昨日の屋上のことが、まだ頭の隅に残っていた。 コメント欄に並んだ「モブ子」という文字。給水タンクの影で、泣かなかったこと。眠れない夜に、愛佳の部屋の窓明かりをぼんやり眺めていたこと。 ミズキは2-Cの後方ロッカー付近の席に座って、今日も机の上の教科書を開いていた。5月第3週の水曜日。外のケヤキは昨日より緑が濃い気がした。風が吹くたびに葉がざわめいて、教室の窓ガラスに薄い影を落とす。 ホームルームまでまだ十分くらいある。教室の中はいつもの朝のざわめきだった。 そのとき、教室の引き戸が開いた。 空気が変わった。 ぱっ、と明るくなる感じ。太陽が教室に入ってきたみたいな——それが愛佳のことを表現するときにミズキがいつも思い浮かべるやつだと分かっていたけど、やっぱりそれ以外の言い方が思い浮かばない。 三浦愛佳は紺のブレザーをきっちり着こなして、純白のロングヘアをふわっと揺らしながら入ってきた。金色の瞳がきらきらして、えくぼのある笑顔が教室全体に向いた。 「愛佳ちゃんおはよ!」 「愛佳、昨日のドラマ見た?」 男子が無意識に通路を開ける。女子が前に出てくる。愛佳の周りに自然と輪ができる。 「おはよう! ドラマは途中で寝ちゃいましたの」 くすくす笑い声が上がる。愛佳もつられて笑う。誰かが何か言えば、ちゃんと返す。誰にでも同じ温度で、ちゃんとそこにいる。 ミズキは指先でシャーペンをくるくるした。 (あたしが入ってきたとき、こんな空気にはならない) 分かっている。ずっと分かっていた。ミズキが教室に入っても誰も振り向かない。「おはよう」と言えば「おはよう」と返ってくるだけで、輪が広がるわけでも、空気が変わるわけでもない。それが普通だと思っていた。 でも今日は、愛佳の周りに集まる顔を眺めながら、胸の奥がじりじりした。昨日のコメント欄の言葉が、また浮かんでくる。 付属品。 モブ子。 ——愛佳は一度もこっちを見なかった。 *** 昼休み、ミズキは弁当箱を持ってショーケース席に向かおうとした。 「ねえ、ミズキ」 振り返ると、愛佳が廊下の方を指さしていた。 「外で食べない? ケヤキの下、今日天気いいし」 グループの他の子たちに「ちょっとごめんね」と軽く声をかけて、愛佳はもうミズキの方を見ていた。金色の瞳が、ミズキだけを見ていた。 胸が、ぎゅっとした。 「……うん」 二人で中庭に出る。5月の空は青くて高い。ケヤキの木の根元のベンチ——小学生の頃、ここでよく二人でお弁当を食べた。今も誰もいない。ミズキにとって、学校の中でショーケース以外に愛佳と並べる数少ない場所だった。 「久しぶりだね、ここ」 愛佳が先にベンチに座る。ミズキも隣に腰を下ろした。木陰が二人にかかって、少し涼しい。 弁当を開く間、愛佳は黙っていた。愛佳が黙っているのは珍しい。教室の中では常に何かしゃべっているか、誰かの話を聞いているかのどちらかで、「何もしない愛佳」をミズキが見るのはこういうときだけだった。 「……今日ね」 愛佳が卵焼きを箸でつまみながら、ぽつりと言った。 「三人に告白された」 「……三人?」 「放課後、昼休み、昨日の帰り道。全員顔しか見てないの、私の」 愛佳の声は静かで、笑っていなかった。教室の中の「みんなの愛佳」じゃなくて、ただの三浦愛佳の顔をしていた。 「ウケるよね。かわいいって言われて、一緒に写真撮りたいって言われて、それで告白されて。私のことちゃんと知ってる? ってなる。知ってる人が、誰もいない感じがして」 ミズキは箸を止めた。 愛佳がこういう顔をするのを、他の誰も知らない。ショーケース席の愛佳も、カイセイウォッチャーのランキング1位の愛佳も、フォロワー3,800人の愛佳も——ここにいる愛佳と同じ人間だとは思えないくらい、今の愛佳は普通の女の子の顔をしていた。 疲れた、という感情が顔に出ている。それをミズキの前だけで出している。 (あたしは知ってるよ) 口から出かかって、飲み込んだ。