残火のエモーション — 余命ゼロから成り上がる、最強少女の異能無双
残火のエモーション — 余命ゼロから成り上がる、最強少女の異能無双 - 影の底で目を覚ます
左肩甲骨が、熱い。
夢の中でそう気づいた瞬間、零は目を覚ました。
コンクリートの壁。潮の匂い。遠くから聞こえる水音。
ここはミソノ臨海区の地下排水路——直径2.5mのトンネルの、分岐点。毛布が一枚、缶詰が何個か、古びたラジオが一台。それが霧島零の全財産であり、この場所が霧島零の家だった。
ゆっくりと体を起こす。薄い毛布がずり落ちる。黒いパーカーの袖をたくし上げると、左手首の内側に古い痣が見えた——まるで癌の治療痕みたいなそれは、生まれた時からずっとそこにある。
白髪混じりの銀髪が、額にかかっていた。手の甲でそれをかき上げると、左目の琥珀色と右目の深紅が暗闇に慣れて、排水路の輪郭をはっきりと映し出した。
165cm、痩せ型、小柄。年齢は16歳。
でも顔は——もっと年上みたいだと、たまに言われる。実際のところ、それが正しい気もしていた。
(俺には戸籍がない)
零はぼんやりと考えた。毎朝起きるたびに、同じことを確認する習慣がついていた。別に忘れたわけじゃない。ただ、確かめないと落ち着かない。
29年前、政府は「異能者管理法」という法律を作った。人口の約4.7%に超常的な力——「異能」——が発現するようになって、社会がパニックになったからだ。法律の内容はシンプルだ。異能を持つ者は全員、ICチップ入りの「異能登録証」を持て。それだけ。登録さえすれば、普通の市民と同じ扱いを受けられる。
ただし、登録には戸籍が必要だ。
戸籍のない俺には、最初から枠がない。
零はそれを、怒りでも悲しみでもなく、ただの事実として受け取っていた。怒りも悲しみも、長い時間をかけて感情の底に沈めてきた。沈めるのが得意になった。
古いラジオの電源を入れると、ザーッというノイズの向こうで深夜のニュースが流れてきた。耳を傾けるでもなく、零は缶詰を一つ手に取った。プルタブを引く。冷たいコーンスープが喉を通る。
まずい。でも食べないと動けない。
それで十分だった。
——そのとき、耳に届いた。
地上から、微かな足音。
それだけなら別に珍しくない。でも次の瞬間、機械音が混じった。電子的な、ピッという短い音。一度じゃない。何度も繰り返されている。
零の手が止まった。缶詰をゆっくりと地面に置く。
(あの音は——)
体が自然と動いていた。
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排水路の出口は五つある。零は全部の場所を頭に入れていた——10年かけて覚えた、これだけは絶対に忘れちゃいけないことだ。
一番近い出口まで這って進む。鉄製の丸い蓋を、数センチだけ持ち上げた。
目に飛び込んできたのは、白い光だった。
カゲロウ通りが、昼間みたいに明るく染まっていた。
探照灯だ。複数の強力なライトが、商店街の隅々まで照らし出している。その光の中を、黒い制服を着た人間たちが動き回っていた。クランツ保安局——「異能事案対策保安局」。表向きは異能者を管理し、市民を守るための機関だ。
管理官たちは路地の出口を塞ぎ、出入口ごとに機器を設置していた。ポータブル型の小型センサー——パルスゲートの増設版だ。トウマ市内には固定型が約340基あるが、今夜はそれだけじゃ足りないと判断したらしい。
ピッ。
センサーが鳴った。すぐ近くにいた男が腕を掴まれる。
(オルグ波だ)
零は心の中で呟いた。異能者が能力を使うと、無意識に微量のオルグ波——生体エネルギーの一種——が出る。パルスゲートはそれを拾って、異能登録証のデータと照合する。未登録の波形が出たら、即通報だ。
零は自分の左手首の内側を確認した。細い電子機器が手首に巻きついている——自分で作ったオルグ波検知器だ。今は静かに振動していない。いい。異能を使っていない証拠だ。
でも油断はできない。
息を止めて、蓋の隙間から外を観察する。
安食堂「ドンガメ」のおやじが出てきたところを、すぐに壁に押しつけられた。古物商「ヨルノカギ」の店主——情報屋も兼ねてる、小柄な男——が路地に出たところで両腕を拘束される。路上で寝ていた男が、叫び声を上げる間もなく地面に組み伏せられる。
顔を知っている人間ばかりだった。
零は一ミリも動かなかった。
動けない。動いたらオルグ波が出る。センサーに引っかかる。終わりだ。
だから見ているしかなかった。ただ見ているだけしか、できなかった。
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そのとき、通りの端に白い頭が見えた。
零の胸の奥で、何かが固まった。
タエさんだ。
60代の老婆。ミソノ臨海区で長く暮らしてきた、裏社会の住人。異能者じゃない。普通の、ただの無戸籍の老婆だ。
零が幼かった頃——まだ排水路の使い方も知らなくて、食べるものを探して路地を徘徊していた頃——タエさんは何も言わずに余り物の飯を差し出してくれた。温かくもなくて、特別においしくもない、でも確かに食べ物だったそれを。
聞いたことはない。なぜ渡してくれるのか、一度も聞かなかった。タエさんも一度も説明しなかった。それがこの場所のルールだった。
そのタエさんが今、管理官に髪を掴まれていた。
白い髪が乱れる。老いた体がアスファルトを引きずられる。声は出ていなかった。それが余計に、胸に刺さった。
