禁断の恋
ホグワーツ魔法魔術学校に進級した三年目の新学期初日、私は最悪の知らせを聞いた。アズカバン刑務所を脱獄した殺人犯、シリウス・ブラックが私を狙っているらしい。しかも彼は、私の両親を殺した犯人だった。
恐怖で眠れない夜、新しい闇の魔術に対する防衛術の教師が現れた。名前はリーマス・ルーピン。擦り切れたローブを纏い、疲れた顔をした年上の男性。でも彼の授業は、これまで受けたどんな授業よりも面白かった。ボガートを笑い飛ばす呪文、グリフィンドールの剣の扱い方、あらゆる実践魔法。気づけば私は彼の授業を楽しみにしていた。
ある満月の夜、私は偶然教授の秘密を知ってしまった。彼は人狼だった。満月のたびに理性を失い、怪物になる呪い。普通なら逃げ出すところだ。でも私の足は動かなかった。彼の瞳があまりにも悲しそうだったから。
「知ってしまったんだな」と教授は震える声で言った。私は首を振り、一歩近づいた。
「怖くないのか?」
「怖いです。でも、先生のほうがもっと怖いんでしょう?」
その夜から、私たちの秘密の時間が始まった。誰にも知られてはいけない関係。禁断の恋。生徒と教師。人間と人狼。決して越えてはならな
禁断の恋 - 吸魂鬼の影——孤独な少女と新学期の始まり
一九九三年九月一日。キングス・クロス駅の九と四分の三番線は、赤い蒸気機関車の吐き出す白い煙と百人を超える生徒たちのざわめきで満ちていた。
フィアンナ・マクレガーは、重いスーツケースを片手で引きずりながら人混みの端を選んで歩いていた。ダークブラウンの長い髪が、すれ違う生徒の肩に触れては流れていく。深い緑の瞳は、誰とも合わないように足元の石畳だけを見ていた。
(また、この季節が来た)
胸の内でつぶやいて彼女は無意識に制服の襟元に手をやった。鎖骨の下で、祖母の形見の銀のロケットペンダントが冷たく光っている。三日月形のあざがそのすぐ近くにあることを、彼女は誰にも言ったことがなかった。
ホグワーツ特急の車内は、新学期独特の熱気に包まれていた。通路を進むたびに、個室から弾んだ声が漏れてくる。
「組分けが楽しみだな!」「お前、絶対ハッフルパフだって」「やめろよグリフィンドールがいいんだよ俺は」
一年生たちの声。まだ魔法界の何も知らない、キラキラした声。フィアンナはその声の前を足音を殺して通り過ぎた。
少し先の個室からは、上級生の低い声が聞こえた。
「今年のクィディッチ、グリフィンドールはどうなんだ?」「ウッドが卒業したからな、チェイサーが足りないって噂だぜ」「スリザリンのマルフォイが新しいニンバス買ったらしいぞ」
クィディッチ。空を飛ぶ競技。三本の金色の輪をくぐらせて、百五十点の金のスニッチを奪い合う。世界で最も人気のある魔法族のスポーツ。フィアンナも二年の時に一度だけ、寮の選抜に混ざったことがある。脚は速かった。でも、箒にまたがるたびにふと空を見上げて両親のことを考えてしまう自分が嫌で、それきりやめた。
彼女は空いている個室を見つけると、スーツケースを棚に上げ窓際の隅に腰を下ろした。向かいの席には誰も座っていない。この時間、この場所だけが彼女の世界だった。
窓の外では、煙を吐く機関車の脇を親たちが見送りに来ていた。母親が娘の髪を直してやり、父親が息子の肩を叩いている。フィアンナはその光景から、目を逸らすように額を冷たい窓ガラスに押し当てた。
(ああいうふうに、誰かに触れられたことは一度もない)
スコットランド北部の孤児院。彼女が物心ついた場所。三歳の時に両親が死んだと聞かされた。何者かに殺された、と。それ以上のことは誰も教えてくれなかった。
機関車が動き出す。車輪が錆びた音を立て、ホームが後ろに流れていく。フィアンナは目を閉じた。
ホグワーツ魔法魔術学校。スコットランド北部の山中、標高六百メートルの崖の上に建つ千年前に四人の魔法使いが創設した全寮制の学校。十一歳から十八歳までの魔法族が、七年間をここで過ごす。四つの寮。ゴドリック・グリフィンドールの獅子の寮、サラザー・スリザリンの蛇の寮ロウエナ・レイブンクローの鷲の寮、ヘルガ・ハッフルパフのアナグマの寮。
フィアンナはグリフィンドールだった。勇気と騎士道を重んじる寮。寮監はミネルバ・マクゴナガル先生。獅子のシンボル。けれど、寮の仲間たちの誰も彼女のことをよく知らなかった。
(別に、それでいい)
そう思うようにしていた。誰かに心を開くより、一人でいる方が傷つかない。孤児院で身につけた処世術だった。相手の心を読むこと。先に距離を取ること。笑顔の裏を見抜くこと。三年間で、彼女はそれを完成させた。スリザリン顔負けの狡猾さ、と陰で囁かれたこともある。
でも本当は——
窓の外を、牧草地帯が流れていく。羊の群れが遠くに見えた。
(本当は、誰かに手を握ってほしかっただけなのに)
そんなことを考えて、彼女は苦笑した。馬鹿みたい。三年も経ってまだこんなことを考えている。
その時だった。
背筋を、冷たい何かが這い上がってきた。
(——?)
