白い旋律、青き密約~ふたりだけの放課後レッスン~
演技がロボット以下と罵られたオーディション通過直後のヒロイン。冷酷なイケメン俳優が、密室で彼女に教える「恋」のレッスン。それは、愛を知らない少女が、恋を知り、女になっていく、危険な放課後の秘密。
スタジオ・ゼノンの冷たい廊下で、シラハマ・マシロはアオヤギ・レンと出会う。彼は事務所から「恋人役専属契約」を結ばされた、鎖付きの王子様。恋愛禁止の契約を抱えながら、彼女の演技に欠けた「感情」を教えるためにやってきた。
「逃げたら、お前の役は、俺が降ろす」
そう告げた冷たい瞳の奥に、彼は何を隠しているのか。母のスパルタ教育に縛られ、友達も恋も知らないまま育った少女が、初めて触れる「心」の熱。棒読みロボットだった彼女が、彼との二人だけのレッスンで、少しずつ変わっていく。
これは、完璧な体を持つ少女と、完璧な演技を持つ青年が、ふたりだけの放課後に紡ぐ、白い旋律と青き密約の物語。
白い旋律、青き密約~ふたりだけの放課後レッスン~ - ずぶ濡れのブランコ、そして猫は雨を見る
雨だった。
窓の外は、灰色の空から叩きつけるような雨が、もう二日間も降り続いていた。
シラハマ・マシロは、冷たいアスファルトの上で膝を抱えていた。体の芯まで凍えるような寒さが、彼女の小さな体を容赦なく包み込んでいる。もう何時間ここにいるのか、自分でもわからなかった。
レンの言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
『レッスンは終わりだ』
あの雨の駐車場。冷たい目。離されていく傘。
思い出すたびに、胸の奥がぎゅうっと痛んだ。これは、演技の練習なんかじゃなかったんだ。私、本気でレン先輩のことを——
(好きだったんだ)
涙が、また溢れた。雨と一緒になって、頬を伝って落ちていく。
その時だった。
ブーッ、ブーッ、ブーッ。
濡れたスカートのポケットの中で、スマートフォンが震えている。マシロはのろのろと顔を上げた。画面を見る。
「母」
指が、凍りついたように動かなくなった。
着信はすぐに切れた。代わりに、小さなアイコンが一つ、通知バーに現れる。留守番電話。彼女の母親、シラハマ・キョウカからの伝言。
マシロは、震える指で再生ボタンを押した。
『——もしもし、マシロ?』
スピーカーから流れてきた声は、思っていたよりもずっと、落ち着いていた。いつも通りの、レッスンの時に間違いを正すような、感情の薄い声。
『ニュースで見たわ。あなた、ヒーロークロニクルの撮影から逃げたんですってね』
マシロの呼吸が、止まった。
『監督から連絡があったの。あなたが姿を消したって。お母さん、恥をかいたわ。近所の人にも、お稽古の先生にも、あなたがヒロインだって自慢してたのに』
違う。違う、お母さん。私は、ただ——
声にならない叫びが、喉の奥に張り付く。
『女優を辞めるなら、もう家に帰ってくる必要はありません。シラハマ家の娘として、これ以上恥を晒すくらいなら、今すぐ姿を消しなさい』
その言葉は、あまりにも静かで、それでいて鋭い刃物のように、マシロの胸を貫いた。
『——あなたに渡すお金はもうありませんからね』
ツー、ツー。
無機質な電子音だけが、雨音に混じって響く。
マシロは、スマートフォンを耳に当てたまま、しばらく動けなかった。
(私、は……)
頭の中が、真っ白になる。
幼い頃から、お母さんの期待に応えることが、私の全てだった。難しいダンスのステップだって、何度も転んで傷だらけになっても、お母さんが褒めてくれるから頑張れた。友達と遊ぶ時間も、テレビを見る時間も、全部レッスンに捧げてきた。
それが、私の存在意義だったから。
でも、今、そのお母さんが言った。
『姿を消しなさい』
——もう、いらないんだ。
私という人間は、お母さんの夢を叶えるための、ただの人形で。それが役に立たなくなったら、捨てられる。
たったそれだけの、存在だったんだ。
「……はは」
乾いた笑いが、口から漏れた。
なんだ、そういうことか。
私、何のために生きてきたんだろう。
スマートフォンが、濡れた手から滑り落ちた。アスファルトの上で、画面がひび割れる。でも、もうどうでもよかった。
彼女は、ふらりと立ち上がった。
世界が、雨に溶けて滲んで見える。
気がつくと、小さな公園の前に立っていた。練馬の、児童公園。家からそう遠くない場所にある、幼い頃に一度だけ、母親と来たことがある場所だ。
雨のせいで、誰もいない。
マシロは、ふらふらとブランコに歩み寄り、鎖に手をかけた。冷たい鉄の感触が、火傷しそうなくらい熱く感じた。
そして、ゆっくりと腰を下ろした。
ギィ、とブランコが軋む。
