メッセージが来たのは朝だった。 画面に短い文字が並んでいる。 「今日の14時、ソンパ区ロッテルム近くのカフェ、ブルーボトル。来い」 それだけだった。署名も、理由も、挨拶もない。 ジンウはスマホを見たまま、しばらく動かなかった。 8日間。ゲート暴走の予告を3回送った。3回全部、ピタリと当たった。1回目は漢江のクァンジン区側。2回目はヨンサン区の商業地区。3回目は昨日、ノウォン区の公園脇。毎回、ジンウが予告した時間と場所に、Dランクゲートが暴走した。 無視していたジホが、動いた。 (来い、か) 命令口調だ。友好的じゃない。ただ、無視しないと判断したということだ。 ジンウはスマホを置いて、天井を見た。部屋の外で、朝のシルリム洞が動き始めている。配達バイクの音。遠くで子どもが走っている。当たり前の朝だ。 でも今日は違う。 ジンウは起き上がった。 --- ロッテルム38階の近くに、そのカフェはあった。ソンパ区の清潔な歩道に面した、ガラス張りの小さな店。朝のうちに雨が降ったらしく、路面が濡れていて、午後の光を細かく反射していた。 ドアを開けると、コーヒーのにおいがした。濃くて、少し酸っぱい。 奥の席に、ジホがいた。 銀色の髪が、店内の光の中でわずかに輝いている。窓際の席。両手を組んでテーブルに乗せ、ジンウが入ってきた方向をじっと見ていた。金色の目が、正面からジンウを捉える。左頬の三日月紋章が、今日は何かの光を受けてうっすら赤く見えた。 近寄りがたい。立っているだけで周囲の空気が変わる、あの感じ。隣のテーブルのサラリーマンが、無意識に視線を逸らしていた。 ジンウは椅子を引いて、向かいに座った。 「3回、全部当たった」 開口一番だった。挨拶もない。ジホが先に喋った。 「場所、時間、ゲートの規模まで。誤差がほぼない。これをEランクの覚醒者が偶然でやれると思うほど僕は馬鹿じゃない」 声は低い。感情の起伏が少ない。でも目の奥に、確かに何かが光っている。疑いと、計算と、わずかな好奇心。 「だから聞く。情報源はどこだ。どうやって知っている。組織の人間か」 ジンウは少し、黙った。 組織。ノクターンのことを指しているのか、それとも別の何かを想定しているのか。ジホの頭の中では、Eランクが突然ゲートの暴走時刻を正確に知っていれば、誰かに教えてもらっているという結論になるのが自然だ。 説明しなきゃいけない。でも、何を言えばいい。 未来から来ました。2年後に死ぬので、それを防ごうとしています。そう言って、信じてもらえるはずがない。証拠もない。ただの言葉だ。 「……組織じゃない」 「じゃあ何だ」 ジンウは喉の奥で言葉を探した。見つからない。正直に言えばいい話だ。でも正直に言ったら、おかしい人間だと思われて終わる。ジホは感情で動くタイプじゃない。証拠がなければ動かない。 「……説明できない」 「説明できない、とはどういうことだ」 「理由がある。でも話せない。ただ、俺の言うことは全部当たる。それは今まで証明したはずだ」 ジホの目が細くなった。 一秒。二秒。静かな店内に、コーヒーメーカーの音がする。 「ということは、根拠を出す気はないということか」 「……今は、出せない」 情けない。自分でもわかっていた。頼んでいるのはこちら側なのに、核心が言えない。「信じてくれ」という言葉しか持っていない。それがどれだけ弱い交渉か。 ジホは組んでいた手を解いて、コーヒーのカップをゆっくり持った。一口飲んで、置く。 「組織の人間ならもっとうまく嘘をつく。お前の目は嘘をついている目じゃない」 ポツリと言った。独り言みたいな声だった。 「ただ、必死なだけの目だ」 短い沈黙。ジホがジンウを見ている。何かを判断している、という目だった。 それから、ふっと、わずかに口の端が動いた。 「変なやつ」 笑い、というにはあまりにも小さい。でも確かに、ジホの顔から硬さが少し抜けた瞬間だった。 「行くぞ」 それだけ言って、椅子を引いた。 ジンウは一瞬、言葉に詰まった。切り捨てられなかった。完全に拒絶されなかった。それだけで、胸の中で何かが緩む感じがした。答えられなかった悔しさと、それでも終わらなかった安堵が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。 立ち上がりながら思う。変なやつ、か。 悪くない評価だ、たぶん。 --- カフェを出た直後、ジホのスマホが鳴った。 画面を見た瞬間、ジホの表情が変わった。硬くなる。仕事の顔になる。 「ソンパ区外縁部でDランクゲートの不安定化。協会から緊急要請だ」 そのまま歩き出した。躊躇が全くない。考える間もなく、体が動いている。 ジンウも後を追った。 ジホが振り返った。 「お前は来るな。Eランクには危険だ」 「このゲートの暴走、知ってる。コボルドが7体出る。右奥から2体が挟み込みに来る動きをする」 ジホが止まった。 0.5秒だった。また歩き出す。でも何も言わなかった。追い払いもしなかった。 ジンウはその背中についていった。 --- ゲートはソンパ区の住宅地と幹線道路の境目あたりにあった。民家の裏の空き地。立入禁止のテープが張られていて、協会の職員が3人、離れた位置で待機している。 ゲートの光が脈打っていた。不安定な、呼吸が乱れたみたいな点滅。