白銀、死後の取引
死刑執行命令書と死亡証明書――その二枚の紙切れが、帝国最年少の魔導少佐の運命を書き換えた。
大環戦争は帝国の敗北で終わる。戦犯として絞首台を待つターニャ・デグレチャフに下されたのは、処刑ではなく「存在の消去」。鹵獲核兵器の情報と引き換えに、彼女は書類上で死に、各国情報機関の監視網の中で生き続けることを強いられる。
看守として配されたのは、若干20歳にして大佐に昇進した異才・レルゲン。戦後処理の実務を担う男と、死んだことにされた少女――二人の奇妙な関係が、瓦解していく帝国の片隅で静かに始まる。
国家に切り捨てられた少女は、絶望の底で誓う。書類の上では死んでも、自分は生き続けると。そしていつか、消された存在を証明してみせると。
雪の降る帝都を舞台に、生存と復権を懸けた冷徹な意志の物語が、今、幕を開ける。
白銀、死後の取引 - 書類の外の生───死神が名を捨てて、それでも選ぶ朝
春の気配が、ようやく庭園の土を緩ませ始めた頃だった。
レルゲン・フォン・ヴァルトシュタインの私邸を取り巻く監視の目は、ここ数年で少しずつ数を減らしていた。大国の思惑が一段落したのだ。かつては二十三箇所あった監視ポイントも、今では片手で数えるほどになっている。それでも、彼女が書類の上で死んでいるという事実は、何ひとつ変わらなかった。
ターニャ・デグレチャフは、庭園の隅にある古い木製のベンチに腰掛けていた。銀色の癖っ毛が、まだ冷たさの残る風に揺れている。透き通る青い瞳は、芽吹き始めた木々の向こう、遠くの空を見つめていた。背筋は軍人時代と変わらず真っ直ぐだ。小柄な体から放たれる静けさは、周囲の空気を張り詰めさせた。
指先で、膝の上に置いた本の角をなぞる。この私邸に引き取られてから、五年。監視の檻の中で、彼女は何もせずに過ごしてきたわけではない。見張りに来たスパイたちを、いつの間にか自分の伝令網に作り替えていた。偽情報を流し、大国を翻弄し、自分の存在を消した世界に対して、静かに、しかし確実に楔を打ち込んできた。
頭の中に、これまで自分が仕掛けた策の数々が浮かんでは消える。エーリカ・アルヴァレツという連合王国の見習いスパイを最初の駒にしたこと。彼女を通じて流した偽情報で、各国の監視網を混乱させたこと。そして、その網の目を縫って、かつての部下たちとの細い繋がりを取り戻しつつあること。
彼女の視線が、庭園の入り口に立つ一人の男の姿を捉えた。
レルゲン・フォン・ヴァルトシュタイン。濃い茶髪を短く整え、鋭い灰の瞳をこちらに向けている。相変わらず左手で胃のあたりを押さえる癖は治っていないようだった。二十五歳になった彼の顔には、若さゆえの青さはもうなく、代わりに戦後処理の重責が刻み込んだ深い疲労の色があった。
「ここにいたのか」
彼は、ターニャの隣に立った。ベンチに座る彼女を見下ろす形になる。
「ええ。部屋にいるより、外の空気の方がまだましですわ」
ターニャは、レルゲンの方を見ずに答えた。その声は、相変わらず感情の起伏を感じさせない、棒読みに近いものだった。
レルゲンは、彼女の隣に腰を下ろした。ベンチが、二人の重みでわずかに軋む。
沈黙が、庭園を満たした。風が、木々の葉を揺らす音だけが聞こえる。
レルゲンは、心の中でそう呟いた。ターニャと二人きりでいると、決まってこの沈黙が訪れる。彼女は自分から話しかけてこない。彼も、何を話せばいいのか分からない。監視者と被監視者。保護者と被保護者。そのどちらでもない、曖昧な関係が、二人の間にずっと横たわっていた。
「……なあ」
先に口を開いたのは、レルゲンの方だった。
「何か、話したいことでもあるのか」
