HUNTER×HUNTER リキッドスチール
薄暗く果てしないハンター試験、第一試験会場のトンネル。不気味なほど静かな目をした少年が、受験者の群れに紛れ込む。名はクロ、十四歳。天性の観察眼と、心の奥底に秘めた念能力を持つ。
ゴン、キルア、クラピカ、レオリオと行動を共にするうち、彼の乾いたユーモアはレオリオと衝突し、的確な助言はクラピカの感心を買う。ゼビル島では、一瞬その手に走った金属的な輝きがキルアの目に留まり、若き暗殺者はその秘密を暴こうと決意する。
真実が明かされるのは天空闘技場。キルアに問い詰められたクロは、液体金属を操る能力「メタリックスキン」を披露する。だが、それは氷山の一角に過ぎない。彼の真の系統は特質系。その能力「ゲームステート・インターフェース」は、自らのオーラの親和性を六系統すべてに任意で再配分することを可能にする。それは神にも等しい力だが、残酷な制約を伴う。再配分は一日に一度限り、そして単一系統の出力を八割以上に引き上げれば、一時間に及ぶ激しい肉体的苦痛が代償として降りかかる。
この力が、過去の亡霊を引き寄せる。クロの殺された師の元同僚、ヴァレクが、彼の手に宿る金属に気づく。嘲笑は深く突き刺さる。「あのジ
HUNTER×HUNTER リキッドスチール - 焦熱の檻——守るための槍
熱かった。
全身の細胞一つ一つが、熔鉱炉に放り込まれた鉄のように焼け爛れていく。激痛という言葉では足りない。存在そのものを消し飛ばされるような灼熱の奔流が、骨の髄から皮膚の裏側までを舐め尽くしていく。
視界は真っ白だった。
痛みのあまり、眼球の奥で火花が散っている。平衡感覚はとっくに壊れて、床に手をついているのか宙に浮いているのかもわからない。
それでも。
クロは目を閉じなかった。
ゴンへ向けて振り下ろされる拳だけを、黒い瞳が睨み据えている。ヴァレクの右腕には、グラヴィトン・フィストの鈍い輝きがまとわりついていた。あれが直撃すれば、ゴンの小さな体など粉々だ。
(——間に合え)
歯を食いしばる。奥歯がミシリと軋み、口の中に血の味が広がった。
ゲームステート・インターフェース。全系統ゼロリセット。操作系への再配分——完了。
その瞬間、クロの体内で何かが弾けた。
傷口から滲んでいた血液が、意思を持ったかのように床から浮き上がる。空気中に漂う錆び粉が、塵が、廃棄された金属片の欠片が、一斉に震え始めた。
「[surprised]な——」
ヴァレクの拳が止まる。
濁った灰色の瞳が、自分の足元を見下ろした。鉄骨や鉄板の廃材で覆われた241階の床が、まるで生き物のようにうねっている。銀と黒と赤——液体金属と化した血液に浸された金属片が、一面を絨毯のように覆い尽くしていた。
それが、0.5秒の空白だった。
「[cold]穿て」
声は掠れ、血の泡が唇を濡らしていた。
だが命令は絶対だった。
四方の金属が一斉に跳ね上がる。錆びた鉄骨が槍と化し、折れた鉄板が刃となる。それが全て、ヴァレクの四肢めがけて殺到した。
右腕。左腕。右脚。左の太股。
グシャリ、と肉の潰れる鈍い音が廃棄フロアに響き渡る。骨が砕け、筋繊維が裂け、血飛沫が床に散らばる鉄屑を赤く染めた。ヴァレクの巨体が、無数の金属の槍に貫かれて床に縫い止められる。
「[scared]があああああああああッ!!」
ヴァレクの口から絶叫が迸った。濁った灰色の目が驚愕と苦痛に見開かれ、顎の傷跡が歪む。手足を貫かれ、身動き一つできない状態でありながら、その口元にはまだ、歪んだ笑みが貼りついていた。
ゴンへの拳は、もう動かない。
ゴンは無傷だった。
クロは激痛に震える手で床を這い、一センチずつヴァレクに近づいた。動くたびに折れた肋骨が内臓を抉る。口から血が溢れ、視界が何度も暗転しそうになる。それでも、彼は止まらなかった。
縫い止められた獣の目の前で、クロは片膝をついて体を起こす。血まみれの手で、ヴァレクの胸倉を掴み上げた。
「[cold]師は。最期に。何を言った」
一言一言が、熱に浮かされたように掠れている。
ヴァレクの濁った瞳が、クロの顔を見上げた。口の中を血で泡立てながら、歪んだ笑みを深くする。
「[whispers]……ひひっ、聞きてえか」
クロの手に力がこもる。
「[cold]答えろ」
