推しの親友は、元アイドルで隣の席
高校2年の春、地味で友達ゼロの磯貝タクト(16)は、超人気VTuber・氷月ユイの隠れガチ勢。学校では誰にも言わず、放課後はアーカイブ配信を観る日々。ある日、長期休学から復帰したばかりのクラスメイト・黒瀬まりあが、消しゴムを拾った拍子にタクトのスマホをチラ見する。画面に映っていたのは、氷月ユイの限定歌配信。まりあの目が輝く。
「ちょっと……ユイ推しなの?」
まりあの正体は、伝説の地下アイドルグループ『ネオポルテ』元メンバーで、解散後にVTuberへ転身した氷月ユイのリアル親友。まりあ自身も元アイドルだった。二人は秘密の共有者となり、まりあは「いつかユイに会わせてあげる」と約束する。しかし、まりあには声を奪う病でアイドルを辞めざるを得なかったという悲しい秘密があった。
そんな中、タクトの幼なじみで彼に密かに恋するギャル・宇佐美ルカが爆弾発言。「あんたの推しの事務所、うちの姉の元カレが運営してるんだけど」。ルカはタクトとまりあを引き裂こうと画策する。一方、無理に声を出し続け倒れたまりあに、タクトは「俺がまりあの声を守る」と誓う。だが、まりあの本当の病は呪いのようなものだった——誰かを
推しの親友は、元アイドルで隣の席 - 推しと親友と、揺れる恋心——残された五角形の呪い
夕日が多摩川の水面を赤く染めていた。
三人の影が河川敷に長く伸びている。
まりあの声が、奇跡のように戻ったというのに、空気はむしろ重く冷たく張り詰めていた。
「ごめん……ごめんね、タクトくん。わたし嬉しいのに……嬉しいのに泣いちゃう……」
まりあの声は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
ユイも息を切らして駆けつけた。
「まりあ……」
まりあは、ユイを見て首を振った。
「どうして……どうしてゆいが来たの……来ないでほしかった……」
まりあの本心が、涙と一緒に溢れ出した。
「まりあ……私、連絡をもらって、いてもたってもいられなかった。あなたが私のせいで声を失ったなら、私が絶対に取り戻すって。だから……」
「違う! ちがうの! ゆいのせいじゃない! ゆいが来ないでほしかったのは……わたしが、一番知られたくなかったことがあるから……」
まりあは、胸の奥から絞り出すように叫んだ。
ユイはまりあの両肩を、そっと掴んだ。
「なに? 知られたくないことってなに? ねえ、まりあ。あなたが声を失ったのは私のことを忘れられないからでしょ? ネオポルテが解散して、私があなたを置いてVTuberになった。それを、あなたはずっと恨んでる。だから……だからあなたの病の原因は、私への未練なんでしょ?」
ユイの言葉に、まりあの体がびくりと震えた。
タクトの胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
(違う)
(ユイは、誤解してる)
(まりあの病の原因は、ユイへの未練じゃない)
(俺への……恋心だ)
まりあは泣きながら首を横に振った。
「ちがう……ちがうの……ゆい、ちがうの……」
まりあは、それ以上何も言えなかった。
本当の原因を打ち明けられない。
だって、それを言ったら。
(タクトくんへの想いが、わたしの声を奪ってるなんて……)
(そんなこと、言えるわけない)
(言ったら、みんな、もっと苦しむ)
まりあは自分の喉を押さえて、うずくまった。
「まりあ、ごめん……私、何も知らないで……ほんと、ごめん」
ユイはまりあの背中を、さすった。
タクトは二人のそばに立って、動けなかった。
まりあの声は、戻った。
でも。
まりあの病は、まだ終わっていない。
まりあの恋心が、タクトに向いている限り、病は再発する。
