サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - 腐食のカビ将軍——全ての攻撃が無意味な絶望
スパイシー国からの帰り道、宴の余韻はまだ裕樹の体に残っていた。焔楼閣でレッドキングが「三国同盟に参加する」と宣言した瞬間の、あの熱い空気。蜂蜜一滴が起こした奇跡。キャラメル姫の目が潤んでいたこと。
だが今、馬の背で感じる風は温かくない。
「速度、上げます」
姫が手綱を引き絞った。金色の髪が後ろに流れる。裕樹は鞍の前頭部を両手でつかみ直した。馬は夜の街道を駆ける。レッドキングから借りた二頭の馬は足が速く、暗い道でも迷わない。
フルーツ国の首都シトラリア——グラティネから東へ百キロ、巨大な果樹が建物代わりになった樹上都市——の方角に、灰色の煙が立ち上っているのが見えた。暗い夜空に、それだけが不自然に浮かんでいる。
(嫌な感じがする)
嫌な感じ、どころじゃない。鼻の奥にかすかな腐臭が混じり始めた。果物の甘い香りが完全に死んでいる。このあたりはフルーツ国の東部、シトラリア郊外のヴェルデの森——フルーツ国の食材供給源で、四季の果実が豊かに実る緑の森——の手前のはずだ。それなのに、風に乗ってくるのは生ゴミのような臭いだった。
馬が林道の入り口で足を止めた。
森から人が走って出てくる。一人、また一人。老人を背負った若い男、子供の手を引く女、荷物も持たずに必死に逃げている食彩人たちが、裕樹たちの脇をすり抜けていく。みんな顔が真っ白だ。
「待って! 中に何がいるんですか!」
逃げる住民は答えない。答える余裕すらない。一人の老婆だけが振り返りもせず叫んだ。
「逃げろ! 触れたら腐る!」
裕樹はキャラメル姫と目を合わせた。
「行きましょう」
「うん」
二人は馬から降り、逃げる流れに逆らって森の中に踏み込んだ。
◆
十歩も入らないうちに、様子がおかしくなった。
木の幹に灰緑色の斑点が広がっている。地面に落ちた果物がぐずぐずに崩れて、踏むとぬちゃっと嫌な感触がした。空気が重い。喉の奥がイガイガする。果物の木が多い森のはずなのに、生き生きとした緑が一つもない。全部くすんだ灰色に変わりつつある。
その先から、ドゴォン、という音が響いた。
続いて、元気な怒鳴り声。
「うわーっ!! もう! なんで当たんないの!?」
声のした方向に走る。林を抜けた先の広場に、ピンク色の短い髪を振り乱した少女がいた。
まず目に入ったのは、その髪だ。鮮やかなピンクのショートボブが、走るたびにぱたぱたと揺れる。次に目に入ったのは、手に持った木の実の山。腕いっぱいに抱えて、片手でそれを投げる投げる投げる。連続して放たれた木の実が、前方の巨体に向かって飛んでいく——
しかし全部、相手に触れた瞬間に灰色の泥になって落ちた。
「って、もう来てくれてたの!」
少女が振り返った。明るいオレンジ色の瞳——よく見ると星形に輝いている——が裕樹たちを捉える。口元には恐怖ではなく、ふてぶてしいくらいの笑みがあった。菓子作り用のエプロンが木の実の汁と土でひどいことになっている。
「遅いよ! もう三十分も一人でやってるんだけど!」
「いや、来たばっかりだけど!?」
「グダグダ言ってないで早く手伝って!」
モモはすでに次の木の実を投げている。裕樹はとりあえず前を見た。
——そこにいた。
身長三メートル。灰緑色の巨体。腐った食材を無理やり人の形に固めたような質感の体から、絶え間なく薄い霧が漂い出ている。周囲の果物の木が、その霧に触れるたびにみるみる色を失っていく。ヴェルデの森に充満し始めた腐臭の源——カビ将軍が、ゆっくりとこちらを見ていた。
「なんだあれ」
「でかい。三メートルは絶対ある」
「名前は? どこから来たの?」
「知らない! 急に出てきたの!」
「……とりあえず名前だけ教えて! 自己紹介もしてないじゃん!」
「モモ! フルーツ国のお菓子職人! あんたは?」
「高橋裕樹! 異世界から来た高校生!」
「姫様は?」
「キャラメル姫です」
「変な名前」
「それは失礼ですよ」
「ごめん後で謝る! 行くよ!」
三人は同時に駆け出した。
