パタ姉は転生してもサメが好きすぎる件について
春。エデン私立学園の入学式で、転入生のレイン・パターソンは一際注目を集めていた。銀髪に青い瞳、制服の上からでもわかる鍛えられた体躯。前の世界では、大切な仲間を守る凄腕のボディガードだった。でも今はただの高校一年生。そして不思議なことに、彼女の左胸のポーチには三本の煙草が入っている。彼女は吸わない。それは、もういない仲間たちのためのものだ。
レインの日常は、奇妙な出会いから始まる。明るいクラスメイトの陽菜は、なぜか彼女を「パタ姉」と呼んで懐いてくる。図書室で出会った物静かな少年カイは、傷だらけの彼女の手を見て言う。「誰かを守ってたんだろ?」そして水泳部のエース澪は、水を眺めるレインの姿に涙をこぼす。
「あなた……サメ、好きでしょ?」澪のその一言で、レインの中でスイッチが入る。そう、彼女はサメが好きすぎるのだ。前の世界で命を救われて以来、サメのぬいぐるみを集め、毎日サメ動画を観て、サメについて三時間は語れる。クールな外見とは裏腹に、サメの話題になると目を輝かせる。そのギャップに、陽菜もカイも澪も、気づけば惹かれていく。
しかし、学園の全員がレインを歓迎するわけではない。生徒会副会長の
パタ姉は転生してもサメが好きすぎる件について - パタ姉とサメの三時間 ―― 廊下の影、湖のきらめき
入学式から二週間が過ぎた。
四月も中旬。ミラーレイクの南岸に広がる学園都市、レイクサイド・シティは、桜が散り始め、新緑の季節へと移り変わろうとしていた。
私立エデン学園の校舎にも、新しい生活に慣れ始めた生徒たちの、少しだけゆるんだ空気が流れている。
——ただし、一人を除いて。
一年A組の教室。
朝のホームルーム前。がやがやと騒がしい教室の片隅で、レイン・パターソンは一人、窓の外を見ていた。
銀色のロングヘアが、開いた窓から入る風にふわりと揺れる。深い青い瞳は、遠くの湖面を見つめていた。
(……静かだ)
心の中で、そう呟く。
この二週間、レインは誰とも深く関わらずに過ごしてきた。クラスメイトからの挨拶には、短く頷くだけ。休み時間は、いつも一人で本を読んでいるか、窓の外を眺めているか。
(それでいい)
前世の記憶を持つ転生者として、彼女はこの世界で目立つことを望んでいなかった。
前世——剣と魔法が支配する戦乱の大陸。そこで彼女は、最年少で「誓約守護者」の称号を得たボディーガードだった。要人や仲間を護衛し、その命と尊厳を守ることを誓った戦士。
でも、もう戦わない。
大切な仲間を守れなかった。その罪悪感を抱えたまま、彼女はこの平和な世界に生まれ変わった。
(今度こそ、平穏に)
そう決めたはずなのに。
「……あ」
レインの耳が、教室のざわめきの中から一つの足音を拾った。
廊下を、誰かが走ってくる。小柄で、軽い足取り。そして、その足音は迷いなく——この教室の前で止まった。
ガラッ!
勢いよく引き戸が開く。
「おはようございまーす!」
教室中の視線が、一斉に入り口に集まった。
そこに立っていたのは、明るいオレンジ色のショートボブをサイドで小さく結んだ少女だった。くりくりとした大きな琥珀色の瞳が、教室中をきょろきょろと見回している。身長は百五十二センチ。小柄で、笑うとえくぼができる、そんな顔立ち。
首元には、手作りのサメ型ストラップが揺れていた。
「えーっと、今日からこのクラスに転入してきた、日向陽菜です! よろしくお願いしまーす!」
ぺこり、と元気よくお辞儀をする。
教室中が、少しだけざわついた。転入生。この時期に珍しい。
でも、陽菜はそんな視線をまったく気にしていないようだった。ニコニコと笑いながら、また教室内を見回す。
——その視線が、止まった。
窓際の席。銀色の髪。
陽菜の琥珀色の瞳が、大きく見開かれた。
「……いた」
陽菜は、小さく呟いた。
それから、教室中に響き渡るような声で——
「パタ姉ーーーーっ!!」
叫んだ。
そして、弾丸のように駆け出した。
レインは、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
オレンジ色の髪が、視界いっぱいに広がる。
ドンッ!
