乾杯タイムは、まだ二度目
乾杯の合図とともに配信を始める青年・赤城ウェン。旅と料理をこよなく愛する彼の夜の配信は、どこか静かで、どこか寂しい。祖母から受け継いだ出汁の味、一人分の食卓、カメラ越しに繋がる視聴者たち――そんな穏やかな日々の中で、彼はふと零す。「美味しいものは、誰かと食べた方がもっと美味しいんだろうな」と。
その一言をきっかけに、ウェンは配信で"旅の相棒"を募集することに。半ば勢いだった呼びかけに応えたのは、まさかの学園の人気配信者・三森ミコトだった。ギャルらしい明るさの奥に、彼女もまた何かを抱えているようで――。
出汁の香りとカメラのレンズ、ふたつのグラスで交わす二度目の乾杯。すれ違いながらも少しずつ近づいていく、不器用な配信者と人気者の、旅と料理と恋のものがたり。
「乾杯」は、まだ始まったばかり。
乾杯タイムは、まだ二度目 - 初めての手料理と、食卓を囲む三人
アサヒ商店街を出た頃には、西の空がうっすらと茜色に染まり始めていた。買い物袋を提げた赤城ウェンの隣を、三森ミコトが弾むような足取りで歩いている。少し後ろを、真田ハルトが不機嫌そうな顔でついてきた。
「ねえウェン、今日の夕飯なに作ってくれんの? あたし、朝から楽しみで授業どころじゃなかったわ」
ミコトが前かがみになって、ウェンの顔を下から覗き込む。大きなヘーゼル色の瞳が、夕日を反射してきらきら光っていた。左耳の星形ヘアピンが、歩くたびにちかりと瞬く。
「そうだなあ。せっかく市場でいい食材が手に入ったから、出汁をちゃんと引いて、魚の煮付けと出汁巻き卵、あと味噌汁を作ろうかなって思ってるよ」
ウェンは買い物袋の中身を思い浮かべながら、自然と口元がゆるむ。丸嶋青果店で買った新鮮な玉ねぎ、コウタロウ精肉店の前を通りかかったついでに買った卵、そして鮮魚店で目利きしてもらった、今朝水揚げされたばかりのアジ。どれも今日の食卓の主役になる予定だ。
「え、魚の煮付け? あたし、煮付けって食べたことないかも。なんかおばあちゃんちの料理って感じじゃん?」
「まあ、そうかもね。でも、出汁をしっかり取れば、魚の煮付けは本当に美味しくなるんだよ。今日はその出汁を一から見せてあげる」
ウェンがそう言うと、ミコトは両手を胸の前で組んで、わくわくした顔を見せた。
一方、後ろを歩くハルトは、二人の会話を聞きながら眉間に深いしわを寄せている。短く刈り上げた黒髪の下で、やや釣り上がった一重の目が、ウェンの背中をじっと睨んでいた。
(なんで俺がこんな奴の家に行かなきゃなんないんだよ……)
心の中でそう呟きながらも、ハルトの足はしっかりと二人の後を追っている。ミコトが楽しそうだから、帰るに帰れないのだ。
駅前の大通りを抜け、住宅街へと入る。街灯がぽつぽつと灯り始め、夕闇が少しずつ濃くなっていく。ウェンの住むコーポ朝日は、学園から自転車で八分ほどの場所にある古い二階建てアパートだった。
「ここが俺の家。狭いけど、まあ上がってよ」
ウェンが二〇五号室の扉を開けると、ミコトが「お邪魔しまーす」と明るい声を上げて靴を脱いだ。ハルトは玄関で少し迷った後、小さく「失礼します」と呟いてから、恐る恐る足を踏み入れる。
六畳一間の部屋。壁際には配信用のデスクが置かれ、その上にカメラが二台、マイク、照明機材が整然と並んでいる。ベッドは部屋の隅に寄せられ、その横には本棚。料理本や旅のガイドブックがぎっしりと詰まっていた。
「うわ、ここで配信してるんだ! なんか、すごい。機材いっぱいあるじゃん!」
ミコトは目を輝かせて、配信デスクの周りを物珍しそうに見回した。
「そんなに大したものじゃないよ。中古で揃えたやつばっかりだし」
ウェンは照れくさそうに後頭部をかいた。
ハルトは部屋の中央に立ったまま、所在なさげに視線を泳がせている。男の一人暮らしの部屋に入るのは初めてではないはずなのに、ここが「ミコトに急に近づいてきた不審者」の部屋だと思うと、どうにも落ち着かない。
