気がつくと、顔のすぐ横に小さな花が咲いていた。 花は紫色で、花びらが飴細工みたいに透き通っている。光を受けて、キラキラと七色に輝いていた。 「……ここ、どこだ」 海堂ナギは体を起こした。手のひらに触れる地面が、やけに柔らかい。マシュマロの上に寝転がっているみたいだ。指で押すと、むにゅ、と弾力がある。 周りを見渡す。 木があった。高さは三メートルくらい。幹も枝も、全部半透明のオレンジ色をしている。葉っぱの代わりに、星の形をした砂糖菓子がぶら下がっていた。 空には七色の橋がかかっている。虹みたいに弧を描いて、遠くの丘まで続いていた。 「……マジか」 ナギは自分の左手首を見た。黒いミサンガが巻いてある。母さんからもらったものだ。無意識に指で触れる。これは本物だ。夢じゃない。 立ち上がる。脚に力が入らない。へたり込みそうになるのを、なんとかこらえた。 空気は甘い匂いがする。砂糖を溶かしたような、キャンディみたいな匂い。風が吹くたびに、花が揺れて、ちりんちりんと音が鳴る。 学校の帰りだったはずだ。確か、駅のホームに立っていて。電車が来たから、一歩踏み出して。 そこから先が思い出せない。 (これ、本当にやばいやつだ) ナギは深く息を吸った。心臓が早くなる。手のひらに汗が滲む。 自分はどこにいるのか。なんでこんなところに倒れていたのか。どうやったら帰れるのか。 何もわからない。 でも、一つだけ確かなことがあった。 ここは、現実の世界じゃない。 ナギは歩き出した。とにかく、人がいそうな方へ。あてもなく。 十分ほど歩くと、道らしきものが見えてきた。白い石畳。でも、よく見ると石じゃない。クッキーだ。丸いクッキーがびっしり敷き詰められている。 踏むたびに、さく、さく、と軽い音がした。 建物が見えてきた。 お菓子の家だった。壁はピンク色のスポンジケーキ、屋根はチョコレート。煙突からは綿菓子みたいな煙が出ている。 かわいい。 でも。 ナギは足を止めた。 建物の角が、黒く溶けている。 ケーキの壁が、どろどろに崩れていた。チョコレートの屋根も、炭みたいに真っ黒に焦げている。甘い匂いの中に、腐った匂いが混ざっている。 「……なんだよ、これ」 さらに歩く。黒い染みは、あちこちにあった。家の壁、地面、花壇、街灯。 まるで誰かが墨汁をぶちまけたみたいに、世界のあちらこちらが溶けて汚れている。 通りを行く人とすれ違った。 ふわふわしたドレスのような服を着た女の人。髪は紫色で、目は銀色。耳が少し尖っている。 ナギは思わず声をかけようとした。 でも、女の人はナギの顔を見た瞬間、びくっと肩を震わせて、足早に去ってしまった。 目を合わせない。 すれ違う人、みんながそうだった。 「……あの」 声をかけても、振り向いてもくれない。 みんな、何かを恐れている。 ふと、会話が聞こえた。 「……またオモイが」 「しっ、声が大きいわ」 「だって、あれ、広場まで」 「やめなさい。口にしたら、来るわよ」 オモイ。 聞いたことのない言葉。でも、この世界の住人たちが、その単語を異常に恐れていることだけは伝わってきた。 マシュマロ広場。 看板があった。丸い文字で「ポルカタウン 中央ひろば」と書いてある。 広場は、思ったより広かった。 直径二百メートルくらいある。地面は白いマシュマロ。あちこちに小さな屋台が出ている。果物みたいな飴、星の形の焼き菓子、虹色のジュース。 お金も見えた。薄い虹色の円盤。たぶん、これが通貨なんだろう。 ポルカタウン。この世界の中心にある、いちばん大きな街。 ナギは、屋台の値札を見て、そんなことを考えた。全部、日本じゃ見たことのない食べ物ばかりだ。 それから、視線を下に落とした。 足が止まった。 広場の真ん中。 大きな黒い染み。 直径十メートル以上ある。マシュマロの地面がぐちゃぐちゃに溶けて、中央がへこんでいる。染みから黒い泥みたいなものが、じわじわと広がっていた。 「……これが」 「オモイ、だよ」 後ろから声がした。 振り返る。 誰もいない。 いや。 下にいた。 背が低い。百五十センチあるかないか。 珊瑚色のロングヘア。毛先が波打つようにゆるくカールして、風もないのにふわふわ揺れている。大きな垂れ目。瞳は明るい金色。 服装は、白とピンクのふわふわしたワンピース。 首から上に、小さなリボン。 まるで、どこかのアニメから抜け出してきたみたいな女の子だった。 