衝撃。
「パタ姉! やっと会えた! あたし、ずっと探してたんだよ!」
陽菜は、レインの腰に思い切り抱きついていた。
ぎゅううううっ。
小柄な体全体で、レインにしがみつく。その顔は、えくぼができるほど満面の笑みだ。
「……は?」
レインの口から、間の抜けた声が漏れた。
銀色の髪が、陽菜のオレンジ色の髪と混ざり合う。
教室中の視線が、二人に突き刺さった。
「ちょ、ちょっと待って。誰? 何?」
「えへへ、日向陽菜! ひなって呼んで! それか陽菜でもいいよ! パタ姉の好きな方で!」
「……パタ姉?」
「うん! パターソンさんだから、パタ姉! 入学式で見てから、ずっと話したかったんだ!」
陽菜は、レインの制服の袖をぎゅっと握ったまま、上目遣いで言った。
「あのね、入学式でパタ姉のこと見た瞬間に、ピンときたの! この人だ! って。あたし、転校ばっかりしてて、なかなか友達ができなかったんだけど……パタ姉は絶対に、あたしの友達になってくれるって、そう思ったんだ!」
まっすぐな言葉。
曇りのない、純粋な瞳。
レインは、困惑していた。
(友達……?)
前世でも、この世界でも、誰かと「友達」になったことなど、ほとんどない。
仲間はいた。戦友もいた。でも、それは「友達」とは違う。
「……私、そういうの、よく分からない」
レインは、正直にそう言った。
陽菜は、きょとんとした顔でレインを見上げる。
「そっか。じゃあ、あたしが教えてあげる! 友達の作り方! まずはね、一緒にお昼ご飯を食べることから!」
「……え」
「今日のお昼、一緒に食べよう! 屋上とか、中庭とか、どこがいい? あたし、この学校のいい場所、まだあんまり知らなくて。パタ姉、どこか知ってる?」
陽菜は、まくし立てるように言った。
レインは、言葉を失っていた。
教室中が、静まり返っていた。
クラスメイトたちが、息を呑んで二人を見つめている。
あのクールで近寄りがたい転入生、レイン・パターソンに、抱きついている奴がいる。しかも、あだ名まで付けて。
(……居心地が悪い)
レインは、周囲の視線を肌で感じていた。
でも。
(……嫌な感じは、しない)
陽菜の腕の温かさ。
ぎゅっとしがみついてくる、その小さな体。
レインの胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ動いた。
前世で、仲間たちが自分に向けてくれたのと同じような、無条件の好意。
(……温かい)
レインは、そっと息を吐いた。
「……分かった。お昼、一緒に食べる」
「ほんと!? やったー!」
陽菜は、ぴょんぴょんと跳ねながら、レインの腕に自分の腕を絡めた。
「じゃあ、決まりね! あ、でもその前に、席どこだっけ? あたし、まだ荷物置いてないや!」
「……あんた、転入初日でしょうが」
「えへへ、そうなんだよね! 忘れてた!」
レインは、呆れたようにため息をついた。
でも、その口元が、ほんのわずかに緩んでいた。
(……この子は、一体)
ホームルームが始まり、担任教師が陽菜を正式に紹介した。
「日向陽菜さん。四月からこのクラスに転入してきました。皆さん、仲良くしてくださいね」
「よろしくお願いしまーす!」
陽菜は、また元気よく挨拶した。
席は、レインの隣だった。
「パタ姉、隣だよ! 運命だね!」
「……運命って」
「だって、転入してきたら隣の席がパタ姉なんだよ? これはもう、神様があたし達を引き合わせてくれたんだよ!」
陽菜は、机をくっつけるようにして、レインに話しかけ続けた。
「パタ姉、好きな食べ物なに? 嫌いな食べ物は? 趣味は? 特技は? 好きな色は?」
「……ちょっと待って。質問が多すぎる」
「えー、友達になるなら、そういうの知っておきたいじゃん!」
陽菜は、まったくめげない。
レインは、深いため息をついた。
(……このペースに、ついていけない)
でも。
(……嫌じゃない)
それが、一番不思議だった。
昼休み。
陽菜は、約束通りレインを連れて教室を飛び出した。
「パタ姉、どこ行く? あたし、お弁当買ってきたんだ! 学食ってどこにあるの? それとも中庭で食べる? あ、でも屋上も気になるなー」
