HUNTER×HUNTER リキッドスチール
薄暗く果てしないハンター試験、第一試験会場のトンネル。不気味なほど静かな目をした少年が、受験者の群れに紛れ込む。名はクロ、十四歳。天性の観察眼と、心の奥底に秘めた念能力を持つ。
ゴン、キルア、クラピカ、レオリオと行動を共にするうち、彼の乾いたユーモアはレオリオと衝突し、的確な助言はクラピカの感心を買う。ゼビル島では、一瞬その手に走った金属的な輝きがキルアの目に留まり、若き暗殺者はその秘密を暴こうと決意する。
真実が明かされるのは天空闘技場。キルアに問い詰められたクロは、液体金属を操る能力「メタリックスキン」を披露する。だが、それは氷山の一角に過ぎない。彼の真の系統は特質系。その能力「ゲームステート・インターフェース」は、自らのオーラの親和性を六系統すべてに任意で再配分することを可能にする。それは神にも等しい力だが、残酷な制約を伴う。再配分は一日に一度限り、そして単一系統の出力を八割以上に引き上げれば、一時間に及ぶ激しい肉体的苦痛が代償として降りかかる。
この力が、過去の亡霊を引き寄せる。クロの殺された師の元同僚、ヴァレクが、彼の手に宿る金属に気づく。嘲笑は深く突き刺さる。「あのジ
HUNTER×HUNTER リキッドスチール - 廃棄フロアの罠、砕かれた盾
深夜の天空闘技場は、昼間の熱狂が嘘のように静まり返っていた。
控え室近くの廊下。壁に並んだ歴代闘士の写真が、非常灯の薄明かりに浮かび上がっている。ゴンは壁にもたれて座り込み、キルアは立ったままポケットに手を突っ込んでいた。
「[serious]クロの奴、大丈夫かな」
ゴンの声は普段よりずっと小さかった。さっきの通路でのクロの様子が、まだ頭から離れない。ヴァレクという男に何かを囁かれた後の、あの硬直した背中。振り払われた手の冷たさ。
「[sarcastic]大丈夫じゃねえだろ。完全に頭に血が上ってやがった」
キルアは壁に背中を預け、天井を見上げた。銀色の髪が冷たい蛍光灯の光を反射する。
「[serious]明日の試合、まともに戦える状態じゃねえ。罠だとしても、あのまま飛び込むぞ」
「[angry]……なんでだよ! なんでクロは一人で行こうとするんだ!」
ゴンは膝の上で拳を握った。逆立った深緑の髪が震える。
「[cold]あいつは、誰かに頼ることを知らねえんだよ。ずっと一人で、復讐だけを抱えて生きてきたんだろうな」
キルアの声には、暗殺者として育てられた者だけが持つ、冷めた理解があった。
「[sad]それって、すごく寂しいことだよ」
ゴンが顔を上げた、その瞬間だった。
キルアの瞳孔が、猫のように縦に狭まった。
「[cold]――後ろだ」
振り返るより早く、二人の首筋に冷たい手が触れた。念のオーラが一瞬で膨れ上がり、ゴンは声を出す間もなく意識を刈り取られた。キルアは一瞬だけ抵抗の動きを見せたが、相手の気配遮断があまりに完璧で、反応が遅れた。
視界が暗転する。
――――
どれだけ時間が経ったのか。
ゴンが最初に感じたのは、錆びた鉄の匂いと、手首に食い込む冷たい感触だった。目を開ける。
薄暗い空間。床はホコリまみれで、壁の塗装は剥げ落ち、天井からは無数の鉄骨が剥き出しで垂れ下がっている。廃棄フロア――使用停止区画の241階。
二人は、梁から吊るされた錆びた鉄骨の柱に、背中合わせで縛り付けられていた。ゴンがもがこうとすると、縄がぎしりと軋む。口には布が噛まされ、声が出せない。
(クロ……!)
