽんと叩いて、地図を握り直した。
来た道を戻る。アキツ川の橋を渡ると、川の土手が朝日でオレンジ色に光っていた。コスモスがぽつぽつ咲いている。サトシは少し立ち止まって、その花を見た。ポケモン世界にも、こういう花があった気がする。ロケット団を倒した後、草むらで見かけた、ちっちゃい花。名前は知らなかったけど、きれいだった。
それだけで、少し落ち着いた。
商店街を歩く。さっきは全力で走り抜けたけど、今度はゆっくり。パン屋の匂いが鼻をくすぐる。洋菓子屋の前で、ガラスケースの中にシュークリームが並んでいるのが見えた。北寄りの一軒。看板に「パティスリー・コジロウ」と書いてある。
(おいしそう……)
でも今はお金がない。サトシはちょっと名残惜しそうにその店を横目で見てから、また歩き出した。
坂を登る。木が増えてくる。カゼミヤ丘陵、と地図に書いてある場所の南側に、校舎が見えた。鉄筋コンクリートの、大きな建物。4階建て。本館と南館がつながっている。
校門の前で、サトシは立ち止まった。
……さっき、ここで目が覚めたんだ。
なんか変な感じがした。出発点に戻ってきた、みたいな。
とにかく、中に入った。
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職員室は本館の1階にあった。
ドアを開けると、たくさんの先生が机に座っていた。一斉にこちらを見た。サトシは少し固まったけど、転入届を持ち上げてみせた。
「[serious]あの……転入、届けを、持ってきました」
立ち上がってきたのは、35歳くらいの男の先生だった。眼鏡をかけていて、少し背が高くて、やわらかい顔をしている。白いシャツに紺のスラックス。声もやわらかい。
「ああ、サトシくんだね。待ってたよ。僕は2年3組の担任の堤です」
堤先生は笑顔だった。本当に怒っていない笑顔。よかった、とサトシは思った。
「[gentle]まずここに座って。書類を確認させてもらうから」
椅子に座ると、堤先生がいろんな紙を広げ始めた。
「これが時間割。これが教科書リスト。このプリントは——」
「[curious]あの、プリント……これは指令書みたいなもの、ですか?」
堤先生の手が止まった。
「……指令書?」
「[curious]あと、じかんわり……えーと、英語の意味は?」
沈黙。
堤先生はゆっくりと眼鏡を直した。
「[gentle]……時間割は、一日の授業のスケジュールのことだよ。何時間目に何の授業があるか、って表ね」
「[surprised]ああ! ジムの挑戦順みたいな!」
「……うん、まあ、そういう感じ」
堤先生の口元が、かすかに引きつった。でもすぐに笑顔に戻った。やわらかい先生だ。サトシはそう思った。こういう人がいる場所なら、少し安心できる気がした。
教科書を7冊もらった。ずっしり重かった。「国語」「数学」「英語」「理科」「社会」「体育」「芸術」——全部、知らない科目だった。まあいい。とりあえず持っていく。
本館3階に上がった。廊下の突き当たりの教室が「2年3組」だった。
堤先生がドアの前で立ち止まって、サトシを振り返った。
「[gentle]緊張してる?」
「[serious]大丈夫です。ジムリーダーに挑むときよりは緊張してないです」
「……そうか」
堤先生はドアを開けた。
40人分の視線が、サトシに向いた。
教室は広くて、窓側に向かって机が並んでいる。窓の外には丘陵の緑が見える。カゼミヤ丘陵——さっき登ってきた丘の木々が、朝日の中で揺れている。
全員がサトシを見ていた。
「[gentle]転入生を紹介します。では、自己紹介を」
サトシは教壇の前に立った。40人の視線。みんなちゃんと制服を着ている。自分と同じ白いシャツ、ネイビーのズボン、スカート。同い年くらいの子たちが、黙ってこっちを見ている。
(よし)
サトシは満面の笑みを作った。これが一番大事だと、旅をしながら学んでいた。最初の笑顔は、全力で。
「[excited]ぼくはサトシです! ポケモンマスターを目指して旅をしてました! よろしくお願いします!」
シーン。
本当に、シーンとした。
3秒くらい、誰も何も言わなかった。サトシは笑顔のまま待った。いつでもぼくは笑顔だ、どんな状況でも。
それから、ざわめきが来た。
「……ポケモンマスター?」
「なにそれ」
「え、ポケモン?ゲームの話?」
「ていうか旅って何」
誰も笑っていない。誰も怒ってもいない。ただ全員が困惑している。サトシはその顔を見渡した。
(あ……やっぱり、ここはポケモン世界と全然違う)
当たり前のことを、今さら実感した。ここではポケモンが「ゲームのキャラ」みたいに思われているらしい。旅が「普通のこと」じゃない。ジムバッジも、モンスターボールも、知らない。
堤先生が咳払いした。
「[gentle]はい、ありがとう。では席に座って。窓側の一番後ろだよ」
案内された席に座った。窓側の最後尾。一番端っこ。窓から丘の木が見えて、青い空が見えて、遠くに住宅地が見えた。
ミナトハラ市。人口18万人くらいの街らしい、と後で知る。JRと私鉄が走っている、東京から少し離れたベッドタウン。でも今のサトシには、ただ「知らない街」だった。
窓の外を見ながら、サトシは小さく呟いた。
「[whispers]ピカチュウ、お前……どこにいるんだ」
返事は、来なかった。
