乾杯タイムは、まだ二度目
乾杯の合図とともに配信を始める青年・赤城ウェン。旅と料理をこよなく愛する彼の夜の配信は、どこか静かで、どこか寂しい。祖母から受け継いだ出汁の味、一人分の食卓、カメラ越しに繋がる視聴者たち――そんな穏やかな日々の中で、彼はふと零す。「美味しいものは、誰かと食べた方がもっと美味しいんだろうな」と。
その一言をきっかけに、ウェンは配信で"旅の相棒"を募集することに。半ば勢いだった呼びかけに応えたのは、まさかの学園の人気配信者・三森ミコトだった。ギャルらしい明るさの奥に、彼女もまた何かを抱えているようで――。
出汁の香りとカメラのレンズ、ふたつのグラスで交わす二度目の乾杯。すれ違いながらも少しずつ近づいていく、不器用な配信者と人気者の、旅と料理と恋のものがたり。
「乾杯」は、まだ始まったばかり。
乾杯タイムは、まだ二度目 - 乾杯タイムから始まる夜
「……かんぱーい」
カメラに向かって、麦茶の入ったグラスを軽く掲げる。冷蔵庫から出してきたばかりのグラスには、うっすらと水滴がついていた。
時刻は夜の八時を少し回ったところ。都会の外れにあるコーポ朝日205号室。六畳一間の小さな部屋のキッチンに、赤城ウェンは立っていた。
少し長めの黒髪を軽くかき上げて、カメラの位置を確認する。配信用の照明が、白いシャツ姿の彼をやわらかく照らしていた。深い茶色の目が、モニターに映る自分の姿をじっと見つめる。
「今日はね、ちょっと配信前にコンビニ寄ったの」
そう言って、彼はビニール袋から小さな和菓子を取り出した。視聴者から見えるように、カメラの前にそっと置く。
「これ、半額になってたやつ。こういうの見つけると、なんか得した気分になるよね」
コメント欄がゆっくりと流れていく。
「こんばんはー」「今日も乾杯から始まるの好き」「ウェンくんの髪、ちょっと伸びた?」「その和菓子うまそう」
ウェンはコメントを読み上げながら、首から下げた小さな木製スプーンのペンダントに無意識に触れた。配信が始まると、必ずこの癖が出る。
「えーと、こんばんは。髪? そうかな、まあそろそろ切りたいなとは思ってるんだけど」
スプーンのペンダントを指先で軽く弄りながら、彼は続ける。
「今日の配信は、のんびり雑談メインでいこうかなって。あ、でも途中でちょっと夜食作るかも」
そう言うと、彼は冷蔵庫を開けた。中には、使いかけの野菜と、タッパーに入った出汁がいくつか並んでいる。
「お、まだ昨日引いた一番出汁が残ってる。これ使おう」
ウェンの目が、ぱっと輝いた。
彼はタッパーの蓋を開けると、ふわりと立ち上る香りに、思わず顔をほころばせる。昆布と鰹節の、あの懐かしい匂い。
「これさ、昆布を一晩水に漬けて、朝にじっくり温度を上げてから鰹節を入れるんだよ。沸騰させないのがコツ」
手つきは慣れたものだ。スレンダーな体つきだが、料理で鍛えられた前腕が、コンロの火加減を調節するたびに少しだけ浮き出る。
「俺の祖母がね、毎朝これ作ってたの。朝の五時とか四時とかに起きてさ」
ウェンはしみじみとした口調で言った。
「ばあちゃんの台所、いつも出汁の匂いがしてた。あの匂いを嗅ぐと、今でもあの台所にいるみたいな気分になるんだよね」
コメントが少し増える。
「わかる、匂いって記憶に残るよな」「ウェンくんのばあちゃん、どんな人だったの?」「今日も出汁の話キター」「キッチンの匂いって特別だよな」
ウェンはモニターを覗き込みながら、小さく笑った。
「どんな人って……まあ、普通のばあちゃんだったよ。漁師町に住んでてさ。うちのじいちゃんが漁師だったから、いつも台所には魚があった」
彼は手を動かしながら、時々カメラに目を向ける。
「あ、そうそう。うちのじいちゃん、若い頃はすごい漁師だったらしいよ。朝早く船に乗って、晩まで帰ってこないの。ばあちゃんは、帰ってきたじいちゃんに温かい汁物を作るのが日課でさ」
そう話すウェンの声は、どこか優しい。
「だからうちの味は、出汁から始まるんだよね。何作るにしても、まず出汁を取る。それがうちの味のベースっていうか」
コメント欄がまた動く。
「今日も安定の出汁愛」「ウェンくんの出汁語り、すごい好き」「よし、俺も明日出汁取ろう」「でも一人暮らしで出汁取るのめんどくさくない?」
ウェンはそのコメントを見て、少しだけ首をかしげた。
「めんどくさい……まあ、めんどくさいと思う人もいるだろうけど。でも、これが楽しいんだよ。出汁を取ってる時間って、なんか落ち着くし」