ゴンは必死に布越しに叫ぼうとした。くぐもった声が漏れるだけだ。縄が肌に食い込む。でもゴンはもがき続けた。恐怖よりも、あの通路で一人去ったクロの背中が、怒りよりも心を焦がしていた。
キルアは静かに目を開けた。青い瞳が、冷たく周囲をスキャンする。まず縄の素材を確認し、結び目を分析し、次に縄に込められた念の質を探った。
(微細な念の固定処理……動けば動くほど締まる仕掛けか。暗殺者相手にやりやがる)
キルアはわずかに口元を歪めた。暗殺者の訓練で培った筋肉の弛緩技術で、数ミリだけ縄を緩める。しかし、その瞬間、縄が自動的に締まり、手首の感覚が失われかけた。
(こりゃダメだ。俺一人じゃ抜け出せねえ)
キルアはすぐに抵抗をやめ、呼吸を整える。体力の温存。状況の変化を待つ。それが、今できる最善だった。
ゴンはまだもがいている。その目には涙が浮かんでいた。怒りか、悲しみか、それとも不安か――自分でもわからないまま、ただクロの名を呼ぼうとしている。
――――
クロは宿屋デュラム・インの一室で、壁にもたれていた。
明かりはついていない。窓から差し込むルブリカの街灯りが、彼の横顔を青白く浮かび上がらせる。黒い瞳は一点を見つめたまま、動かない。
ヴァレクの声が、耳の奥で繰り返し再生されていた。
「あの老人はなァ、最後までお前の名前を呼んで泣いてたぞ」
「『クロ……クロ……』ってなァ。いい声で泣いてたぜェ」
指輪をカチカチと鳴らす音。歪んだ笑み。左頬の刀傷。油っぽく乱れた鉄灰色の髪。濁った灰色の瞳。
全部が、脳裏に焼き付いている。
その時、ドアの下から、かさりと紙の擦れる音がした。
クロの視線が動く。
床に、一枚の封筒が差し込まれていた。
立ち上がり、拾い上げる。封を開けると、中から数本の銀色の髪がこぼれ落ちた。キルアの髪だ。そして、一枚の略図――241階、廃棄フロアへのルートが描かれている。手書きの走り書き。
手が震えた。
これは罠だ。頭では完全に理解している。ゴンとキルアを人質に、自分を廃棄フロアに誘い込むための、明らかな罠。
(一人で行けば死ぬ)
冷静な分析が、頭の中で警告を発している。戦力差は明白だ。ヴァレクは強化系で、あの一撃の破壊力はチタン合金相当の防御すら粉砕する。正面から戦って勝てる相手じゃない。
(だが)
クロは封筒を握りしめた。
荷物も持たず、武器も持たず、部屋を出る。
廊下は冷え切っていた。エレベーターを無視して非常階段に向かう。一歩、二歩、三段飛ばしで駆け上がる。
靴音が非常階段に反響する。241階分。一気に駆け上がる。
その間、頭の中で師の声が響いていた。ゴルド・ハイネンの声だ。
『弟子を孤独にするのは、師の失敗だ』
あの老人はいつもそう言って、クロの頭をくしゃくしゃに撫でた。大きな手だった。温かかった。
『クロ、一人で抱え込むな。誰かに頼れ。それがお前の弱さを、強さに変えるんだ』
クロの足が一瞬止まった。
(でも、俺は――師を守れなかった)
冷え切った研究室の床。血の匂い。ぐったりと倒れたゴルドの体。あの夜、クロは間に合わなかった。
(だから、今度こそ――)
また走り出す。呼吸が荒い。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴っている。
鉄扉の前に立った。241階。廃棄フロアへの入口。
クロは一度、深く息を吸った。
そして、蹴破った。
――――
錆と埃の匂いが、むっと鼻を突いた。
薄暗い空間の中央に、ゴンとキルアが縛り付けられている。二人とも口に布を詰められ、声を出せない。ゴンは縄で手首を血まみれにしながらもがき続け、キルアは歯を食いしばってこちらを見ていた。
その隣に、ヴァレクが立っていた。
「[laughing]ひひっ、来たぜェ。ゴルドの弟子がよォ」
ヴァレクは指輪を鳴らした。ゆっくりとクロに向き直る。
クロの視界から、冷静さが消えた。
(守る――今度こそ)
思考より先に、体が動いていた。
