反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~
魔族というだけで人間に狩られ、奴隷に堕とされた少女・グレイ。角を持つその身に刻まれたのは、焼き印と鎖、そして屈辱の記憶だけだった。
グランヴェルド――大陸最大の奴隷貿易都市。そこでは魔族は「動く財産」でしかなく、抵抗すれば踏みにじられ、黙れば喰い物にされる。オークションで売れ残ったグレイに目をつけたのは、闘技場の興行主ヴァルド。与えられたのは錆びついた短剣一本と、猛獣の待つ死の檻だった。
絶望の底で、彼女の暗い紫の瞳に宿るのは諦めではなく、燃えるような殺意。
――奪われたものは、全部奪い返す。
――私を踏みつけた奴らは、いつか必ずこの手で殺す。
生き延びるためではない。喰らい尽くすために、少女は牙を剥く。
鎖に繋がれた「角の奴隷」が、血と砂の闘技場で、人間たちの作った地獄そのものを喰い破っていく――。
これは、奪われた少女が、奪う側へと成り上がる、復讐と解放の物語。
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反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~ - 人面獅子の悲鳴
闘技場の地下は、いつもより静かだった。
石壁から落ちる水滴の音が、やけに大きく響く。冷たい空気が、裸の肩と腰を撫でた。グレイは薄暗い通路の突き当たりで、係員から初めての剣闘士装備を受け取っていた。
無骨な長剣。刃渡り九十センチの、ずっしりと重い鉄の塊。それから、直径六十センチの木製の盾。表面は無数の傷で覆われ、縁は欠けている。
「これが、お前の装備だ。剣闘士様のな」
係員の声には、薄い嘲笑が混ざっていた。
「剣闘士になったからって、調子に乗るんじゃねえぞ。どうせ今日で死ぬんだからな」
グレイは、無言で長剣を握った。
ずしり、と腕に食い込む重み。エサ用の短剣とは、比べ物にならない。
(これで、殺す)
彼女は、木の盾を左腕に通した。革の取っ手は汗と血で黒ずみ、手のひらに吸い付くような感触がした。
「髪、どうするんだ?」
係員が、汚れた灰色の髪を指さした。
「剣闘士は、髪を纏めるのが決まりだ。視界の邪魔になるからな。ほら、これを使え」
差し出されたのは、一本の革紐だった。
グレイは、無言で髪を後ろに束ねた。長く伸びた灰色の髪を、ぎゅっと一つに纏める。首の後ろで、革紐をきつく結んだ。
(カインが、生きていたら)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
(あいつは、何て言っただろうか)
グレイは、唇を噛んだ。
次に、額に銅のプロテクターを当てる。冷たい金属が、額の骨に触れた。それから、肩・腕・腰の左右に、茶色い革の防具を装着していく。セパレート形状の防具は、動きを妨げないように設計されていた。
防具の下から、汚れた黒いサラシとふんどしが見える。
「……貸与品だ」
係員が、低く言った。
「その装備は、てめぇの物じゃねえ。興行主様の貸与品だ。自由になれば、返却しなきゃならねえ。分かったか」
グレイは、答えなかった。
ただ、長剣を握る手に、力を込めた。
(分かっている)
(全部、上の連中の物だ)
(私の命も、この体も、この首輪も)
(だから、奪う)
彼女は、通路の先にある鉄格子の扉を見つめた。
扉の向こうから、観客のざわめきが聞こえる。何千人もの、血に飢えた声。
「行くぞ。今日の相手は、マンティコアだ」
係員が、扉に手をかけた。
「前座のエサどもは、もう食われた。お前も、せいぜい長く苦しんで死ね」
鉄格子が、ぎい、と音を立てて開いた。
まばゆい光が、地下通路に雪崩れ込んでくる。
グレイは、光の中へ、一歩踏み出した。
——闘技場の砂の上には、血と肉片が撒き散らされていた。
赤黒い染みが、砂に染み込んでいる。白い骨の破片が、陽の光を反射していた。指なのか、歯なのか、判別できない肉の欠片が、あちこちに落ちている。
前座のエサたちの残骸だ。
グレイは、その光景を、無表情で見つめた。
鼻をつく血の匂い。むせ返るような、鉄と内臓の匂い。
(これが、私の戦場か)
彼女は、砂を踏みしめた。裸足の裏に、生温かい血の感触が伝わる。