そして、まりあの親友・緋月ユイが、今ここにいる。
まりあの秘密は、もう誰にも隠し切れない。
タクトの胸には二つの感情が、同時に渦巻いていた。
(緋月ユイがいる。俺の推しが、目の前にいる)
(でも、まりあの声はまだ危うい)
(俺は、どっちをどうすればいいんだ)
夕日が、三人の影を長く伸ばしていた。
その時、ユイがゆっくりと顔を上げた。
涙で光る瞳が、まっすぐにまりあを見つめている。
「……まりあ」
まりあは、まだうつむいたままだった。
「私、ずっと考えてたの。あなたに会えたら、真っ先に謝ろうって。でも、それだけじゃ足りない。私、あなたに、私の今の全部を見せたい。あなたがいたから、今の私がいるんだよって」
ユイの声が、風に混じって揺れる。
「だから、お願い。ネオポルテ、もう一度、やらない?」
まりあの肩が、ぴくりと跳ねた。
タクトも、耳を疑った。
「もう一度、五人で。いや、今度は二人でもいい。まりあと私で、もう一度ステージに立つの。あなたの声は、私が守る。あなたの歌で、また誰かを笑顔にできる。だから……」
ユイの声が、涙で震えている。
「まりあの歌が、また聴きたい。あの日、グランドベースで聴いたあなたの歌を、私は忘れられない。ずっと、あなたの歌が聴きたかった。でも……あなたを追いかけたら、またあなたを傷つける気がして。だから逃げてた。ごめんなさい。私、今度は逃げない。あなたの隣で、一緒に歌いたい。お願い、まりあ。私のために、もう一度だけ、歌って」
ユイの涙が、夕日に照らされてきらめく。
まりあは、顔を上げた。
その目からも、涙がこぼれ落ちていた。
「ゆい……」
まりあは、声を絞り出した。
「わたし、ゆいと歌いたい。すごく、歌いたい。でも……」
まりあの声が、そこで途切れた。
(でも、わたしの病の原因は、ゆいじゃない)
(ゆいと一緒にいても、病は治らない)
(タクトくんと一緒にいるほど、声が出なくなる)
まりあは、心の中で、そう叫んでいた。
でも、口には出せなかった。
「……うん。歌えたら、いいね」
まりあは、曖昧にうなずいた。
ユイは、まりあの手を握った。
「ありがとう、まりあ。絶対、成功させよう。私、明日から本気で準備する。事務所に掛け合って、スケジュールも空ける。あなたが再びステージに立つ日を、私が作る」
ユイの目に、強い決意の光が宿っていた。
タクトは、その光景を見つめながら、胸の奥に苦いものを感じていた。
(ユイは、まりあの病の本当の原因を知らない)
(俺への恋心が、まりあの声を奪ってる)
(ユイが近づくほど、まりあは自分を追い詰める)
でも、言えない。
タクトに、真実を告げる勇気はなかった。
「……あの」
気がつくと、声が出ていた。
ユイが、タクトを見た。
初めて、緋月ユイと、正面から目が合った。
その瞳の輝きに、タクトの心臓が、はねる。
(俺の推しが、俺を見てる)
(緋月ユイが、俺のことを見てる)
「あなたが、まりあの声を取り戻したんだよね。タクトくん……だっけ?」
ユイが、タクトの名前を呼んだ。
「え、あ、はい。磯貝タクトです」
声が裏返る。
「まりあから、聞いてる。あなたが、まりあの声を守るって叫んでくれたって。ありがとう。あなたみたいな人がいてくれて、私、安心した」
ユイが、にっこりと笑った。
それは、画面越しに何度も見てきた笑顔だった。
でも、現実のユイは、画面の中とは比べ物にならないほど、眩しかった。
タクトは、言葉が出なかった。
「マジで、推しが尊い」
心の中の言葉が、そのまま口から漏れた。
「え?」
ユイが、首を傾げる。
「あ、いや、違う! 今のは、心の声が! その、すみません!」
タクトは、顔を真っ赤にして、うつむいた。
まりあが、くすっと笑った。