彼はキッチンに戻ると、小鍋にタッパーの出汁を注いだ。
じゅわ、と小さな音がして、出汁の香りが部屋いっぱいに広がる。
ウェンは目を閉じて、その香りをゆっくりと吸い込んだ。まるで、遠い日の記憶を確かめるみたいに。
「……うん、いい香り」
その表情は、配信者としての顔じゃない。ただの、料理が好きな青年の顔だった。
しばらくして、彼は小鍋の中に冷蔵庫から出した豆腐とネギを入れた。
「今日は簡単に、豆腐とネギの味噌汁。あと、半額だった和菓子をデザートに」
コメント欄に「和菓子、デザートにできるの?」と流れる。
「デザートっていうか、まあ、食後に甘いもの食べたいなって。今日はちょっと甘いもの食べたい気分だったの」
部屋の中には、出汁の香りと、小さな鍋がことことと音を立てる音だけが満ちていた。
その静かな時間が、ウェンは好きだった。
一人で配信している夜。カメラの向こうには、何人かの視聴者が画面越しに彼を見ている。でも、部屋には彼一人しかいない。そのちょっと不思議な感覚に、彼はもう慣れていた。
「そういえばさ、最近思うんだけど」
ふと、ウェンは言葉を切った。
小鍋をかき混ぜる手が、一瞬止まる。
「……美味しいものって、一人で食べるより、誰かと食べた方がもっと美味しいんだろうなって」
コメント欄の流れが、ぱたん、と止まった。
一瞬の静けさ。
それから、少しずつコメントが戻ってくる。
「え?」「どうした急に」「ウェンくん、なんかあった?」「らしくないこと言い出したぞ」
ウェンは慌てて笑った。
「あ、いや、なんか急にそんな気がしただけだから! 気にしないで」
でも、コメントは止まらない。
「ウェンくん、美味しいもの一人で食べて楽しい?」「それな、最近のウェンくんの配信、なんか寂しそうな時あるもんな」「相棒ロスそろそろ誰かと旅したら?」「むしろ今までなんで一人で旅してたの?」「料理上手いのに、それ一人で食べてるの、ちょっと切ない」
次々と流れるコメントに、ウェンは笑って誤魔化そうとした。
「なに、みんな急にどうしたの。俺は別に寂しくなんか——」
そこまで言って、彼は口をつぐんだ。
コメント欄の言葉が、やけに鋭くて。
「わかるよ、誰かと食べたらもっと美味しいのにって思うの」「ウェンくん、独り言みたいな配信多いもん」「旅動画も、料理も、ぜんぶ一人でやってるの見てると、たまに切なくなる」「そろそろ相棒、作ってもいいんじゃない?」
ウェンは、しばらく画面を見つめていた。
鍋の音だけが、部屋に響いている。
「……やっぱ、そう見える?」
小さく呟いた。
彼は火を止めて、味噌を溶かし入れる。
「正直ね、ここ一年くらい、ずっと考えてたんだ。誰かと一緒に旅して、一緒にご飯食べて、美味しいねって言い合えたらいいなって」
でも、と彼は続ける。
「配信者同士って、なかなかそういう関係になれないっていうか。軽い気持ちで誘うのも失礼だし。結構むずかしいんだよね」
コメント欄に「わかる……」「ウェンくん、実は人見知りだもんね」「誘うの苦手そう」と流れる。
ウェンは「人見知りじゃないよ!」と抗議したが、その声にはあまり力が入っていない。
「……まあ、人が多すぎる場所は苦手だけど」
彼は苦笑して、味噌汁を器に注いだ。
湯気がふわりと舞い上がる。
「でもさっきみたいなコメント見てたら、やっぱりちゃんと探してみようかなって思った」
そう言った時、ウェンは自分の気持ちがすっと軽くなったのを感じていた。
ずっと心の奥に引っかかっていたもの。言葉にしないと形にならない、漠然とした想い。それを、ようやく口にできた気がした。
真剣な目をカメラに向けて、ウェンは背筋を伸ばした。
「あのさ、ここでみんなに、ちょっと本気で募集する」
コメント欄がざわつく。
「え?」「なになに」「募集?」「きたあああああ!」
ウェンは少し照れくさそうに、でもはっきりした声で言った。
「俺と一緒に、旅をしてくれる人、募集します。条件は三つ。旅が好きなこと。料理に興味があること。それから——」
一拍置いて。
「一緒にご飯を食べて、美味しいねって言い合える人」
コメント欄が、ぶわっと加速した。
「来たああああ!」「絶対ミコトちゃんしかおらん」「何キャラだよ」「いやでもこれガチの募集やつだ」「ウェンくん本気の目してる」「待って、この条件、めちゃくちゃ切ないんだけど」
ウェンは画面の前で、照れ笑いしながら頭をかいた。