彼は、ターニャの横顔を見つめた。銀色の髪が、風に揺れて、彼女の白い頬にかかる。その青い瞳は、相変わらず遠くの空を見つめたままだ。
ターニャは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「あなたに、話しておかなければならないことがありますの」
彼女の声は、いつもより少しだけ、低かった。
レルゲンは、彼女の言葉を待った。胃が、ズキリと痛む。
「私が、あなたに抱きしめてほしいと頼んだこと。あれは、生存戦略でした」
ターニャは、淡々とした口調で言った。
「あなたの同情を引き、あなたを私に依存させるための計算でした。噂を流したのも、私です。あなたの評判を落とすことで、監視網に緩みを作るためでした」
彼女の言葉は、レルゲンの胸に、冷たい刃のように突き刺さった。
彼は、心の中でそう思った。薄々、気づいていた。彼女が、ただの少女ではないこと。彼女の一挙手一投足が、すべて計算によって動かされていること。あの夜の抱擁も、翌日に広まった噂も、すべて彼女の掌の上で転がされていたこと。
だが、彼は、それでも彼女を、見捨てることができなかった。
「……知っている」
レルゲンは、静かに言った。
ターニャの肩が、ほんの少しだけ、震えた。
「……知っていて、なぜ」
彼女は、初めてレルゲンの方を向いた。青い瞳が、彼の灰の瞳をまっすぐに見つめる。そこには、彼女にしては珍しく、動揺の色があった。
「俺も、君を危険視しながら、守っていた。それだけの話だ」
レルゲンは、彼女の視線から逃げずに言った。
「君が何を企んでいようと、俺のやることは変わらない。君を、ここで、生かしておくことだ。それが、俺に与えられた任務だ」
「任務、ですの」
ターニャは、小さく呟いた。
「私は、あなたにとって、任務の対象でしかないのですね」
彼女の声に、ほんのわずかだが、失望の色が混じった。
レルゲンは、心の中で叫んだ。任務だから、じゃない。俺は、君を守りたいと思ったから、守っているんだ。
だが、その言葉を口にすることはできなかった。彼は、感情を表に出すのが苦手な男だった。心配すればするほど、口が悪くなる。そんな不器用な自分を、彼は誰よりもよく知っていた。
沈黙が、また二人の間に落ちた。
風が、強く吹いた。木々がざわめき、落ち葉が舞い上がる。
レルゲンは、無意識に、ターニャの手に触れようとした。彼女の指先が、あまりにも冷たそうに見えたからだ。
彼の指が、彼女の指に触れた。
ターニャは、その手を振りほどかなかった。
冷たい指先。だが、その奥に、確かに彼女の体温があった。
「……冷たいな」
彼は、彼女の手を、自分の両手で包み込んだ。
「あなたの手は、温かいですわね」
ターニャは、彼の手の温もりを感じながら、静かに言った。
「私は、あなたのこの温もりを、利用していただけなのかもしれない」
彼女の声は、震えていた。
「計算ではなかったのかもしれない。あなたに触れてほしいと思ったのは、本当は、ただ……寂しかったからなのかもしれない」
彼女は、自分でも気づいていなかった本音を、初めて口にした。
レルゲンは、彼女の手を握る力を、ほんの少し強くした。
「それでもいい」
彼は、静かに言った。
「利用でも、計算でも、寂しさでも、なんだっていい。俺は、君の傍にいる」
ターニャの青い瞳が、揺れた。
彼女は、レルゲンの手を、初めて自分の方から握り返した。
「……計算が、狂いましたわ」
彼女は、小さく呟いた。
「あなたは、私が思っていたよりも、ずっと……愚かで、不器用で、そして、優しい人でした」
彼女の声は、涙で濡れていた。
