死ぬって、こんな感じなんだ。 それが最後の思考だった。 頭の右側に、とてつもない衝撃。視界が白くなって、赤くなって、それから真っ暗になった。カスリム迷宮の最深部——地下12層、誰も生きて戻れないと言われているあの場所で、パク・ジンウは死んだ。 のはずだった。 目が覚めた。 天井が白い。 壁も白い。 ジンウはまばたきした。一度、二度。 (……なんだ、これ) 体を起こそうとした。ぐっと腕に力を入れると、安っぽいスプリングがきしむ音がした。薄い布団。体の下には煎餅みたいなマットレス。窓の外からは車のエンジン音。遠くでバイクが一台、路地を走り抜けていく。 知ってる音だ。 ここはシルリムヴィラ203号室——自分の部屋だった。 ジンウは天井をぼーっと見上げた。左こめかみが鈍く痛む。頭蓋を砕かれた感覚の名残みたいなものが、そこにじくじくと残っていた。夢だったのか、と思いかけた。でも違う。あの感触は夢じゃない。モンスターの爪が頭に刺さる感覚。血が流れる温度。肺から空気が出ていくのに、もう吸えない感じ。 全部、本物だった。 ジンウはゆっくりと上体を起こした。 テーブルの上にスマホがある。手を伸ばして画面をつける。日付が表示される。 止まった。 (……2年、前?) 手が微かに震えた。画面を凝視する。年月日。間違いない。2年前だ。自分が死んだあの日より、まるまる2年前の朝だった。 ゆっくりと、スマホをテーブルに置いた。 夢じゃない。 頭がおかしくなったわけでもない。 本当に、戻ってきた。 ジンウは深呼吸した。窓の外、片側2車線の道路を、軽トラックが走り抜けていく。当たり前の朝。当たり前の景色。でもジンウにとってはとっくに失われていたはずの世界だ。生きていることの実感が、なぜか体に重くのしかかってくる。 テーブルの端に、一枚のカードが置かれていた。 見なくてもわかる。でも手に取った。 【ハンター協会公認 覚醒者登録証 ランク:E 氏名:パク・ジンウ】 そこに書かれた一文字が、じっと目に刺さってくる。 「E」。 ジンウは登録証をテーブルに置いた。布団から足を出す。床に立って、腕を動かしてみた。グーを作って、パーにする。 (……ない) 前周回で2年かけて積み上げた筋力も、マナの感応も、全部消えていた。体が軽い——というか、薄い。鍛えた後の体の密度がなくなっている。Eランクの体だ。覚醒したばかりの、何もない、ただの18歳の体。 ジンウはそのまま洗面所に行って、蛇口をひねった。冷たい水で顔を洗う。鏡に映るのは、黒いショートヘアと深い茶色の目。左こめかみに薄い傷跡がある。まだここにある——前周回で負った傷がこの時点でもあることに、少し奇妙な感覚を覚えた。 いつも通り無表情に見える。でも鏡の中の自分の目は、なんか、真剣だった。 (やるしかない) --- 地下鉄のホームは、朝のラッシュでそこそこ混んでいた。 ジンウは白いシャツと黒のスラックスで電車を待った。隣に立つサラリーマンがスマホをスクロールしている。反対側のホームには制服姿の高校生が二人、眠そうに壁にもたれていた。普通の朝だ。当たり前の景色。 でも、車内の吊り広告が目に入った瞬間、ジンウは少し立ち止まった。 【Sランク覚醒者インタビュー特集——「迷宮攻略の最前線」】 でかでかと印刷された広告には、精悍な顔つきの男が腕を組んで立っている。ハンター協会の広告だ。その隣には迷宮素材の通販サイトの広告。コボルドの牙、スライムの核、各種特殊鉱石——値段が並んでいる。コボルドの牙1本5000ウォン。Eランク迷宮の素材だ。 (そうだよな、こんな世界だった) 12年前に世界中にゲートが出現して、覚醒者が生まれた。韓国だけでも1万2000人近いハンターがいる。でも、Eランクが全体の45パーセント近くを占めている。月収は普通のサラリーマン以下なんてこともざらで、Sランクは年収数十億ウォン。 同じ覚醒者でも、ランクで住む世界が違う。 電車が滑らかに動き出した。ジンウは窓枠に寄りかかって、ぼんやり外を見た。車窓から見えるソウルの街が流れていく。晴れていた。いい天気だ。死ぬ前の日、カスリム迷宮に向かうときも、こんな天気だったかな、と少し思った。 --- ハンター協会ソウル本部はチョンノ区に立つ12階建てのビルだった。 エントランスを入ると、すぐに独特のにおいがした。消毒液と、あと何か金属っぽいにおい。測定装置が発するマナ残渣みたいなもので、ここに来るたびにする匂いだ。1階のロビーは広く、左手に受付カウンター、右手に大きな待合スペース。正面奥に測定室がある。 そこに「ヘイロスコープ」が3基設置されていた。 覚醒者のランクを計測する装置だ。青白い光を放つ球体が機械の中央に据え付けられていて、覚醒者が手を触れると体内のマナを読み取って数値化する。協会が公認した唯一の測定方法で、この数値でEからSまでのランクが決まる。 ジンウは番号札を取って、椅子に座った。 隣に30代くらいの男が座っていた。膝の上で両手を組んで、測定結果を待っているみたいだった。ジンウとは目が合わなかった。 (どうせ変わらない。でも確認しないといけない) 自分のランクが変化していないか。前周回の記憶と能力が、何か形を変えて残っていないか。そういうことを確かめたかった。 番号が呼ばれた。