そして、闘技場の中央に、そいつはいた。
——マンティコア。
異国の怪物。体長は三メートルを超える。獅子の体躯に、人間の顔がついている。その顔は、歪に笑っていた。口元から、鋭い牙が覗いている。
首の周りには、青銅のたてがみが生えていた。一枚一枚が金属の刃のように鋭く、陽の光を弾いてぎらぎらと輝いている。
そして、尻尾。
サソリの尾だった。長く伸びた尾の先端には、曲がった毒針が光っている。麻痺毒の針。あれが掠るだけで、体は動かなくなる。
「——ああ、ああ、ああ」
マンティコアの口が、開いた。
人間の声が、その口から漏れ出した。
「たすけて、たすけて、おかあさん」
それは、前座で食い殺したエサ奴隷の声だった。
「おねがい、ころさないで、おねがい」
別の声。別の命乞い。
「いやだ、いやだ、いたい、いたいよぉ」
マンティコアは、殺した人間の悲鳴を、そっくりそのまま真似ていた。
そして、その人間の顔が、グレイの方を向いた。
口元が、にい、と歪む。
「——たべないでよぉ」
観客席が、沸騰した。
「うわあああああああ!!」
「マンティコアだ!本物のマンティコアだぞ!」
「あの魔族のガキ、今日こそ食われるぞ!」
「賭けはどうする!?俺はマンティコアに金貨五枚!」
「当たり前だろ!あんなガキが勝てるわけねえ!」
歓声と罵声が、滝のように降り注いでくる。
「魔族のガキ!さっさと死ね!」
「角をへし折られて、腸を引きずり出されろ!」
「お前の死に様で、俺たちを楽しませろ!」
グレイは、その声を、聞いていた。
(食われると、賭けている)
(私が、死ぬと)
(私の死が、娯楽だと)
彼女の胸の奥で、何かが燃え上がる。
怒りだ。
(気に入らない)
グレイは、長剣を構えた。
左手に木の盾、右手に無骨な長剣。
(たてがみは、刃を通さない)
彼女は、マンティコアを観察した。
青銅のたてがみは、首と背中を覆っている。あれに斬りかかっても、刃が弾かれるだけだ。
(狙うのは、顔と腹と脚)
(たてがみに守られていない場所)
(そして、尾が来る前に詰める)
(一発も、毒を食らうな)
マンティコアのサソリ尾が、砂を擦った。
ざり、ざり。
毒針が、弧を描いて持ち上がる。
「——はじめ!」
審判の声が、闘技場に響き渡った。
マンティコアが、飛びかかってきた。
獅子の巨体が、砂煙を上げて突進する。
グレイは、右に跳んだ。
マンティコアの前足が、彼女がさっきまで立っていた場所を薙ぎ払う。砂が舞い、地面がえぐれた。
(速い)
(でも、見える)
グレイは、猛獣との戦いで学んでいた。
相手の動きを、観察する。
牙と爪の軌道を、盗む。
マンティコアが、振り返る。
その口が、開いた。
「——おかあさん、おかあさん」
悲鳴の真似。
グレイは、無視した。
(悲鳴など、聞く価値もない)
彼女は、マンティコアの左側に回り込んだ。
たてがみの死角。
マンティコアの顔と腹が、晒される。
グレイは、長剣を振り抜いた。
ザシュッ。
刃が、マンティコアの脇腹を裂いた。
血が噴き出す。
「ギャアアアアアア!!」
マンティコアが、悲鳴を上げた。
今度は、真似ではない。本物の悲鳴だった。
サソリ尾が、鞭のようにしなった。
グレイは、盾を掲げた。
ガギンッ!
毒針が、木の盾を打った。
衝撃が、左腕を貫く。骨が軋む。
(重い)
(でも、防いだ)
グレイは、後退しなかった。
むしろ、前へ出た。
(尾が来る前に、詰める)
彼女は、マンティコアの懐に飛び込んだ。
たてがみが、目の前で光る。
(触れるな)
(掠るな)
グレイは、たてがみを避けながら、マンティコアの顔面に長剣を突き出した。
ザクッ。
刃が、人面の頬を貫いた。
「ギャッ……!」
マンティコアが、首を振った。
グレイは、剣を引き抜き、素早く距離を取った。
観客席が、ざわついた。
「おい、今の見たか!?あのガキ、マンティコアに傷をつけたぞ!」
「まぐれだ!どうせすぐ食われる!」
「いや、あの動き……あのガキ、本気で殺しに来てる」
賭けの空気が、微かに揺れた。
マンティコアが、グレイを睨みつけた。
その人面は、怒りに歪んでいた。
「——いたいよぉ、いたいよぉ」
マンティコアが、再び突進してきた。
今度は、さっきよりも速い。
グレイは、盾を構えた。
ドゴッ!