年は……十二か十三くらいか。 ナギは、その子に見惚れてしまった。 「おにいさん、渡り人だね」 にこり、と笑った。 その笑顔が、やけに綺麗で。 (……あれ) ナギは心臓がドキッと音を立てるのを感じた。この状況で、何を考えているんだ、自分は。 「……渡り人?」 「そ。現実世界から来たんでしょ。ここに迷い込むのは、だいたい数十年に一度なんだって。レアだよね」 女の子は、ゆったりとした足取りで近づいてきた。 身長差、二十センチ以上。見上げるような格好になる。 「この世界のことは、何も知らない?」 「……ああ。全然」 ナギは正直に答えた。 女の子は、ふふ、と笑った。 「じゃあ、教えてあげるね」 その時だった。 黒い染みが、ぐぐ、と盛り上がった。 次の瞬間。 どろり。 黒い塊が地面から飛び出してきた。ソフトボール大。それが、五つ。 「うわっ!」 ナギは後ろに跳びのいた。 でも、遅かった。 塊がナギの足に絡みつく。黒い泥が、ぐにゃりと変形して、蛇みたいに足首に巻きついた。 冷たい。 氷みたいに冷たい。 「動くな!」 もがく。蹴ろうとする。 でも、塊は全然離れない。逆に、もう一つが胸に飛びついてきた。 ぐ。 首に。 黒いものが、ナギの首に巻きついた。 締められる。 「ぐ……ッ、が……」 呼吸が、できない。 頭が真っ白になる。 目の前が、チカチカと点滅する。 死ぬ。 こんなところで、わけもわからず、死ぬのか。 黒い塊は、ナギの顔の周りを揺れ動いた。鼻先を、つつくように。 まるで、匂いでも嗅いでいるみたいに。 (怖い) (死ぬ) 頭の中で、そればかり考えた。 その時。 パァン! 乾いた音が響いた。 珊瑚色の光が、目の前を横切る。 弾丸みたいな光が、ナギの首に絡みついた塊を撃ち抜いた。 「ギッ!?」 塊が、悲鳴を上げた。 女の子の悲鳴みたいな、耳障りな音。 さらに二発、三発。 珊瑚色の光が、黒い塊を次々に撃ち抜いていく。 一発ごとに、塊は跡形もなく消し飛んだ。 「……え」 ナギは膝をついた。 ひゅー、ひゅー、と息を吸う。 首に、まだ冷たい感触が残っている。 視線を上げる。 女の子が立っていた。 右手を、こちらに伸ばしている。小さな手のひら。 「オモイはね、好きなものに引き寄せられるの。おにいさん、今、すごく怖かったでしょ」 指先が、まだ少し光っている。珊瑚色の、淡い光。 ナギは、ごくりと唾をのんだ。 さっきまでふわふわ笑っていた子が、今は、真顔で黒い染みを見下ろしている。 その横顔に。 (……なんか) (冷たい) ナギは、そう思った。 女の子は、すぐに、にこっと笑った。 「大丈夫?足、ケガしてる」 そして、ナギのそばにすっと寄った。 スカートの裾を気にしながらしゃがみ込み、ナギの右足のすねを見る。 さっきのオモイが触れた場所が、赤く腫れていた。 「これ、オモイの毒。放っておくと、好きな気持ちまで食べられちゃうよ。ちょっとだけ、痛いかも。がまんしてね」 女の子は、小さな手を、ナギの傷に当てた。 手のひらが、柔らかい。 そして、ほんのり温かい。 「んー……と。こうやって、好きって思うの」 彼女が、目を閉じた。 手のひらから、かすかに珊瑚色の光があふれる。 じわりと、傷が癒えていく。 腫れが引き、痛みが消えた。 「はい、おしまい」 ぱっ、と手を離す。 その笑顔は、さっきまでと何も変わらない。 「……お前、何者なんだ」 「周央サンゴ。サンゴって呼んでね。十三歳、トキメキ学舎の中等部一年生。この世界、ユメリアの案内人みたいなことしてるの」 周央サンゴ。 ナギは、その名前を頭の中で繰り返した。 「それでね、おにいさん。名前は?」 「……海堂ナギ」 「ナギくん。うん、いい名前。よろしくね」 サンゴは、にこにこ笑いながら、ナギの手を取った。 小さくて、温かい手。 ナギは、戸惑いながらも、その手を握り返した。 「あのさ、サンゴ。色々聞きたいことがあるんだけど」 「うん、わかってる。ここ、広場の真ん中だし、まずは移動しよっか。ごはんも食べたいし」 サンゴは、ナギの手を引いた。 その自然な動作に、ナギは、また心臓がドキッとなるのを感じた。 いや、違う。 手を引かれて歩き出した瞬間、サンゴがぽつりと言った。 「ナギくん。この世界はね、好きって気持ちでできてるの。好きの力、って言うんだけど、みんなの『かわいい』とか『大好き』とか『楽しい』が、地面になって、花になって、そこらじゅうにあふれてる」 足元を見る。