港から、汽笛が聞こえた。 ボォ――――…… 重たくて、長い音。 夕焼けに染まる本町通りを、渡り鳥の鳴き声みたいに通り抜けていく。 小夜は、湊屋ののれんを握りしめたまま、動けずにいた。 目の前には、角刈りに無精髭の大男が立っている。左眉の上にある、古い刀傷。ぎょろりとした目は、人を値踏みするような冷たさだ。 「……丑松さん」 [serious]「小夜ちゃんよぉ、お父さんが消えて、今日で三日だ」 丑松は、太い腕を組んだまま、つまらなそうに言った。 185センチはあるか、という巨体が、夕日を背にして影を落とす。その後ろには、手下らしき男たちが五人。みんな、同じようにむっつりと黙っている。 帳場の前に、母のシノがうずくまっていた。 肩を震わせて、絞り出すような声で、何度も何度も「すみません、すみません」と繰り返している。 (お母さん……) 胸の奥が、ぎゅうっとつかまれるように痛んだ。 だけど、小夜は唇を噛んだ。 泣いちゃダメだ。泣いたって、何も変わらない。 「[cold]お父さんは、逃げたりしません。絶対に、何か事情が――」 「[cold]事情ぅ?」 丑松が、鼻で笑った。 「借金を残して消えた。それだけの話だ。事情なんて聞いて、こっちに何か得があるのか?」 ぐっ、と言葉に詰まる。 正論だった。 父さんは、いなくなった。そして、莫大な借金だけが残された。 それがすべてだ。 丑松は、チラリと帳場の中を見回して、顎をしゃくった。 「さあ、運び出せ」 無機質な声だった。 手下の男たちが、無言で店の中に入ってくる。 彼らは手際よく、帳場の机、商いの道具、母が大事にしていた茶器の棚まで、次々と運び出し始めた。 [scared]「やめて……それは……」 母が、茶器の棚にすがりつこうとする。 「お母さん!」 小夜は、慌てて母の肩を抱いた。 母の手は、震えて、冷たかった。 小夜は、必死に母を支えながら、自分の肩にふわりと巻きつく、銀色の尾の感触を感じた。 声は、聞こえる。 『あいつ、目が笑ってねぇな』 小夜の肩の上で、銀朱が耳元に口を寄せるように、ささやく。 燃えるような赤毛が、風もないのにふわりと揺れた。 『「借金取り」って顔を作ってるけどよ、奥さんが泣き崩れた時、一瞬、すげえ辛そうな目をしたぜ。まるで、自分が悪いことをしてるって分かってるみてえな目だった』 琥珀色の大きな瞳が、いたずらっぽく細められた。 『あの親父、何か隠してるな』 小夜は、小さくうなずいた。 あやかしである銀朱の言葉は、小夜にしか聞こえない。 この、ふさふさの尾を持つ小さな狐は、生まれた時からずっと、小夜のそばにいる。 (苦しそうな目……) 小夜は、丑松をもう一度見た。 男は、表に運び出される家財道具を、じっと見つめている。その表情は、能面のように無表情だった。けど、さっき銀朱が言った通り、目の奥には、なにか、暗い影が揺れている気がした。 ──ほんとに、そうかも。 小夜は、無意識に左耳の翡翠の飾りに触れた。 父の形見だ。 こうしていると、少しだけ心が落ち着く。 ふと、丑松がずかずかと店の奥に入っていくのが見えた。 「待って! そっちは書斎で、何も……!」 小夜は、母を支えていた手を離し、丑松の後を追った。 書斎は、すでに荒らされ始めていた。 父が何日もこもって帳簿を付けていた机の上には、何もない。 「お父さんの、大事なものが……!」 丑松は、机の引き出しを無造作に開け、中をひっくり返す。 そこには、ガラクタみたいな文鎮や、書きかけの紙切れが少しあるだけだった。 丑松は、その紙切れを一瞥すると、興味なさそうに床に投げ捨てた。 彼の視線が、本棚の隅にある、小さな木箱に向けられる。 (あっ……!) 小夜の心臓がドキリと跳ねた。 丑松が手を伸ばすより早く、小夜は、転がるようにして木箱を抱え上げた。 胸にぎゅっと抱きしめる。 [serious]「それだけは……これだけは、持って行かないでください!」 小夜は、丑松をまっすぐ見上げた。 涙がにじみそうになるのを、ぐっとこらえる。 