白銀、死後の取引
死刑執行命令書と死亡証明書――その二枚の紙切れが、帝国最年少の魔導少佐の運命を書き換えた。
大環戦争は帝国の敗北で終わる。戦犯として絞首台を待つターニャ・デグレチャフに下されたのは、処刑ではなく「存在の消去」。鹵獲核兵器の情報と引き換えに、彼女は書類上で死に、各国情報機関の監視網の中で生き続けることを強いられる。
看守として配されたのは、若干20歳にして大佐に昇進した異才・レルゲン。戦後処理の実務を担う男と、死んだことにされた少女――二人の奇妙な関係が、瓦解していく帝国の片隅で静かに始まる。
国家に切り捨てられた少女は、絶望の底で誓う。書類の上では死んでも、自分は生き続けると。そしていつか、消された存在を証明してみせると。
雪の降る帝都を舞台に、生存と復権を懸けた冷徹な意志の物語が、今、幕を開ける。
白銀、死後の取引 - 監視網の乗っ取り───見張りは伝令に変わる
春が過ぎ、夏が来て、秋が去り、また冬が巡った。
レルゲン・フォン・ヴァルトシュタインの私邸にターニャ・デグレチャフが引き取られてから、二年が経とうとしていた。
北郊外の高級住宅地は、この二年で少しずつ表情を変えた。戦後復興の波が、静かだった街路にも新しい商店や住宅を押し上げてきている。街路樹は一回り太くなり、石畳の隙間から生える雑草も増えた。だが、私邸を取り巻く監視の目だけは、変わらずどころか、より一層厳しさを増していた。
ターニャは自室の窓辺に立ち、銀色の癖っ毛を肩に揺らしていた。透き通る青い瞳が、庭園の向こうを静かに見つめている。背筋は軍人時代と変わらず真っ直ぐだ。小柄な体から放たれる静けさは、部屋の空気を張り詰めさせた。
(監視ポイントは、二十三箇所に増えた)
頭の中の地図は、二年の歳月でより精密になっていた。
(向かいの屋敷の二階、東側の窓には常時二人。街路樹の影、露店の幌、馬車の往来。監視員の交代時刻は午前二時と午後二時。だが、最近は不規則な増員がある)
指先が無意識に、空中で小さな弧を描く。軌道計算の癖。かつて空を駆けた魔導航空兵の、身体に染みついた動作だった。
(私への監視は、もはや軟禁の域を超えている)
一年前、彼女が仕組んだ「愛人」の噂は、各国の情報機関を大いに混乱させた。監視の焦点は一時的にターニャの身辺から噂の真偽へと移り、網に緩みが生まれた。だが、その緩みも長くは続かなかった。各国は噂を単なる誤情報と断定し、むしろ警戒を強めて監視を増員したのだ。
(だが、それでいい)
ターニャは窓ガラスに映る自分を見た。
(網が複雑になればなるほど、網の目は粗くなる。監視員が増えれば、その分、彼らの情報も増える)
彼女は、監視を「受ける」側から、監視を「観察する」側へと、完全に移行していた。
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その日の午後、レルゲン・フォン・ヴァルトシュタインは一階の書斎で、一枚の紹介状を手に取った。
「連合王国情報部、見習いスパイ、エーリカ・アルヴァレツ」
彼は、その名前を声に出して読み上げ、深いため息をついた。濃い茶髪を短く整え、鋭い灰の瞳で書類を睨む。左手はいつものように胃のあたりを押さえていた。二十二歳になった彼の顔には、疲労の色がさらに濃く刻まれている。
「またか」
この二年で、何度目かの「新しい使用人」だった。各国の情報機関は、監視対象に近づくため、使用人としてスパイを送り込んでくる。これまでにも、東方連合特務局の者、西方同盟の者、アメリカの者が、次々と私邸の門を叩いた。そのたびに、レルゲンは彼らを監視し、牽制し、時には穏便に追い返してきた。
胃が、ズキリと痛んだ。
「入りたまえ」
書斎の扉が開き、一人の少女が入ってきた。
栗色のゆるいウェーブをサイドで結んだ髪。明るい琥珀色の瞳が、部屋の中を興味深そうにきょろきょろと動いている。そばかすの散った鼻。左手首には、小さな魔導通信器が巻かれていた。年は十七、八歳といったところか。