「……あんた、本当に落ち着きがないな」
「えへへ、よく言われる! でもね、楽しいことは早くやらなきゃ損だよ!」
陽菜は、レインの手を引いて、廊下を駆け出した。
「ほら、パタ姉も早く! お昼休みは短いんだから!」
「……引っ張らなくても、ちゃんと歩くから」
レインは、陽菜に手を引かれながら、廊下を歩いた。
すれ違う生徒たちが、二人を振り返る。
(……目立つ)
レインは、内心でそう思った。
でも、陽菜は気にしていない。
「あ、ねえねえ、あの子、同じクラスの子だよね? 名前なんだっけ。あ、あっちは先輩かな? かっこいいね!」
陽菜は、すれ違う人たちに次々と声をかけていく。
「こんにちはー! あたし、今日転入してきた日向陽菜です! よろしくね!」
相手が戸惑っているうちに、陽菜はもう次の人に話しかけている。
(……すごいな)
レインは、純粋にそう思った。
前世の自分は、人と関わることが苦手だった。仲間以外とは、必要最低限の会話しかしない。そんな自分が、この世界でも同じように生きてきた。
でも、陽菜は違う。
誰にでも、分け隔てなく、まっすぐに向かっていく。
(……私には、できないことだ)
結局、二人は中庭のベンチに落ち着いた。
中庭には、池があり、その水がミラーレイクへと続く細い水路へと流れている。
「わー、ここ気持ちいいね! 風が気持ちいい! あ、あの看板なに?」
陽菜が指さした先には、小さな看板があった。
『サメ観察ポイント』
レインの心臓が、とくん、と跳ねた。
「……サメ」
「サメ? なにそれ、この学校にサメがいるの?」
陽菜が、きょとんとした顔で聞いてくる。
レインは、看板の前まで歩いていった。
水路の水は透き通っていて、底の石まで見える。光が水面に揺れて、きらきらと輝いていた。
(サメ……)
胸の奥が、熱くなる。
前世で、海に落ちた自分を救ってくれた、巨大なサメ。
あの守護獣。
「……サメは、いいぞ」
気づけば、そう呟いていた。
「え? なに? パタ姉、今なんて言ったの?」
陽菜が、興味津々といった様子で、レインの顔を覗き込んでくる。
レインは、我に返った。
「……いや、なんでもない」
「うそ! 今、絶対なんか言った! サメがどうしたの? パタ姉、サメ好きなの?」
「……好きというか」
「好きなんでしょ! 分かるよ、だって今、パタ姉の目、すっごくキラキラしてたもん!」
レインは、自分の目元を押さえた。
(……そんな顔をしていたのか)
「……まあ、嫌いではない」
「えー、なにそれ、もっと教えてよ! サメってどんな生き物なの? かわいいの? こわいの?」
陽菜は、レインの隣に座り、足をぶらぶらさせながら聞いてくる。
レインは、少し迷った。
(……話しても、いいのだろうか)
前世の自分は、サメの話をすると止まらなくなる。周りからは、変人扱いされていた。
(……でも)
陽菜の瞳は、純粋な好奇心で輝いている。
「……少しだけなら」
「やった! 聞きたい!」
レインは、小さく息を吸った。
「……サメは、四億年以上前から地球にいる。恐竜よりも前からだ。軟骨魚類というグループに属していて、骨格が軟骨でできている。そのため、化石として残りにくく、歯や棘しか見つからないことが多い。しかし、その歯の化石から、古代のサメの大きさや種類を推定することができる。例えば、メガロドンは——」
「ちょ、ちょっと待って! パタ姉、なんか急にいっぱい喋り始めた!?」
陽菜が、目を丸くして言った。
でも、レインは止まらなかった。
「メガロドンは、約二千三百万年前から三百六十万年前に生息していた巨大なサメだ。最大で体長十八メートルにも達したと言われている。現生のホホジロザメの三倍以上の大きさだ。歯の大きさは、最大で十八センチ。手のひらよりも大きい。噛む力は、推定で十トンから十八トン。自動車を一瞬で押し潰せるほどの力だ。それだけの力で、当時の海の王者だったクジラを捕食していたと考えられている。すごいだろ!」
「え、あ、うん。すごい……ね?」