「……お前、本当に一人で住んでるんだな」
「うん、そうだよ。大学入ってからずっとここ」
ウェンはにこりと笑って、買い物袋をキッチンへ運んだ。
コーポ朝日の二〇五号室は、六畳の割にキッチンが充実している。コンロは二口。シンクは深めで、まな板を置くスペースも十分にある。何より、窓の外に遮るものがなく、朝日がよく入るのが気に入っていた。
ウェンは袋から食材を取り出しながら、手早くエプロンを身につけた。紺色のシンプルなエプロン。腰の紐を結ぶと、彼の雰囲気がぱっと変わる。
さっきまでの、ふわっとした優しい青年の空気が、ぴんと張り詰めた職人のそれに切り替わる。ミコトはその変化に気づいて、小さく息を呑んだ。
「ウェン、なんか急にかっこよくなったんだけど」
「え、そう? いつも通りだよ」
ウェンは笑いながら、鍋に水を張り、昆布を取り出した。
「今日はね、まず一番出汁を取るところから始める。昆布と鰹節の一番出汁。これが日本料理の基本なんだ」
彼の声が、料理の説明になると早口になる。目つきも真剣だ。
「昆布はね、水からじっくり時間をかけて旨味を出す。沸騰させちゃだめ。六十度から七十度くらいを保つのがポイントでね。今日は時間がないから、少し短めでいくけど、それでも香りはちゃんと出るよ」
ウェンは昆布の表面を軽く拭き、鍋の水に浸した。それから、鰹節の袋を開ける。ふわりと、乾いた鰹の香りが部屋に広がった。
ミコトはキッチンの入り口に立って、その様子を食い入るように見つめている。
「昆布って、拭くの? そのまま入れちゃだめなの?」
「そう、そこ大事! 昆布の表面には白い粉がついてるでしょ。あれは旨味成分の結晶だから、洗っちゃだめなんだ。でも、汚れは取りたいから、固く絞った布巾で軽く拭く。これが基本だよ」
ウェンは目を輝かせて説明する。ミコトは「へえー!」と感心したように何度も頷いた。
ハルトは壁にもたれて、腕を組んだまま二人の様子を見ていた。だが、ウェンの手つきが素人ではないことは、彼にも分かった。包丁を握る手に迷いがない。食材を扱う所作が、無駄なく流れるようだ。
(……まあ、料理だけは本物みたいだな)
ハルトは心の中で、渋々ながらそう認めた。
やがて、昆布の入った鍋がゆっくりと温まり始める。水面に小さな泡がぷつぷつと浮かんでは消える。ウェンは火加減をじっと見つめながら、温度を確認している。
「よし、このくらいかな。昆布を取り出して……ここで鹹節を入れるんだ。一気にどさっとね」
ウェンが鰹節を鍋に入れた瞬間、湯気と一緒に、豊かな出汁の香りが部屋いっぱいに立ち上った。
それは、ただの「いい匂い」ではなかった。昆布のまろやかな甘みと、鰹節の力強い香ばしさが混ざり合った、深くて優しい香り。祖母の台所を思い出す、あの懐かしい匂い。
ミコトの鼻が、すん、と鳴った。
彼女は一瞬、きょとんとした顔をして、それから、みるみるうちに目が潤んでいった。
「……え、なにこれ。泣きそうになったんだけど」
ミコトは慌てて目元をこすった。ネイルの水色ラメが、照明に反射してきらりと光る。
「ミコト、大丈夫?」
「だって、出汁の匂いって、こんなにすごいんだって思ったら、なんか、じーんときて。あたし、生まれて初めて出汁の香りで泣きそうになったわ」
ミコトは鼻をすすりながら、恥ずかしそうに笑った。右の八重歯が、ちらりとのぞく。
ウェンはその様子を見て、胸の奥がじわりと温かくなるのを感じた。
(ああ、この瞬間のために料理してるんだよな)
誰かに自分の料理の原点を見てもらって、その人が素直に感動してくれる。それが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
ハルトもまた、出汁の香りに鼻をひくつかせていた。無意識のうちに、体がキッチンの方へ少し傾いている。
