白銀、死後の取引
死刑執行命令書と死亡証明書――その二枚の紙切れが、帝国最年少の魔導少佐の運命を書き換えた。
大環戦争は帝国の敗北で終わる。戦犯として絞首台を待つターニャ・デグレチャフに下されたのは、処刑ではなく「存在の消去」。鹵獲核兵器の情報と引き換えに、彼女は書類上で死に、各国情報機関の監視網の中で生き続けることを強いられる。
看守として配されたのは、若干20歳にして大佐に昇進した異才・レルゲン。戦後処理の実務を担う男と、死んだことにされた少女――二人の奇妙な関係が、瓦解していく帝国の片隅で静かに始まる。
国家に切り捨てられた少女は、絶望の底で誓う。書類の上では死んでも、自分は生き続けると。そしていつか、消された存在を証明してみせると。
雪の降る帝都を舞台に、生存と復権を懸けた冷徹な意志の物語が、今、幕を開ける。
白銀、死後の取引 - 監視の檻にて───死神が甘えを知る夜
春が終わり、夏が来て、秋が過ぎた。
レルゲン・フォン・ヴァルトシュタインの私邸に、ターニャ・デグレチャフが引き取られてから、一年が経とうとしていた。
北郊外の高級住宅地は、四季を映す。春は街路樹が若葉を茂らせ、夏は蝉が鳴き、秋は銀杏が石畳を黄金色に染めた。今、冬の気配が冷たい風に混じって庭園を渡っていく。
ターニャは自室の窓辺に立っていた。銀色の癖っ毛を肩に揺らし、透き通る青い瞳で外を見つめている。背筋は軍人時代と変わらず真っ直ぐだ。小柄な体躯からは想像もつかない静けさが、周囲の空気を張り詰めさせていた。
(監視ポイントは、全部で十七箇所)
頭の中には、この一年で構築し尽くした私邸周辺の地図が広がっている。
(庭園の生垣の切れ目。向かいの屋敷の二階、東側の窓。街路樹の影。露店の幌の隙間。馬車の往来が途切れる時間帯。監視員の交代は午前二時と午後二時。死角は北西の塀沿い、およそ三メートル)
すべて把握していた。指先が無意識に空中で小さな弧を描く。軌道計算の癖だ。かつて空を駆けた魔導航空兵の、身体に染みついた動作。
(しかし)
窓ガラスに映る自分を見た。
(私は、ここから一歩も出られない)
監視網を把握したところで、能動的に利用する手段はない。仲間もいない。通信手段もない。退屈と屈辱が日々を埋め尽くしていた。
小さく息を吐く。白い吐息がガラスに触れて曇る。指先で拭うと、外の景色がまたくっきりと見えた。
見張られている。四六時中、休みなく。食事の時も、眠っている時も、風呂に入っている時も。連合王国情報部、東方連合特務局、西方同盟、そしてアメリカ。各国のスパイたちが、銀の死神の一挙手一投足を記録し続けている。
(私は、檻の中の死体だ)
書類の上では、彼女はもう死んでいる。歴史から消された存在。しかしその死体は、なぜかまだ心臓を動かし続けている。それがこれほど苦痛だとは、予想していなかった。
「退屈ですわ」
誰に言うともなく呟いた。声は静かな部屋に吸い込まれて消えた。
その頃、レルゲン・フォン・ヴァルトシュタインは一階の書斎で机に向かっていた。濃い茶髪を短く整え、鋭い灰の瞳で書類を睨んでいる。左手はいつものように胃のあたりを押さえていた。二十歳の若さで帝国軍残存部隊の実質的指揮官を務める彼の顔には、疲労の色が濃い。
机の上には山と積まれた書類。戦後処理の報告書、各国からの問い合わせ、監視報告書。その中に一枚、ターニャ・デグレチャフの日課報告書が挟まっていた。
起床、朝食、読書、昼食、庭園の散策、夕食、就寝。毎日、寸分違わぬスケジュール。一分の狂いもない。異常なまでに整然とした、あまりにも完璧すぎる日課。
手に取り、眉をひそめる。
(不気味だ)
普通の人間なら、多少は気まぐれがあるはずだ。散歩の時間がずれることもあれば、食事を抜くこともある。だがターニャには、それが一切ない。まるで機械のように、毎日同じ行動を繰り返している。
(あの少女は、何を考えている?)