「ああ、そうだ。サメの歯は、何度でも生え変わる。抜けても抜けても、新しい歯が後ろから出てくる。ホホジロザメは、一生で二万本以上の歯を使うと言われている。歯の形は、食べるものによって違う。魚を食べるサメは細くて尖った歯、貝や甲殻類を食べるサメは平らで硬い歯、プランクトンを食べるジンベエザメは、歯が小さくてほとんど使わない。ジンベエザメは世界最大の魚類で、体長十二メートル以上になる。でも、性格は穏やかで、人間を襲うことはない。ダイバーが一緒に泳ぐこともできる。ああ、でも、ジンベエザメはサメというより、クジラに近い生態で——」
「パ、パタ姉!? あの、あたし、まだお弁当食べてないんだけど!?」
陽菜の声も、レインの耳には届いていなかった。
「サメの種類は、現在知られているだけで五百種類以上いる。その中で、人間を襲う可能性があるのは、ほんの一握りだ。ホホジロザメ、イタチザメ、オオメジロザメなど、ごく一部の種だけだ。多くのサメは、人間に対して臆病で、近づくと逃げていく。サメによる事故の多くは、サメが人間をアザラシやカメと間違えた結果だと言われている。サメは、決して無差別に人間を襲う怪物ではない。むしろ、海の生態系を支える、非常に重要な存在なんだ。サメがいなくなると、海のバランスが崩れてしまう。サメは、弱った魚や病気の魚を捕食することで、魚の群れを健康に保っている。そう、サメは海の掃除屋であり、守護者なんだよ!」
「……パタ姉、目が、すっごい輝いてる」
陽菜は、お弁当を膝の上に置いたまま、呆然とレインを見つめていた。
レインは、まったく止まらない。
「それから、サメの感覚器官は非常に優れている。嗅覚は、血液の匂いを百リットルの水に一滴混ぜただけで感知できると言われている。また、ロレンチーニ瓶という器官で、獲物の筋肉が発する微弱な電気を感じ取ることもできる。さらに、側線という器官で、水中の振動や水圧の変化を感知する。つまり、サメは目が見えなくても、獲物の位置を正確に把握できるんだ。これは、暗い海の中で生き抜くために進化した結果だ。すごいだろ! 本当に、サメは完璧な生き物なんだよ!」
「……うん。パタ姉がそんなにサメ好きだって、よく分かったよ」
陽菜は、少しだけ笑った。
でも、その笑顔は、今までとは少し違っていた。
(……パタ姉、こんなに喋るんだ)
(……こんなに、楽しそうな顔をするんだ)
陽菜の胸が、きゅっと温かくなった。
「……それで、サメの繁殖方法は、種類によって大きく異なる。卵生、胎生、卵胎生の三種類がある。卵生は、卵を産むタイプ。胎生は、哺乳類のように胎盤を通して栄養を与えるタイプ。卵胎生は、卵が体内で孵化してから産まれるタイプ。ホホジロザメは卵胎生で、子宮の中で孵化した子供が、さらに未受精卵を食べて成長する。これを卵食と言う。つまり、サメの子供は、生まれる前から生き残るための競争をしているんだ。なんてたくましいんだろう! ああ、それから、サメの肌は、実は歯と同じ構造をしている。プラコイド鱗というもので、触るとざらざらしている。昔は、この皮をヤスリとして使っていたこともある。あの感触は、一度触ると忘れられない。私のサメッチも——」
「サメッチ!?」
陽菜が、食いついた。
「サメッチってなに!? パタ姉のペット!? それとも彼氏!?」
レインは、初めて言葉を止めた。
「……彼氏ではない。ぬいぐるみだ」
「ぬいぐるみ! 見たい! サメッチ見たい!」
「……今は持っていない。寮の部屋だ」
「じゃあ、今度見せて! 約束だよ!」
陽菜は、嬉しそうに笑った。
レインは、少しだけ照れたように、視線を逸らした。
「……分かった」
「——それで、サメの歯は、獲物を切り裂くために進化した。三角形で、縁がギザギザになっている。このギザギザは、ノコギリの刃と同じ働きをする。一度噛みついたら、獲物は逃げられない。さらに、サメは顎の力が強く、骨まで噛み砕くことができる。しかし、サメの顎は、頭蓋骨に固定されていない。そのため、獲物に噛みつく際に、顎を前方に突き出すことができる。これを顎突出と言う。このおかげで、サメは獲物をより深く噛むことができるんだ。すごいだろ! 本当に、サメは——」