レルゲンは、彼女を抱き寄せた。
ターニャは、彼の胸に顔を埋めた。彼の心臓の音が、彼女の耳に届く。規則正しい、力強い鼓動。それが、彼女の凍りついていた心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。
「私は、あなたを利用していると、そう思っていました。そうでなければ、私は、あなたの傍にいる資格がないと思っていました」
彼女は、涙声で言った。
「でも、違った。私は、ただ、あなたの傍にいたかった。あなたの温もりに、触れていたかった。それだけだったのに、私は、それを認めるのが怖かった」
彼女の涙が、レルゲンの軍服を濡らした。
レルゲンは、彼女の背中を、優しく抱きしめた。
「もう、いい」
彼は、彼女の耳元で囁いた。
「もう、無理に強がらなくていい。俺の前では、素の君でいてくれ」
ターニャは、彼の胸の中で、声を殺して泣いた。
八年分の孤独と、恐怖と、絶望が、涙となって溢れ出した。
レルゲンは、彼女を抱きしめながら、空を見上げた。
春の空は、どこまでも高く、青く澄んでいた。
この空の下で、彼女は、ずっと一人で戦ってきたんだな、と彼は思った。俺は、この少女を、守りたい。任務だからじゃない。俺の、この心が、そう望んでいるんだ。
彼は、初めて、自分の感情に正直になれた気がした。
---
その日の午後、私邸に、一人の来客があった。
ゼートゥーア・フォン・シュタウフェンベルク。白髪混じりの髪を後ろに流し、細い銀縁眼鏡の奥の理知的な光を光らせた、老練な策謀家。かつてターニャを核の取引材料として生かし、そして書類の上から消し去った張本人だった。
彼は、応接間のソファに深く腰掛け、手にしたパイプから細く煙を立ち上らせていた。
「久しぶりだね、デグレチャフ少佐」
彼は、ターニャを見ると、含みのある笑みを浮かべた。
「中将。あなたがここに来るのは、何か良からぬ知らせでも持ってきた時と決まっていますわ」
ターニャは、彼の向かいに座りながら、冷たく言った。
「良からぬ、か。そうかもしれないね」
ゼートゥーアは、パイプの煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「私が、国際法廷に出ることにした」
彼の言葉に、その場にいたレルゲンが、目を見開いた。
「何ですって? あなたが、自ら裁かれると?」
「そうだ。鹵獲核兵器の取引に関わった責任は、私にある。私が自ら出頭することで、国際社会の注目を、私一人に集める。そうすれば、君たちへの追及も、いくらかは緩むだろう」
彼は、平然とした口調で言った。
「あなたが、そのような殊勝なことをするとは、意外ですわ」
ターニャは、彼の真意を探るように、彼の瞳を見つめた。
「殊勝、か。そう見えるかね」
ゼートゥーアは、自嘲するように笑った。
「私は、君を捨て駒にした。その罪から逃げるつもりはない。君と同じ裁きの場に立つことで、せめてもの贖罪にしたいと思っている」
「贖罪、ですの」
ターニャは、彼の言葉を反芻するように呟いた。
「あなたのその自己満足に、私は付き合わされるのですね」
彼女の声は、冷たかった。
「自己満足で結構。私は、私の信じる道を行くだけだ」
ゼートゥーアは、彼女の冷たい視線を受け止めながら、静かに言った。
「君は、私を恨んでいるかね?」
ターニャは、少し考えてから、答えた。
「恨んでいませんわ。あなたのしたことは、国家として合理的な判断でした。私があなたの立場でも、同じことをしたでしょう」
彼女の言葉は、本心だった。
「ただ、私は、あなたに利用されたことを、忘れません。そして、私は、あなたを利用して、ここまで生き延びてきました。お互い様ですわ」