「タクトくん、ユイの配信、全部見てるって言ってたもんね。私の友達の中で、一番すごいファンなんだよ」
まりあの声に、少しだけ柔らかさが戻っていた。
「そうなの? じゃあ、タクトくんは、私の歌、聴いてくれてたんだ。ありがとう」
ユイが、タクトの肩を、ポンと叩いた。
「うっ……」
タクトは、心臓が飛び出しそうだった。
推しに、肩を叩かれた。
しかも、二人きりじゃないことも忘れて、ユイの手の温もりだけが、肩に残っている。
「タクトくん、これからも、まりあのこと、よろしくね」
ユイが、まりあの隣に立った。
そして、自然な仕草で、タクトの肩を抱いた。
「ほら、まりあ。あなたの歌が戻って、よかった。これから、いっぱい笑おう。私たち、また一緒にステージに立てるんだから」
ユイの腕が、タクトの肩に回されていた。
(うわあああああああ)
(俺の推しに肩を抱かれてる)
(しかも、まりあの親友に)
タクトの頭は、爆発寸前だった。
でも、その瞬間。
まりあの顔が、悲しげに歪んだのが、見えた。
(まりあ……)
まりあは、ユイに笑顔を見せようとしていた。
でも、その瞳の奥に、寂しさが浮かんでいる。
(俺がユイと話してるから?)
まりあの視線が、タクトとユイの間に落ちた。
タクトは、はっとした。
(違う。俺、今、推しに夢中になって、まりあのこと、見てなかった)
まりあは、声が出るようになったばかりなのに。
まりあの病の本当の原因は、俺への恋心なのに。
病が、今にも再発しそうなくらい、まりあの心は揺れてるはずなのに。
「……あの、俺、ちょっと」
タクトは、ユイの腕から、ゆっくりと抜け出した。
「まりあ、大丈夫か? 喉、痛くないか?」
タクトは、まりあの顔を覗き込んだ。
まりあは、一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに小さくうなずいた。
「大丈夫。タクトくんが、助けてくれたから」
まりあの声は、かすれていた。
でも、しっかりとタクトの耳に届いた。
「よかった……」
タクトは、ほっとした。
(まりあの声が、戻った)
(それで、十分だ)
(推しのユイが目の前にいるのに、俺は、まりあのことばかり気になってる)
タクトは、自分の心が、まりあに向いていることを、否定できなかった。
「それじゃあ、私、そろそろ行くね。まりあ、タクトくん、今日は本当にありがとう。近いうちに、ちゃんとお礼させて」
ユイが、名残惜しそうに言った。
「ゆい……」
まりあが、声をかける。
「大丈夫。また、すぐ会えるよ。まりあの歌が、また聴ける日を、私、楽しみにしてる」
ユイは、まりあの額に、そっとキスをした。
「え……」
まりあが、固まった。
「な、なに……」
タクトも、目を丸くした。
「昔、よくしてたでしょ? まりあが、私の膝枕で寝てた頃の、日課。私、まりあが大好きだから。おでこにちゅーするの、まりあが喜ぶから」
ユイは、いたずらっぽく笑った。
まりあの顔が、真っ赤に染まった。
「も、もう、ゆい! タクトくんの前で、やめて!」
まりあが、姉に甘える妹のように、ユイの胸に顔を埋めた。
「あはは、ごめんごめん。じゃあ、またね」
ユイは、二人に手を振って、歩き出した。
その背中が、夕闇に消えていくまで、タクトは見送っていた。
(推しが、いた)
(推しに、会えた)
(推しに、肩を抱かれた)
そして、まりあの声が、戻った。
奇跡の一日だった。
でも、タクトの心は、晴れなかった。
(まりあの病は、消えてない)
(ユイは、再結成を本気で考えてる)
(まりあは、本当のことを言えないまま、ユイの期待に応えようとしてる)
タクトは、夕日に照らされた多摩川を見つめた。
水面が、きらきらと光っている。
「………」