◆
モモが先陣を切った。木の実を両手で構え、渾身の力で投げつける。桃、みかん、りんご——フルーツ国が誇る果実が弾丸のように飛んでいく。どれも硬い木の実で、当たれば普通の生き物なら動きを止める威力がある。
カビ将軍の体に当たった瞬間、全部が腐った泥になった。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。果実が灰色に変色して地面に垂れる。カビ将軍は一ミリも動じない。
「嘘でしょ……」
モモの顔から笑みが消えた。それでも彼女は手を止めない。次の木の実を拾い上げる。
「姫さん! バリア!」
「はい!」
キャラメル姫が腰の小瓶を取り出した。特製キャラメルソース——蜜花糖を原料とした希少なソースで、甘味の魔力を帯びた黄金色の液体だ。姫が地面に素早く円を描くと、三人を囲む形で薄い金色の壁が立ち上がった。
カビ将軍の瘴気がバリアに触れた。
金色が黒く変色し始める。ソースが腐食されて、端から崩れていく。
「……持ちません」
十秒と経たずにバリアが溶けた。
裕樹は周囲を素早く見回した。折れた木の枝、落ちた果実、それからポーチの中の乾燥野菜と薄切りのパン。
(作れる。今ここで)
料理の構成が頭の中に浮かぶ。具材を重ね、思いを込める。EP3でレッドキングに作ったサンドイッチより単純な構造だが、材料はある。手を動かしながら、頭の中で必死に組み立てた。仲間を助けたい。この森を守りたい。モモが三十分一人で戦い続けたこと。キャラメル姫がここまで一緒に来てくれたこと。
光が宿った。
挟んだ瞬間、サンドイッチがかすかに白く発光した。味の魔法——料理に込めた思いが超自然的な力として発現する現象——が、今まさに宿っている。
「いける!」
裕樹は思い切り投げた。
サンドイッチはまっすぐカビ将軍に向かって飛んでいった——そして、巨体を囲む瘴気に触れた瞬間、黒く変色した。光が消えた。形が崩れた。落ちる頃には泥の塊だった。
地面にぺちゃんとつぶれる音だけが、森に響いた。
沈黙。
裕樹は自分の手を見た。まだ材料が手に残っている。もう一度作るか、という考えが浮かんで——でも、足が動かなかった。
カビ将軍が、三人をまとめて見下ろした。
そして笑った。
低く、腐った空気を振動させるような笑い声だった。声というより振動に近い。その笑いの意味は、言葉がなくてもわかった。
——お前たちの攻撃は何も通じない。
◆
次の瞬間、視界が反転した。
巨大な手が裕樹を掴んだのだと理解したのは、空中に浮いた後だった。灰緑色の指が体に回っている。瘴気が皮膚に触れる。ヒリヒリした痛みが走った。
そのまま、地面に叩きつけられた。
ドゴォン。
全身に衝撃。肺の空気が全部出た。視界にノイズが走る。土と腐った草の臭いが鼻に突き刺さった。体が言うことを聞かない。立ち上がろうとして、手をついた。手のひらから血が滲んだ。
「裕樹さん!!」
「やめろーーー!!」
モモが叫びながら飛びかかった。体重を全部乗せたタックルをカビ将軍の脚に叩き込む——が、弾かれた。まるでゴムのような反発力で、モモの体が後ろに吹き飛ぶ。近くの木の幹に背中から打ちつけられ、ずるずると地面に滑った。
「モモ!!」
裕樹が立ち上がりかけた瞬間、今度は蹴りが来た。
脇腹に直撃した。数メートル吹き飛んだ。体が宙を舞って、地面に転がる。血の味がした。全身がジンジンと熱い。痛みで思考がぐるぐるする。手をつこうとしたら、血まみれの指がべったりと土に沈んだ。
(立て。立てよ、俺)
体が言うことを聞かない。膝が地面を離れない。
そこにキャラメル姫が走り込んできた。
姫は裕樹とモモの間に立った。両手を広げた形で、カビ将軍の前に立ちはだかる。その細い体が、巨体の前でひどく小さく見えた。
カビ将軍が一歩踏み出した。その足から漂う瘴気が、姫の方向に流れた。
姫の右腕に、灰緑色の霧がかかった。
姫の腕の装飾——キャラメル色の細かい刺繍のような模様、食彩人として生まれ持った食材装飾——が、見る見るうちに灰色に変わった。美しいキャラメル色が死んでいく。模様の端がほつれるように崩れ、灰色がじわじわと肩の方へ広がっていく。
