協会を出てから3日が経っていた。 ジンウはシルリム洞のアパートを早朝に出て、地下鉄でソウル南部に向かった。ヨンサン区寄りの外周、漢江に沿って走る幹線道路から少し入ったあたり。ゲート管理区域——ハンター協会が指定した、ゲートの周辺を管理するための立入制限エリアだ。ソウル首都圏に67か所あるゲートのうち、いくつかは周辺住民への影響が大きいため、Cランク以上のハンターだけが自由に出入りできる専用区域を設けている。今日目指しているのはそのうちの一つだった。 理由は単純だった。 未来の記憶の中で、ジホはここに頻繁に出入りしていた。ハンター協会の直轄依頼を受けるとき、この区域近くに拠点があるゲートの攻略を担当することが多かった。ジンウはその記憶を辿って、現地に来た。会うための方法が、他に思い浮かばなかった。 朝の空気は冷たかった。歩道の街路樹が風に揺れている。近くのコンビニから温かいにおいが漏れ出ていた。 エリアの入口が見えてきた。 金属製のフェンスで区切られた管理区域の入口に、警備のハンターが二人立っていた。防弾ベストに似た強化装備を着込んでいる。体格のいい、30代くらいの男だ。胸にCランクを示す青い登録証バッジをつけている。 ジンウは入口に近づいた。 「ちょっと待て」 男が手を上げた。 「登録証」 ジンウはポケットからカードを出した。Eランクの白いバッジ。男はそれを一瞥した。次の瞬間、顔が変わった。 「……Eランク? ここはお前みたいなのが来るところじゃない」 横にいたもう一人のハンターが鼻で笑った。 「Eランクが何しに来たんだ。迷子か?」 ジンウは何も言わなかった。 「Cランク以上しか入れない。帰れ。それとも字が読めないのか」 次の瞬間、胸ぐらを掴まれた。 布が引きつる感触。男の手が、ジンウのシャツの前面を握っている。引き、そのまま区域外に向かって突き飛ばした。ジンウはよろけて、歩道の縁石に踵をぶつけた。転ばなかったのは運が良かっただけだ。 周囲を通り過ぎるハンターたちが、ちらりと視線を向けた。 それだけだった。誰も立ち止まらない。誰も何も言わない。 ジンウはバッジを拾い上げた。落としていた。膝を汚して立ち上がる。歯の裏側が痛い。いつの間にか噛みしめていたらしい。 (言い返せない) ハンター活動法上、Eランクがこのエリアに強行侵入すれば通報案件だ。協会に記録が残る。ただでさえ何もできないのに、記録なんかつけたら余計に動きにくくなる。力でも押し返せない。2年かけて積み上げた体がない。前周回の自分だったら、少なくとも押し返せたはずだ——そんなことを考えても意味がない。 今は、Eランクの体しかない。 男たちは笑いながら、元の位置に戻っていた。ジンウのことはもう眼中にない。虫でも追い払ったような仕草だった。 ジンウはエリアの外から、フェンス越しにゲート管理区域の奥を見た。遠くに青白い光。ゲートの放つ、独特の揺らめき。あの向こうに迷宮がある。 タイムリミットは刻んでいる。黒牙洞窟の依頼の締め切りまで、あと11日。 翌日もジンウは来た。同じ入口。同じ警備ハンター。今度は開口一番「またお前か」と顔をしかめられ、区域から遠ざけられた。それだけだった。 その翌日も来た。 --- 3日目の夕方、ゲートが開いた。 低い振動音が空気に混じる。管理区域の奥から、ハンターたちが出てくる気配がした。ジンウはフェンスの外、ギリギリの位置に立って待っていた。 5人。7人。10人。 装備を着込んだハンターたちが続々と戻ってくる。疲労の色が濃い者もいれば、涼しい顔をしている者もいる。ランクによって受けるダメージが全然違う。 そして。 ジンウの目が止まった。 銀色の髪。軽く波打ちながら、帰還者の列の端に見えた。 1秒、ジンウの肺が動かなかった。 