「タクトくん、ありがとう」
まりあが、隣で、小さく言った。
「え?」
「声が戻ったのも、ユイに会えたのも、全部タクトくんのおかげ。私、嬉しい。本当に、嬉しい」
まりあの声は、まだ震えていたが、嘘のない声だった。
「でも、ごめんなさい。私、タクトくんに、いっぱい我慢させてる。私のせいで、タクトくんが苦しんでる」
まりあの目が、また潤んでいく。
「やめろよ、そんなの。俺が好きでやったことだ。まりあが謝ることじゃない」
タクトは、まりあの頭を、軽く撫でた。
まりあの髪が、指に触れる。
「タクトくん……」
まりあは、タクトの胸に、顔をうずめた。
「ごめん、もうちょっとだけ、このままでいさせて」
まりあの肩が、小刻みに震えている。
(泣いてる)
タクトは、まりあの背中に、腕を回した。
「いくらでも、こうしてていいよ」
二人は、しばらく、夕闇の中で抱き合っていた。
多摩川の風が、二人の髪を揺らしていた。
それは、奇跡の後の、小さな休息だった。
でも。
それは、嵐の前の、静けさにすぎなかった。
次の日。
放課後。
タクトは、まりあと別れて、一人で駅前を歩いていた。
今日は、ユイと会えなかった。
配信も、今夜は休みだった。
タクトは、久しぶりに、静かな放課後を過ごしていた。
まりあは、早めに家に帰った。
「体調が悪くなったら、連絡して」
そう言って、別れた。
でも、まりあの顔色は、昨日よりずっと良くなっていた。
声も、はっきり出ていた。
(奇跡は、まだ続いてる)
タクトは、そう思おうとした。
でも、あの病のことを考えると、楽観できなかった。
「……はあ」
ため息が漏れる。
「お、タクトじゃん」
突然、後ろから声をかけられた。
振り返ると、ルカが立っていた。
ルカは、ミナセ中央駅前のバス停に寄りかかって、タクトを見ていた。
いつもの派手なギャルメイクに、校則ギリギリの短いスカート。金髪のポニーテールが、夕方の光に揺れている。
「何ぼーっとしてんの? 幽霊でも見た?」
ルカが、ずいっと近づいてきた。
「べ、別になんでもない」
「ふーん? また、まりあのこと考えてたでしょ。顔に書いてあるよ」
ルカが、タクトの頬を、人差し指でつついた。
「やめろって」
タクトは、ルカの手を払った。
「あんた、最近、まりあとばっか一緒にいるじゃん。私のこと、忘れてない?」
ルカが、唇を尖らせる。
「忘れるも何も、お前とは、ただの幼馴染だろ」
「ちぇー、冷たいなー。ま、いいや。でさ、タクト、ちょっと聞きたいことあるんだけど」
ルカの目が、急に真剣になった。
「なんだよ」
「まりあの声、戻ったんでしょ? それって、緋月ユイと会って、なんかあったの?」
ルカが、探るような目で見てくる。
タクトは、黙った。
「なんで、そう思うんだよ」
「だって、昨日、あんたとまりあが、河川敷で抱き合ってたって、友達から連絡きたし。しかも、超可愛い女の子と一緒だったって」
ルカの声に、棘が混ざる。
「あれ、もしかして、緋月ユイだったの? 実際に会った?」
ルカが、タクトの腕に、しがみついてきた。
「なあ、タクト。あんた、推しに会って、どう思った? 嬉しかった? やっぱり、まりあより、推しの方がいい?」
ルカの顔が、近い。
タクトは、心臓がドキッと音を立てるのを感じた。
「な、なんでお前が、そんなこと気にするんだよ」
「だって、私、タクトのこと、好きだから」
ルカが、真っ直ぐにタクトの目を見て言った。
夕日が、ルカの金髪を照らす。
「は?」
タクトは、一瞬、思考が止まった。
(何言ってんだ、こいつ)
「あんた、鈍感すぎ。私、ずっと前から、タクトのこと好きなんだよ。気づいてなかったの?」
ルカが、ため息をついた。
「いや、だって、お前、俺のこと、からかってばかりで……」