ヴァレクの表情が、ふと変わった。
笑みが消えたのではない。嘲笑が、別の感情にすり替わった。まるで遠い昔を思い出すような、あるいは自分が最も畏れていた男の名を口にしようとする時のような——異様な距離感。
「[whispers]ゼノルク様が……暗黒大陸で……」
泡と血が混じった声。ヴァレクの目から焦点が、急速に消えていく。
「[whispers]お前たちを……待っていると……」
最後の言葉が、糸が切れるように途絶えた。
濁った灰色の瞳から、光が完全に消える。口元に貼りついていた笑みが、糸の切れた操り人形のようにだらりと開いた。
絶命——。
クロはヴァレクの胸倉を掴んだまま、動けなかった。
(師は、最期に、何を考えていた)
聞きたかったのは、そんなことじゃない。ゼノルクの居場所なんかじゃない。師が最後の瞬間、弟子の名前を呼んで泣いていたという——それがクロが知る唯一の真実であり、その言葉の意味を確かめる機会は、永遠に失われた。
ゴルド・ハイネンは、もういない。
ヴァレクを殺しても、師は戻らない。聞きたかった言葉も、手に入らなかった。
クロの手から力が抜けた。ヴァレクの体が床に落ち、べちゃりと血溜まりに沈む。
復讐の到達点は、あまりにも空虚だった。
敵を倒したという達成感も、師の無念を晴らしたという実感もない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような空白だけが広がっている。
——その瞬間、制約の反動が全身を貫いた。
「[angry]う、ああああっ……!」
一時間の激痛と、念の完全喪失。
戦闘中はアドレナリンが押さえ込んでいた痛みが、十倍になって襲いかかってくる。手足の感覚が消えた。廃棄フロアの床に、崩れ落ちるように倒れ込む。埃と錆と血の混じった匂いが、鼻の奥に張りついた。
同時に、ヴァレクの死と共に、ゴンとキルアを縛っていた念の固定処理が解除された。
キルアは即座に反応した。
拘束が緩んだのを感じ取ると、暗殺者としての訓練で培った筋制御の技術を全開にする。腕の筋肉を最大限に弛緩させ、一気に膨張させる。縄が軋み、数秒の格闘の末——バチン、と音を立てて縄が千切れた。
「[cold]ゴン、動くな」
キルアは素早くゴンの口の布を外し、次いで縄を解く。手首は擦れて血が滲んでいたが、ゴンは痛みを気にする様子もなく、床に倒れたクロのもとへ一直線に走った。
「[scared]クロ!」
駆け寄ったゴンの目に、クロの無惨な姿が飛び込んでくる。折れた右腕はだらりと垂れ、肩の骨は不自然な角度に曲がっている。口元は血に塗れ、左の手首から肘にかけて浮かぶ銀色の線が、ゆっくりと消えては現れる。
「[crying]クロ……!」
ゴンは泣きながらクロの肩を支えようとした。小さな手は震えている。それでも決して手を離さなかった。
キルアはゴンの隣にしゃがみ込み、青い瞳でクロの状態を素早くスキャンした。瞳孔が猫のように縦に狭まり、暗殺者としての冷徹な分析の目になる。
(右腕骨折、肋骨数本、左鎖骨も折れてる。念の喪失に激痛の反動——まったく、よく生きてるぜ)
「[serious]ゴン、動かすな。俺が支える」
キルアはクロの右腕を慎重に避け、背中に回した腕で上半身を支えた。暗殺術の知識で、これ以上骨が内臓を傷つけない角度を瞬時に計算している。
クロは床に手をついたまま、顔も上げられない状態だった。
それでも、絞り出すように声を出す。
「[cold]……お前らは、無事か」
ゴンは涙を拭おうともせず、何度も頷いた。
「[crying]——うん。オレは、怪我してない」
クロの手から、もう一度だけ力が抜ける。
三人は廃棄フロアの壁際に身を寄せ合うように座り込んだ。剥き出しの鉄骨の下、錆びた床の上。冷たい空気が、血の匂いと混ざって滞留している。
キルアは何も言わず、クロの肩を支え続けた。
ゴンはクロの左手を、両手で握っていた。
沈黙が、薄暗い空間を満たした。
——どれだけそうしていただろう。
クロがぽつりと口を開いた。
「[cold]……あいつを、止められた」
自分のためではなく、仲間を守るために敵を止められた。その言葉の選択に、キルアの青い目がわずかに細められた。何か言おうとして、やめた。代わりに、クロの背を支える腕にほんの少しだけ力を込める。