雨が、容赦なく全身を打つ。髪も、顔も、服も、ずぶ濡れで、体の芯から熱が奪われていく。でも、その冷たさが、今は心地よかった。胸の中のぐちゃぐちゃとした痛みを、麻痺させてくれる気がしたから。
——すべて、終わったんだ。
マシロは、ゆっくりとブランコを漕ぎ始めた。子供の頃みたいに、大きく。ギィ、ギィ、と鎖の音だけが、雨音に紛れて響く。
誰も、私を見ていない。
誰も、私を必要としていない。
まるで世界から、自分だけが切り離されてしまったみたいだった。
同じ雨が、事務所の窓も打っていた。
アオヤギ・レンは、ベランダで小さな毛玉を見下ろしていた。
野良猫だ。このマンションに越してきてから、ずっと餌をやっている三毛猫。今日もまた、雨に濡れながら、彼のくれるキャットフードを黙々と食べている。
「……濡れるぞ」
レンがぽつりと言うと、猫は一瞬だけ顔を上げて「にゃあ」と鳴いた。
冷たい雨が、無数にベランダの手すりを叩く。レンは無表情のまま、手に持った缶コーヒーを一口、口に含んだ。冷え切っていて、まるで泥水のように不味い。
彼の頭の中では、全く別の音が響いていた。
——パキン。
薄氷が、割れる音。
16年前の冬の記憶が、雨の匂いとともにフラッシュバックする。あの日も、今日と同じような、灰色の空だった。
高校に入ったばかりのレンは、学校帰りの公園で、凍った池の真ん中で動けなくなっている子猫を見つけた。ミルクティー色の、小さな、捨て猫。
周りの大人は誰も助けようとしなかった。「どうせ野良だろ」「放っておけ」と、みんなが言った。
レンは、何も考えずに氷の上に飛び出していた。
パキパキと足元で氷が割れる。冷たい水が靴の中に染み込んでくる。それでも、彼は子猫の元にたどり着き、震える小さな体を抱き上げた。
初めて、自分から何かを「大切にしたい」と思った瞬間だった。
でも、彼のアパートはペット禁止だった。
結局、何日もかけて必死に世話をした子猫は、遠くの町の里親の元へと引き取られていった。泣き叫ぶ自分に、母親が言った言葉を、レンは今でも覚えている。
『あなたが大切にすればするほど、その子はあなたの手から零れ落ちてしまうのよ』
——その通りだった。
レンは、缶コーヒーを握りしめた。アルミ缶が、ぐしゃりと音を立てて凹む。
(マシロ)
彼女が、初めて「好き」という感情を覚えた相手が、自分でよかったのだろうか。いや、違う。自分だったから、こんなことになったんだ。
俺は、自分の手で彼女を壊してしまった。
あの雨の日、嫉妬に狂って、彼女の腕を掴んで、感情をぶつけて——怖がらせて、傷つけて、遠ざけた。そして今、彼女は姿を消した。
すべて、あの池の子猫と同じだ。
大切にしたいと思ったものほど、俺の手から零れ落ちていく。
『あなたには、誰かを愛する資格なんてない』
心の奥底で、もう一人の自分が囁く。その声は、静かで、冷たくて、でも誰よりも正しいように思えた。
彼のスマートフォンが、ポケットの中で震えた。
画面を見る。
「コジマ・ナツキ」
レンは一瞬、電話を無視しようかと思った。今は、誰とも話したくない。だが、何かが引っかかった。
彼は、通話ボタンを押した。
「……なんだ」
『……あ、アオヤギさん』
電話口から聞こえてきたのは、今にも消え入りそうな、震える声だった。いつもの「鬼のコジマ」と呼ばれるマネージャーの声ではない。
『……マシロさんの、声が聞きたいなら……私の部屋まで、来てください』
レンは、目を見開いた。
「どういうことだ。お前、何を知って——」
彼の言葉を遮るように、コジマは声を絞り出した。
『お願い、します……!』
電話が、一方的に切れた。
レンは、数秒間、雨に濡れるベランダで立ち尽くした。手に持ったままの缶コーヒーを、ゴミ箱に投げ捨てる。中身の残った缶が、鈍い音を立てた。
彼はマンションを飛び出していた。
事務所のマネージャー室は、まるでコジマ・ナツキの心の中を映したように、ぐちゃぐちゃだった。
書類が散らばり、倒れたマグカップからは、冷めたコーヒーが床に染みを作っている。そして、その中心で、コジマは子供のように泣きじゃくっていた。
彼女の頭の中では、もう何百回も、同じ光景が繰り返されていた。
五年前、自分が守れなかった、あの笑顔の可愛い女の子。
『どうして守ってくれなかったんですか』
あの時の言葉が、今度は違う意味を持って、彼女の胸に突き刺さる。
(今回は、私が殺したんだ)
マシロさんが、主演俳優に誘われてご飯に行こうとした——ただそれだけのことだった。それなのに、私は自分の恐怖と「規則」という言葉に縛られて、全てをぶち壊した。私の報告のせいで、アオヤギさんはマシロさんを傷つけて、レッスンは終わって、マシロさんは姿を消した。
全部、私のせいだ。
バンッ!