「はじめまして!あたし、エーリカ・アルヴァレツって言います!本日から、こちらのお屋敷でメイドとして働かせていただくことになりました!」
彼女は、元気よく自己紹介をした。声は弾み、姿勢も良い。だが、レルゲンは、その瞳の奥に、新人スパイ特有の緊張と、任務への過剰な意気込みを見て取った。
(分かりやすすぎる)
彼は内心で苦笑した。これまでのスパイたちは、もっと自然に使用人を装っていた。この少女は、まるで「私はスパイです」と看板を掲げているようなものだ。
「ああ、よろしく頼む。私は、この家の主、レルゲン・フォン・ヴァルトシュタインだ」
「はい!レルゲン大佐ですね!お噂はかねがね!お若いのに、戦後処理の責任者をされてるって、すごいです!」
「……ああ、そうだな」
彼は、彼女のあからさまな世辞を聞き流し、書類に視線を落とした。
(この少女も、いずれは何か仕掛けてくる。それまで泳がせて、背後関係を探る)
それが、これまでの彼のやり方だった。
「仕事の内容は、使用人頭から説明がある。君の部屋も用意してある。何かあれば、使用人頭に言いなさい」
「はい!ありがとうございます!」
エーリカは、ぺこりと頭を下げた。その仕草は、どこか子犬を思わせる愛嬌があった。
(だが、油断はできない)
レルゲンは、自分に言い聞かせるように、胃のあたりを押さえた。
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エーリカが私邸にやってきてから、三日が過ぎた。
ターニャは、初対面の挨拶の時点で、彼女の正体を見抜いていた。
(あの靴の泥の付き方。私邸の敷地内は、庭園の土と、玄関前の砂利と、勝手口の石畳とで、泥の色が微妙に違う。あの少女の靴の裏に付いていたのは、裏門の外、街路樹の根元にだけある、赤黒い粘土質の土だった)
ターニャは、エーリカが「メイド」として紹介されたその瞬間、彼女が裏門から侵入し、庭園の植え込みの裏で、この屋敷の間取りを確認していたことを見抜いた。
(それに、あの所作。お辞儀の角度、手の位置、歩き方。すべてが、短期間の詰め込み教育で叩き込まれたものだ。自然な使用人の動きではない)
彼女は、エーリカの正体を、あえて誰にも告げなかった。
(利用できる)
ターニャは、エーリカの明るくお転婆な性格と、その裏にある素直さを、初対面で見抜いていた。
(あのタイプは、学習能力が高い。そして、自分が情報を引き出されていることに、気づきにくい)
彼女は、エーリカを「監視網の駒」として利用することを、その場で決めた。
長年、監視される側だったターニャが、初めて監視者を観察・評価する側に立った瞬間だった。
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「ターニャさん、お部屋の掃除に参りました!」
ある日の午後、エーリカは、明るい声でターニャの部屋を訪れた。手には、モップと雑巾と、小さなバケツを持っている。
「ええ、どうぞ」
ターニャは、窓辺に立ったまま、振り返らずに答えた。
エーリカは、部屋に入ると、まず窓を開け、空気を入れ替えた。それから、手際よく掃除を始める。その動きは、三日目にしては、なかなか様になっていた。
(学習能力が高い。予想通りだ)
ターニャは、窓ガラス越しに、エーリカの動きを観察していた。
「わあ、この部屋、すごく見晴らしがいいんですね!庭園が一望できて、気持ちいいです!」
エーリカは、窓から身を乗り出すようにして、庭園を見渡した。
「ええ。私のお気に入りの場所ですわ」
「ターニャさんは、いつもここから外を見てるんですか?」
「ええ、まあ。退屈しのぎですわ」
「退屈……そうなんですね。あの、ターニャさんって、本当に元軍人なんですか?あの、銀の死神って呼ばれてた……」
エーリカは、恐る恐る、といった様子で尋ねた。その琥珀色の瞳は、好奇心でキラキラと輝いている。
(任務を忘れているな)
ターニャは、内心でそう思った。