「……ちょっと、味見くらいならしてやってもいい」
ハルトがぶっきらぼうに言った。
「いいよ。はい、どうぞ」
ウェンは小皿に出汁を注いで、ハルトに差し出した。
ハルトは小皿を受け取ると、恐る恐る口をつけた。一口、含む。
彼の眉が、ぴくりと動いた。
口の中に広がる、まろやかな旨味。塩も醤油も入っていないのに、しっかりと味がある。いや、味というより、これは「旨味」だ。舌の上で、とろりと溶けるような感覚。
「……悪くない」
ハルトはそれだけ言うと、小皿をシンクに置いた。だが、その表情はさっきより少しだけ柔らかくなっていた。
「ハル、顔赤いじゃん! 照れてる?」
「ち、違う! 別に照れてないし! ちょっと暑いだけだろ!」
ハルトが声を荒げる。耳の先が真っ赤だ。
ウェンは笑いをこらえながら、出汁を濾して、次の工程に移った。
「さて、じゃあこの出汁で味噌汁と煮付けを作るよ。それから、ミコト、玉ねぎ切ってみる?」
「え、あたしが!? やってみたい! でも、包丁とか握ったことないんだよね」
ミコトは嬉しそうにキッチンへ入ってきた。ウェンは彼女にエプロンを貸し、包丁の持ち方から丁寧に教える。
「包丁はね、柄をしっかり握るんじゃなくて、親指と人差し指で刃の根元を挟むように持つの。そうすると、手首が安定するんだ」
ウェンが自分の手で包丁を持って見せる。ミコトは真似をして、包丁を握った。
その手は、小さく震えていた。
「こ、こわいんだけど。指、切らない?」
「大丈夫。ゆっくりでいいから。猫の手、覚えてる? 切る方の手は、指先を丸めて、こう」
ウェンはミコトの左手をそっと取って、指の形を整えた。ミコトの肩が、びくんと跳ねる。
「……手、あったかい」
ミコトが小さく呟いた。ウェンは気づいていない。
「そうそう、その形。じゃあ、ゆっくり切ってみようか」
ミコトは深呼吸をして、包丁を玉ねぎに当てた。ぎこちない手つきで、ゆっくりと刃を下ろす。ざくっ、という音とともに、玉ねぎが輪切りになった。
「できた! 切れたよ、ウェン!」
ミコトがぱっと顔を輝かせる。
「うん、上手だよ。次はもうちょっと薄く切ってみようか」
ウェンに褒められて、ミコトはますます調子に乗った。だが、調子に乗ると、手元がおろそかになる。
彼女がウェンの方を振り向いた瞬間、包丁が指先をかすめた。
「痛っ!」
ミコトが小さく声を上げた。指先に、うっすらと赤い線が浮かぶ。
「うわ、血!? 血出てる!?」
ミコトが自分の指を顔の前に掲げて、大げさに騒ぎ始めた。実際には、ほんの少し皮が切れた程度で、血も滲むか滲まないかというレベルだ。
だが、その声を聞いた瞬間、ハルトが弾かれたように動いた。
「ミコト!? 大丈夫か!? 消毒液! 消毒液どこだ! 絆創膏は!?」
ハルトはキッチンに飛び込んできて、棚という棚を開け始めた。
「お前、消毒液どこに置いてるんだよ! 早く出せ!」
「え、あ、ちょっと待って。そんなに慌てなくても、大した傷じゃないから……」
「大した傷じゃない!? ミコトの指だぞ! 女の子の指に傷がついたら大問題だろ!」
ハルトは本気で焦っている。顔は青ざめ、目はうるうるしている。
「ハル、あんた、あたしが小学生の頃に転んだ時も、こんな感じで保健室まで走ってったよね。懐かしいわ」
ミコトがけらけらと笑った。
「な、なんで笑ってんだよ! 心配してやってんのに!」
ハルトは涙目で怒鳴った。その姿がおかしくて、ウェンも思わず吹き出してしまう。
「ごめん、ハルトくん。消毒液なら、そこの引き出しの奥にあるよ」
ウェンが指さすと、ハルトは猛スピードで引き出しを開け、消毒液と絆創膏を取り出した。
「ミコト、手を出せ。俺が消毒してやる」
「はいはい、お願いします」
ミコトは笑いながら、ハルトに指を差し出した。ハルトは真剣な顔で、そっと彼女の指先に消毒液を塗り、絆創膏を巻いた。