「からかうからこそ、好きなんだって。小学生の頃から、ずっと一緒じゃん。私、タクトのことが、世界で一番好き」
ルカは、そう言うと、タクトの腕に抱きついた。
胸が、タクトの腕に当たる。
「ちょっと、離れろって!」
タクトは、慌ててルカを引き離した。
「なんで? 今の、告白だよ? 返事、聞かせてよ」
ルカが、上目遣いで見てくる。
「そ、そんな急に……俺、今、まりあのことで、それどころじゃ……」
「まりあ、まりあって、そればっか! まりあと私、どっちが好きなの?」
ルカが、声を荒げる。
「お前、本気で言ってるのか?」
「本気に決まってんでしょ! このままだと、私、タクトを取られちゃう。まりあが、あんたのこと、好きだから。私、知ってるんだから」
ルカの目が、ぎらぎらと光っている。
「まりあが……俺を?」
タクトは、息を呑んだ。
(まりあが、俺のことを?)
(あの、病の原因が、俺への恋心だって、そういうことだよな)
「タクト、危ないんだよ。まりあと一緒にいると、あんた、なんか壊れちゃいそう。私は、あんたのことが心配なの。ねえ、まりあから離れて。私と一緒にいた方が、絶対、楽しいって」
ルカが、タクトの手を握った。
「あんたの推し、緋月ユイのことだって、私、もっと協力できるよ。姉の元カレ、篠崎って男が、フォスライブって事務所の運営してるって、前にも言ったでしょ。あの人に頼めば、あんたを、ユイのイベントに招待くらいできるかもよ」
ルカが、誘惑するように言った。
「篠崎……!」
タクトの体が、硬直した。
あの男の名を聞いただけで、背筋に冷たいものが走る。
「なんで、あんたが、そんな顔するの?」
ルカが、不審そうに眉をひそめた。
「いや……なんでもない」
タクトは、ごまかすように、ルカから目を逸らした。
「とにかく、今日は、もう帰る。お前も、早く帰れ」
タクトは、ルカの手を振り解いて、歩き出した。
「待ってよ、タクト! ねえ、私の話、聞いてくれた?」
ルカが、後ろから叫ぶ。
タクトは、振り返らなかった。
(ルカが、俺を好き?)
(嘘だろ)
(ルカは、ただの幼馴染で、ガサツで、うるさい奴だったのに)
でも、そういえば、ルカは、いつも、タクトのことを気にかけてくれていた。
中学生の頃、タクトが、オタク趣味をからかわれて、教室で泣いた時も、ルカだけが、タクトの味方になってくれた。
「あんた、そういうとこ、バカだけど、私、嫌いじゃないよ」
ルカは、そう言って、笑った。
その時のルカの笑顔を、タクトは、今でも覚えている。
でも。
今のタクトの心は、まりあとユイで、いっぱいだった。
ルカの気持ちに答える余裕など、どこにもなかった。
(それよりも、篠崎だ)
(あの男が、フォスライブを運営してる)
(ユイの所属する事務所に、篠崎がいる)
(まりあを狙っている男と、推しが、繋がってる)
タクトの心に、暗い影が広がっていく。
翌日。
放課後。
タクトは、まりあと一緒に、カフェ「ルミナ」に来ていた。
「タクトくん、私、ここ、初めて来たかも」
まりあが、店内を見回して、嬉しそうに言った。
壁一面のレコードジャケット、木のカウンター、古いピアノ。
「ああ、ここのチーズケーキ、うまいんだ。ユイの限定歌枠の配信を見る前に、ここでコーヒー飲んで、腹ごしらえしたこともあった」
「そうなんだ。タクトくん、本当に、ユイのこと、大好きなんだね」
まりあが、にこっと笑った。
「まあ、な」
タクトは、照れくさそうに頭をかいた。
二人は、窓際の席に座った。
タクトは、コーヒーを、まりあは、カルピスを頼んだ。
「それで、今日は、何かあったの?」
まりあが、コーヒーにガムシロップを入れながら、尋ねた。
(今日は、何かあったのか?)