(この少女は、私を監視するために来た。だが、今の彼女の頭の中は、監視対象への興味でいっぱいだ)
「ええ、昔の話ですわ」
ターニャは、静かに答えた。
「すごい!本当にすごい!あたし、戦場の話、聞いてみたいです!ターニャさんが、どんな風に空を飛んで、どんな風に戦ったのか!」
エーリカは、掃除の手を止めて、身を乗り出してきた。
(素直だ。そして、無防備だ)
ターニャは、エーリカの反応を、冷徹に分析していた。
(この少女は、私に興味を持っている。それは、任務のためではなく、純粋な好奇心からだ。そして、その好奇心は、私が情報を引き出すための、格好の入り口になる)
「そうね……話してもいいですわ。ただし、掃除をしながら聞きなさい」
「はい!もちろんです!掃除、頑張ります!」
エーリカは、再びモップを手に取り、掃除を再開した。だが、その耳は、ターニャの言葉を一言も聞き漏らすまいと、ピンと立っている。
ターニャは、そんな彼女の様子を、窓ガラス越しに観察しながら、静かに語り始めた。
「魔導航空兵というのは、個人の魔力と体力を消費して、空を飛ぶ兵科ですわ。飛行魔法の連続使用時間は、訓練次第で数時間から十数時間。私は、最長で十六時間、連続飛行したことがありますの」
「じゅ、十六時間!?そんなに飛べるんですか!?」
「ええ。魔導工学の進歩と、私の魔力の質が、それを可能にしましたわ。もっとも、着陸した時は、立っていられないほど疲労困憊でしたけど」
「すごい……想像もつかないです……」
エーリカは、うっとりとした表情で、ターニャの話に聞き入っていた。
(この反応は、本物だ)
ターニャは、そう確信した。
(彼女は、私の話を、心から面白いと思っている。そして、その感情が、彼女の警戒心を溶かしている)
「あなたは、連合王国の出身ですの?」
ターニャは、さりげなく話題を変えた。
「え?あ、はい!そうなんです!よく分かりましたね!」
「言葉の訛りで分かりますわ。連合王国の南部、港町の出身ではなくて?」
「ええっ!?すごい!当たりです!あたし、アルテンブルクの生まれなんです!」
エーリカは、目を丸くして驚いた。
(アルテンブルク。旧帝国軍港。現在は民間港。退役軍人が多く住む街)
ターニャは、頭の中の地図を広げた。
(連合王国情報部が、あの街からスパイをリクルートするのは、軍港時代の地縁と、退役軍人のネットワークを利用するためか)
「アルテンブルクは、海産物が美味しいと聞きますわ。特に、牡蠣が」
「そうです!アルテンブルクの牡蠣は、大陸一ですよ!あたし、小さい頃、よく港で獲れたての牡蠣を食べてました!あの味は、忘れられないです!」
エーリカは、故郷の話になると、さらに表情を輝かせた。
(彼女の故郷への愛着は、本物だ。そして、故郷の話になると、口が軽くなる)
ターニャは、その隙を逃さなかった。
「そういえば、連合王国の情報部は、あの街に、連絡所を持っていると聞いたことがありますわ。港の近くの、古い倉庫街に」
「え?あ、はい……あれ?ターニャさん、よくご存じですね?」
エーリカは、一瞬、不思議そうな顔をした。
(今の一瞬の反応。彼女は、連絡所の場所を知っている。そして、私がそれを知っていることに、軽い驚きを覚えた)
(つまり、連合王国情報部のアルテンブルク連絡所は、私の予想通りの場所にある)
ターニャは、その情報を、静かに記録した。
「昔、軍で、そういう情報を見たことがありますの。大したことではありませんわ」
ターニャは、さらりと流した。
「そうなんですね!さすが元軍人さんは、情報通ですね!」
エーリカは、あっけらかんと笑った。
(彼女は、私が情報を引き出していることに、全く気づいていない)
ターニャは、その無邪気な笑顔を、冷たい青い瞳で見つめた。
(この少女は、私にとって、理想的な駒だ。素直で、学習能力が高く、そして、自分が利用されていることに、最後まで気づかない)