メタリックスキン。全身の皮膚に銀色の液体金属が走り、硬度をチタン合金相当まで引き上げる。床を蹴って、正面からヴァレクに肉薄した。
「[sarcastic]いいぜェ、その目だ。ゴルドも最後はそんな目をしてやがった」
ヴァレクの右腕が、光を帯びた。グラヴィトン・フィスト。オーラを極限まで凝縮し、拳の密度を高める強化系の能力。
一撃目。
クロの右腕に命中した。
ゴキン、と骨の砕ける音がフロアに響く。メタリックスキンが、まるでガラスのように粉砕された。クロの体が壁に叩きつけられ、床に転がる。
立ち上がる。
右腕がだらりと垂れ下がっている。
二撃目。
左肩を狙った。クロはかわそうとしたが、ヴァレクの拳速が予想を超えている。衝撃が鎖骨を砕き、左腕の感覚が消える。
三撃目。
わき腹にめり込んだ拳が、肋骨を数本まとめてへし折った。口から血が噴き出す。床に倒れ込み、埃が舞い上がる。
「[angry]う、あ……!」
それでも、クロは立ち上がろうとした。折れた肋骨が内臓に刺さるような痛み。血の味が口の中に広がる。視界がぼやける。
「[sarcastic]立つのかよ。たいした根性だぜェ」
ヴァレクはゆっくりと近づき、床に這いつくばるクロの腹を踏みつけた。
「[laughing]ゴルドもなァ、最後までしぶとかったぜ。弟子のお前の名前を泣きながら呼んで、それでもまだ戦おうとしてやがった」
ゴツン、と腹を踏みにじる音。
クロの口から、さらに血が溢れた。
キルアはその光景を、青い瞳に焼き付けていた。感情を消した冷徹な分析の目だ。だが、奥歯を噛み締める力は強まっている。
ゴンは声にならない叫びを上げながら、縄に食い込むほど体を揺さぶっていた。手首の皮が剥け、血が滴る。それでも止められない。
「[laughing]これで二人目だなァ」
ヴァレクはクロから足を離すと、ゴンの方へゆっくりと向き直った。右の拳にオーラが集まり、輝きを増していく。
その言葉が、クロの内部で3年前の記憶と完全に重なった。
冷え切った研究室の床。血だまり。師の横たわる体。あの時も、クロはただ見ているだけだった。間に合わなかった。守れなかった。もう二度と、あんな思いはしたくないのに――また同じことが起きようとしている。
(やめろ)
クロは床に手をついた。折れた肋骨が動くたびに激痛が走り、視界が白く飛ぶ。それでも、手が床を掴んだ。
(やめろ……)
涙が一滴、埃まみれの床に落ちた。自分が泣いていることに、クロは気づいていない。ただ、目の前でゴンを殺そうとしているヴァレクを、止めなければならないという衝動だけが全身を突き動かす。
(やめろ!!!)
声にならない叫び。クロは折れた体を一センチずつ引きずり、片膝をついて立ち上がった。
ヴァレクがゴンに向けて、拳を振りかぶる。
「[cold]ゲームステート・インターフェース――」
クロの血が滲む唇が、その言葉を紡いだ。
「[cold]全系統、ゼロにリセット。操作系に80%以上を配分する」
瞬間。
全身の細胞が一斉に焼け付いた。
制約が発動した。一系統に80%以上を配分して使用した場合の代償――一時間の激痛。
「[angry]が、あああああああッ!!!」
クロの視界が真っ白に飛んだ。全身の血管の中で、溶岩が流れているような灼熱感。焼け焦げるような痛みが、骨の髄まで走り抜ける。
膝が崩れかける。
それでも、両手で床を押さえ、倒れることを拒んだ。
目の前でヴァレクが動きを止める。
「[surprised]……なんだ、このオーラは」
クロの全身から、純粋な操作系のオーラが溢れ出していた。メタリックスキンの時とは比べ物にならない、研ぎ澄まされた念の波動。
でも、痛みで意識が飛びかける。視界がチカチカと点滅する。
(意識を……保て……)
クロは歯を食いしばった。奥歯がミシリと軋む。血の味が濃くなる。
発動が完了するか、意識が途切れるか。
その境界で、クロの瞳だけが、燃えるような闇を宿してヴァレクを睨みつけていた。