「パタ姉」
「——進化の結晶なんだよ! 四億年もの間、ほとんど姿を変えずに生き残ってきた。それは、サメの体が、それだけ完璧に海の環境に適応している証拠だ。サメは、生きた化石なんかじゃない。海の王様なんだ!」
「パタ姉」
「——ああ、それから、サメの尾びれは、種類によって形が違う。速く泳ぐための三日月形、海底でじっとしているための細長い形、などだ。サメの遊泳速度は、種類によって異なるが、最速のアオザメは、時速七十キロ以上で泳ぐことができる。これは、海の生物の中でもトップクラスの速さだ。しかも、アオザメは、水面から五メートル以上もジャンプすることができる。まさに、海の弾丸だ!」
「パタ姉!」
陽菜が、レインの肩を揺さぶった。
レインは、はっと我に返った。
「……な、なんだ?」
「あのね、もう、三時間くらい経ってる」
「……え?」
レインは、周囲を見回した。
空は、いつの間にか夕焼け色に染まっていた。
昼休みは、とっくに終わっている。
「……嘘だろ」
「嘘じゃないよ。あたし、途中でお弁当食べ終わって、それからずっとパタ姉のサメ講座を聞いてたんだよ。すごく面白かったけど、さすがにちょっと疲れちゃった」
陽菜は、少し眠そうな顔で笑った。
「……ごめん。私、またやってしまった」
レインは、顔を赤くした。
(……三時間も喋り続けるなんて)
前世でも、同じことをしていた。サメの話を始めると、周りが見えなくなる。
「……本当に、ごめん」
レインは、深く頭を下げた。
「え? なんで謝るの? あたし、楽しかったよ?」
陽菜が、きょとんとした顔で言った。
「……楽しかった?」
「うん! パタ姉のサメの話、すっごく面白かった! あたし、サメのこと、なーんにも知らなかったから、全部が新鮮だった! それに……」
陽菜は、レインの顔をじっと見つめた。
「パタ姉、サメの話してる時、すっごく楽しそうだったよ。目がキラキラしてて、早口になってて、なんか、子どもみたいでかわいかった」
「……かわいい?」
「うん。かわいかった」
陽菜は、にっこりと笑った。
「だから、もっと聞きたい! パタ姉のサメの話、もっと聞きたい!」
レインは、何か言おうとして、口を開けた。
でも、言葉が出てこなかった。
胸の奥が、じわりと温かくなる。
(……こんな風に、私の話を聞いてくれる奴は、初めてだ)
前世でも、仲間たちはサメの話を聞いてくれなかった。
「また、今度な」
レインは、小さくそう言った。
「うん! 約束!」
陽菜は、小指を差し出した。
「……なんだ、これは」
「指切り! 日本では、約束をする時に小指を絡めるんだよ! ほら、パタ姉も!」
レインは、恐る恐る、自分の小指を陽菜の小指に絡めた。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーら、はーりせーんぼん、のーます!」
陽菜は、楽しそうに歌いながら、小指を上下に振った。
「……変わった儀式だな」
「えへへ、これで約束は絶対だよ! 破ったら、針千本飲まされちゃうんだからね!」
レインは、小指に残る陽菜の温もりを感じながら、そっと息を吐いた。
(……悪くない)
そう、思った。
同じ日の夕方。
生徒会室。
エデン学園の本館三階にあるその部屋は、夕日に染まっていた。
窓際の机に向かって、一人の少女が座っている。
黒髪ストレートのロングヘア。夕日を受けて、時々紫色の光沢が見える。
綾女菖蒲。
エデン学園生徒会副会長。十七歳。
彼女は、机の上に何枚もの資料を並べていた。
「……レイン・パターソン」
紫色の瞳が、資料の上を走る。
転入書類。前世の戦歴の断片。そして、入学式の日に撮影された写真。
「最年少の誓約守護者。前世では、数多の戦場を生き抜いた戦士。そして——」
彼女の瞳が、一瞬、金色に変わった。
因果視——コーザル・サイト。
対象の過去の選択が、現在にどう影響したかを映像として見る能力。
「——三人の戦友を、自分の手で守れなかった」