そういうことを言うと、愛佳は困った顔をするか、「ありがとう」と綺麗に処理するかのどちらかだ。ちゃんと伝わらない気がして、いつも言えない。 代わりに、目の前の愛佳の様子をぼんやり眺めた。 純白の髪に、白くて小さいものが一つ引っかかっていた。桜の花びら。5月にはもう散っている頃だけど、どこかから風で飛んできたのかもしれない。 「……ちょっと待って」 ミズキは手を伸ばした。愛佳の髪に指が触れるか触れないかの距離で、花びらをそっとつまんだ。 ふわっとした感触。白くて薄くて、ちゃんと桜だった。 「桜、ついてたよ」 「え、どこに?」 愛佳がこっちを向いた。距離が近かった。金色の瞳が至近距離でミズキを見ていた。 胸の奥が、ドクンと脈打った。一回だけ、強く。 (近い) 呼吸が一瞬うまくできなかった。 「ここ、ちょっとだけ」 「ありがと」 愛佳はにこっと笑った。さっきの疲れた顔が、一瞬だけそこに戻って、また消えた。「じゃあ食べよっか」と言って、弁当に視線を落とした。 それだけだった。 何事もなかったように。 ミズキは手のひらの中の桜の花びらを握りしめた。薄くて、すぐにぐちゃっとなってしまう。でも、さっきの一瞬——愛佳の髪に触れた感触と、金色の瞳の近さが、胸の奥にまだ残っていた。 (好きだ、って思ってる) やっぱりそう思う。でも次の瞬間には、その気持ちを引っ込めないといけない。どこか深いところに押し込んで、「親友」というラベルを貼り直す。何年もそうしてきた。 「最近、コウくんの噂ばかりで疲れる」 愛佳がぽつりと言った。 「転校してくる人」 「ええ。来月ですって。カイセイウォッチャーがまた盛り上げちゃって。私への影響があるとかないとか、もう飽き飽きですわ」 愛佳は少し笑って、卵焼きを一口食べた。 ミズキは返事をしながら、愛佳の横顔を見ていた。 昼休みが終わる十分前、愛佳は「戻ろっか」と立ち上がった。弁当箱を持って、ブレザーの裾を軽く直した。教室に戻るときの顔は、もうショーケースの愛佳の顔に戻っていた。完璧な笑顔。誰にでも向けられるやつ。 (あたし以外にも見せることがあるの、あの顔) そんな疑問が頭をかすめて、すぐに追い払った。 *** 放課後、廊下に出たとき、後ろから声をかけられた。 「ちょっと、斎藤さん」 振り返ると、白石カナが立っていた。茶色のゆるいセミロングで、目が丸くて、口が達者——愛佳のグループ「フルール」の一員。普段は愛佳の周りでよく笑っている子だ。でも今は笑っていなかった。 廊下には他の生徒も歩いている。チラチラとこっちを見る視線がある。カナはそれを分かっていて、声を出している。 「ねえ、あんた、愛佳のそばにいるの楽しい?」 ミズキは何も言えなかった。 「正直に言うとさ、邪魔なんだよね。愛佳の価値が下がるっていうか——あの子の隣に誰がいるかって、やっぱ大事じゃん。鏡、見たことある?」 鏡。 言葉がそのままミズキの胸に刺さった。棘みたいに。小さいけど、深いところに入ってくるやつ。 (何か言えばいいのに) 頭ではわかっている。でも喉が動かない。言い返したら何が起こるか、考えてしまう。カナが愛佳に何か言うかもしれない。カイセイウォッチャーに投稿されるかもしれない。ショーケースの端っこにいる権利すら、なくなるかもしれない。 「……ごめんね」 声が出た。笑顔を作って、そう言っていた。 カナは満足そうな顔をして、「まあ、分かってくれればいいよ」と言って歩いて行った。 ミズキは廊下に一人で立っていた。 周りの生徒たちが何事もなかったように通り過ぎていく。誰も気にしていない。もしくは気にしていても何もしない。それがカイセイ学園のルールだった。 (邪魔。価値が下がる) 「鏡見たことある?」という一言が、ぐるぐると頭の中を回り続けた。 **: カフェ「ノワール」は夕方になると学生でにぎわう。トキワ台駅から歩いて2分、ウッド調の落ち着いた内装で、奥のボックス席は薄暗い。