部屋のドアが、勢いよく開かれた。
立っていたのは、息を切らしたアオヤギ・レンだった。
黒いスーツは雨でびしょ濡れで、いつも無造作に流している前髪が、額に張り付いている。その目は、普段の無表情さを失い、燃えるような焦りと、抑えきれない怒りで揺れていた。
「どういうことだ、コジマ。マシロはどこにいる」
彼の声は低く、ドアの木が震えるほどの怒気を含んでいた。
コジマは、その声にビクリと体を震わせ、涙に濡れた顔を上げた。
「あ、アオヤギ、さん……」
「知ってるんだろう。話せ」
レンは一歩、部屋の中に踏み込んだ。
その時だった。
コジマは、椅子から転がり落ちるようにして、レンの足元にひざまずいた。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、アオヤギさん……!! 私が、私が全部、悪いんです……!!」
彼女の叫びは、会社中に響き渡るような、魂の底からの慟哭だった。
「私が、事務所にチクったから……! 規則だからって、マシロさんを守るためだって、自分に言い訳して……! でも、違った! 私はただ、昔と同じように、また誰かを傷つけるのが怖かっただけなんです……!!」
彼女は、床に頭をこすりつけながら泣き続けた。
彼女の涙と嗚咽が、部屋の空気を重く、苦しいものに変えていく。
「私が全部壊したんです……! マシロさんの才能も、アオヤギさんの想いも、何もかも……! なのに、なのに私は……どうすればいいか、わからなくて……!」
レンは、立ち尽くしたまま、目の前で崩れ落ちる彼女を見下ろしていた。
怒りが、あった。
お前のせいだ。お前さえ、余計なことをしなければ。そう叫びたい気持ちが、喉の奥までこみ上げてきていた。
だが、彼は唇を噛みしめて、それを押し殺した。
そして、ゆっくりと、彼もまた、その場に膝をついた。
コジマが、驚きと恐怖でビクリと体を揺らす。
彼は、彼女の前に頭を下げた。
「……俺の方こそ、すまなかった」
コジマの涙が、一瞬止まった。
「お前の報告は、正しかった。規則に従っただけだ。そんなお前を責める資格は、俺にはない。本当に悪いのは……感情のままに、彼女を傷つけた、俺だ」
レンの声は、さっきまでの怒りが嘘のように静かだった。
「今、ようやくわかった。契約も、ルールも、自分のキャリアも、全部守ろうとして、本当に大切なものを自分から手放したのは、俺の方だった。……人形を、演じていたのは、俺の方だったんだ」
彼は、顔を上げた。
「だから、頼む。コジマ。マシロを助けるチャンスを、俺にくれ。……彼女の居場所を、教えてほしい」
その黒い瞳は、もはや怒りではなく、どこか泣き出しそうな、懇願の色に変わっていた。
コジマは、自分よりも頭を下げるレンの姿を、涙で滲む視界で見つめていた。
(ああ、この人は、本当に——)
彼女の心の中で、五年前の自分への罪悪感と、レンへの共感とが、初めて静かに混ざり合った。
コジマは、震えながらも、口を開いた。
「マシロさんは、むかし……近くの児童公園のブランコが、お気に入りだって……話してくれたことがあります」
「……どこだ」
「練馬の……私の家の近くの、小さな公園です。でも、アオヤギさん、それは本当に……契約違反にもう……今、外は記者もいっぱいで……!」
レンは、立ち上がった。
「かまわん。……全部、終わってからだ」
彼は、そう言い残すと、デスクの上に無造作に置いてあった営業車のキーを一つ、手に取った。
「教えてくれて、ありがとう。コジマ」
それだけを言って、彼は雨の中へと走り出していた。
コジマは、一人、静かになった部屋で、また声を上げて泣き始めた。でも、その涙はさっきまでとは少し違って、小さな安堵と、かすかな希望が混ざったものだった。