「ちょっとみんな、面白がりすぎだから! 真面目に言ってるんだって」
でも、その目は真剣だ。
本心からの募集だと、視聴者にも伝わった。
それからしばらく、配信は賑やかに続いた。視聴者からの質問に答えたり、旅先での思い出話をしたり。
気づけば、時刻は夜の十一時を回っていた。
「そろそろ終わろうかな。今日はなんか、いろいろ話せてよかった」
ウェンはカメラに向かって、にこりと笑った。
「それじゃあみんな、今日もありがとう。おやすみ——」
配信が終わる。
部屋に静けさが戻った。
ウェンは深く息を吐いて、配信機材のスイッチを順に切っていく。照明を消すと、部屋は一気に暗くなった。
「……ふぅ」
彼は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出して、コップに注いだ。
椅子に座って、一口飲む。
窓の外には、都会の夜の明かりがぽつぽつと見えた。
「相棒、か」
呟いて、首のスプーンに触れる。
自分から募集をかけたはいいものの、応募なんて来るんだろうか。
というか、来たとして、うまくやれるんだろうか。
色々な考えが頭をよぎるが、不思議と悪い気分ではなかった。
むしろ、久しぶりに心が軽い。
「まあ、明日になればわかるか」
彼はそう呟くと、ベッドに倒れ込んだ。
目を閉じる。
遠くで、車の走る音が聞こえた。
翌朝。
ウェンは寝ぼけ眼でスマホを手に取った。
朝日がカーテンの隙間から差し込んでいて、部屋がほんのり明るい。
「……ん、なんだこれ」
通知が一件来ている。
ミルヴューからのDM。
指でタップして、開く。
そこに書かれていたのは。
『あたし、本気で旅したいんだけど。もちろん、お料理も覚えたいと。』
差出人の名前を見て、ウェンは目を擦った。
「……ミコト?」
送り主は、三森ミコト。
同じ学園に通う、ギャル系の人気配信者。登録者数四万人超えの、学園の有名人。
「え、待って、本物?」
ウェンは寝転がったまま、そのプロフィールを開いた。
出てきたのは、明るい髪色をして、楽しそうにピースサインをしている女の子のアイコン。
「いやいやいや、冗談だろ……」
あまりにも意外な相手からのDMに、頭が追いつかない。
でも、文面は思ったより丁寧で、絵文字も控えめだ。
ギャル文字、というほど崩してもいない。
「本気、なのかな……?」
心臓が、少しだけ速くなる。
同じ学園だとは知っていた。すれ違ったことも、多分ある。でも、話したことは一度もない。
その有名人が、俺の配信を見て、旅がしたいと。しかも、料理を覚えたいと。
「……返信、どうしよ」
彼はスマホを胸の上に置いて、天井を見つめた。
時計は朝の八時を過ぎたところ。
カーテンの向こうから、鳥の声が聞こえる。
しばらく迷った末に、ウェンはゆっくりと指を動かした。
『連絡ありがとう。もしよかったら、今度、近所の市場で話さない?』
送信。
すぐに返信が来た。
『了解!楽しみにしてるね!』
ウェンはその返事を見て、思わず笑ってしまった。
「え、マジで来る感じ?」
まだ会ってもいないのに、妙にドキドキしている自分がいる。
でも。
「……来なかったら、寿司でも買って帰ろう」
そう自分に言い聞かせて、彼は布団から起き上がった。
その夜。
ウェンは配信をしていた。
「というわけで、昨日の募集の反響、みんなDM来た?って聞いてくるからさ」
彼はカメラに向かって、少し興奮気味に話す。
「実はね、一通だけ来たの。しかもそれが、学園の有名人で」
コメント欄が一瞬で大荒れになる。
「え!?」「誰!?」「まさか」「有名人ってまさか」「もったいぶらずに言え!」
ウェンは一つ息を吸ってから、言った。
「三森ミコトさん、っていってね。同じ学園の配信者で、すごく人気あるんだけど」
画面が、文字で埋め尽くされた。
「ミコトちゃん!?」「待って、あのギャル系の!?」「それはもう相棒決定では?」「ウェンくんの天然炸裂!!!!」「え、でもミコトちゃん料理とかできたっけ?」「いや、もう会ってみるしかなくない?」
ウェンは笑いながら、コメントを必死で追う。
「ちょっと待って、まだ相棒になるかは会ってから決めるから! 決めつけないで!」
でも、心の中では。
明日が楽しみで仕方ない自分に、もう気づいていた。
祖母の形見のレシピノートが、机の上で静かに彼を見ていた。Noveliaとは?
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