マシュマロの地面。 なるほど。だから、踏むと柔らかいのか。 「でも、オモイは逆。好きなものを食べて、黒く溶かしちゃうの。一番好きな記憶から、壊していくの。すごく、いやなやつ」 声のトーンが、すっと低くなった。 でも、すぐに元のふわふわした口調に戻る。 「あとね、ナギくんは『渡り人』っていって、現実世界から来た特別な人。オモイに狙われにくい体をしてるの。すごいでしょ」 「……すごい、のか?」 「うん。だって、この世界の人たちは、好きが強すぎてオモイにすぐ食べられちゃうからね。ナギくんは、ちょっと違うの」 ナギは、左手首のミサンガに触れた。 現実の世界から持ってきた、数少ない自分の持ち物。 (俺、本当に、この世界に迷い込んだのか) まだ、頭が追いつかない。 「帰り方はあるのか」 ナギの声は、思ったより真剣だった。 サンゴは、少しだけ歩く速度を落とした。 「あるよ。ルミナ議会が管理してる、帰還の扉ってものがあるの。でも、それには『扉を開く資質』が必要なんだって。その資質がどんなものかは、あたしも知らないけど」 「ルミナ議会……?」 「ユメリアを動かしてる、えらい人たち。ポルカタウンの中心に、ウエディングケーキみたいな建物があるでしょ。あそこが本部」 サンゴは、遠くに見える高層の建物を指さした。 確かに、ウエディングケーキみたいな形だ。 三十分ほど歩くと、町の東端に着いた。 ピンク色の貝殻を伏せたような形の家があった。 「ここがあたしの家。さ、入って」 ドアを開ける。 中は、驚くほどシンプルだった。 でも、壁や棚には、サンリオっぽいキャラクターグッズが、ごちゃごちゃと飾ってある。白い猫、ピンクのうさぎ、星の形のぬいぐるみ。 ただし。 その一部が、黒く溶けていた。 ピンク色のクマの顔が半分黒くにじみ、壁の飾りも炭のように変色している。 サンゴは、それには一度も目を向けなかった。 「お茶、いれるね」 彼女は台所へ立つと、しゃべり始めた。 「あの黒い染みの範囲、地図で見ると、ユメリア全体の十五パーセントくらいまで広がってるの。この街も、昔はもっときれいだったんだよ。ほんとうに、あっという間だった」 お茶の入ったカップがテーブルに置かれる。 ほんのり甘い香り。 「オモイは、この街だけじゃない。西のカラメル荒野は、六割近く飲み込まれてる。あたし、ほんとは光歌隊に入りたいんだけど、年齢制限があって」 「光歌隊?」 「オモイと戦う大人たち。歌と好きの力で、オモイを浄化するの。この街のコーラスホールに本部があるんだけど、入れるのは十五歳から」 サンゴは、カップを両手で包みながら、少しだけ寂しそうに笑った。 ナギは、お茶を一口飲んだ。 甘い。カモミールティーに蜂蜜を混ぜたみたいな味だ。 「サンゴ。ひとつ、頼みがある」 「なあに?」 「この街のこと、もっと教えてほしい。オモイのことも。帰るための手がかりも」 ナギは、真っ直ぐ彼女の目を見た。 サンゴの大きな金色の瞳が、ナギを映す。 それから、彼女はうれしそうに笑った。 「いいよ!とってもいいよ。あたし、ずっと、だれかとオモイのことを話したかったの。ねえナギくん、これから、あたしと一緒に——」 そこで言葉を切った。 にこにこ。 でも、その笑顔の奥に。 ナギは見てしまった。 (……冷たい) さっきの横顔と同じ。 人形みたいな無表情が、一瞬だけ、彼女の顔をよぎった。 でも、すぐに消える。 「一緒に、ユメリアをまわろう。オモイの調査、あたしも手伝うから」 「……助かる」 ナギは、カップを握りしめた。 この少女は、一体何者なのだろう。 ふわふわしていて、甘えん坊で、なのに。 時々、底知れない冷たさをのぞかせる。 警戒はする。 でも、今は他に頼れる相手がいない。 ナギは、腹をくくった。 「まずは、この街のことを教えてくれ」 「うん。じゃあ、明日は朝から、ポルカタウンを歩こっか。見どころ、いっぱいあるんだよ。それで、オモイのことも、順番に教えてあげる」 サンゴは、窓の外に目をやった。 彼女の視線の先に、黒い染みが一つ。 夕暮れの光が、その染みを、いやに濃く浮かび上がらせていた。 ナギは、左手首のミサンガに触れる。 母さんの顔を思い出した。 帰る。絶対に。 でも、今は。 この不思議な世界で、この不思議な少女と。 しばらく、やっていくしかなさそうだった。