左手で胃を押さえながら、深いため息をついた。
「胃が痛い……」
口癖だった。ここ数年、この言葉を口にしない日はない。特にターニャのことを考えるたび、胃の痛みは増す一方だった。
(彼女は、自分から何も要求してこない)
それが逆に恐ろしかった。食事の不満も言わない。部屋の不満も言わない。外出したいとも言わない。本が読みたいとも言わない。何も要求しない。ただ毎日、静かに、監視されているだけの生活を受け入れている。
(普通の人間なら、耐えられないはずだ)
軟禁生活。自由の剥奪。四六時中の監視。そんな状況で何の不満も漏らさない人間が、正常であるはずがない。彼女は何かを企んでいる。そうとしか考えられなかった。
(だが、何も起きない)
一年が経とうとしている。ターニャは何も仕掛けてこなかった。監視網を突破しようとする素振りもない。外部と接触しようとする動きもない。ただ静かに毎日を過ごしているだけだ。その静けさが、レルゲンの胃をじわじわと痛めつけていた。
夕食の時間。私邸の食堂は二人で使うには広すぎた。長いテーブルの端と端にレルゲンとターニャが座る。使用人が料理を運び、静かに下がっていく。スープの湯気が二人の間をゆっくりと上っていく。
ターニャは背筋を伸ばしたまま、静かにスプーンを口に運んだ。音を立てず、無駄な動きもない。食事そのものが訓練の一環であるかのような正確な所作だった。
レルゲンはそんな彼女の様子をちらりと窺った。
(今日も、何も言わない)
沈黙が食堂を満たす。スプーンが皿に触れる音だけがかすかに響いた。
「……食事は、口に合うか」
沈黙に耐えかねて口を開いた。
「ええ、美味しゅうございますわ」
感情のない声で答える。
「……そうか」
会話はそこで終わった。レルゲンは心の中で自分を責めた。もっと別の話題があるだろう、と。だが何を話せばいいのか分からない。戦争の話をするわけにもいかない。監視の話をするわけにもいかない。天気の話をするには、彼女は外に出られない。
(私は、彼女と何を話せばいいんだ)
胃の痛みを感じながら、黙々と食事を続けた。
夕食が終わり、ターニャは自室に戻るはずだった。だがその日は違った。食堂を出ると廊下を真っ直ぐに歩き、レルゲンの書斎の前に立った。
コン、コン。静かなノック。
「……入れ」
中から声が聞こえた。ターニャは扉を開けて中に入った。書斎は暖炉の火でほんのりと温かかった。レルゲンは机に向かって書類を広げていた。彼はターニャの姿を見ると手を止めて顔を上げた。
「どうした、こんな時間に」
灰の瞳に警戒の色が浮かぶ。ターニャは書斎の中央まで歩み寄り、立ち止まった。背筋は真っ直ぐ。青い瞳はレルゲンを真っ直ぐに見つめている。
「大佐。お願いがございますの」
静かにそう言った。レルゲンの左手が無意識に胃のあたりを押さえる。
(来たか)
一年間、何も要求してこなかった彼女が、ついに何かを求めてきた。クーデターの準備か。情報操作の一環か。それとも脱走の計画か。頭の中で、あらゆる可能性が高速で巡る。
書類を伏せ、ターニャの真意を探ろうとした。
「……何だ。言ってみろ」
声は自分でも驚くほど硬かった。ターニャは一瞬、沈黙した。暖炉の火がパチリと音を立てる。
「……ハグを、していただきたいのですわ」
レルゲンは自分の耳を疑った。
「……は?」
間抜けな声が出た。
「ですから、ハグですわ。抱擁です。あなたに、私を抱きしめていただきたいのです」
淡々と繰り返す。レルゲンはしばらく言葉を失った。
(ハグ? 銀の死神が、ハグを?)