ゼートゥーアは、彼女の言葉を聞いて、満足そうに笑った。
「面白い。君は、私が思っていた以上に、危険な存在に成長したようだ」
彼は、パイプの火を消し、立ち上がった。
「君は、私を超えた。利用する側に、完全に回った。それは、私の目に狂いがなかった証拠だ」
彼は、ターニャに背を向け、部屋を出ようとした。
「中将」
ターニャが、彼を呼び止めた。
「あなたが裁かれる時、私は、法廷に立ちませんわ。私は、書類の上では死んでいる身ですから」
彼女の言葉に、ゼートゥーアは、振り返らずに答えた。
「ああ、それでいい。君は、書類の外で、生き延びろ」
彼は、そう言い残し、部屋を出て行った。
レルゲンは、彼の後ろ姿を見送りながら、複雑な表情を浮かべていた。
「……彼は、君に何を伝えたかったんだろうな」
彼は、ターニャに尋ねた。
「さあ。老練な策謀家の考えることは、私には分かりませんわ」
ターニャは、そう言って、窓の外を見た。
彼は、私に、生きろと言った。私を消した男が、私に、生きろと。
彼女の胸に、言葉にできない感情が渦巻いた。
---
数日後。
ターニャは、自室で、一通の手紙をしたためていた。
それは、彼女が各国のスパイ網を乗っ取って作り上げた伝令網を使い、かつての部下たちに送るための手紙だった。
私が、書類の外で生きることを選んだ。そのことを、彼らに伝えなければならない。
彼女は、万年筆を手に取り、便箋に文字を綴っていく。
『私、ターニャ・デグレチャフは、書類の上では死亡した身である。しかし、私は、生きている。そして、私は、これからも、生きていく。書類の外で、私の人生を、私の意志で、歩んでいく。』
彼女は、その手紙を、エーリカ・アルヴァレツに託した。
「エーリカ。これを、いつものように、頼みますわ」
「はい! 任せてください、ターニャさん!」
エーリカは、栗色のウェーブを揺らしながら、元気よく返事をした。彼女は、ターニャの伝令網の最初の駒として、今ではすっかり有能な連絡係になっていた。
「でも、ターニャさん、本当にいいんですか? 結婚なんて、そんな……あたし、びっくりしちゃいました」
彼女は、少し心配そうな顔で言った。
「ええ。私が決めたことですわ」
ターニャは、静かに答えた。
「そっか……。うん、ターニャさんが決めたなら、あたしは応援します! それに、レルゲン大佐とターニャさん、お似合いだと思います!」
彼女は、明るい笑顔で言った。
ターニャは、彼女の笑顔を見て、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「あなたは、相変わらずおめでたい頭をしていますわね」
「えへへ、それ、褒め言葉として受け取っておきます!」
エーリカは、笑いながら部屋を出て行った。
ターニャは、彼女の後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
これで、準備は整った。後は、彼らの反応を待つだけだ。
彼女は、窓の外を見た。
春の陽射しが、庭園を明るく照らしていた。
---
その翌日。
私邸の門の外に、十数人の男たちが集まっていた。
彼らは、かつてターニャの指揮下で戦った、魔導航空兵の生き残りたちだった。帝国の崩壊後、彼らはそれぞれの道を歩んでいたが、ターニャの伝令網を通じて、彼女が生きていること、そして、結婚することを知らされた。
彼らは、私邸の門の前に立ち、沈黙していた。
本当に、少佐は生きておられるのか。書類の上では、死んだことになっているはずだ。結婚、だと?