アヤメは、目を閉じた。
「カイル、ソフィア、グレン。あなたの仲間たち。あなたが守ると誓った者たち。その全員が、あなたの目の前で死んだ」
彼女の声は、冷たかった。
「……あなたは、強い。強すぎる。その力は、この学園の平和を壊す。必ず」
アヤメは、立ち上がった。
窓の外に、ミラーレイクが見える。
夕日に染まった湖面が、鏡のように輝いていた。
「……この学園の平和を守るのが、私の役目」
彼女は、左手に光る古い指輪を見つめた。
「……まだ、終わってない」
小さく、呟いた。
——その時。
生徒会室の外、廊下を、一人の生徒が歩いていた。
影のように静かな足取り。
その生徒は、生徒会室の前で足を止めると、扉の向こうにいるアヤメの気配を感じ取った。
「……あの誓約守護者が、この学園にいるのか」
低く、呟く声。
「面白い。あの男の力が、今の世界でどこまで通用するのか」
その生徒は、口元に笑みを浮かべると、再び歩き出した。
廊下に、足音だけが響く。
翌日。
「パタ姉! おはよう!」
陽菜は、教室に入ってくるなり、レインの席に駆け寄ってきた。
「……おはよう」
「ねえ、聞いてよ! 昨日、パタ姉と別れた後、あたし、家でサメのことを調べちゃった! ネットで動画も見たよ! ホホジロザメがアザラシを捕まえる動画、すっごく迫力あった!」
「……あんた、本当に興味を持ったのか」
「もちろんだよ! だって、パタ姉がそんなに熱く語るんだもん。あたしも、もっと知りたくなったんだ!」
陽菜は、ニコニコと笑いながら、レインの前の席に座った。
「それでね、あたし、思ったんだけど——」
「……なんだ」
「パタ姉、サメ好きクラブ作らない?」
「……は?」
「だって、パタ姉はサメのことを誰よりも知ってるし、誰よりも好きじゃん! だったら、それをみんなに教えればいいんだよ! あたし、手伝うから!」
レインは、驚いて陽菜を見た。
(……サメ好きクラブ)
前世では、考えもしなかったことだ。
「……私が、クラブを作るのか?」
「うん! 絶対楽しいよ! サメのぬいぐるみ作ったり、サメの映画見たり、サメの生態を発表したり! あたし、パタ姉の夢を応援したい!」
「……私の、夢」
レインは、陽菜の言葉を繰り返した。
(夢……)
前世の自分に、夢などあっただろうか。
仲間を守る。それだけが、自分の全てだった。
(……でも、今は)
レインは、陽菜の笑顔を見た。
(……守るべきものが、もう隣にある)
胸の奥で、何かが、すとん、と落ちた。
「……そうだな。やってみよう」
「やったー! じゃあ、早速ポスター作ろう! あたし、絵を描くの得意なんだ! サメの絵、いっぱい描くよ!」
陽菜は、嬉しそうに跳ねた。
レインは、そんな陽菜を見ながら、静かに微笑んだ。
(……ありがとう、陽菜)
心の中で、そう呟いた。
その夜。
レインは、寮の自室で、机に向かっていた。
スマートフォンが、震える。
「……メッセージ?」
画面を開く。
差出人は、生徒会執行部。
『警告:非公認団体の活動は禁止されています。サメ愛好会と称する団体の設立届は受理できません。直ちに活動を中止してください。生徒会副会長 綾女菖蒲』
「……」
レインは、無言でスマートフォンを握りしめた。
画面が、わずかに軋む。
(……綾女、菖蒲)
入学式の夜、自分を見つめていた、あの紫の瞳。
「……やはり、私を狙っているのか」
レインは、立ち上がった。
窓の外には、月明かりに照らされたミラーレイクが広がっている。
(……陽菜を巻き込むわけにはいかない)
レインは、警告文を静かに握りしめた。
「……一人で、行く」
彼女は、深い青い瞳で、夜の湖を見つめた。
「明日、生徒会室へ」
その声は、静かだった。
でも、その奥に、前世の戦士の色が、ほんの少しだけ滲んでいた。
——レイクサイド・シティの静かな夜。
ミラーレイクの水面が、月明かりの中で、静かに揺れていた。
湖の底では、今日も、何かが動いている。Noveliaとは?
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