丑松は、ちょっとだけ驚いた顔をして、それから小さくため息をついた。 「……まあ、いいさ。ガラクタ一つぐらいな」 そう言うと、丑松は背を向けた。 「終わったら、とっとと出て行きな。これがこの家にいられる、最後の晩だ」 冷たい言い草だった。 それから、ほんの少しだけ振り返り、 「……世話になったな」 と、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいて、書斎を出ていった。 (世話になった……?) 小夜は、木箱を抱えたまま、その場にへたり込んだ。 ──何だったんだ、今の。 夕日が、窓から細長く差し込んでいる。 さっきまで聞こえていた足音も、母の泣き声も、すべてが遠くに行ってしまったみたいに、部屋の中は静かだった。 空っぽになった書斎に、小夜は一人。 銀朱だけが、慰めるように、ふさふさの尾を小夜の腕に巻きつけていた。 「……銀朱」 声が、震えた。 『[gentle]おう』 「私、泣かないって決めたの。お母さんの前では、絶対。だから……」 『分かってる』 銀朱は、小夜の膝の上に飛び乗ると、小さな頭を押し付けてきた。 絹みたいに滑らかな毛並みが、温かい。 『けどよ、俺の前では泣いてもいいぜ。俺は、お前の相棒だからな』 その声は、ひどく優しかった。 小夜は、何も言えずに、うつむいた。 目頭が熱くなって、銀朱の赤い毛が、にじんで見えた。 ──ありがとう。 声にならない声で、そう言った。 --- ガス灯が、チリチリと音を立てて揺れていた。 潮路の二階。四畳半の小さな部屋いっぱいに、煮干しと味噌の匂いがしみついている。 湊屋を追われたあの日、路頭に迷いかけた小夜と母に手を差し伸べてくれたのは、この小料理屋の女将、タツさんだった。 「[gentle]いいから、いいから、とりあえずここにいなさい」 港の男勝りな口調で、そう言って、肩をポンと叩いてくれた。 白髪交じりの髪を無造作にまとめた、恰幅のいい55歳。元漁師の妻で、今はこの店を一人で切り盛りしている。 「さあシノさん、あなたは明日から、洗い場を頼むよ。そして、小夜ちゃん」 タツさんは、小夜の目の前に、紺の半纏と赤い帯を差し出した。 「あんたは、店に出な。その若さで、じっとしていられる年頃じゃないだろ」 「……はい」 小夜は、半纏を受け取った。 湊屋の娘としてじゃなく、一人の奉公人として、ここに立つんだ。 慣れない袴に足を通し、帯をぎゅっと締める。 覚悟が、腹の底に落ちていくのを感じた。 (やってやる。私が、お母さんを守るんだ) そう、心に決めた日の夜だった。 潮路は、漁師たちでにぎわっていた。 名物の「湾アジのなめろう」を肴に、酒を飲む男たちの声が、店内をガヤガヤと満たしている。 港町・潮見は、三日月型の湾に抱かれた人口六千の町だ。本町通りから一歩路地に入ったこの場所は、潮の香りと笑い声がいつも渦巻いている。 小夜は、慣れない手つきでお盆を運びながら、客の間を歩いていた。 「お嬢ちゃん、こっちにお酒もう一本!」 「あいよ!」 返事だけは元気よく。 そして、ある客の前で、小夜の足が止まった。 (……え?) 角の席で、酒を飲んでいる漁師の男。 その背後に、黒いもやもやとした何かが、立っていた。 人の形をしているようで、輪郭は揺らいでいて、影だけがやけに濃い。 異形の影。 これが何か、小夜はよく知っている。 ──あやかし。 体中の血の気が引いて、指先が冷たくなった。 お盆を持つ手が、小さく震える。 ここに来て、初日だ。 まさか、こんな場所で、こんなにハッキリと視えるなんて。 (どうしよう……) 小夜が恐怖で固まった、その瞬間だった。 ふわり。 目の前に、真っ赤な尾の幕が下りた。 銀朱が、巨大化させた尾で、小夜の視界を完全に遮ったのだ。 それは、しっとりとした絹の布みたいに、あやかしの姿を覆い隠した。 『[whispers]おいおい、固まるなよ』 耳元で、銀朱の苦笑いする声がする。 『あんなのは、ただの小鬼だ。