頭の中で警鐘が鳴り響く。
(これは、何かの罠だ)
そう確信した。
「……君は、何を企んでいる」
低い声で問い詰める。
「企みなど、ございませんわ」
「嘘をつくな。銀の死神が、ただハグを求めるはずがない」
椅子から立ち上がり、机を回ってターニャに近づいた。
「クーデターの準備か? 情報操作の一環か? それとも、私を油断させて脱走するつもりか? あるいは……自殺願望の裏返しか?」
次々に疑念を並べ立てる。ターニャはその様子を、冷たい青い瞳で静かに観察していた。
(この人は、本当に不器用だ)
(私の言葉を、額面通りに受け取れない。いや、受け取らない。銀の死神が人間らしい欲求を持つはずがないと、そう思い込んでいる)
(だが、それは正しい。私は、人間らしい欲求など持つべきではない)
「大佐」
静かに口を開いた。
「私は、退屈ですわ。そして、孤独です。この一年間、私は誰にも触れられていません。誰とも話していません。あなた以外の人間と、言葉を交わすことすらありませんの」
声は相変わらず棒読みだった。
「計算も、策略も、ありませんわ。ただ、人に触れてほしい。それだけですの」
レルゲンは動揺した。
(銀の死神の口から、そんな言葉が出るはずがない)
「……君は、自分が何を言っているのか分かっているのか」
「分かっておりますわ。非効率で、非合理的で、生存戦略としても意味のない要求だと、理解しております」
そう言った。
「ですが、それでも、私は、あなたに触れてほしいのですわ」
レルゲンは左手で胃を強く押さえた。痛みが鋭く走る。
「くっ……胃が……胃薬を……」
机の引き出しを乱暴に開け、胃薬の瓶を探す。指先が震えている。ターニャはそんな彼の様子をじっと見つめていた。
(この人は、私の言葉に本気で動揺している)
(それは、私を危険視しているからだ。銀の死神の言葉を真に受けるわけにはいかないからだ)
(だが、それでも、この人は私を人間として見ようとしている)
(レルゲン・フォン・ヴァルトシュタイン。彼は私の監視者であり、私の唯一の安全地帯だ)
(彼の不器用な優しさは、私の生存戦略において、記録すべき重要な情報だ)
そう自分に言い聞かせた。
レルゲンはようやく胃薬を見つけ、水も飲まずに二錠、口に放り込んだ。苦い薬が喉を焼く。深く息を吐き、ターニャに向き直った。
「……君は、私に、抱きしめてほしいと言ったな」
「ええ」
「……理由は、退屈と孤独。それだけか」
「それだけですわ」
レルゲンはしばらく彼女の青い瞳を見つめた。その瞳は相変わらず冷たく、何の感情も読み取れない。だがその奥に、何かが潜んでいるような気がした。
(私は、彼女を抱きしめるべきなのか)
(彼女は戦犯だ。銀の死神だ。大量破壊の象徴だ。私が彼女を抱きしめることは、道義的に許されるのか)
(だが、彼女は今はただの少女だ。国家に捨てられ、歴史から消され、檻の中で一人きりで生きている、孤独な少女だ)
二つの思いが激しくせめぎ合った。
「……分かった」
ついに折れた。
「抱きしめればいいんだな」
「ええ。お願いいたしますわ」
レルゲンはターニャに近づいた。長身と小柄な体躯。二人の距離が一歩、また一歩と縮まっていく。ターニャは動かなかった。ただ青い瞳でレルゲンを見上げていた。
レルゲンは彼女の前に立つと、ゆっくりと腕を伸ばした。そして彼女の細い肩を、恐る恐る抱き寄せた。
ターニャの体は想像以上に小さく、そして冷たかった。
(これが、銀の死神の体温か)
氷のように冷たい。まるで生きている人間の温度ではないようだった。
(私は、化け物を抱きしめている)
(私は、この少女に絆されている)
(戦後処理で、何人もの人間を切り捨ててきた。処刑台に送った者もいる。家族を失った者もいる。その重みが今、この腕の中にのしかかってくる)
レルゲンはターニャを抱きしめる腕に、無意識に力を込めた。
ターニャはレルゲンの腕の中でじっとしていた。彼の軍服の感触。彼の体温。彼の心臓の鼓動。すべてが彼女にとってはあまりにも遠い記憶だった。
(戦場では、何度も人を抱きしめた。負傷した部下を。死んでいく仲間を。だがそれは、軍人としての行為だった)
(これは、違う)