ユ・ジホ。18歳。Sランク覚醒者。 左頬に小さな三日月形の赤い紋章が、夕方の光の中で微かに輝いている。右肩から腕にかけて、黒い返り血がついていた。それが本人のものでないことはすぐに分かった——動きが完全に普通だから。乱れた前髪を片手で払い除けながら、タブレットの画面を片手で操作している。報告書だろう。ゲートから出てきた直後に、その場で報告書を書き始めている。 疲れた様子が、かけらもない。 周囲のハンターたちが、自然に彼女を避けて歩いていた。半径2メートルほど、誰も入り込もうとしない。敬意なのか、怖いのか、たぶん両方だ。声をかける者は一人もいない。 ジンウはフェンス越しに声を出した。 「黒牙洞窟の依頼を受けるな」 声が思ったより低かった。 ジホが動いた——と思ったら、視線が一瞬だけジンウに向いた。次の瞬間、ジンウの胸元のバッジを見た。白いEランクのバッジ。それで終わりだった。視線がタブレットに戻る。足が止まらない。何事もなかったように歩いていく。 聞こえなかったわけじゃない。ジンウには分かった。聞こえた上で、聞く価値がないと判断した。Eランクの言葉に、立ち止まる理由がなかっただけだ。 ジンウはその背中を見送った。返り血のついた肩。タブレットを操作する細い指。あと11日で——あの背中が、暗い坑道で動かなくなる。 (次は別の方法を考える) 口の中でそれだけ繰り返して、踵を返した。 --- 4日目、ジンウはジホが区域を出るルートを記憶から割り出して待った。 入口ではなく、管理区域の外側——協会職員の通用口に近い区画。ジホはゲート攻略後、直接この通路を使って帰ることが多かった。 待ちながら、ジンウはスマホを持っていた。ジホのハンター協会公式連絡先は登録されていた——直轄依頼を受けているSランクハンターの連絡先は、協会のシステムから取得できる。前周回で一度だけ使ったことがあった。あの時は遅すぎた。 今夜、メッセージを送ることにした。 ジホが通路から出てきた。今日も返り血はなかった。ただ、ジンウが立っているのを見た瞬間、一瞬だけ足が遅くなった——気がした。気のせいかもしれない。 その瞬間、警備のCランクハンターが飛んできた。今日は別の人間だったが、同じだった。肩を掴まれて、区域から押し出される。今度は少し強かった。アスファルトに手をついて、すり傷ができた。 「うろうろするな。次は協会に通報するぞ」 ジホはその時にはもう、別の方向を向いて歩いていた。 --- その夜、ジンウはアパートで画面を見ていた。 送信ボタンの上に指が止まる。 内容はシンプルに書いた。明日の夕方17時、漢江のクァンジン区側Dランクゲート付近で暴走が起きる。周辺住民2名が逃げ遅れて負傷する。俺の言う通りになったら、一言だけ聞いてくれ——。 既読になる可能性が低いことは分かっていた。Sランクに見知らぬEランクからメッセージが来ても、開く理由がない。でも送らないよりはいい。 送信した。画面に「送信済み」と出る。 ジンウはスマホを伏せた。天井を見る。 部屋の外から、深夜のシルリム洞の音が聞こえてくる。バイクの音。遠くで犬が吠えている。当たり前の夜。5日後には、この当たり前がなくなる可能性がある。ジホにとっての当たり前が。 ジンウは目を閉じた。 --- 5日目の午後5時17分。 ジンウは漢江沿いのクァンジン区側に立っていた。ゲートが見える位置、住宅地寄りの歩道。付近は普通の民家が並ぶエリアで、Dランクゲート——危険度は低いが、定期的に管理が必要なゲート——が公園の隅に存在している。 大きな音がした。 低い振動。地面が小刻みに揺れた。ゲートの光が膨張する。Dランクゲートの暴走だ——ゲートが不安定化し、内部のモンスターが地上に溢れ出す現象。