酒飲みの客が出す濁った気配に、たまたま寄ってきただけさ。人間に害はねえ。じっと見なきゃ、むこうも気づかねえよ』 「……じっと、見なきゃ」 小夜は、小さくうなずいた。 震えが、少しだけおさまる。 『[sarcastic]六年前も、そうだっただろ。初めてお前があやかしを視た時、俺が同じことを教えてやったじゃねえか』 そうだ。 八つの時、初めて見えてしまった時も、銀朱はこうやって、僕の秘密を守ってくれた。 それ以来ずっと。 「視える」ことは、誰にも言ってはいけない。 それが、二人だけの約束だった。 (そうだ、落ち着け。大丈夫) 小夜は深呼吸をして、「ご注文は?」と、笑顔を作った。 自分でも、声が震えていなかったと思う。 漁師は、ケロリとした顔で、「ん? おう、熱燗追加な!」と言って笑った。 彼には、自分の背後に何かがいるなんて、全く見えていないのだ。 小夜は、銀朱の尾の陰で、小さく息を吐いた。 命拾いした。 ──銀朱がいてくれて、本当に良かった。 心の底から、そう思う。 --- 深夜。 階下からは、最後の客が帰っていく気配が聞こえていた。 隣で眠る母の寝息は、穏やかだ。今日一日の疲れで、泥のように眠っている。 小夜は、そっと布団を抜け出すと、窓辺に置いたあの木箱を手に取った。 蓋を開ける。 中に入っていたのは、一冊の帳簿だった。 父の手書きの数字が、びっしりと並んでいる。 「ナマコ 三十斤」「コンペイトウ 五袋」 見慣れた商品名だ。 湊屋が扱っていた、海産物や乾物の名前。 けれど、その横に、見たことのない記号がたくさん書き込まれていた。 「○」「△」「□」の組み合わせ。 時折、不思議な形の印が押してある。 「……なにこれ。暗号?」 小夜は、首をかしげた。 『おい、ちょっと見せてみろ』 銀朱は、ひょいと箱から頭を出すと、帳簿の表紙をペロリと舐めた。 ──その瞬間。 帳簿の表面に、銀色の光が走った。 それは、水面に月が映った時みたいに、一瞬だけキラリと輝いて、すぐに消えた。 『……こりゃあ、霊墨だな』 「霊墨?」 『[serious]ああ。あやかしの世界で使う、特別な墨だ。海底の霊脈から湧く水と、百年物の松煤で作る』 銀朱の声は、いつもの軽口とは違って、少しだけ真剣だった。 潮見のミカヅキ湾の海底には霊脈が走っていて、時々海面が青白く光る「月映り」という現象が起きる。 多分、その力を使っているんだろう。 『[serious]これで書かれた契約は、あやかしの世界じゃ絶対のもんだ。こじ開けようったって、そうはいかねえ』 小夜は、ごくりと息をのんだ。 「あやかしの、契約……」 この帳簿には、湊屋の商品だけじゃなくて、「人ならざるもの」とのやりとりも書かれている。 父さんは、あやかしと取引していたんだ。 「……銀朱」 『なんだ?』 「私、これ、調べる。絶対に、解読してみせる」 小夜は、帳簿をぎゅっと握った。 「だって、こんなに変な数字と記号だらけだもん。絶対に、父さんの失踪に関係してる。これはただの夜逃げなんかじゃない、何か……あやかしの世界に巻き込まれたんだ」 窓の外では、遠くの港で、空っぽの船が風に揺られて、ギイ、ギイと音を立てている。 真っ暗な海の向こう。 凪の祠がある岬の向こうには、普通の人には見えない「影市」という場所が広がっているらしい。 あやかしたちが集まる、薄闇の市場だ。 この帳簿は、きっと、そこに繋がっている。 『[gentle]……へへ。お前がそう言うと思ったぜ。上等だ。とことん付き合ってやるよ』 銀朱が、にやりと笑った。 窓から差し込む月明かりに照らされて、その銀の毛並みが、まるで光そのものみたいに輝いている。 明日から、潮路で働きながら、この帳簿の謎を解く。 それが、私の最初の一歩だ。 (待ってて、父さん。絶対に、真実を見つけ出すから) そう、心の中で誓う。 胸の中に、小さな炎が灯ったみたいに、あたたかい決意が広がっていった。 港の方から、また汽笛が聞こえてくる。 ボォ――――…… まるで、物語の始まりを告げる、遠い太鼓の音みたいに。