測定室に入ると、白衣を着た職員が「手をここに」と装置を指した。ジンウは言われたとおり球体に手を当てた。 光が広がる。青白い光が室内を満たした。 5秒くらいで消えた。 画面に数値が出る。 受付の職員が画面を確認して、「E、ですね」と言った。 「生存保険の更新はお済みですか。Eランクは全額自己負担になりますから、忘れないようにしてください」 見下している、という感じでもない。ただ、事務的だった。Eランクにいちいち親切にする必要を感じていない、という感じ。それが余計にたちが悪い。 ジンウは何も言わなかった。 唇を少し噛んで、「わかりました」と一言だけ言った。 「わかりました」 測定室を出た。廊下を歩く。靴底が床を打つ音が、やけに響いた。 (くそ) 悔しいとか、そういうシンプルな感情じゃない。ただ、状況が重く圧しかかってくる感じ。Eランクのままで、何ができる? 迷宮の等級制度でEランクはEランク迷宮にしか入れない。Bランク以上の迷宮への単独侵入は「自己責任条項」によって補償もない。2週間で何をどうやって—— ロビーに戻る手前で、一度立ち止まった。 喉が渇いた。廊下の自販機でミネラルウォーターを買った。ボタンを押して、落ちてくる音を聞いて、キャップを開ける。一口飲んだ。冷たかった。それだけで少し、頭が落ち着く気がした。 (焦っても仕方ない。まず情報を確認する) --- ロビーの壁に、大きな掲示板があった。 【Sランクハンター活動速報】と書かれた白いボードに、名前と写真が並んでいる。韓国国内に7人しかいないSランクハンターの、現在の活動状況だ。ジンウはその前に立った。 名前を探した。 すぐに見つかった。 【ユ・ジホ 18歳 女性 所属:無所属(フリーランス) 直近活動:ハンター協会直轄依頼、A+ランク迷宮攻略参加】 写真がある。 ジンウは思わず、そこで視線が止まった。 短く切りそろえた黒髪。涼しい目。すっきりした顔立ち。写真の中のジホは少し遠くを見ていて、カメラを意識している感じがない。なんというか、ただそこに立っているだけで、周りの空気を変えてしまうような雰囲気があった。 最強のハンター。韓国のSランク7人の中でも、別格と言われた覚醒者。18歳で、フリーランスで、誰のギルドにも属さず、一人で最前線に立ち続けた。 そして前周回では、Bランク迷宮で孤独に死んだ。 ジンウの脳裏に一瞬、映像が浮かんだ。暗い坑道。岩だらけの床。その上に倒れた体。後から聞いた話だったから直接は見ていない。でも、想像してしまう。何度でも。あの時自分はどこにいた? 別の依頼の途中だった。連絡を受けたのは全部終わってからだった。 (遅かった) 拳がいつの間にか固くなっていた。ジンウはそれに気づいて、ゆっくり開いた。 今度は、遅れない。 絶対に。 --- 掲示板の横に、依頼告知のボードがあった。 ハンター協会が仲介する迷宮攻略の募集だ。A4サイズのチラシがびっしり貼られていて、ランク別に区分けされている。ジンウはその中をゆっくり見ていった。Eランクのコーナー、Dランク、Cランク—— Bランクのコーナーに手が止まった。 一枚のチラシが目に入る。 【黒牙洞窟攻略隊 参加者募集】 Bランク迷宮。募集人数15名。Sランクハンターの参加を優遇。ソウル南西60km、スウォン市郊外——ヴェルガ坑道、別名「黒牙洞窟」。 手が、震えた。 チラシの日付を確認する。募集締め切りまで10日。攻略予定日はその4日後。つまり—— (14日後だ) ジホが死ぬ日まで、あと2週間しかない。 この依頼がトリガーになる。ジホがこれを受ける。そしてヴェルガ坑道の4層と5層の間で、罠にかかる。ノクターン——ギルド「ノクターン」の実働部門が仕掛けた封鎖結界。身動きが取れなくなったところを、オーガ種に追い込まれる。 前周回でジンウが知ったのは、全部終わった後だった。 ギルド「ノクターン」——ヨンサン区の漢江沿いにタワーを構える、韓国第3位の大手ハンターギルド。表向きは迷宮攻略と素材流通の優良企業。でも裏では、Sランク覚醒者の能力を「確保」するための工作を平然とやっていた。ジホの力を欲しがっていた。利用して、消すつもりだった。 チラシから目を離す。 ロビーの天井が高い。外からの光が窓を通して差し込んでいる。いい天気だ。ジホは今日も、どこかで元気にしているだろう。まだ死んでいない。まだ生きている。 (なら、間に合う) 頭の中で整理する。2週間。自分はEランク。Eランクはまともな迷宮にも入れないし、ギルドの幹部に直接文句も言えない。ジホとは面識もない。SランクとEランクの間には、ハンター社会の格差がそのままある。普通なら近づくことすらできない相手だ。 でも、方法がないわけじゃない。 ジホはフリーランスで、協会の直轄依頼をよく受ける。この本部にも足を運ぶ。場所は分かっている。タイミングも、前周回の記憶がある。 (とにかく会う。それが最初だ) 頭がおかしいと思われても構わない。笑われても構わない。 2週間で、あの人を助ける。 それだけが今、ジンウに残っているものだった。 協会のエントランスを出た。外の空気が入ってくる。チョンノ区の大通りは車が多い。向かいのビルの窓に、青い空が映っていた。 ジンウは少しそれを見上げた。 (やれることから、やる) 一歩、踏み出した。