6年前のチョンダム迷宮崩壊事件ほどではないが、付近の住民には十分すぎる脅威だ。 3体出てきた。コボルド——犬型、体長1メートル前後の魔物。凶暴化して地上に出てきている。 悲鳴が上がった。公園側から。逃げ遅れた人間がいる。 ジンウには戦う力がない。Eランクの身体強化では、暴走したコボルドに太刀打ちできない。それは分かっていた。だから来ていた。見届けるためだけに。 ——光が走った。 一瞬だった。 銀色の軌跡が空気を裂く。3体のコボルドのうち2体が、同時に動きを止めた。崩れ落ちる。残り1体が向きを変えた瞬間、二度目の光。終わった。全部で、4秒もかかっていなかった。 ユ・ジホが立っていた。右手に薄く光を帯びた刃。金色の瞳が、倒れたモンスターを一体ずつ確認している。感情の変化がない。仕事を終えた、という顔だった。 負傷した住民2名が、公園の壁際に座り込んでいた。膝と腕に擦り傷。深くはない。ジホが視線をそちらに向けた。協会に連絡するための動作をしている。 それが終わった後、ジホはゆっくりと向き直った。 その視線が、ジンウに来た。 今度は、止まった。 4日間の中で初めて、足が止まった。ジホがジンウの方を向いて、正面から立っている。金色の瞳がジンウを見ている。夕方の光の中で、左頬の三日月紋章が静かに輝いている。 「……お前、何者だ」 声は低かった。感情の起伏を抑えた、硬い声だった。 でも。 ジンウの胸の奥で、何かが激しく脈打った。 5日間。毎日怒鳴られて、押し出されて、無視され続けた。その間、ジホから一度も言葉を向けられなかった。名前を呼ばれたわけでもない。ただ、初めて声が来た。その事実だけで、胸の中心が変な感じになった。 (落ち着け) ジンウは自分に言い聞かせた。深呼吸する。 「パク・ジンウ。Eランクだ」 名乗ってから、真っすぐ言った。 「もう一度言う。黒牙洞窟の依頼は罠だ。受けるな」 ジホの目が細くなった。 「根拠は」 シンプルな問いだった。 ジンウは詰まった。 未来の記憶。2年後に起きることを知っている。ノクターンの幹部ソン・チヒョンが仕掛けた封鎖結界。ヴェルガ坑道の5層で待ち受けているオーガの群れ。でもそれを今、どう説明する? 信じてもらえる根拠を、どう出す? ジホの顔が、ごくわずかに変わった。目の奥が、答えを待っている。答え次第で判断する、という目だった。切り捨てる準備ができている目だった。 「根拠も言えない警告を、聞く理由はない」 立ち去ろうとした。 ジンウは口を開いた。 「次に何が起きるか、また教える。全部当たったら、そのあとでいい——ちゃんと聞いてくれ」 声が少し上擦った。止められなかった。 ジホが足を止めた。 振り返らなかった。でも止まった。一秒。二秒。 そのまま、また歩き出した。 何も言わなかった。拒絶でも同意でもない。ただ、止まった。 ジンウはその背中を見ていた。銀色の髪が夕風にわずかに揺れている。返り血の痕のない、今日は綺麗なままの肩。その背中が人混みに消えていく。 (引っかかった) ほんのわずかだ。でもゼロじゃない。5日前、協会の掲示板でジホの写真を見ていた時は、存在すら届かなかった。今日初めて、ジホの記憶に何か残った気がした。 ジンウは漢江の方を向いた。水面が夕日を跳ね返している。オレンジと灰色が混ざった空。遠くでサイレンの音がする。協会の緊急車両が来ているのだろう。 胸の中に、さっきの脈打つ感覚がまだ残っていた。 それが何なのか、あまり考えたくなかった。今は考えるべきことが他にある。 協会の掲示板に貼られた黒牙洞窟の依頼。締め切りまで10日。 ジンウはポケットの中のスマホを握った。次に何が起きるか。次の予告を送る必要がある。信用を積む方法は、それしか思いつかない。 夕日が沈んでいく。漢江の水が、暗くなり始めていた。