乾杯タイムは、まだ二度目
乾杯の合図とともに配信を始める青年・赤城ウェン。旅と料理をこよなく愛する彼の夜の配信は、どこか静かで、どこか寂しい。祖母から受け継いだ出汁の味、一人分の食卓、カメラ越しに繋がる視聴者たち――そんな穏やかな日々の中で、彼はふと零す。「美味しいものは、誰かと食べた方がもっと美味しいんだろうな」と。
その一言をきっかけに、ウェンは配信で"旅の相棒"を募集することに。半ば勢いだった呼びかけに応えたのは、まさかの学園の人気配信者・三森ミコトだった。ギャルらしい明るさの奥に、彼女もまた何かを抱えているようで――。
出汁の香りとカメラのレンズ、ふたつのグラスで交わす二度目の乾杯。すれ違いながらも少しずつ近づいていく、不器用な配信者と人気者の、旅と料理と恋のものがたり。
「乾杯」は、まだ始まったばかり。
乾杯タイムは、まだ二度目 - 市場の真ん中で、恋の修羅場が始まる
アサヒ商店街の入口に立つと、昼前の空気がやわらかく肌に触れた。赤城ウェンは首から下げた小さな木製スプーンのペンダントを無意識に指先で転がしながら、スマホの時計を確認する。約束の時間を五分ほど過ぎたところだ。
商店街のアーケードには色とりどりの幟が揺れ、魚屋の氷が日光を跳ね返してきらきら光っている。近くの精肉店からは、揚げたてのコロッケの匂いが流れてきた。コウタロウ精肉店の名物、一個九十円の自家製コロッケ。昼時には行列ができると配信のコメントで教えてもらったのを思い出す。
(あとで一個、買って帰ろう)
ウェンはそんなことを考えながら、昨日の夜のことをぼんやり振り返っていた。配信で理想の旅の相棒を募集した。冗談だと思われたかもしれない。でも、あのDMは本物だった。三森ミコト。同じ学園の、登録者数四万人を超える人気配信者。
スマホの画面には、今朝届いた『了解!楽しみにしてるね!』という短い返信がまだ残っている。絵文字は一つもなかった。そのことが妙に印象に残っていた。
アーケードの天井から差し込む光が、少しずつ角度を変えていく。
約束の時間から、十分。二十分。
ウェンは入口の柱にもたれかかって、行き交う人々を眺めていた。買い物袋を下げたおばあさん、自転車を押す高校生、鮮魚店の前で値段を交渉する主婦。みんなそれぞれの昼前を生きている。
(来ないのかな)
そう思い始めた頃だった。
アーケードの向こうから、ひときわ目を引く姿が近づいてきた。明るい茶色のロングヘアをふわふわと外側に巻いて、左耳の上には星形のヘアピン。白いミニスカートに、淡いピンクのカーディガン。歩くたびに、髪がふわりと揺れる。
三森ミコトだった。
彼女は小走りに近づいてくると、ウェンの顔をまじまじと見上げた。大きなアーモンド型の瞳。カラーコンタクトが、午前の光を受けて明るいヘーゼル色に透けている。
「あんた、ウェンっしょ?」
初対面のはずなのに、まるで昔からの知り合いみたいな砕けた口調だった。ウェンは一瞬、言葉に詰まる。
「あ、うん。赤城ウェンです」
「やっぱり! 配信で見るより髪、ちょっと長いじゃん? あたし、三森ミコトね。遅れてごめん、家で服何回も着替えてたらこんな時間なってたわ」
彼女はそう言って、右の八重歯をのぞかせて笑った。ネイルは今週の気分らしい水色のラメが光っている。
「大丈夫だよ。俺も今来たところだし」
本当は三十分近く待っていた。でも、そんなことは言わない。ウェンはのんびりとした口調でそう返した。
ミコトはウェンの胸元にぶら下がる木製スプーンのペンダントに気づいて、首をかしげる。
「それ、いつも配信で触ってるやつ?」
「ああ、これ。祖母の形見なんだ。配信の乾杯タイムのとき、つい触っちゃうんだよね」
「へえ、大事なものなんだ」