(いや、特にない)
(でも、今朝、ユイから、まりあに連絡があったはずだ)
「ユイから、連絡、あった?」
タクトは、単刀直入に聞いた。
まりあの顔が、少し曇った。
「うん。来週、ユイの配信に、私が映るかもしれないって。ネオポルテの話、するかもって」
まりあの声が、沈む。
「そうか……すごいな、まりあ。ユイの配信に出たら、一気に有名になるぞ」
タクトは、明るく言った。
「でも、私、不安で。だって、私、まだ、歌えるかわからない。それに、ユイと一緒に配信に出たら、昔の仲間に、何を言われるか……」
まりあが、下を向いた。
「昔の仲間って、元ネオポルテの?」
「うん。リオ、ナツキ、ヒナ。三人とも、私のこと、許してないと思う。私たちを捨てたって、ずっと思ってる。解散の時も、私のせいだって」
まりあの指が、カップの縁をなぞった。
「まりあのせいじゃない。ネオポルテが解散したのは、運営の問題が大きかったんだろ?」
「でも、私が、喉を壊さなければ、解散を回避できたかもしれない。私のせいで、みんなの夢が……消えた」
まりあの声が、震える。
「まりあ、それは、違う」
タクトが、まりあの手を握ろうとした、その時。
ガラン。
カフェの扉が、乱暴に開かれた。
「まりあ、いるんだろ?」
低い声が、店内に響いた。
タクトとまりあは、同時に、入り口を見た。
そこには、三人の若い女性が立っていた。
真ん中にいるのは、黒髪のショートカットで、切れ長の目をした女性。リオだ。
年齢は、二十歳前後だろう。
全身から、ぴりぴりと刺すような緊張感が伝わってくる。
その左隣には、茶色いセミロングの髪をふわふわと揺らした、泣きぼくろが特徴的な女性。ナツキだ。
彼女は、今にも泣き出しそうな、悲しそうな顔をしていた。
右隣には、紫色のボブカットで、口元をマスクで覆った、小柄な女性。ヒナだ。
彼女は、無言で、まりあを鋭く睨みつけていた。
「まりあ、見つけた。久しぶりだね。元気してた?」
リオが、ゆっくりと、まりあに近づいてくる。
「リオ……ナツキ……ヒナ……」
まりあの顔色が、真っ青に変わった。
「なんで、ここがわかったの……」
まりあが、小さく呟いた。
「教えてもらったんだよ。優しい人からね。まりあが、このカフェに、男と一緒にいるって。しかも、緋月ユイの親友のくせに、男とデートしてるってね」
リオが、冷たい笑みを浮かべた。
「そう、篠崎から、聞いた?」
リオが、タクトを一瞥した。
「こいつが、まりあの新しい彼氏? あんた、まりあのどこがいいの? 強い? かっこいい? まさか、泣き虫のまりあに、騙されたんじゃないの?」
リオが、タクトを小馬鹿にした口調で言った。
「やめろ」
タクトは、立ち上がって、まりあの前に出た。
「まりあに、何の用だ」
タクトは、震えを抑えながら、三人を睨みつけた。
「何の用? 決まってるでしょ。まりあに、けじめをつけてもらうの。あんたが、私たちを捨てたから、私たち、全員、芸能界の夢を諦めたんだよ。そのまりあが、今度は、ユイと再結成? 笑わせるわ。どこまで図々しいの?」
リオが、まりあを指差した。
「まりあ、あんた、声も出ないくせに、よくユイの隣に立てるね。ユイが、あんたを哀れんで、再結成なんて言ってるだけよ。あんたが、ユイの重荷になってるって、なんで気づかないの?」
ナツキが、涙声で、まりあに詰め寄った。
「まりあ、お願い。もう、ユイを解放して。あんたがいると、ユイまで、昔のみじめな地下アイドルに引きずり戻される。ユイは、もう、スターなんだよ。あんたの、おもちゃじゃない。あんたが、一番、ユイの足を引っ張ってるんだよ」