その一連の動作は、驚くほど丁寧だった。
ウェンはその光景を、少し離れた場所から眺めていた。
(二人とも、本当に仲がいいんだな)
幼馴染特有の、あの独特の距離感。お互いに遠慮がなくて、でも、心の奥では深い信頼で結ばれている。
自分がその輪の中に入れないことに、ほんの少しだけ寂しさを感じた。
いや、寂しさというより、これは……。
ウェンは首を振って、気持ちを切り替えた。
「さて、じゃあ続きは俺がやるね。ミコトは座ってて」
「えー、あたしもっと手伝いたいのに。ごめんね、ドジっちゃって」
「気にしないで。料理は、失敗しながら覚えるものだから。次はもっと上手くできるよ」
ウェンの優しい言葉に、ミコトはぱっと笑顔になった。
それから、ウェンは手際よく料理を進めた。アジを三枚におろし、煮付け用に切り分ける。出汁に醤油とみりん、砂糖を加えて、煮汁を作る。アジを入れて、落とし蓋をして、ことこと煮込む。
その間にも、出汁巻き卵を作る。卵を溶いて、出汁と混ぜ、何度も何度も巻いていく。フライパンの上で、黄色い卵がふわりと膨らむ。
味噌汁には、豆腐とネギ、それから市場で買ったあさりを入れた。あさりの出汁が加わって、味に深みが出る。
キッチンから漂う匂いが、どんどん食欲をそそるものに変わっていく。
ミコトはテーブルに座って、その様子をじっと見つめていた。ハルトも、いつの間にか椅子に座って、キッチンの方を見ている。
「すごい。ウェンの料理、魔法みたい。どんどん美味しそうになっていく」
ミコトがうっとりした声で言った。
やがて、すべての料理が完成した。
テーブルの上に、湯気を立てる料理が並ぶ。
アジの煮付け。出汁巻き卵。あさりの味噌汁。それから、付け合わせのほうれん草のおひたしと、ご飯。
「じゃあ、いただきます! って、その前に」
ウェンは冷蔵庫から、よく冷えた麦茶の入ったグラスを三つ取り出した。
「これ、うちの定番。まずは乾杯タイム!」
ウェンがグラスを掲げる。ミコトも笑顔でグラスを持ち上げた。
「乾杯! って、麦茶で乾杯とか、初めてだわ!」
ハルトは渋々といった様子で、グラスを軽く上げた。
「まあ、俺の配信はいつもこうだから。さあ、冷めないうちに食べよう」
三人は同時に箸を取った。
ミコトが最初に手を伸ばしたのは、出汁巻き卵だった。ふわふわの卵を一口サイズに切って、口に運ぶ。
もぐもぐと噛む。
次の瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「なにこれ!? ふわっふわ! 卵が口の中で溶ける! 出汁の味がじゅわって広がる!」
ミコトは大げさなほど感激して、何度も頷いた。
「それは良かった。出汁を多めに入れたから、ふわふわに仕上がったんだよ」
ウェンは嬉しそうに言った。
次にミコトは、アジの煮付けに箸を伸ばした。
「これも美味しい! 魚って、こんなに柔らかいんだ! 味が染みてて、ご飯が進む!」
ミコトは一口食べるたびに、大げさなほど感激の声を上げた。その反応が、ウェンにはたまらなく嬉しい。
ハルトは黙々と食べていた。無言で、しかし箸の進みは速い。
「……味付けは、悪くない」
ハルトが、ぽつりと言った。
「ハル、おかわりしてるじゃん。それ、悪くないって言いながら、めっちゃ食べてるよね?」
ミコトが指摘すると、ハルトの手が止まった。
「べ、別に! 腹が減ってただけだし! おかわりは、その、普通だろ!」
ハルトは耳を赤くして、ご飯をおかわりした。
ウェンは笑いながら、自分の分の煮付けを口に運んだ。
(うん、今日もいい出来だ)
出汁の香りが、鼻から抜ける。アジの身が、ほろりと崩れる。
食事が進むにつれて、三人の会話も弾んでいった。
話題は、自然と「次の旅先」の話になった。
「そういえば、ウェンの旅の相棒、まだ決まってないんだよね? あたし、立候補してるんだけど」