ミコトの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。大きな瞳が、ペンダントからウェンの顔へと移る。
「あたし、ウェンの配信、乾杯のところから毎回見てるよ。あれ、なんか落ち着くじゃん?」
「そうなの? 嬉しいな。あれ、自分でも大事にしたくて」
「でも今日は乾杯なし? 麦茶持ってきてないの?」
「今日は市場だし、さすがにね。でも、あとで何か飲もうか」
ミコトはぱっと表情を明るくして、両手を小さく叩いた。
「いいね! じゃあ、まずは市場案内してよ。あたし、こういうとこ来るの久々だわ」
二人は並んでアーケードを歩き始めた。ミコトは物珍しそうに左右を見回している。八百屋の前で足を止め、果物の値札を指さして「安くない?」と声を上げ、魚屋の氷の上に並ぶアジを見て「うわ、目が合った」と笑う。
ウェンはそんな彼女の横顔をちらりと見た。配信で見るより声は少し高くて、実物のほうがずっと目がきらきらしている。
「あ、そうだ。ミコトって、普段どんなもの食べてるの?」
何気なく聞いた質問だった。
ミコトは一瞬だけ足を止めて、それから、ばつが悪そうに笑った。
「えっとね、コンビニのおにぎりとカップ麺。あと、たまにファミレスのドリンクバーでお腹満たす」
「え……」
「あとさ、家のキッチン、ゲーム機とコントローラー置いてあるの。鍋どこやったか分かんない」
ウェンは思わず立ち止まった。
「鍋がないの!?」
「あるかもしれないけど、見つけてない。だってキッチン、配信の背景にちょうどいいからって機材置き場にしてるし」
衝撃の告白だった。
ウェンはしばらくぽかんとしていたが、やがて小さく笑った。
「なるほどね。でも、それなら教えがいがあるよ」
「マジで!? あたし、包丁もあんま使ったことないよ?」
「大丈夫。一番簡単なところから始めよう。せっかくだし、出汁の取り方を見せてあげる」
ウェンはそう言うと、市場の乾物屋へと足を向けた。
乾物屋の店先には、大きなガラス瓶に入った昆布や、袋詰めの鰹節が所狭しと並んでいる。ウェンは迷わず、肉厚の昆布を手に取った。
「これ、いい昆布だ。羅臼の昆布だね。香りが違うんだ」
ウェンは昆布を鼻に近づけて、目を細めた。その表情が、さっきまでののんびりしたものから、きりっとした職人の顔に変わる。
「ウェンさん、目が料理モードになってる」
「え、そう? あはは、つい夢中になっちゃうんだよ。出汁の香りって、嗅ぐだけで落ち着くから」
ウェンは照れ笑いをしながら、鰹節の袋も手に取った。
「昆布の表面についてる白い粉、これ旨味の成分なんだ。だから洗わないで、そのまま使うのがポイントなんだよ」
「え、洗わないの!? それ、汚れじゃないの?」
「汚れじゃないよ。マンニットっていう甘み成分と、グルタミン酸っていう旨味成分。これが出汁の味の決め手になるんだ」
ミコトはスマホを取り出して、素早くメモ帳を開いた。
「ちょっと待って、メモる! 白い粉は洗わない、と」
ウェンは嬉しくなって、さらに説明を続けた。
「それから、水からじっくり火にかけること。沸騰させちゃダメなんだ。沸騰すると昆布の雑味まで出ちゃうから」
「へえ! 沸騰させないんだ。なんか、出汁って奥深いのね」
「そうなんだ。ここが一番大事なポイントでね、六十度くらいで十分くらいかけて、昆布の旨味をゆっくり引き出すんだ。それから鰹節を入れて、火を止めて、沈むのを待つ」
ウェンの口調が、いつの間にか早口になっている。料理の説明になると止まらないのは、彼の昔からの癖だ。
ミコトは目を輝かせて、スマホに文字を打ち込んでいく。
「やばい、なんかすごい勉強してる気分。あたし、こういうの初めて聞いたわ」