オーナーの波多野律子さんが「いつもの?」と聞いてくれた。アールグレイの紅茶。ミズキはいつもそれを頼む。 窓際の2人掛け席に座って、白いカップを両手で包んだ。湯気が上がって、紅茶の香りが広がる。カップはまだ熱くて、でもミズキはそのままにしていた。 (あたしは愛佳の付属品なのかな) M.S.。カイセイウォッチャーの投稿に出てきた名前。三浦愛佳の隣にいるだけで、自分の名前じゃなくてイニシャルで呼ばれる存在。 「愛佳の価値が下がる」——カナの言葉が繰り返す。 (それが正しいのかもしれない。あたしが愛佳の隣にいることで、誰かが損をしているなら) でも、愛佳は誘ってきた。中庭のケヤキの下で、桜の花びらの一件で、二人だけで弁当を食べた。疲れた顔を見せてくれた。それはミズキにとって、どんな言葉より大事なことだった。 (好きだって言ったら、どうなるんだろう) 考えてみる。愛佳が困る顔が目に浮かぶ。「そういうつもりじゃなかった」という言葉が聞こえる気がする。幼なじみという7年分の関係が、音を立てて崩れる場面が。 紅茶が冷めてきた。一口飲んだ。渋くて、少し苦い。 スマホを開いた。フォトリアのカイセイウォッチャー。新しい投稿はなかった。愛佳のランキング1位を称賛するコメントがいくつか追加されている。その下に、いつものやつも。 「愛佳ちゃんの隣のモブ子ちゃんも相変わらず草」 画面を閉じた。 窓の外、トキワ台の駅前商店街に夕方の人が増えてきた。エブリマートの前で中島店長が外の看板をしまっている。バーガーフォートの二階の窓に制服姿の生徒が見えた。 (どうしたらいいんだろう) 答えは出ない。 好きだと言えば居場所を失う。黙っていれば付属品のまま。どっちにしても、今のあたしには選べない選択肢だった。 コーヒーを飲んでいる隣のOL風の女性が、スマホで笑っている。カフェの奥から話し声が聞こえる。BGMに気づいたのは、紅茶を飲み終えるときだった。低くて落ち着いたジャズ。ノワールのいつもの音楽。 ミズキはカップを置いて、財布を出した。 *** 翌朝、教室に着くと、カナが前の席で友人たちとスマホを見せ合っていた。くすくすと笑い声が上がる。 ミズキは自分の席について、鞄から教科書を出した。 (見ないほうがいい) 分かっているのに、視線がカナのスマホ画面のほうに向いた。 画面の文字が、少し遠いけど読めた。 「愛佳ちゃんの隣にいつもいるモブ子、ウケるんだけどwww 愛佳ちゃんが霞む霞む笑」 カナの投稿だった。フォトリア。カイセイウォッチャーじゃなくて、カナの個人アカウントから。いいねが23個ついていた。 ミズキは目を逸らして、教科書の上に手を置いた。 指先が少し冷たかった。 (愛佳に言う?) すぐに却下した。言えば告げ口になる。カナがミズキのことをさらに敵視する。愛佳は「私が話すね」と言いながら、グループ内の空気が変わる。そしてミズキはまたショーケースの外側に弾き出される。 何も言えない。 言えないまま、笑顔のカナを見ている。 (これが、あたしの立場ってやつか) 窓の外のケヤキが、今日も静かに揺れていた。昨日と同じ緑。昨日と同じ教室。でも、ミズキの胸の中は昨日より少しだけ、何か重たいものが増えていた。 そのとき教室の引き戸が開いて、純白のロングヘアが入ってきた。愛佳だ。いつもの笑顔で、いつもの空気の変わり方をして。 金色の瞳がすぐにミズキを見つけた。 「おはよう、ミズキ」 「……おはよ」 愛佳は何も知らない。カナの投稿も、昨日の廊下のことも。ミズキが教えない限り、これからも知らないまま。 (それでいい、と思ってた) でも昨日の花びらの感触が、まだ指先に残っている気がした。ケヤキの木の下で愛佳が見せた、あの疲れた顔が、頭のどこかにこびりついている。 何かが、少しずつ変わり始めているような気がした。 それがどこに向かうのか、ミズキにはまだ分からなかった。