彼らの心の中は、困惑と動揺で満ちていた。
やがて、私邸の門が開き、ターニャが姿を現した。
銀色の髪。青い瞳。小柄な体。
かつて彼らが「銀の死神」と呼び、畏怖した、そのままの姿だった。
「少佐……!」
一人の男が、声を漏らした。
他の者たちも、彼女の姿を見て、息を呑んだ。
「久しぶりですわね。皆さん、お元気そうで何よりです」
ターニャは、彼らの顔を一人ずつ見渡しながら、静かに言った。
彼女の視線は、かつての部下たちの顔を、ゆっくりと、しかし確実に捉えていった。あの時の、あの顔だ。戦場で、私たちを導いてくれた、あの時の。
彼らは、彼女の視線を受けて、背筋を伸ばした。
「少佐、我々は……あなたが生きておられたことを、信じられない思いです」
別の男が、震える声で言った。
「書類の上では、あなたは戦犯として処刑されたはずでした。我々は、あなたの死を、受け入れていました」
「ええ。私は、国家に殺されました。書類の上では、ね」
ターニャは、淡々とした口調で言った。
「ですが、私は、こうして生きています。あなたたちの目の前に立っています」
彼女は、彼らの視線を、真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、あなたたちが知っている、銀の死神です。国家が消した名前などではなく、あなたたちが覚えている、私という存在です」
彼女の言葉に、部下たちは、目頭を熱くした。
ああ、そうだ。この方は、私たちの少佐だ。国家がどう扱おうと、私たちにとっては、尊敬すべき上官だ。
彼らは、ターニャの前に、静かに片膝をついた。
「少佐。我々は、あなたのご意志に従います」
代表して、一人の男が言った。
「あなたが、書類の外で生きることを選んだのなら、我々は、それを支持します。あなたが、新しい人生を歩むのなら、我々は、それを祝福します」
彼の言葉に、他の者たちも、深く頷いた。
ターニャは、彼らの姿を見下ろしながら、静かに言った。
「……ありがとう」
彼女の声は、ほんの少しだけ、震えていた。
私は、国家に消された。だが、彼らの目の中に、私は確かに存在している。それだけで、私は、まだ戦える。
彼女は、青い瞳に、力強い光を宿らせた。
---
それから、さらに数日が過ぎた。
ターニャとレルゲンは、私邸の書斎で、一枚の書類を前に向かい合っていた。
それは、二人がこれから歩む道を決めるための、新しい身分証明書だった。
「……本当に、これでいいのか?」
レルゲンは、書類を見つめながら、重い口を開いた。
「俺は、軍籍を捨てる。大佐の地位も、すべて投げ打つ。そうなれば、俺は、ただの男だ。何の力もない、ただの、レルゲンだ」
「ええ。それで結構ですわ」
ターニャは、彼の隣に座りながら、静かに言った。
「私は、あなたの地位や権力に興味はありません。私が傍にいたいのは、あなたという人間です」
彼女の言葉に、レルゲンは、胃を押さえた。
「……胃が、痛い」
彼は、力なく呟いた。
「あなたは、幸せになると、胃が痛くなる体質のようですわね」
ターニャは、彼の顔を見て、小さく笑った。
「……笑ったな、君が」
レルゲンは、彼女の笑顔を初めて見て、目を丸くした。
「私だって、笑うことくらいありますわ」
彼女は、少し恥ずかしそうに、視線を逸らした。
「……可愛いな」
レルゲンは、思わず本音を漏らした。
「……は?」
ターニャは、彼の言葉に、顔を赤らめた。
「あなた、今、何とおっしゃいました?」
「いや、何でもない」
レルゲンは、慌てて視線を逸らした。
二人の間に、気まずい沈黙が流れた。
今、可愛いと言ったのか? 俺は。確かに、今の彼女は、普段の冷たい雰囲気が消えて、年相応の少女のように見えた。いや、だが、彼女は銀の死神だぞ。可愛いなどと、不謹慎な。
レルゲンは、頭の中で自問自答を繰り返した。
「……新しい名前、決まりましたの?」
ターニャは、話題を変えるように言った。
「ああ、これだ」