「誰かに教えると、自分も学び直せるからいいね。俺も楽しいよ」
ウェンの胸の奥が、じんわりと温かくなる。一人で配信しているときとは違う。目の前に、自分の話を聞いてくれる人がいる。そのことが、こんなにも嬉しい。
「今度、味見してみたい! ウェンの出汁、どんな味するんだろ」
「うん、ぜひ。今度作ってあげるよ」
その言葉に、ミコトの頬がほんの少しだけ赤くなった。彼女は照れ隠しのように、乾物屋の瓶を指さす。
「じゃあ、その昆布と鰹節、あたしも買う! 家で練習する」
ウェンは笑って、店主に声をかけた。
「すみません、この昆布と鰹節、二つずつください」
買い物を終えて、二人は青果店へと向かった。丸嶋青果店は、地元農家から直接仕入れた野菜が自慢の店だ。店先の木箱には、朝採れのトマトやキュウリ、葉物がみずみずしく並んでいる。
ウェンがトマトを手に取って、へたの匂いをかいでいると、ミコトが隣でキャベツを両手で持ち上げた。
「これ、めっちゃ重い! キャベツってこんな重いの?」
「そうだよ。ずっしりしてるのが新鮮な証拠。持ってみる?」
ウェンが差し出したキャベツを受け取って、ミコトは両手で抱えるようにして笑った。
「なにこれ、ずっしりしてて気持ちいい」
そのときだった。
アーケードの向こうから、ものすごい勢いで誰かが走ってくる足音が聞こえた。
「ミコトッ!!」
振り返ると、短く刈り上げた黒髪を無造作に立てた男子学生が、眉間に深いしわを寄せて立っていた。やや釣り上がった一重の目が、涙でうるんでいる。
真田ハルト。ミコトの幼なじみだ。
「お前、ミコトと何の関係だよ!!」
ハルトはウェンに詰め寄ると、肩で息をしながらまくし立てた。
「え、ちょっと待って。俺はただ……」
「ミコトが男と二人で市場とかありえないだろ! しかもお前、配信者だろ!? 配信者ってだけでチャラい奴に決まってる!」
ハルトはミコトの肩を抱き寄せて、ウェンから遠ざける。
「ミコト、こいつに変なことされてない!?」
「ハル、何言ってんの!? 変なことって何よ! ウェンさんはあたしに料理教えてくれてただけじゃん!」
ミコトがハルトの腕を振りほどこうとするが、ハルトは離さない。
「料理!? そんなの口実だろ! 男が女を市場に誘うなんて、下心に決まってる!」
市場の買い物客たちが、何事かと振り返る。近くの魚屋の店主が、手を止めてこちらを見ていた。
ウェンは慌てて両手を振った。
「違うよ! 俺はただ、旅の相棒がほしいだけなんだ!」
その瞬間、ハルトの目がさらに大きく見開かれた。
「旅の相棒!? それって彼女候補ってことだろ!! やっぱりそういうことか!」
「なんでそうなるの!?」
「だって旅の相棒って、普通恋人と行くだろ! 二人きりで旅とか、そういう意味に決まってる!」
誤解が、深まる。説明すればするほど、泥沼にはまっていく。
気がつくと、ウェンは丸嶋青果店の前で正座させられていた。
アーケードの石畳の上に、きちんと正座。目の前には、仁王立ちのハルト。その後ろで、ミコトが「ハル、やめてよ!」と声を上げている。
「いいか、お前。ミコトはな、小さい頃からずっと俺が守ってきたんだ。それを、急に出てきて旅の相棒とか、ふざけんなよ」
ハルトの声が、涙声で震えている。
「俺だって、ミコトのこと……十年以上、ずっと……」
ハルトは言葉を詰まらせて、ぐっと唇を噛んだ。
「お前、配信者だろ? 女の子に声かけるの慣れてるんだろ? そういう奴が一番信用できねえんだよ!」
「いや、俺、配信者だけど、そういうの全然慣れてないし……」
「嘘つけ! 配信でちゅーっす、ウェンでーすとか言ってる奴が、女の子に慣れてないわけないだろ!」
ウェンは心の中で叫んだ。
(配信の挨拶と女の子に慣れてるかは関係ないよ!)