ナツキの言葉が、まりあの胸に、深く突き刺さる。
まりあは、唇を噛みしめて、俯いた。
「ちが……違う……私は、ユイの足を引っ張るつもりは……」
まりあが、絞り出すように言った。
「じゃあ、なんで、ユイの配信に出ようとするの? あんたが、また声を失って、ユイの活動に迷惑をかけるんでしょ? 私たちが、どれだけ苦しんで、夢を諦めたか、あんたには、わからないの?」
リオが、まりあの肩を、乱暴に掴んだ。
「声が出るようになった? 奇跡? 笑わせるな。あんたの声は、いつ消えるか、わからない。その不安定な声で、ステージに立つなんて、無責任にも程がある。あんたが、また、みんなの前で倒れたら、今度こそ、ネオポルテは、完全に葬り去られる。あんたが、私たちの夢を、二度も殺す気か?」
リオの指が、まりあの肩に、食い込む。
「やめろ! 離せ!」
タクトが、リオの腕を掴んで、引き離そうとした。
「触るな!」
リオが、タクトの手を、乱暴に払った。
「まりあ、返事は? うんとも、すんとも、言いなさいよ」
リオが、まりあに、詰め寄る。
まりあは、喉を押さえて、何かを言おうとしていた。
でも、声が出ない。
昨日まで、あんなに、はっきりと響いていた声が、また、消えかけていた。
「まりあは、今、声を取り戻したばかりなんだ。お前らみたいな、昔の仲間に、追い詰められて、声が出なくなるのは、当然だろ。帰れよ。まりあに、近づくな」
タクトは、三人の前に立ちはだかった。
「は? んですね。あんた、まりあのこと、何も知らないくせに、出しゃばんないでくれる?」
リオが、タクトを見下した。
「私は、まりあの、側で、ずっと、見てきた。まりあが、どれほど、私たちを苦しめてきたか、知ってる。まりあの笑顔の裏に、どれだけ、私たちの涙があったか、知ってる。あんたみたいな、後から来た男に、私たちの、苦しみは、一生、わからない」
リオの声に、殺気がこもる。
「リオ、もう、やめよう。まりあ、ごめんね。私たち、本当は、まりあのこと、恨んでないよ。でも、ユイのこと、心配だった。まりあが、ユイのことを、昔みたいに、独占するんじゃないかって」
ナツキが、泣きながら、まりあに、手を差し伸べた。
その瞬間。
「……もう、いや」
マスクの下から、ヒナの、小さな、震える声が、漏れた。
「ヒナ?」
リオが、ヒナを見た。
「私、もう、こんなこと、したくない。まりあを、責めたって、私たちの夢は、帰ってこない。それに、まりあの歌声、私は、もう一度、聴きたい」
ヒナが、マスクを外した。
その顔は、涙でぐしょぐしょだった。
「まりあの歌は、私たちの、宝物だった。ネオポルテの、光だった。あの日の、グランドベースの、アンコールの、まりあの声、私は、今でも、夢に見る。まりあ、お願い。もう一度、ただ一度でいいから、私の前で、歌って。あなたの歌が、聴きたい。それだけで、私は、あなたを、許せるから」
ヒナの、悲痛な叫びが、カフェに響いた。
まりあは、ハッとした。
「ヒナ……」
まりあの目に、涙が、あふれた。
「私……私も、歌いたい。みんなの前で、また、歌いたいよ……」
まりあが、声を振り絞る。
そして、まりあは、ふらりと立ち上がった。
「まりあ! 無理するな!」
タクトが、まりあを支えようとした。
「大丈夫。私、歌う。みんなの前で、歌いたい。それが、私の、けじめだから」
まりあが、三人を見渡した。