ミコトが、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「うん、ありがとう。でも、まだどこに行くかも決めてないんだ。次の配信で、視聴者に聞いてみようかなって思ってる」
「海とかどう? 海! 今の季節、海の町って最高じゃない? 配信映えもするし!」
ミコトが身を乗り出して言った。
「海かあ。いいね。そういえば、シオハマって町が最近、配信者の間で話題になってるらしいよ」
ウェンが何気なく言った。
その瞬間、ミコトの動きが止まった。
「……え、ウェン、シオハマ知らないの?」
「え? うん、名前は聞いたことあるかも。でも、どこにあるのかもよく知らない」
ウェンが正直に答えると、ミコトはぱっと笑顔になって、スマホを取り出した。
「シオハマはね、海沿いの小さな町で、すっごくいいところなんだって! 古い食堂とかあって、地元の魚料理が美味しいらしいよ! ほら、この写真見て!」
ミコトはスマホの画面をウェンに向けた。そこには、青い海と、小さな漁港の写真が映っていた。
「海、すごく綺麗! これ、シオハマの漁港だって。夕陽がめっちゃ綺麗なんだって!」
ミコトは楽しそうに、次々とシオハマの情報を調べて見せた。
ウェンはその画面を覗き込みながら、ふむふむと頷いた。
「へえ、いい町だね。古い食堂があるなら、地元の味を教えてもらえるかも」
「でしょ!? あたし、シオハマ行ってみたい! ウェン、次の旅、シオハマにしない?」
ミコトがウェンの腕に、そっと触れた。
その瞬間、ハルトの箸が、ぴたりと止まった。
彼の顔から、さっと血の気が引いていく。
(ウェンとミコトが、二人で旅に……?)
想像しただけで、胸が締め付けられる。海の町。民宿。夕陽。二人きり。
ダメだ。絶対にダメだ。
ハルトは箸を握る手に力を込めた。指先が白くなる。
「お、俺も行く!」
ハルトが突然、声を張り上げた。
ウェンとミコトが、同時にハルトの方を見る。
「え、ハルも? どうしたの、急に」
「どうしたもこうしたもないだろ! お前とこいつが二人で旅とか、絶対にダメだ! 俺も同行する!」
ハルトは立ち上がって、ウェンを指さした。目がうるんでいる。
「ハル、なに言ってんの。まだ旅に行くって決まったわけじゃないし」
「決まったら困るんだよ! だから、俺も行くって言ってるんだ!」
ハルトの剣幕に、ウェンは思わず笑ってしまった。
「あはは、ハルトくんも一緒なら、三人で行くのも楽しそうだね。三人なら、寂しくないかも」
ウェンは本心からそう言った。
だが、その言葉が、ハルトの逆鱗に触れた。
「な、なんでお前が嬉しそうなんだよ! 俺はお前と仲良くする気はない! 俺はただ、ミコトを守るために行くだけだ!」
ハルトは涙目で叫んだ。声が震えている。
その姿があまりにも必死で、ミコトは腹を抱えて笑い出した。
「あははは! ハル、顔真っ赤! 涙出てるし! なんでそんなに必死なの!」
ミコトが大爆笑する。ウェンも、つられて笑ってしまった。
「ごめん、ハルトくん。悪気はないんだ。ただ、本当に三人で行けたら楽しいなって思って」
「うるさい! お前は黙ってろ!」
ハルトは怒鳴ったが、その顔は涙と怒りと恥ずかしさでぐちゃぐちゃだった。
ひとしきり笑った後、ミコトは涙を拭いながら言った。
「まあ、ハルがそんなに言うなら、三人で行くのもアリかもね。あたし、ウェンと二人でもいいけど、ハルがいると賑やかで楽しそうだし」
ミコトの言葉に、ハルトの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……俺は、お前のことは認めてないからな。でも、ミコトが行くなら、俺も行く。それだけだ」
ハルトはウェンから視線を外して、ぶっきらぼうに言った。
ウェンは微笑みながら、ハルトの空になった茶碗を見た。