獅子の前足が、盾を打った。
木の盾が、真っ二つに割れた。
「——っ!」
グレイの体が、吹き飛ばされた。
砂の上を転がる。
左腕が、痺れている。盾は、もう使い物にならない。
(盾が、なくなった)
(でも、まだ戦える)
グレイは、すぐに立ち上がった。
口の中に、砂の味。血の味。
マンティコアが、追撃してくる。
サソリ尾が、頭上から振り下ろされた。
グレイは、横に転がって避けた。
毒針が、砂を深くえぐった。
(尾が来る前に、詰める)
(尾を振り抜いた直後が、隙だ)
グレイは、マンティコアの尾が地面に刺さった瞬間を見逃さなかった。
彼女は、一気に踏み込んだ。
たてがみを避け、マンティコアの右前脚の付け根に、長剣を突き立てた。
ザシュッ!
「ギャアアアアア!!」
マンティコアが、体をよじった。
グレイは、剣を引き抜きながら、さらに深く斬り込んだ。
脚の腱を、断つ。
「——うがああああああ!!」
マンティコアの右前脚が、折れた。
巨体が、傾ぐ。
グレイは、その隙に、マンティコアの腹の下に潜り込んだ。
(ここなら、たてがみは届かない)
(尾も、届かない)
彼女は、長剣を、マンティコアの腹に、深く、深く、突き立てた。
ズブリ。
内臓に達する感触。
「——しにたく、ないよぉ……」
マンティコアの口から、最後の悲鳴が漏れた。
それは、もう真似ではなかった。
怪物自身の、本物の悲鳴だった。
グレイは、剣を引き抜き、血まみれの体で、マンティコアの前へ出た。
人面が、彼女を見上げている。
恐怖に歪んだ、人間の顔。
グレイは、その喉元に、長剣を突き立てた。
ザクッ。
人面の悲鳴が、止まった。
マンティコアの巨体が、ゆっくりと、砂の上に崩れ落ちた。
ドォォォン……。
地響きとともに、砂埃が舞い上がる。
静寂。
一瞬の、静寂。
そして——
「うわああああああああああああああ!!!」
闘技場が、爆発した。
「あのガキ、マンティコアを殺しやがった!!」
「ありえねえ!賭けが、賭けがパアだ!」
「すげえ!あの魔族、本物の戦士だ!」
「何言ってる!たまたまだ!魔族のガキが、まぐれで勝っただけだ!」
歓声と罵声が、入り混じる。
賞賛と嘲笑が、渦巻く。
グレイは、返り血を浴びたまま、立ち尽くしていた。
灰色の髪は、血で赤黒く染まっている。
額の銅のプロテクターも、革の防具も、黒いサラシも、全てが血に塗れていた。
彼女は、ゆっくりと、観客席を見上げた。
(戦士と見る目)
(魔族のガキと見る目)
二種類の視線が、彼女に突き刺さっていた。
熱狂の温度が、急に冷えて、肌に残る。
(どちらでも、構わない)
グレイは、血に濡れた長剣を、ぎゅっと握りしめた。
その時だった。
「——見事な試合だったよ、グレイ」
聞き覚えのある声が、試合場の側から聞こえた。
グレイが振り向くと、興行主ヴァルドが立っていた。
恰幅の良い体を、高価そうな外套で包み、指には宝石の指輪が光っている。赤ら顔に、笑みを浮かべていた。
そして、その隣には——
貴族たちがいた。
三人の男たち。全員が、絹の服を着て、金の装飾品を身につけている。奴隷を値踏みするような、冷たい目で、グレイを見ていた。
「どうだい、諸君。私の言った通りだろう?この娘は、金になる」
ヴァルドが、貴族たちに話しかけた。
「たかが魔族のガキが、マンティコアを殺した。あの悲鳴を真似る怪物を、一発の毒も食らわずに、な。これは、天性の戦士だよ」
「ふむ……確かに、面白い」
「だが、魔族だぞ。観客が、いつまで熱狂するか」
「そこが味噌だよ。魔族の成り上がり。差別と偏見の中で、どこまで勝ち続けるか。観客は、そういう物語に金を払う」
ヴァルドが、グレイに近づいてきた。
彼は、グレイの首輪を、ぐいと握った。
「なあ、グレイ。お前さんは、私の商品だ。金の卵を産む鶏だ。今日の勝利で、お前さんの価値は、さらに上がった。次の興行では、もっと大きな見せ物にしてやるよ」
ヴァルドの冷たい灰緑の瞳が、グレイを射抜いた。
「自由になりたいか?なりたいだろう。だったら、勝ち続けるんだな。百連勝。それが、お前さんに与えられた、唯一の道だ」