フィアンナは身を硬くした。喉の奥が、急に乾く。指先が冷たくなる。まるで十一月の湖に、いきなり足を踏み入れたような感覚。これは寒さじゃない。もっと、もっと深いところから来る何か。
車内の明かりが、揺れた。窓ガラスにうっすらと霜が降りていく。
「な、何……?」
彼女は立ち上がろうとした。でも、脚に力が入らない。鼓動がうるさい。頭の奥で誰かが悲鳴を上げている。
——赤い光。
——誰かの叫び声。
——緑色の閃光。
——冷たい床。小さな手が、何かを掴もうと伸びている。
(なにこれ)
フィアンナは自分の記憶ではないものを、見ていた。三歳の時の記憶。両親が死んだ夜の記憶。何度も夢に見た、断片。でもこんなに鮮明に——
——どうして。
——どうして、こんなに寒い。
視界が白く潰れていく。指先の感覚が、消えていく。彼女は床に膝をついた。
(ああもうだめだ)
意識が、暗い水の中に沈んでいく。
その時だった。
「——おい、しっかりしろ」
誰かの声。低くて、落ち着いた声。そして温かい手が彼女の頬に触れた。
その温かさに、フィアンナはゆっくりと目を開けた。
そこに一人の男の人がいた。
三十代の半ばくらい。薄茶色の髪に、白いものが混じっている。古いローブを着ている。でも、一番印象的だったのはその瞳だった。琥珀色。淡い光を宿したような、琥珀色。
そして彼の顔には無数の古い傷跡があった。
「大丈夫かい?」
彼は、フィアンナの額にかかった髪をそっと払ってくれた。その指は、傷だらけだった。手首に古い切り傷のような痕が、いくつも刻まれている。
「……あなたは」
フィアンナは、掠れた声で言った。喉がまだ痛い。
「リーマス・ルーピン。今年から、闇の魔術に対する防衛術を教える者だ」
彼は、穏やかに笑った。その笑顔にフィアンナはなぜか、胸の奥がぎゅっと締まるのを感じた。
「ほらこれを」
彼は、ポケットから包み紙に包まれたチョコレートを取り出して、フィアンナの手に握らせた。
「吸魂鬼にやられた時は、これが一番効く。食べなさい」
「吸魂鬼……?」
「ああ。アズカバンの看守だ。今、この列車に何体か配備されている。シリウス・ブラックの捜索のためにね」
その名前を聞いた瞬間、フィアンナの背筋をもう一度冷たいものが走った。
シリウス・ブラック。
(……なぜ、知っている?)
初めて聞く名前のはずだった。でも、彼女の身体はその名前を知っていた。心臓が痛いくらいに脈打つ。吐き気が、込み上げてくる。
「どうした?」
ルーピン先生が、彼女の顔を覗き込んだ。琥珀色の瞳が心配そうに、彼女を見つめている。
「……いえ。何でもありません」
フィアンナは、チョコレートを口に入れた。甘さがじわりと身体に染み込んでいく。冷え切っていた指先に、少しずつ血が戻ってくる。
「ありがとうございます」
彼女は、うつむいて言った。ルーピン先生の顔をまっすぐ見られなかった。
「どういたしまして」
彼は、そう言って立ち上がった。
「隣の個室にハリー・ポッターがいる。もし気分が悪くなったら、いつでも来なさい」
そう言い残して、彼は個室を出ていった。
フィアンナはしばらく、その場を動けなかった。
(ルーピン先生)
心の中で、その名前を何度も繰り返した。
(あの人だ。あの人が、今年の防衛術の先生)
なぜか胸の奥が温かかった。あの温かい手の感覚が、まだ頬に残っている。
(変なの。たった一度触れられただけなのに)
フィアンナは、窓の外を見た。まだ牧草地帯が続いている。でも、さっきと違って景色が少し明るく見えた。
——ホグワーツ到着。
夜。城の大広間。天井には、星が瞬いている。魔法の天井。外の空を映している。
フィアンナは、グリフィンドールのテーブルの端に座っていた。周りの生徒たちは、組分けの儀式を見ている。新入生が一人ずつ組分け帽子をかぶっていく。
「ハッフルパフ!」「レイブンクロー!」「スリザリン!」
帽子が叫ぶたびに、それぞれのテーブルから拍手が上がる。
「マクレガー、今年も一人か」
後ろの席から、小さな囁き声が聞こえた。
「あの子いつも孤立してるよな」「去年も、誰とも話してなかったし」「なんか怖いんだよあの目」
フィアンナは、顔を上げなかった。慣れている。三年間ずっとそうだった。
(別に、いい。どうせ私には誰もいない)
そう思った。でも、その時教員テーブルの端に見覚えのある薄茶色の髪を見つけて、彼女の心は少しだけ揺れた。
ルーピン先生がそこに座っていた。ダンブルドア先生の、すぐ隣に。
彼は新入生の組分けを静かに見守っていた。時々、微笑みながら。