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それから、エーリカは、掃除の合間を見つけては、ターニャの部屋に来て、話をするようになった。
話題は、戦場の話、魔導工学の話、故郷の話、最近の流行の話……多岐に渡った。
ターニャは、エーリカの質問に、時には丁寧に答え、時にははぐらかし、時には逆に質問を返した。
(彼女の話から、連合王国の情報網の配置が、少しずつ見えてくる)
(連絡手段は、主に魔導通信。暗号は、単純な換字式。連絡員の交代は、週に一度。監視報告書の提出先は、ベルンシュタットの連合王国大使館)
ターニャは、エーリカとの会話から、それらの情報を、正確に、そして自然に、聞き出していった。
エーリカは、自分が情報を引き出されていることに、全く気づいていなかった。
むしろ、彼女は、ターニャのことを「話しやすい人」だと感じていた。
「ターニャさんって、本当に物知りなんですね!あたし、ターニャさんと話してると、すごく勉強になります!」
「そう?ありがとう。私も、あなたと話すのは、楽しいですわ」
ターニャは、そう言って、薄く微笑んだ。
(この笑顔も、計算のうちだ)
彼女は、心の中で、そう呟いた。
(だが、不思議と、嘘をついている気分ではない)
エーリカの無邪気な笑顔を見ていると、ターニャの胸の奥に、ほんの少しだけ、温かいものが灯るのを感じた。
(これは、生存戦略だ。彼女を利用するための、計算だ)
彼女は、自分にそう言い聞かせた。
(だが、この温かさは、計算では説明できない)
ターニャは、その感覚を、頭の隅に追いやった。
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エーリカが私邸に来てから、二週間が過ぎた頃。
ターニャは、レルゲンの書斎を訪れ、一枚のメモを手渡した。
「大佐。これ、エーリカというメイドに、渡していただけますかしら」
レルゲンは、メモを受け取り、眉をひそめた。
「なんだ、これは」
「買い物のリストですわ。彼女に、街で買ってきてもらいたい物が、いくつかありますの」
「買い物?君が、自分で行けばいいだろう」
「私は、軟禁の身ですわ。大佐、お忘れですか?」
ターニャは、冷めた口調で言った。
「……そうだったな」
レルゲンは、苦い顔をした。
「それで、何を買わせるんだ」
「大したものではありませんわ。本と、紅茶と、あと、庭園に植える花の種ですわ」
「……分かった。渡しておこう」
レルゲンは、メモを机の上に置いた。
「ありがとうございますわ」
ターニャは、軽く会釈して、書斎を出て行った。
レルゲンは、一人残され、メモをじっと見つめた。
(本と、紅茶と、花の種……か)
彼は、メモに書かれた品目を、目で追った。
(どれも、本当に彼女が欲しがりそうなものだ。怪しいところはない)
だが、彼の胃は、ズキリと痛んだ。
(何か、裏がある気がする)
レルゲンは、メモを手に取り、もう一度、じっくりと読んだ。
(いや、考えすぎだ。彼女は、ただ、退屈を紛らわせたいだけかもしれない)
彼は、メモをポケットにしまい、深いため息をついた。
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その日の午後、エーリカは、ターニャから渡された買い物リストを手に、私邸の門を出た。
「本と、紅茶と、花の種……っと。ええと、本屋さんは、確か、中央通りをまっすぐ行ったところにあったはず」
彼女は、リストを確認しながら、街へと向かった。
その後ろ姿を、ターニャは、自室の窓から見つめていた。
(彼女は、私の伝令になる)
(あのリストには、連合王国情報部の暗号で、「銀の死神が、近く、大規模な情報取引に動く」という偽情報が、さりげなく織り込まれている)
(エーリカは、あのリストを、買い物のついでに、連合王国の連絡員に渡すだろう。いや、渡さざるを得ない。あのリストは、連絡員の目に触れるよう、巧妙に仕組まれている)