ゴンは静かに「[gentle]うん。止められたよ」 と繰り返した。
クロの指先が、震えていた。
激痛の反動が続く一時間。その間に、クロの口から初めて、自分自身の言葉が紡ぎ出される。
「[cold]師は。ゴルド・ハイネンは、三年前に殺された」
視線は床に落としたまま。血に濡れた顔に、感情は読み取れない。でも声だけが、いつもよりかすかに揺れていた。
「[cold]念の基礎を、全部あの人が教えてくれた。クロスベル坑道の廃鉱山の中に、隠れ研究室があったんだ」
キルアの分析するような視線。ゴンの真っ直ぐな瞳。二人とも、何も言わずに聞いている。
「[cold]遺体の第一発見者は、俺だった」
その言葉の重みが、廃棄フロアの沈黙をさらに深くした。
「[cold]血の匂いが充満してて、床が冷え切ってて……師は冷たくなってた。手が、もう動かなかった」
クロの目から、涙が一滴、落ちた。
「[cold]復讐を、目的にして生きてきた。でも」
声が震える。
「[crying]——本当は」
涙が二滴、三滴と続いて、埃まみれの床に染みを作っていく。
「[crying]本当に取り戻したかったのは。師が、無念を残さずに死ねたっていう、その事実だけだった」
初めて言語化された本心。
自分でも気づいていなかった言葉が、口をついて出てきた。涙はもう止まらなかった。クロは泣いている自分に気づいていない。それでも言葉を止めなかった。
ゴンは、何も言わずにクロの肩に手を置いた。
キルアは視線を逸らしたままだったが、その口元がほんの少しだけ緩んだのを、薄暗がりの中で誰も気づかなかった。
長い沈黙の後、クロの言葉がようやく尽きた時、ゴンが静かに口を開いた。
「[gentle]それ、俺たちに話してくれてよかった。本当に」
クロは返事をしなかった。
だが、握り締められていた左手が、ほんの少しだけ開いた。
——復讐者だった少年が、初めて他者の前で泣き、過去を語った瞬間だった。
冷たい廃棄フロアの空気が、わずかに和らいだ気がした。
それからさらに時間が経ち、クロの体が少しずつ動くようになった頃。
クロは床に倒れたままのヴァレクの傍らに膝をつき、血に塗れた上着の内ポケットを探った。指先に、折り畳まれた紙の感触がある。
引き出すと、数字と記号がびっしりと書き込まれた文書だった。油と血液で滲んでいるが、それでも判別できる——暗号形式の文書。
キルアが背後から覗き込む。
「[serious]何が書いてある?」
「[cold]わからない」
クロは手早く文書を折り畳み直すと、自分の懐にしまい込んだ。
「[cold]でも、捨てるには惜しい」
「[excited]暗号なら、解ける人を探せばいいじゃん!」
ゴンが顔を上げて言った。その声には、もう涙の気配はない。いつもの、前を向くエネルギーが戻り始めている。
「[sarcastic]ハンター協会に伝手がある奴を使うか」
キルアが現実的な案を口にした。
その時、三人の頭の中に同時に浮かんだのは、ヴァレクが最期に残した言葉だった。ゼノルク様が暗黒大陸で待つ——。
クロがゆっくりと立ち上がる。まだ体は完全には戻っていないが、足はもう震えていない。
「[cold]俺の話に巻き込むことになる」
彼はゴンとキルアを交互に見た。警告の口調だったが、その奥にほんの少しだけ——本当に微かな——迷いが滲んでいる。
「[laughing]もう十分巻き込まれてるよ!」
ゴンが笑った。擦り傷だらけの顔で、それでも太陽みたいに明るく。
「[sarcastic]今さら何言ってんだか。バーカ」
キルアは呆れたように肩を竦めてから、先に立って歩き出した。
クロは二人の顔を交互に見て、珍しく何も言い返せないまま、小さく息を吐いた。
(——こいつらは、本当に)
言葉にならない感情を胸の奥にしまい込み、クロもまた、廃棄フロアを後にする。その後ろ姿は、入ってきた時よりも、少しだけ背負っているものが軽く見えた——もちろん、誰もそんなことは口にしなかったが。
ヴァレクが遺した暗号文書は、クロの懐の中で確かな重みを持っている。解読には時間と情報が必要だ。そして真の敵、ゼノルクの居場所は、まだ闇の中にある。
三人は、薄暗い通路を肩を並べて歩き出した。