(タエさんは異能者じゃない。ただの無戸籍の老婆だ)
戸籍のない人間は、クランツには「存在しない」のと同じだ。だから何をされても構わない——そういうことになる。法律上は、そういうことになる。
零の右手が、自然と動いていた。
足元の影が、わずかに揺れた。影の腕——自分の影から黒い腕状のものを伸ばす技。タエさんを掴んでいる管理官の手首を払えば、一秒で終わる。
そう思った瞬間。
手首の検知器が、微振動した。
零は動きを止めた。
ゆっくりと、手を引っ込める。影を消す。暗闇に溶ける。
(使ったら終わりだ。オルグ波が出る。場所が割れる。俺が捕まれば——タエさんを助けるどころか、この場にいる全員が巻き添えになる)
頭の中では、ちゃんとわかっていた。正しい判断だと、ちゃんとわかっていた。
でも胸の中では、怒りと無力感がぐるぐると回り続けていた。止まらなかった。回り続けた。
タエさんが路地の角に消えていく。
零は動かなかった。ただ、暗闇の中で息を殺していた。
これが日常だ、と零は思う。助けたくても助けられない。存在したくても存在できない。10年かけてそれに慣れてきた——慣れたと思っていた。
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しばらくして、別の音が聞こえた。
排水路の蓋を踏む、重い足音だ。
一人じゃない。複数いる。足音のリズムが揃っている——訓練された人間の動き方だ。捜索隊が排水路にも来た。
零は素早く動いた。
毛布は捨てた。缶詰も捨てた。古いラジオも置いていく。ボロのジャケットに手を突っ込んで、奥から二つだけ取り出す。錆びかけたナイフと、表紙がボロボロの黒い手帳。それだけを押し込んで、走り出した。
影潜行。
自分の体を影の中に沈める技だ。文字通り、影になる。壁の影に溶け込み、地面の影を泳ぐ。姿が消える代わりに、息ができなくなる。限界は30秒。それを超えると意識が飛ぶ。
零は頭の中でカウントを始めた。
一、二、三——排水路を北へ。暗いトンネルの中を、記憶だけで進む。右に曲がって、分岐点を左、そこからまっすぐ——全部頭に入っている。10年かけて体に叩き込んだルートだ。
二十八、二十九、三十。
浮上。薄暗い空間で一度だけ息を吸い込む。肺いっぱいに空気を入れて、また沈む。
繰り返した。三回、四回、五回。
上の出口に手が届いた。蓋を押し上げると、夜風が顔を撫でた。外に出た瞬間、後ろを振り向く。
倉庫が燃えていた。
ミソノ第三埠頭跡の廃倉庫群——12棟が立ち並ぶあのエリアの、一番端の棟から炎が上がっていた。探照灯とサイレンが遠ざかる方向を確認して、零はその逆へ向かった。闇の中に溶けるように、走った。
そのとき気づいた。左肩甲骨が、じんわりと熱い。
(疲労か)
そう判断して、無視した。全力で走ったんだから、それくらい当然だ。
左肩の奥に、生まれつき刻まれた幾何学的な円形の紋様——その烙印が、ほんの微かに光っていることに、零はまだ気づいていなかった。
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地下水路の、行き止まりに近い場所。
零は膝を抱えて、壁に背を預けた。
息が整うまで少し待った。周りは完全な暗闇だった。潮の匂いがする。どこか遠くで水が滴る音がする。静かだった。静かすぎて、さっきのことが夢みたいに思えた。
(夢じゃない)
手の中のナイフが、現実を教えてくれた。ひんやりした金属の感触が、確かにある。
黒い手帳を開いてみる。表紙はボロボロで、中は意味不明な記号と文字がびっしり並んでいるだけだ。何語かもわからない。何年も持ち歩いているのに、一度も解読できたことがない。いつか読めるようになるかもと思って捨てずにいるが、そのいつかがいつ来るのかも、零にはわからなかった。
パタンと閉じる。
(俺は16年生きてきた)
零はぼんやりと考えた。
名前は自分でつけた。「霧島零」——霧の中の、ゼロ。なんとなく、しっくりきた。顔は排水路の水たまりで確認した。左目は琥珀色で、右目は深紅。それがわかったのは、わりと最近のことだ。
親の顔は知らない。どこで生まれたかも知らない。戸籍がないから、法律的には生まれていないのと同じだ。
怒りも悲しみも——そういう感情は、ずっと昔に底に沈めてきた。沈めて、沈めて、今は水面まで遠い。ただ生き延びることだけを考えて、それだけを目的にして今日まで来た。
それで十分だった。十分だと、思っていた。
——でも今夜、タエさんが引きずられるのを見て。
何かが、胸の中でかすかに揺れた。
怒りかもしれない。悲しみかもしれない。それともまったく別の何かかもしれない。零にはその感覚に名前がなかった。底に沈めるにも、名前がわからないと沈められない。どうすればいいかわからなくて、ただそのまま、胸の中に置いたままにしておいた。
疲労で、まぶたが重くなってきた。
そのとき——左肩が、また熱くなった。さっきより少し強く。じわりと、皮膚の内側から。
零は眉をひそめて、手で左肩を押さえた。
(なんだ……)
でも答えは出なかった。考える前に、眠気が来た。
暗闘の底で、霧島零は静かに眠りに落ちた。
全財産は二つだけ。錆びたナイフと、読めない手帳。
10年かけて作った隠れ家は、今夜捨ててきた。明日、どこに行くかはまだ決まっていない。腹は空いたままだった。
それでも——何かが今夜、少しだけ変わった気がした。その「何か」の正体を、零はまだ知らない。