(これは戦場ではない。私は軍人でもない。私はただの、書類の上で死んだ女だ)
(そしてこの人は、私を書類の上の死体としてではなく、一人の人間として抱きしめている)
胸の奥で何かがかすかに動いた。
ドクン。
心臓の鼓動が速くなる。
(おかしい)
自分の身体の反応を冷静に分析する。
(これは生存戦略だ。彼を依存させて監視を緩ませるための手段だ。私は彼を利用している。それだけのことだ)
そう自分に言い聞かせた。
(そうだ。これは計算だ。私は彼の優しさを利用している。彼の同情を、彼の罪悪感を利用している)
(だからこの鼓動は、何の意味もない)
ドクン。ドクン。ドクン。
心臓がうるさい。
(これは生存戦略だ)
(これは計算だ)
(これは利用だ)
何度も繰り返した。だがその自己説得が空回りしていることに、彼女自身が気づき始めていた。
(なぜ、私はこんなに動揺している)
(なぜ、私はこの腕から逃れたいと思わない)
(なぜ、私はこの温もりを、もっと感じていたいと思っている)
そっと、レルゲンの軍服の胸元に自分の額を押し当てた。彼の心臓の音が直接、耳に伝わってくる。
ドクン。ドクン。ドクン。
規則正しい、生命の音。
(ああ)
(私は、生きている)
(私は、まだ、生きている)
青い瞳がかすかに揺れた。
どれくらいの時間が経っただろうか。レルゲンはゆっくりと腕を解いた。ターニャは一歩後ろに下がり、彼を見上げた。表情は相変わらず無表情だったが、その頬はほんの少しだけ赤くなっているように見えた。
「……ありがとう、大佐」
小さくそう告げた。その声はいつもの棒読みではなく、ほんの少しだけ柔らかかった。
レルゲンはその一言に言葉を返せなかった。ターニャは背筋を伸ばしたまま書斎を後にした。扉が静かに閉まる。
レルゲンは閉まった扉をしばらく見つめていた。
(ありがとう、か)
(銀の死神が、私に礼を言った)
(それは何かの罠か? それとも本心か?)
判断がつかなかった。ただ一つだけ確かなことがあった。胃が痛い。昨日までとは比べ物にならないほど激しく。
「胃が……痛い……」
机に突っ伏し、苦悶の声を漏らした。その痛みは翌日まで引かなかった。
深夜。ターニャは眠れないまま、自室のベッドで天井を見つめていた。昼間の出来事が頭から離れない。レルゲンの腕の感触。彼の体温。彼の心臓の音。
(私は、何をしていたんだ)
自分を責めた。
(あんなことをして、何になる。彼を油断させる? 監視を緩ませる? そんな効果があるはずがない。むしろ彼の警戒心を強めただけだ)
(非効率だ。あまりにも非効率的すぎる)
ベッドから起き上がり、窓辺に立った。カーテンを開けると月明かりが差し込んでくる。庭園の木々が青白い光に照らされて影を落としていた。
(私は、あの時、確かに彼に触れてほしいと思った)
(それは計算ではなかった。策略でもなかった。ただ純粋に、人に触れてほしかった)
(私が? 銀の死神が?)
自分の感情が自分でも理解できなかった。
(私は戦場で、何人もの人間を殺してきた。その私が、人に触れてほしいと願う?)
(滑稽だ。あまりにも滑稽すぎる)
窓を開けた。冷たい夜風が部屋に流れ込む。その風に当たりながら庭園を見下ろした。月が雲の間から顔を出し、庭園を照らしている。
ふと、戦場で散った部下たちの顔を思い出した。
(ヴィーシャ。マテウス。エーリッヒ。ハインツ……)
脳裏に次々と、かつての部下たちの顔が浮かんでは消えていく。
(彼らは私のために戦って、死んだ)
(私の命令に従って、私の作戦を信じて、そして死んでいった)
(私は彼らを死なせた。私の判断で、私の指示で、彼らは命を落とした)
(なのに、私はこうして生きている)
胸に鋭い痛みが走った。
(私は書類の上で死んだ。歴史から消された。だが実際には、こうして生きている)
(私だけが、生き延びている)
(私だけが、この温かい部屋で、眠れない夜を過ごしている)
視界がかすんだ。
(私は、生きていていいのか)
(私が生きていることは、彼らへの裏切りではないのか)
(私は彼らの命を犠牲にして生き延びた。その私が今、人に触れてほしいと願うなんて)
(許されない)
(絶対に、許されない)