レルゲンは、書類を彼女に差し出した。
そこには、二人の新しい名前が書かれていた。
ターニャ・フォン・ヴァルトシュタイン。
「……私は、あなたの姓を名乗るのですね」
ターニャは、書類を見つめながら、静かに言った。
「嫌か?」
「いいえ。むしろ、誇らしいですわ」
彼女は、彼の顔を見上げて、微笑んだ。
「ターニャ・デグレチャフの名は、書類の上に残します。それは、国家に消された私の、存在の証明ですから」
「ですが、私的な場では、私は、あなたの妻として、新しい名を名乗ります」
彼女の言葉に、レルゲンは、胸が熱くなった。
「ああ、そうしてくれ」
彼は、彼女の手を取った。
「これから、よろしく頼む。ターニャ」
「ええ、こちらこそ。レルゲン」
二人は、固く手を握り合った。
---
私邸の門を出る直前、二人は庭園に立ち寄った。
春の夕暮れが、庭園を茜色に染めていた。
「ここを出るのは、何年ぶりかしら」
ターニャは、門の向こうの景色を見つめながら、呟いた。
「怖いか?」
レルゲンは、彼女の隣に立ち、尋ねた。
「いいえ。むしろ、楽しみですわ」
彼女は、彼の方を向いて、微笑んだ。
「あなたと一緒なら、どこへでも行けます」
レルゲンは、彼女の笑顔を見て、心臓が高鳴るのを感じた。
彼は、彼女の肩を抱き寄せ、そっと唇を重ねた。
短い、しかし、確かな温もりのあるキスだった。
「……これで、私も、あなたのものですね」
唇を離した後、ターニャは、彼の胸に顔を埋めながら、囁いた。
「ああ、君は、俺のものだ。そして、俺は、君のものだ」
レルゲンは、彼女を抱きしめながら、静かに言った。
ターニャは、彼の腕の中で、自分の心臓の鼓動を聞いた。
ああ、私は、今、確かに、利用ではなく、選択として、この人の腕の中にいる。この温もりは、私が望んで、私が選んだものだ。
彼女は、初めて、心の底から、安堵の息を吐いた。
---
その時だった。
「ターニャさん! 大変です!」
エーリカが、息を切らせて庭園に駆け込んできた。
彼女の手には、一枚の紙片が握りしめられていた。
「旧帝国軍部強硬派が、動き出しました! ターニャさんの生存と、結婚の情報が、彼らの耳に入ったようです!」
彼女の言葉に、レルゲンの顔色が変わった。
「なに? 軍部強硬派だと?」
「はい! 彼らは、ターニャさんの存在を、自分たちの権益を脅かすものとして、危険視しているようです! それに、ターニャさんが掌握した伝令網のことも、彼らの警戒対象になっています!」
彼女は、震える声で報告した。
ターニャは、エーリカの報告を聞いても、表情を変えなかった。
「……そう。やはり、動きましたわね」
彼女は、静かに言った。
「書類の上の死人が、現実の生を選んだ。それは、彼らにとって、都合の悪い事実です。彼らが黙っているはずがありません」
彼女の青い瞳が、夕暮れの空の下で、冷たく光った。
「ターニャ、どうするつもりだ?」
レルゲンは、彼女の手を握りながら、尋ねた。
ターニャは、彼の手を握り返し、力強く言った。
「決まっていますわ。私は、生き延びます。書類の外で、あなたと一緒に。誰が相手でも、私は、私の生を、諦めません」
彼女の声には、一片の迷いもなかった。
レルゲンは、彼女の強い意志を感じ取り、頷いた。
「ああ、そうだな。俺も、君を守る。何があっても」
二人は、固く手を繋いだまま、私邸の門を出た。
夕陽が、彼らの新しい門出を、赤く染め上げていた。
だが、その影は、長く伸びて、彼らの行く手に、暗い予感を落としていた。
これで、本当の戦いが始まる。
ターニャは、胸の奥で、静かにそう呟いた。
国家に消された私が、書類の外で生きるということは、そういうことだ。私は、戦う。私の存在を、この世界に、認めさせるために。
彼女の青い瞳は、沈みゆく太陽を映しながら、しかし、その奥に、燃えるような決意を宿していた。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。