グレイは、ヴァルドを睨みつけた。
首輪を握る手。宝石の指輪。金貨の擦れる音。
(こいつが、私の首輪を握っている)
(こいつが、私の命を、商品として扱う)
(こいつが、私の自由を、餌に操る)
グレイの胸の奥で、烙印が、焼けつくように痛んだ。
カインを刺した手の感触が、まだ残っている。
(この熱狂も、この名誉も)
(上の連中が、気まぐれに与え、気まぐれに奪う)
(だったら——)
グレイは、ヴァルドの手を、払いのけた。
「……触るな」
彼女の声は、低く、乾いていた。
「私は、あんたの商品じゃない。私は、私の自由を、あんたから奪う」
ヴァルドは、一瞬、驚いたような顔をした。
だが、すぐに、笑った。
「ふふ……いいねぇ、その目だ。反抗的な目。観客は、そういうのを好む。だがね、グレイ。お前さんの自由は、私が握っているんだよ。この首輪を外せるのは、私だけだ」
ヴァルドは、そう言って、グレイの首輪を、もう一度、ぎゅっと握った。
「だから、せいぜい、私のために勝ち続けるんだな。自由が欲しければ、な」
ヴァルドは、グレイの首輪から手を離すと、貴族たちとともに、試合場を去っていった。
グレイは、その背中を、血まみれの顔で、見つめていた。
(気に入らない)
(あの男の顔も、声も、指輪も、笑い方も)
(全部、気に入らない)
彼女は、長剣を、砂の上に突き立てた。
観客席の熱狂が、まだ続いている。
「グレイ!グレイ!グレイ!」
彼女の名前を呼ぶ声。
賞賛の声。
だが、その声の半分は、まだ「魔族のガキ」に向けられていた。
(戦士と見る目と、魔族のガキと見る目)
(どちらも、私のものではない)
(私の価値は、私が決める)
グレイは、空を見上げた。
青い空が、どこまでも広がっていた。
闘技場の壁に囲まれた、小さな四角い空。
(いつか、この空の下を、自由に歩く)
(そのために、私は、全てを奪う)
(この闘技場も、あの興行主も、あの貴族どもも)
(全部、奪って、踏み潰して、自由になる)
グレイは、血に濡れた手で、胸の烙印に触れた。
焼き鏝で押された、奴隷の印。
(この烙印も、この首輪も、いつか必ず)
彼女は、長剣を引き抜き、地下への通路へと歩き出した。
その後ろ姿を、観客の歓声が、追いかけてくる。
「グレイ!グレイ!グレイ!」
熱狂の声が、彼女の背中を押した。
だが、グレイは、振り返らなかった。
彼女の暗い紫の瞳は、ただ、地下の闇だけを見つめていた。
通路の入り口で、憲兵が待っていた。
無精髭を生やした、大柄な男。鋭く見下すような黒い瞳。腰には鞭を携えている。
「おい、エサが剣闘士になったからって、いい気になるなよ」
憲兵が、グレイの前に立ちはだかった。
「てめぇは、所詮、魔族のガキだ。何連勝しようが、俺たちの足元に這いつくばる、汚ねえ奴隷だ。分かったか?」
グレイは、憲兵を、じっと見上げた。
(こいつも、いつか、殺す)
彼女は、心の中で、静かに誓った。
「……どけ」
グレイの声は、冷たかった。
憲兵は、一瞬、たじろいだ。
だが、すぐに、グレイの肩を、乱暴に押しのけた。
「ふん、まあいい。今日は、良い見世物になってきたか。せいぜい、明日も生きてるといいな」
憲兵は、そう言い捨てると、通路の奥へと歩き去った。
グレイは、憲兵の背中を、無言で見つめた。
(お前の顔も、声も、あの踏みつけた感触も)
(全部、覚えている)
(絶対に、殺す)
彼女は、地下通路の闇の中へ、消えていった。
冷たい空気が、血に濡れた体を包む。
石壁から落ちる水滴の音が、静かに響いていた。
グレイは、長剣を握りしめたまま、独房への道を歩いた。
足音だけが、暗い通路に、こつ、こつ、と響いていく。
その手には、まだ、カインを刺した時の感触が、微かに残っていた。
胸の烙印は、焼けつくように熱い。
(私は、奪う)
(全てを、奪い返す)
(この世界から、自由を)
グレイの暗い紫の瞳が、闇の中で、ぎらりと光った。Noveliaとは?
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