頬を一筋の涙が伝った。人前でない場所で、初めて涙をこぼした。声もなく、ただ静かに。月明かりが銀色の髪を、涙を、青白く照らしていた。
その姿を、レルゲンは見ていた。彼もまた眠れずにいた。胃の痛みが彼を眠らせなかった。胃薬を探しに一階に降りようと廊下に出た時、庭園に面した窓から、月明かりに照らされた庭園が見えた。
そしてその中に、一人の少女が立っているのが見えた。銀色の髪。小柄な体躯。ターニャだった。
彼女は庭園の中央で、月を見上げていた。レルゲンは足を止めた。
(こんな時間に、何をしている)
そして彼女の頬を一筋の光が伝っているのに気づいた。涙だった。
ターニャ・デグレチャフが泣いていた。レルゲンは自分の目を疑った。
(銀の死神が、泣いている)
息を呑んだ。
(あの、冷徹な、計算高い、感情のない少女が、涙を流している)
胸に言葉にできない感情が込み上げてきた。
(彼女は化け物なんかじゃない)
直感した。
(彼女は私と同じだ。生き残るために戦い続けている。ただそれだけの人間だ)
(彼女は国家に利用され、捨てられ、それでも生きることを諦めていない)
(その孤独は、私には想像もつかないほど深い)
心の中で、ターニャへの警戒と同情の境界が音を立てて崩れ始めた。レルゲンは何も言わずにその場を離れた。彼女の涙を見なかったことにしよう。そう思った。だがその涙の光景は、脳裏に深く焼き付いた。
翌朝。レルゲンは朝食の席でターニャと向かい合っていた。昨夜のことを気づかれないように振る舞おうとした。
「……おはよう、デグレチャフ少佐」
いつも通り、不機嫌そうに言った。
「おはようございます、大佐」
いつも通り、無表情で答える。だがレルゲンには、彼女の視線の質が昨日までとは違うように感じられた。
(彼女は、私が見ていたことに気づいているのか?)
(いや、気づいていないはずだ。私は死角から見ていた)
(だが、彼女の目は、何かを探るように私を見ている)
気づかれないように彼女から視線を外した。
「……昨夜は、よく眠れたか」
話題を変える。
「ええ、おかげさまで、ぐっすりと」
ターニャは嘘をついた。一睡もしていなかった。だがそれを彼に知られるわけにはいかなかった。
(この人は、昨夜、私が泣いているのを見た)
朝、目が覚めてすぐに悟っていた。
(彼の視線の質が変わっている。私を化け物として見る目から、私を人間として見る目に)
(それは好都合だ。私の目的は彼を依存させ監視を緩ませること。そのために彼の同情を利用することは有効な手段だ)
(だが、それと同時に、私は彼に私の弱みを見せてしまった)
心の中で舌打ちした。
(計算が狂いましたわ)
自分の失態を冷静に分析する。
(涙を見られるなど予想外だ。あの夜、私は感情を制御できなかった。あれは生存戦略上の明確な失敗だ)
(だが、過ぎたことは仕方がない。私はこの失敗を、次の一手に利用する)
青い瞳が冷たく輝いた。
その日、私邸に出入りする使用人の一人が街に出た。彼女は市場で買い物をするついでに、ある露店の店主に何気ない風を装って話しかけた。
「ねえ、知ってる? あのヴァルトシュタイン大佐のお屋敷のこと」
「ああ、例の戦犯を預かってるっていう」
「そう。その戦犯の女、実は大佐の愛人になったらしいのよ」
「なんだって!?」
「昨夜、二人が抱き合ってるのを見た人がいるの。若い大佐もなかなかやるわよねえ。あの銀の死神を手篭めにするなんて」
「そりゃあすごい話だ。あの化け物を女にしたってのか」
「そうよ。まあ、あの歳で大佐になるような男だもの。きっとそういう趣味なのよ」
使用人はそう言って市場を去った。その会話は瞬く間に広がった。市場から酒場へ。酒場から街路へ。街路から各国のスパイたちの耳へ。
銀の死神が、若き大佐の愛人になった。
その誤情報はわずか一日で、ベルンシュタット中に、そして各国の情報機関に拡散された。
その日の夕方。ターニャは自室の窓辺で外の様子を観察していた。
(監視網が動揺している)
スパイたちが噂の真偽を確認するために動き始めている。監視の配置が普段より乱れている。死角がわずかに広がっている。
(計画通りだ)
口元がかすかに緩んだ。