「リオ、ナツキ、ヒナ。ごめんね。私、あなたたちを、捨てたわけじゃない。あなたたちの夢を、潰したわけじゃない。ただ、私の、声が、私を、裏切ったの。それだけなの。でも、今、声が、少しだけ、戻ってる。だから、聞いてほしい。私の歌を。そして、許してほしい。本当に、ごめんなさい」
まりあは、深く、頭を下げた。
「まりあ……」
リオの表情が、揺れた。
「聞くだけ、聞くわ。歌えるものなら、ね」
リオが、腕を組んで、言った。
「まりあ、無茶したら、また、声が……」
「お願い、タクトくん。見守ってて。私、歌いたいの。今ここで、歌わないと、私は、また、逃げる。逃げて、逃げて、自分のことだけ、守ろうとする。でも、それじゃ、ダメなの。昔の仲間の前で、歌う勇気がなかったら、ユイと、また歌うなんて、できない」
まりあの目は、真剣だった。
「……わかった。何かあったら、すぐに止める。俺が、Mariaの、喉を、守る。絶対に」
タクトは、まりあの手を、そっと握った。
まりあは、ステージに向かった。
カフェ「ルミナ」の、小さなステージ。
まりあが、立った。
スポットライトも、マイクも、ない。
でも、まりあの周りにだけ、光が、集まっているように見えた。
まりあは、大きく深呼吸した。
そして、口を開いた。
「──」
まりあの、透き通るような歌声が、カフェに流れ始めた。
それは、ネオポルテの、代表曲だった。
『星の声』。
まりあの、ソロパートで、始まる、バラード。
かつて、グランドベースで、三百人の観客を、涙させた、あの歌。
まりあの声は、昨日の奇跡が、嘘のように、力強く、美しく、響いていた。
リオが、息を呑んだ。
ナツキが、両手で口を押さえた。
ヒナが、大粒の涙を、流した。
タクトも、心を奪われていた。
(すごい)
(まりあの歌は、すごい)
(俺の、心の、奥底に、直接、響いてくる)
まりあの声が、高音に、駆け上がる。
その瞬間。
ぐっ。
まりあの喉が、引き攣った。
「──っ!?」
まりあの声が、途切れた。
まりあは、喉を押さえて、前屈みになった。
激しく、咳き込む。
「まりあ!」
タクトが、駆け寄ろうとした。
でも、まりあは、手で制した。
「まだ……歌える……」
まりあが、再び、歌い出そうとした。
その瞬間、まりあの目と、タクトの目が、合った。
まりあの、紫がかった瞳に、タクトの顔が、映った。
(タクトくん……)
まりあの心の中で、タクトへの想いが、溢れ出した。
その瞬間。
まりあの声が、完全に、消えた。
「──っっ……!!」
まりあは、喉を、掻きむしるように、押さえ、その場に、崩れ落ちた。
「まりあ!!」
タクトが、まりあに、駆け寄った。
まりあは、声が出ないまま、必死に、息をしようと、口を開けていた。
ゴホッ、ゴホッ!
大量の、乾いた咳が、まりあの喉から、溢れ出た。
「まりあ! まりあ! しっかりしろ!」
タクトは、まりあの体を、抱き起こした。
まりあの体は、冷たく、震えていた。
「やっぱり……そうなのね」
リオが、冷たく、言い放った。
「まりあの声は、やっぱり、私たちの前では、歌えないのよ。私たちを許せないから。私たちを、恨んでるから。だから、歌えなくなったのよ」
「違う! まりあは、お前らを恨んでなんかない! まりあは、お前らに、謝りたかっただけだ!」
タクトが、反論した。
「じゃあ、なんで、歌えなかったの? あんたの、Noveliaとは?
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