(連合王国は、この偽情報を、他の国の情報機関に流すだろう。各国は、銀の死神の動きを警戒し、監視員を、その「情報取引」の現場へと集中させる)
(そうすれば、私邸周辺の監視に、空白が生まれる)
ターニャは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
(私は、見張られる側から、盤面を動かす側へと、変わった)
その青い瞳には、冷たい光が宿っていた。
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偽情報は、ターニャの狙い通りに、各国の情報機関を駆け巡った。
「銀の死神が、近く、大規模な情報取引に動く」
その噂は、瞬く間に、ベルンシュタット中のスパイたちの耳に入った。
各国は、その情報の真偽を確認するため、監視員を動かした。
私邸周辺の監視ポイントから、次々と監視員が引き抜かれ、噂の現場へと向かっていく。
ターニャは、その動きを、自室の窓から、静かに観察していた。
(東側の窓の二人が、一人になった。街路樹の影の監視員が、移動した。露店の幌の下の監視員が、姿を消した)
(監視の空白が、生まれている)
彼女は、その空白の時間帯を、正確に記録した。
(この時間帯なら、私邸の北西の塀沿いから、外部と接触できる)
ターニャは、次の手を考え始めた。
(エーリカを介して、別の監視員にも接触する。見張りに来た者たちを、逆に、私への伝令として使う)
(彼らは、私の情報を、各国に流す。だが、その情報は、すべて、私が流したい情報だ)
(私は、彼らを、私の伝令網の一部にする)
ターニャは、小さく息を吐いた。
(私は、利用される側から、利用する側へと、完全に転じた)
その自覚は、冷たく、しかし、確かな手応えとして、彼女の胸に広がった。
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数日後、レルゲンは、エーリカの異常な頻繁な出入りに気づいた。
彼は、書斎の窓から、エーリカが、私邸の門を出て行くのを見た。
(また、あのメイドだ)
彼は、眉をひそめた。
(最近、あのメイドは、やけに頻繁に、街に出かけている。しかも、そのたびに、ターニャから、何か買い物を頼まれているようだ)
(それに、監視員たちの動きも、おかしい)
レルゲンは、監視報告書を手に取った。
(ここ数日、私邸周辺の監視ポイントの人員が、明らかに減っている。何か、別の場所に、監視の重点が移っている)
(これは、ターニャの仕業だ)
彼は、直感的に、そう確信した。
(彼女は、何かを企んでいる。そして、あのメイドを、その計画に利用している)
レルゲンは、胃を押さえながら、ターニャの部屋へと向かった。
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「デグレチャフ少佐。話がある」
レルゲンは、ターニャの部屋の扉をノックし、声をかけた。
「どうぞ」
中から、静かな声が返ってきた。
レルゲンは、扉を開け、部屋に入った。
ターニャは、いつものように、窓辺に立っていた。
「君は、何を企んでいる」
レルゲンは、単刀直入に切り出した。
「何のことですの?」
ターニャは、振り返らずに、静かに答えた。
「とぼけるな。あのメイド、エーリカ・アルヴァレツだ。彼女は、連合王国のスパイだ。君は、彼女を利用して、何かをしている」
「あら、ご存じでしたの。さすがですわ、大佐」
ターニャは、ようやく振り返った。その青い瞳は、レルゲンを真っ直ぐに見つめている。
「彼女に、何をさせている」
「買い物ですわ。あなたもご存じでしょう?」
「買い物だけのはずがない。監視員たちの動きが、ここ数日、明らかにおかしい。君が、何か情報を流したんだな」
「さあ、どうかしら」
ターニャは、含み笑いを浮かべた。
「……君は、私の監視の目を、緩ませたのか」
レルゲンは、低い声で尋ねた。
ターニャは、一瞬、沈黙した。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「あなたの監視の目を、緩ませたのは、私ですわ」