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その日の授業は、ほとんど何もわからなかった。
「x」とか「y」とか「微分」とか、見たこともない記号が黒板に並ぶ。国語の教科書を開いたら、縦書きの文章がみっちり詰まっていた。英語に至っては、文字を見るだけで頭が痛くなった。
とにかく座っていた。それだけが仕事だと思って。
6時間目が終わって、ホームルームが終わって、生徒がぞろぞろ帰り始めた。
サトシは教科書を机の中に入れて、ぼんやり立ち上がった。廊下に出ると、掲示板みたいなものが壁に貼ってある。いろんな紙が貼ってあった。部活の案内、行事予定、なんか委員会のお知らせ……読もうとしたけど、難しい漢字が多くて途中で止まった。
「[sad]……これ、なんて読むんだ」
一人で呟いていたら、廊下を歩いていた男子生徒がこっちを見た。
「[serious]あの……購買部って、どこですか」
初めて、自分から話しかけた。
その生徒は少し驚いた顔をして、でも「南館の1階だよ」と教えてくれた。声をかけるのに少し勇気が要った。でも、言えた。
南館1階。渡り廊下を歩いて、案内通りに下りた。
購買部は、小さな売店みたいな場所だった。ガラスケースにパンやお菓子が並んでいる。レジの中に、小柄なおばちゃんがいた。62歳くらいだろうか、白髪まじりのふっくらした人で、割烹着みたいなエプロンをしている。目じりにたくさんシワがある。でもそのシワが、笑うとすごく深くなって、あったかい感じがする顔だった。
カウンターを見渡していたら、目に入った。
「カレーパン 200円」
カレー。
サトシの足が止まった。
カレーの匂いがした。ほのかに、でも確実に。コンビニでもなく、お店のカレーでもなく——この匂い、知ってる。
ポケモンセンターのカレーだ。
旅をしていた頃、疲れ果てた日の夕方にポケモンセンターに駆け込んで、ピカチュウをナースジョイさんに預けて、ロビーのテーブルでかっこんだカレー。あのスパイシーで甘い匂い。
「[gentle]あんた、それ欲しいの?」
おばちゃんが声をかけてくれた。
「[excited]……あっ、はい! ください!」
200円。ポケットに手を入れたら、なぜか小銭が入っていた。誰かが用意してくれていた。転入届と一緒に。
カレーパンを受け取った。まだ少しあたたかかった。
かぶりついた。
サクサクのパン生地。中からカレーが出てくる。スパイシーで、少し甘くて、じゃがいもがほくほくしている。
(……おんなじだ)
全然、違う世界のはずなのに。
ポケモンセンターの、あの味と、おんなじだ。
サトシの目が、にじんだ。
「[gentle]あんた、どうしたの?」
おばちゃんが目を丸くしていた。
「[gentle]カレーパンで泣いてる子、初めて見たよ私」
「[sad]……おいしくて」
「[surprised]おいしくて泣いてるの?」
「[sad]前にいた場所で、よく食べてたやつと、同じ匂いで……」
うまく言えなかった。でもおばちゃんは怒らなかった。しばらくサトシの顔を見てから、ふっと笑った。目じりのシワが深くなった。
「[gentle]まあ、明日も来なさい。毎日入れとくから」
「[excited]ありがとう! ともだちができた!」
おばちゃんの顔がちょっと固まった。
「[gentle]ともだち……まあ、ちょっと違うけど、いいか」
苦笑い。でも悪い顔じゃなかった。
サトシはカレーパンを持って、購買部の前のベンチに座った。ゆっくり食べた。最後のひとくちまで、ちゃんと味わった。
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帰り道、校門の前で立ち止まった。
今朝、ここで目が覚めた。それからJRの駅まで走って、ベンチで膝を抱えて、地図を見つけて、戻ってきた。ポケモンマスターを目指してます、と言ったら40人が固まった。カレーパンを食べて泣いた。
なんか、めちゃくちゃな一日だった。
でも。
(ここに来た理由は、わからない)
正直、今でもわからない。なんでポケモン世界からここに来たのか。ピカチュウがいないのか。誰が転入届を用意したのか。
でも、カレーパンはうまかった。おばちゃんは優しかった。堤先生はやわらかい人だった。
サトシは空を見上げた。
夕方の空が、オレンジと紫でぐるぐるになっていた。遠くにカゼミヤ丘陵のシルエットが黒く浮かんでいる。標高120メートルくらいの、そんなに高くない丘。でも頂上に展望台があるらしい。晴れた日には遠くのビル群まで見えると、昼休みに誰かが話していた。
「[serious]……明日、もう少しだけここを知ってみよう」
呟いた声が、夕風にまぎれた。
校門の近くに、掲示板があった。さっきは読めなかった貼り紙。今度はゆっくり見てみたら、一枚だけ読める紙があった。
「明日のHRにて:転入生バディ制度について、学級委員長より告知あり」
「[curious]がくきゅういいんちょう……」
クラスの偉い人、みたいな人だろうか。
なんか明日、その人が何かを言うらしい。
サトシはその紙をもう一回見てから、校門の外に出た。アキツ川に向かって坂を下りていく。川の音が聞こえてくる。コスモスの匂いが、また鼻をかすめた。
ポケモン世界とは全然ちがう場所。でもカレーパンの匂いは、おんなじだった。
それだけで、なんとかなる気がした。