「ハルトくん、おかわりいる?」
「……いらない」
そう言いながらも、ハルトの目は、まだ煮付けの皿をちらちらと見ていた。
ウェンは笑いをこらえて、ハルトの茶碗にご飯をよそった。
「まあまあ、遠慮しないで。今日はたくさん作ったから」
ハルトは一瞬迷った後、黙って茶碗を受け取った。
食卓に、再び笑い声が響く。
ウェンは、この時間がとても心地よかった。
一人で食べるご飯も好きだ。静かで、自分のペースで味わえる。
でも、誰かと一緒に食べるご飯は、それとは全然違う。
笑い声。箸の音。おかわりの催促。
そんな何気ない音が、料理を何倍にも美味しくしてくれる。
(誰かと食卓を囲むって、こんなに温かいんだな)
ウェンは、心の底からそう思った。
食事が終わり、後片付けを済ませると、外はすっかり暗くなっていた。
ミコトとハルトは、玄関で靴を履いている。
「ウェン、今日は本当にありがとう! ご飯、すっごく美味しかった! あたし、出汁のこともっと勉強したくなった!」
ミコトが振り返って、満面の笑みを見せた。
「こちらこそ、来てくれてありがとう。またいつでもおいでよ」
「絶対また来る! 今度はあたしも、もっと料理手伝うから!」
ミコトはそう言って、ぴょんと跳ねるように外へ出た。
ハルトはウェンの方を一瞥した。
「……今日のところは、礼を言っておく。飯は、まあ、悪くなかった」
ハルトはそう言って、靴を履いた。
そして、玄関を出る間際に、小さく、本当に小さく呟いた。
「……ごちそうさま」
その声は、ウェンにだけ聞こえた。
ウェンは驚いて、ハルトの背中を見送った。
(ハルトくん、意外と素直なところあるんだな)
ウェンは小さく笑って、玄関の鍵を閉めた。
部屋に戻ると、さっきまでの賑やかさが嘘のように、静けさが広がっていた。
テーブルの上には、きれいに空になった食器が重ねられている。
ウェンは窓を開けて、夜風を入れた。
遠くで、電車の走る音が聞こえる。
彼は配信デスクに座り、パソコンを起動した。今日の出来事を、配信で話そうと思ったのだ。
だが、その前に、スマホを確認する。
画面に、通知が一件届いていた。
ミルヴューからのDM。
差出人は、見覚えのない匿名ユーザー。
ウェンは首をかしげながら、そのメッセージを開いた。
『シオハマの古い食堂が、土地ごと売りに出されている。あの町の出汁が失われる前に、一度行ってみるといい。』
短い文面だった。絵文字もなければ、挨拶もない。
それでいて、どこか丁寧な、書き慣れた感じのする文章。
ウェンは、スマホを握る手に、じわりと汗が滲むのを感じた。
(シオハマの、古い食堂……?)
さっき、ミコトと話したばかりの町の名前。
偶然?
いや、あまりにもタイミングが良すぎる。
ウェンはDMの送り主のプロフィールを確認した。フォロワーはゼロ。投稿もゼロ。作られたばかりのアカウントだった。
背中に、冷たいものが走る。
(誰が、何のために、こんなことを……)
ウェンは窓の外を見た。
暗い夜の向こうに、街の明かりがぽつぽつと瞬いている。
シオハマ。
海沿いの小さな町。
古い食堂。
土地ごと売りに出されている。
ウェンの胸に、言い知れぬ不安が広がっていく。
(あの町で、何かが起きているのかもしれない)
彼はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐いて、パソコンの画面に向き直る。
配信の準備を始めよう。
そして、視聴者に聞いてみよう。
シオハマという町のことを。
古い食堂のことを。
ウェンは、カメラの電源を入れた。
部屋の照明が、彼の顔をやわらかく照らす。
胸の奥で、小さな警鐘が、静かに鳴り続けていた。Noveliaとは?
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