姫は声を上げなかった。
ただ、表情が固まった。唇をきつく結んで、腕を少し引き寄せた。痛みをこらえている顔だった。
「姫——!!」
裕樹は叫んだが、体が動かない。立ち上がろうとすると足が震えて、また膝をついた。血の滲む手で地面を押す。押す。押す。
立てない。
カビ将軍は、三人を一瞥した。
関心を失ったような目だった。もうここに脅威は存在しない、という顔だった。それが何より腹立たしく、何より絶望的だった。
巨体がゆっくりと背を向けた。瘴気が森全体に広がっていく。半径が大きくなっていく。果物の木が次々と灰緑色に染まる。実が腐って地面に落ちる。葉が黒く縮れる。笑い声の余韻が、腐臭の混じった空気の中で消えていった。
◆
カビ将軍が去った後の森は、ひどく静かだった。
鳥の声がない。風の音だけが、腐った枝の間を通り抜けていく。
裕樹は地面に手をついたまま、しばらく動けなかった。全身が重かった。痛みではなく、もっと別の何かが体に張りついている感じがした。血まみれの指をぼんやり見下ろす。土が染み込んでいる。
(何もできなかった)
思いを込めたサンドイッチが、瘴気に触れた瞬間に腐って崩れた光景が、頭の中でリプレイし続ける。光が消えた瞬間。地面に落ちる泥の音。
(味の魔法は、何一つ通じなかった)
モモが木の幹から体を起こした。口元を腕で拭う。エプロンの背中が土で真っ茶色になっている。立ち上がりながら、東の方角をじっと見た。シトラリアの方向。郊外の丘の向こうから、灰色の煙が細く上がっている。
モモは何も言わなかった。唇を噛んだ。それだけだった。
(あの煙のあたりに、モモの工房があるんだろう)
裕樹は直感した。シトラリア郊外の小さな果樹の中にあるという、モモの菓子工房「桃花房」。あの煙は、そこから出ているのかもしれない。
住民が少しずつ戻り始めた。
腐り果てた木々の間に立って、壊れた森を見回して、泣き崩れる者が出た。膝をつく者が出た。老婆が腐った果実を一つ手に取り、それがぐずぐずに崩れるのを見て、顔を覆った。フルーツ国の食材供給源——ヴェルデの森の惨状は、ひと目で被害の大きさがわかった。
「……あれが味覚の導き手か」
近くで誰かが呟いた。声のトーンが低かった。
「来てから何が変わったんだ」
刺さった。
物理的に何かが胸に刺さったみたいな感覚があった。裕樹は視線を上げられなかった。血まみれの手を地面につけたまま、その言葉を受け止めた。否定できない。
キャラメル姫が裕樹の隣に来た。
肩に手を置こうとした。
その瞬間、右腕の傷が痛んだのだろう——姫の顔が一瞬ゆがんだ。ほんの一瞬。すぐに表情を戻したが、裕樹は見ていた。腕の食材装飾はまだ灰色のままで、その変色はゆっくりと広がり続けている。
自分のせいだ。
守れなかった。味の魔法は何も通じなかった。サンドイッチは腐った。バリアは溶けた。モモは木の幹に叩きつけられた。姫の腕に傷が残った。
モモが腰を下ろして膝を抱えた。灰色の煙から目を離さないまま、小さな声で言った。
「……桃花房、まずいかも」
一言だった。それだけで、後は黙った。
裕樹はモモを見た。さっきまでガンガン木の実を投げていた元気なその少女が、今は膝を抱えて縮こまっている。からかうでも笑うでもなく、ただ黙っている。
シトラリアの避難所まで行かなければならない。姫の腕の傷が広がっている。住民の怒りの目がある。カビ将軍は今も森を腐食させながら笑っている。
裕樹はゆっくり立ち上がった。足が震えた。それでも立った。
「……シトラリアに行こう」
声が、思ったより小さく出た。
モモは少し間を置いてから立ち上がった。口元が一瞬動いたが、何も言わなかった。キャラメル姫が右腕を左手で抑えながら、裕樹の隣に立った。
三人は歩き出した。
裕樹の足取りは重かった。腐った果実を踏むたびに、ぐちゃ、という音がした。その音が耳に残った。
(カビ将軍に、どうすれば通じるんだ)
答えは出なかった。通常の攻撃が効かない。フルーツ系魔法が腐食される。味の魔法も届かなかった。何も通じなかった。
姫の腕の灰色が、じわりと広がっていた。