夕方が近づき、土砂降りだった雨が、少しだけ小降りになっていた。
児童公園のブランコの鎖の軋む音だけが、雨音に混じって規則正しく響いていた。
ギィ、ギィ。
マシロは、もうどれくらい漕いでいるのか、自分でもわからなかった。
手足の感覚はとうにない。唇は紫色に変わり、全身がガタガタと小刻みに震えている。思考も、感情も、すべてが冷たい雨に溶かされて、頭の中はもうろうとしていた。
ただ、母親の声だけが、スピーカーから流れる電子音のように、繰り返し彼女の心の中でこだましていた。
(もう、疲れたな)
(レン先輩に、会いたいな)
でも、それも叶わない。私は彼に捨てられた。お母さんにも捨てられた。
もう、どこにも、私の居場所はないんだ。
その時だった。
——ギィ、と、重い鉄の扉が開く音がした。
マシロは、ゆっくりと顔を上げた。
公園の入り口。雨に煙る門のところに、一人の人影が立っていた。
背の高い、黒いスーツの男。
ずぶ濡れで、髪も服もぐっしょりで、まるで池から這い上がってきたみたいだった。手には傘もなく、ただこちらを、まっすぐに見つめている。
「……レン、先輩」
マシロの声は、かすれて、ほとんど空気の音だった。
二人の視線が、重なる。
雨音だけが、静かな公園を満たしていた。
レンは、ゆっくりと、まるで壊れ物に触れるみたいに、ブランコへと近づいてくる。水たまりを踏み抜くたびに、大きな水音が立った。
「来ないで……ください」
マシロは、絞り出すように言った。
「私、もう、何もかも、ダメで……もう、先輩の邪魔も、したくないし……誰かの期待に、応えられないなら、私、なんの価値もないから……だから……」
声が、言葉が、震えてうまく出てこない。
レンは、立ち止まった。
マシロの目の前で、彼は、静かに自分の濡れたジャケットを脱ぎ始めた。そして、言葉もなく、それを凍えるマシロの肩に、ふわりとかけた。
わずかに残っていた彼の体温が、マシロの冷え切った体に伝わる。
——あったかい。
その瞬間、マシロの目の奥から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。
「どうして……どうして、ここに……」
レンの顔を見上げる。すると、今まで決して見たことのない景色が、そこにはあった。
雨に濡れたレンの顔に、一筋の涙が伝っている。
無表情なんかじゃなかった。
涼しげな目でもなかった。
ただ、苦しそうで、悲しそうで、でも、どこかほっとしたような、複雑な顔で、彼は泣いていた。
「……遅くなった」
レンの声は、震えていた。
「……すまない。俺の、せいだ」
「ちが、う……先輩の、せいじゃ……私は、私が、弱いから……」
マシロは、頭を振った。
それ以上、言葉はいらなかった。
二人は、雨の中、ただただ見つめ合っていた。
すべてが解決したわけじゃない。契約のことも、事務所のことも、母親からの電話のことも、何一つ、終わってなんかいなかった。二人の間には、まだ深い断絶が、暗い影のように横たわっている。
でも。
今、確かに感じるのは、彼のジャケットの重さと、残り香と、体温。そして、彼の涙と、自分の涙が、同じ雨の温度だということ。
失われたと思っていた繋がりは、完全に消えてなんかいなかった。
この雨が止むまで、あと少しだけ、このままでいられたら。
そんなかすかな希望が、二人の胸の奥で、小さな、小さな光のように、きらめいた。
彼のかけた防寒着は、雨で冷えた彼女の肩を包み込むには、あまりにも薄く、二人を包む世界は、相変わらず冷たく、厳しいままだった。だが、それでも——彼は、確かに、ここに来たのだ。
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