でも、口には出せない。出したところで、火に油を注ぐだけだ。
ミコトがハルトの腕をつかんで、必死に引き離そうとする。
「ハル、いい加減にして! ウェンさんのことまだ何も知らないでしょ! あたしが自分で会いたいって言ったの!」
ハルトの動きが、ぴたりと止まった。
「ミコトが……自分で?」
「そうだよ。あたし、ウェンの配信見て、本気で料理覚えたいって思ったの。それでDM送ったの。あたしの意志だよ」
ハルトの肩が、小さく落ちた。
でも、次の瞬間、彼は顔を上げて、ウェンを鋭く睨んだ。
「わかった。じゃあ、その出汁とやらで料理を作って、俺を納得させろ!」
「えっ!?」
「口だけなら誰でも言える。本当に料理ができるなら、俺の前で作ってみせろ。俺が食って、美味いと思ったら認めてやる」
ミコトがハルトの背中をぽかぽかと叩く。
「ハル、あんた何様のつもり!? ウェンさんに失礼すぎでしょ!」
「ミコトを泣かせるような奴かどうか、俺が確かめるんだ。これは失礼でもなんでもない。幼なじみとして当然のことだ」
ハルトは真っ直ぐにウェンを見下ろした。涙目のくせに、その目は妙に真剣だ。
ウェンは正座のまま、しばらくハルトを見上げていた。それから、小さく息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。
「わかった。明日、俺の家で料理を作るよ。三人で食べよう」
ハルトが目を見開いた。
「三人で?」
「うん。せっかくだし、ミコトにも料理を教えたいし。ハルトも、俺の料理を食べて判断してくれ」
ウェンの口調は、相変わらずのんびりと柔らかい。でも、その目は料理の話をするときの、自信に満ちた職人の目になっていた。
ハルトはしばらくウェンを睨んでいたが、やがてふん、と鼻を鳴らした。
「いいだろう。ただし、まずかったら二度とミコトに近づくな」
「それは心配ないよ。俺の出汁、きっと美味いから」
ウェンがにこりと笑うと、ハルトは一瞬だけ面食らったような顔をした。
ミコトが、ほっとしたように息を吐く。
「なにこれ、料理対決みたいになってるし。あたし、審査員? まあ、ウェンの料理食べられるなら何でもいいけど」
ハルトはミコトの方を向くと、急に真剣な顔になった。
「ミコト、こいつに何かされたらすぐ言えよ。俺が海に沈めるから」
「ハルのくせに何カッコつけてんのー! あんた、カナヅチのくせに海とか無理でしょ」
「うるさい! 今は関係ないだろ!」
ハルトの耳が真っ赤になっている。
ミコトはけらけらと笑いながらも、その横顔をちらりと見て、小さく微笑んだ。自分を心配してくれる幼なじみの存在を、少しだけ嬉しく感じている。そんな顔だった。
ウェンはその二人の様子を見て、なんだか妙に温かい気持ちになった。
(幼なじみか。いいな、そういうの)
一人で旅をしてきたウェンには、そういう関係が少し眩しく見えた。
ハルトは去り際に、もう一度だけウェンを振り返った。
「明日、絶対に来いよ。逃げたら承知しないからな」
「逃げないよ。約束する」
ハルトはそれだけ言うと、背を向けて、アーケードの向こうへと歩いていった。
その後ろ姿が見えなくなるまで、ミコトは小さく手を振っていた。
「ごめんね、ウェン。ハル、ああ見えて悪い奴じゃないの。ただ、あたしのことになると周りが見えなくなるっていうか」
「うん、わかるよ。大事な幼なじみなんだね」
「まあね。あいつ、昔からあんな感じ。あたしが男の子と話してるだけで、すぐ泣きそうになるの」
ミコトはそう言って、肩をすくめた。
ウェンは空を見上げた。アーケードの隙間から、青い空がのぞいている。
(明日、何を作ろうか)
理不尽な展開に追い詰められたはずなのに、頭の中は料理のことでいっぱいだった。
昆布と鰹節の一番出汁。それをベースにした味噌汁。それから、出汁巻き卵。あと、何か魚の煮付けでも作ろうか。
ウェンの口元が、自然とゆるむ。
「あれ、ウェン、笑ってる?」
ミコトが、下から覗き込むようにしてウェンの顔を見上げた。
「うん、だって明日が楽しみでさ。料理、何作ろうかなって」
「マジで!? あたしも楽しみ! ハルのやつ、絶対ウェンの料理にびっくりするよ」
ミコトの笑顔が、午後の日差しの中でぱっと花開く。
ウェンは、その笑顔を眩しそうに見つめた。
(ああ、これが誰かと一緒に食卓を囲むってことか)
まだ料理もしていないのに、心はもう、温かい食卓のことを考えていた。
市場の喧騒が、遠くで波のように聞こえる。精肉店のコロッケの匂いが、また風に乗って流れてきた。
ウェンはミコトに「コロッケ、買って帰らない?」と声をかけた。
ミコトは嬉しそうに頷いて、二人は並んでアーケードを歩き出した。
明日は、三人で食卓を囲む。
そのことが、ウェンには何よりも楽しみだった。Noveliaとは?
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