フィアンナはそんな彼の横顔を、つい見つめてしまった。
(あの傷はどこでつけたんだろう)
(手首の傷は、何なんだろう)
(あの琥珀色の瞳は何を見てきたんだろう)
——知りたい。
そう思った自分に、驚いた。三年間誰にも興味を持たなかった。誰にも、心を開かなかった。なのにたった一度会っただけの先生に、こんなに興味を持っている。
(変だ。私どうかしてる)
フィアンナは、首を振ってその考えを振り払った。
組分けが終わり、ダンブルドア先生が立ち上がった。
「諸君新学期の始まりだ」
大広間が、静まり返る。
「諸君ももう知っているだろう。アズカバンから、囚人が一人逃げ出した」
——ざわ、と大広間に波が立つ。
「シリウス・ブラックだ」
フィアンナの身体が、また硬くなった。
(まただ。この名前を聞くと身体が、勝手に反応する)
「魔法省は彼がこの城を標的にしていると考えている。従って、新学期からアズカバンの吸魂鬼が城の敷地内に、常駐することになった」
大広間が、ざわめいた。
「吸魂鬼……」「まじかよ」「あれ近くにいると、すげえ寒いんだよな」「マジで最悪だ」
フィアンナは、自分の手を見た。まだ少し震えている。
——あの寒さ。
——あの、記憶。
——赤い光。緑色の閃光。誰かの叫び声。
(なぜ、あの記憶が浮かぶんだろう)
(なぜシリウス・ブラックの名前を聞くと、身体がこんなに拒絶するんだろう)
フィアンナの脳裏に、ふと孤児院の院長の言葉がよぎった。
——「マクレガー、あなたの両親は殺されたのよ。詳しいことは私にも、教えられていないけれど」
(まさか)
(まさかこの名前と、私の両親の死が関係あるなんて)
——そんなわけ、ない。
フィアンナはその考えをすぐに打ち消した。三年間、一度も教えられなかったこと。今突然分かるはずがない。
でも——
(でも、もし本当に関係があるなら)
(私はこの手で確かめたい)
——その時、教員テーブルの端でルーピン先生が彼女の方を、ちらりと見た。
目が合った。
ほんの一瞬。それだけ。
でも、フィアンナはなぜかその一瞬だけで胸の奥が、熱くなるのを感じた。
(——あの人は何か知っている)
根拠は、なかった。ただそう思った。三年間で培った彼女の、人の心を読む力。それが告げていた。ルーピン先生は、何か知っている。彼女の両親の死について。シリウス・ブラックについて。そして、多分——彼女自身のことについて。
晩餐が終わった。
フィアンナは、グリフィンドール塔に戻った。太った貴婦人の肖像画の前で、合言葉を言う。
「ドラゴンの血」
肖像画が、開く。中は暖炉の火が燃えている。赤と金のタペストリー。獅子の紋章。
「お帰り、マクレガー」
誰かが、そう言った。でもフィアンナはその声に応えなかった。
彼女は、女子寮の階段を上った。
窓から外の景色が見える。ブラック・レイクの、黒い水面。禁じられた森の暗い輪郭。そしてその向こうに、小さな灯りがいくつか揺れている。
(あれが吸魂鬼)
(あの中に、シリウス・ブラックを捕まえようとしている吸魂鬼がいる)
フィアンナは、窓辺にしばらく立っていた。
あの寒さ。あの記憶。あの、名前。
——そしてあの温かい手の感触。
(ルーピン先生)
——なぜ、あなたはあんなに優しいんだろう。
——なぜあなたは、あんなに傷だらけなんだろう。
——なぜ私はあなたのことを、こんなに知りたいんだろう。
誰も答えを教えてくれない。
でも、フィアンナは初めて思った。
(この一年で何かが、変わるかもしれない)
その予感は根拠がなかった。でも、彼女の胸の奥で確かに小さく灯っていた。
——吸魂鬼の影が、城を覆う新学期の夜。
——孤独な少女の三年目の一年が、始まった。
窓の外で吸魂鬼の灯りがゆっくりと、揺れていた。
フィアンナはロケットペンダントを、そっと握った。
祖母の形見。両親の唯一の形見。
その冷たい銀の感触が、彼女の手のひらで温かくなっていくのを彼女は、感じていた。
——まるで誰かの手のように。
——あの、ルーピン先生の手のように。
フィアンナは目を閉じた。
新学期の夜は、長くそして静かだった。
でもその静けさの奥で、確かに何かが動き始めていた。
彼女自身もまだ、知らない。
その動きが彼女の人生を根底から変えることを。
——そして、あの琥珀色の瞳の持ち主が彼女の運命を大きく、揺さぶることを。
今夜はまだ知らない。
ただ彼女は、眠った。
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