これが暴走直前の状態だ。ジンウは記憶でわかる。あと1分も経たない。 住民の避難は半分だけ終わっている。 「出るのは今すぐだ」 言い終わる前に、ゲートが弾けた。 光が広がる。低い振動。地面がかすかに揺れる。 7体のコボルドが、地上に溢れ出した。 体長1メートルほどの犬型。凶暴化している。噛む力が数倍になる。群れで動く。個体での対処より、動きの読みが重要だ。 ジホが動いた。 光が走る。細い、鋭い光の軌跡が空気を裂いた。1体目が止まる。崩れる。続けて2体目。動きに無駄が一切ない。ジンウが知っている限り、Sランクの中でもジホの戦闘効率は別格だ。 でも、ジンウには記憶がある。 「左から2体、挟み込みに来る。今」 ジホが左に向いた。ほぼ同時に、2体のコボルドが角度を変えて突進してくる。 迎え撃つ。光が2本走って、2体が止まる。 ジホがわずかに頷くのが見えた気がした。 「後ろの1体、次に跳ぶ」 振り返るより早く、ジホの体が動いていた。上に跳ぶコボルドを下から打ち上げる形で光が走る。バシュッ、と音がして、コボルドが地に落ちた。 ジンウは声を出し続けた。 次の個体の方向。動くタイミング。迂回路になる位置。 最初の1体目から数えて、全部で1分かかっていなかった。 7体目が崩れ落ちた。 静かになった。 焦げたにおいがする。コボルドのマナが燃えた残滓だ。協会の職員が走ってくる声が遠くに聞こえる。ゲートの光は収まって、灰色の空き地に戻っていた。 ジンウはその場に立っていた。 手が震えていた。 細かい震え。肩が揺れている。心臓が暴れている。Eランクの体では、この程度の戦場でも肉体の限界が全部表に出る。戦ってすらいないのに、緊張と集中で全部使い切った感じがする。足元が少しふらつく。 「……お前、動くな」 声がした。 ジンウが顔を上げた瞬間、何かが飛んできた。 反射的に両手で受け取る。白いタオルだった。ジホの名前か何かのイニシャルが端に縫い付けてある。 ジホは背中を向けていた。ジンウの方を見ていない。報告書を送るためにスマホを操作している。表情が見えない。 「Eランクのくせに動きの読みだけは異常だな」 短く言った。感情を込めない声だった。 それだけで、また歩き出した。協会の職員の方へ。現場の処理に移る。ジンウを振り返らない。 ジンウはタオルを握ったまま、動けなかった。 礼が言えなかった。声が出なかった。 前周回にはなかった。この人が、他人に自分の持ち物を手渡す場面は、一度もなかった。ジンウの記憶の中のジホは、いつも一人で、一人で完結していた。誰かに何かを貸す理由を持っていなかった。 タオルの布が、震える手の中にある。 (……これが、どれだけのことか) ジンウにはわかる。だから、余計に言葉が出ない。 ただ、胸の奥で何かが静かに灯る感じがした。認められた、という感覚。恋愛とも友情とも言えない。ただ、8日間の全部が、初めて何かに繋がった気がした。 --- 夜、シルリム洞に戻った。 部屋に入って、タオルをテーブルの端に置いた。見たまま、しばらくそこにいた。 それから、座った。スマホを閉じて、目を閉じた。 前周回の記憶を引き出す作業を始めた。 黒牙洞窟の攻略依頼。その仲介者のこと。 顔を思い出す。ジホが依頼を受けた日の、協会の受付。仲介者は30代の男だった。細身で、ネクタイをしていた。名刺を差し出した。白い名刺に、会社のロゴが入っていた。 (何の会社だった) 深く辿る。記憶の奥から引き出す。 名刺の右上に、黒い細い文字。「ノクターン株式会社 素材流通部 チャン・スウォン」。 止まった。 ノクターン。 ギルド「ノクターン」の素材流通部の社員が、協会経由の正規依頼に見せかけて、黒牙洞窟の攻略を仲介していた。 発注元はノクターンだ。ジホをヴェルガ坑道に引き込むための、入り口だった。 さらに記憶を辿る。前周回でジホが死んだ後、断片的に耳に入ってきた情報がある。坑道の4層と5層の間に、不自然なマナの残滓があった、と誰かが言っていた。後になって思えば、あれは封鎖結界の痕跡だったんだとジンウは今、確信している。モンスターの動きを制御する仕掛けが、あの坑道に仕込まれていた。 最深部で退路を塞いで、オーガ種に追い込む。 ただの迷宮攻略依頼じゃない。最初から、ジホを殺すための罠だ。 ジンウはスマホのカレンダーを開いた。 依頼の受付登録日まで、あと5日。 前周回でジホは必ず、その依頼を受けた。理由はわかっている。依頼内容そのものが高難度で報酬も高かった。フリーランスのジホが断る理由がなかった。 止めなければいけない。 警告だけじゃ足りない。今日のカフェでもわかった。ジンウの言葉だけでは、ジホは動かない。根拠がなければ、Sランクの判断基準に引っかからない。 (核心を話さずにジホを動かす方法が、ない) その壁が、今初めてはっきりした形で目の前に立ちはだかった。 未来から来た、とは言えない。でも、言わなければ伝わらない情報がある。 あと5日。 部屋の外で、シルリム洞の夜が続いている。車の音。遠くのコンビニの明かり。当たり前の夜。でもジンウの頭の中は、全然落ち着かなかった。 テーブルの上のタオルを見た。 今日、確かに一歩進んだ。 でも時間は動いている。止まってくれない。 ジンウは目を閉じた。答えを探すように。 5日。どうやって、その壁を越える。