(あの使用人は私が仕込んだ。彼女にあの噂を流すように指示したのは私だ)
(私は昨夜の失態を逆に利用した。レルゲンとの抱擁を、スパイたちに誤情報として流させた)
(銀の死神が若き大佐の愛人になった。その噂は彼らの注意を、私の本来の目的から逸らす)
(私が監視網そのものを掌握しようとしていることに、彼らが気づくのが少しでも遅れればいい)
窓ガラスに映る自分の姿を見た。
(私は泣いた翌朝には、もう次の一手を打っている)
(それが私の生き方だ。そうでなければ、私はとっくに死んでいる)
夕食の席で、レルゲンは浮かない顔をしていた。
「……デグレチャフ少佐」
重い口調で言った。
「何でしょう、大佐」
「……君は、噂を聞いたか」
「どのような噂でしょうか」
とぼける。
「君が、私の愛人になったという噂だ」
苦々しげに言った。
「ああ、その噂でしたら、存じておりますわ」
「……君は、それを聞いて、何とも思わないのか」
「別に。事実無根の噂ですもの。気にするだけ無駄ですわ」
冷たく言い放つ。
「それに、あなたは私の評判を落としましたわね。銀の死神が、若い大佐の情婦に成り下がったと、世間は面白おかしく語るでしょう」
「……私のせいか」
「ええ。昨夜、あなたが私を抱きしめたからですわ。あれを誰かに見られていたのでしょう」
そう言ってスープを一口すする。レルゲンは頭を抱えた。
「くっ……胃が……胃が痛い……」
テーブルに突っ伏した。
(なぜ、こうなるんだ。私はただ、彼女の頼みを聞いただけだ。それがなぜ、愛人だの情婦だのという噂になる)
(私はこれから、この噂の出所を突き止めなければならない。各国のスパイたちに誤解を解かなければならない。いや、そもそも誤解を解くことなどできるのか?)
胃の痛みはさらに悪化した。
ターニャはそんな彼の様子を、冷たい青い瞳で観察していた。
(この人は噂の出所を追うでしょう。だがそれが私自身の仕込みだとは気づかない)
(気づくはずがない。私は彼に、あの使用人との繋がりを一切悟られていない)
(彼は私を、噂の被害者だと思っている。私の評判を落とした加害者だと思っている。その罪悪感が、彼の私への同情をさらに深める)
(すべては計算通りだ)
(だが、一つだけ、計算が狂っている)
自分の胸に手を当てた。
(昨夜、彼に抱きしめられた時の、あの感覚。あの温もり。あの鼓動)
(それが頭から離れない)
(これは生存戦略だ。彼を依存させるための計算だ)
(そうだ。そうに違いない)
何度も自分にそう言い聞かせた。だが彼女の心臓は、彼の顔を見るたびに、ほんの少しだけ速く脈打つのだった。
各国のスパイたちは噂の真偽を確認するために動き始めた。連合王国情報部はレルゲンの私邸への監視を強化した。東方連合特務局は噂の出所を探り始めた。西方同盟はレルゲンの身辺調査を開始した。
彼らの注意は明らかに、ターニャの監視から噂の真相解明へと移っていた。監視網に最初の緩みが生じた。それはほんのわずかな、しかし確実な変化だった。
ターニャはその緩みを静かに観察していた。
(これで、私は少しだけ自由に動ける)
(この緩みを、私は必ず利用する)
(これは私の生存戦略の、新たな一歩だ)
青い瞳が夕暮れの空を映して、冷たく、しかし力強く輝いた。
夜が来た。ターニャは自室の窓辺に立ち、月を見上げていた。昨日の夜と同じ月。だが彼女の心は昨日とは違っていた。
(私はもう、泣かない)
(涙は何も生まない。私は前に進む。たとえこの檻の中でも)
(私はいつか必ず、自分の存在を証明する)
(そのために私は、あらゆるものを利用する。監視網も、噂も、そして彼の優しさも)
窓ガラスに映る自分の姿を見た。銀色の髪。青い瞳。小柄な体。
(私は銀の死神だ。そして書類の上では、死んでいる)
(だが、私はここにいる。確かに、生きている)
自分の胸に手を当てた。心臓がドクンと脈打つ。その鼓動だけが、彼女が生きている唯一の証だった。
月が雲に隠れた。部屋が暗くなる。
ターニャ・デグレチャフは暗闇の中で、静かに、一人で立っていた。Noveliaとは?
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