彼女は、はっきりと、そう告げた。
「……なに?」
「あなたは、私を、危険視している。それは、正しい判断ですわ。ですが、あなたは、私を、監視しすぎている。あなたの監視は、私の行動を制限する。それは、私にとって、非効率ですの」
「だから、私の注意を、他へ向けさせたというのか」
「ええ。その通りですわ」
ターニャは、静かに頷いた。
「……君は、私を、利用しているのか」
レルゲンは、胃を押さえながら、苦しそうに言った。
「利用?いいえ、これは、協力ですわ」
ターニャは、首を傾げた。
「あなたは、私の監視者です。私は、あなたの監視の目を、緩めさせた。それは、あなたが、私を、より深く理解するための、第一歩ですわ」
「……何を言っている」
「あなたは、私を、危険視しながらも、私に、惹かれている。違いますか?」
ターニャは、レルゲンの目を、じっと見つめた。
レルゲンは、言葉に詰まった。
(図星だ)
彼は、ターニャの青い瞳から、目を逸らすことができなかった。
(私は、彼女を、危険視している。だが、同時に、彼女の孤独と才覚に、共感し、同情し、そして、惹かれている)
(その感情を、彼女は、見抜いている)
「あなたは、私を、監視しているようで、実は、私に、監視されている。あなたは、私の網の一部に、組み込まれつつある。そのことに、あなたは、気づいていない。いえ、気づきたくないのでしょうね」
ターニャは、静かに、しかし、確信に満ちた口調で言った。
レルゲンは、彼女の言葉に、抗議しようとした。
だが、声が出なかった。
(彼女の言う通りだ)
彼は、心の中で、そう認めざるを得なかった。
(私は、彼女を問い詰めれば問い詰めるほど、彼女のペースに、巻き込まれている)
(私は、彼女の網に、絡め取られつつある)
「……胃が、痛い」
レルゲンは、力なく、そう呟いた。
ターニャは、そんな彼の様子を、冷たい青い瞳で、静かに見つめていた。
(この人は、私を、危険視している。だが、同時に、私から、逃れられない)
(その葛藤が、この人の胃を、痛めつけている)
(私は、この人の、その苦しみを、利用している)
(だが、不思議と、罪悪感は、ない)
(これは、私の生存戦略だ。この人の苦しみも、私の駒の一つだ)
ターニャは、自分に、そう言い聞かせた。
だが、彼女の胸の奥に、レルゲンの苦しみを見て、チクリと痛む何かがあった。
(これは、何だ?)
彼女は、その感覚を、無視した。
---
その夜、ターニャは、自室の窓辺に立ち、月を見上げていた。
(私は、エーリカを、私の伝令網の最初の駒にした)
(彼女は、今、私の偽情報を、連合王国に流している)
(各国の監視員は、私の偽情報に、踊らされている)
(私は、彼らを、私の伝令網の一部に、作り替えつつある)
(そして、レルゲン大佐も、私の網に、組み込まれつつある)
(すべては、私の計画通りだ)
ターニャは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
銀色の髪。青い瞳。小柄な体。
(私は、銀の死神だ。そして、書類の上では、死んでいる)
(だが、私は、ここにいる。確かに、生きている)
(そして、私は、私の存在を証明するために、動き始めた)
彼女は、月を見上げた。
月は、雲に隠れることなく、静かに、冷たい光を放っていた。
(この光は、誰の目にも、平等に、届く)
(いつか、私の存在も、この光のように、世界中に、知れ渡るだろう)
(その日まで、私は、この檻の中で、生き延びる)
ターニャ・デグレチャフは、静かに、そう誓った。
彼女の青い瞳が、月明かりを反射して、冷たく、しかし力強く輝いた。
その瞳の奥に、ほんの少しだけ、エーリカの無邪気な笑顔と、レルゲンの苦しげな顔が、浮かんでいた。Noveliaとは?
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