乾杯タイムは、まだ二度目
乾杯の合図とともに配信を始める青年・赤城ウェン。旅と料理をこよなく愛する彼の夜の配信は、どこか静かで、どこか寂しい。祖母から受け継いだ出汁の味、一人分の食卓、カメラ越しに繋がる視聴者たち――そんな穏やかな日々の中で、彼はふと零す。「美味しいものは、誰かと食べた方がもっと美味しいんだろうな」と。
その一言をきっかけに、ウェンは配信で"旅の相棒"を募集することに。半ば勢いだった呼びかけに応えたのは、まさかの学園の人気配信者・三森ミコトだった。ギャルらしい明るさの奥に、彼女もまた何かを抱えているようで――。
出汁の香りとカメラのレンズ、ふたつのグラスで交わす二度目の乾杯。すれ違いながらも少しずつ近づいていく、不器用な配信者と人気者の、旅と料理と恋のものがたり。
「乾杯」は、まだ始まったばかり。
乾杯タイムは、まだ二度目 - 波の果ての乾杯と、買い取られる出汁
朝の光が、障子を通して畳に白い四角を落としていた。
波の音が、遠くで何度も繰り返す。ザァ、ザァ、と引いては返すその音を、赤城ウェンは布団の中で聞いていた。目は覚めている。いや、一睡もしていない。瞼の裏に、昨日の漁港の夕陽が張り付いて離れない。沈んでいく看板。あの時、手を伸ばせなかった自分の手。
(今日が、本番だ)
大漁祭。シオハマの町が一年で一番活気づく日。潮風食堂の味を、町の人たちに、タイガに、届けるための一日。そのはずなのに。
ウェンはゆっくりと起き上がり、民宿ナミマの廊下を抜けて、共有の小さな台所へ向かった。ガス台の前に立つ。味噌汁を作ろうと、鍋に水を張った。菜箸を手に取る。
——カタン。
菜箸が、指から滑り落ちた。
(まただ)
包丁を握ろうとすると、指先が氷のように固まる。呼吸が浅くなる。あの日の「味なんて、どうでもいい」という言葉が、耳の奥で木霊する。
「……っ」
ウェンは台所にしゃがみ込んだ。菜箸を拾おうとして、指が震えて掴めない。まるで自分の手じゃないみたいだ。
「ウェン」
声がして、振り返る。
三森ミコトが立っていた。寝起きのままの、ふわふわのギャル巻きヘア。左耳の星形ヘアピンが、朝の光をちかりと反射する。大きなヘーゼル色の瞳が、まっすぐにウェンを見ていた。
「……おはよう。ごめん、起こした?」
ウェンは無理に笑おうとした。うまく笑えているか、分からない。
「ねえ、ウェン。あたし、見てたんだよ。ずっと、ここから」
ミコトが、ゆっくりと近づいてくる。裸足の足音が、ひたひたと廊下に響いた。
「包丁、握れないんでしょ。あたし、知ってた。昨日の夜、ウェンが一人で台所に立って、ずっと手を見てたの」
「……違うよ。ちょっと、寝ぼけてただけだよ」
「嘘つかないで!」
ミコトの声が、台所に鋭く響いた。
ウェンは、言葉を失った。
ミコトは、そのままウェンの正面に座り込んだ。畳に膝をついて、ウェンの両手を、ぎゅっと握る。彼女の指は、温かかった。
「あたしね、ウェンの料理で、初めてご飯がおいしいって思ったんだよ」
ミコトの声が、震えていた。
「コンビニ弁当しか食べたことなかったあたしが、ウェンの作った出汁巻き卵食べて、うわ、これ生きてる味だって思ったの。あたし、それまでご飯って、ただお腹に入れるものだと思ってた。でも違った。あったかくて、優しくて、誰かが作ってくれた味って、こんなに嬉しいんだって」
大粒の涙が、ミコトの頬を伝って、握ったウェンの手の甲に落ちた。熱い。
「だから、お願い。あたしに、また食べさせて。ウェンの料理を、みんなに食べさせてよ。あたし、ウェンの料理が好きなの。一番好きなの」
ウェンの胸の奥で、何かが、音を立てて割れた。
氷のように固まっていた何かが、ぱきん、と。
視界が、滲んだ。
「……ありがとう」
ウェンは、やっとの思いで、それだけを言った。
涙が、一粒だけ、こぼれた。
でも、指先は、まだ震えていた。
---
午前八時。
真田ハルトが、民宿の玄関に飛び込んできた。息を切らし、刈り上げた黒髪が汗で張り付いている。眉間に深いしわが刻まれ、一重の目が、怒りと焦りでぎらついていた。
「おい、みんな! 大変だ! 会場が変わってる!」
ハルトの絶叫に、全員が振り返った。
「会場が? どういうこと?」
「マサキの野郎だ! あいつ、設営業者に金を握らせて、祭りの場所を漁港のカモメ広場から旧シオハマ小学校に変更させやがったんだ! 今朝、漁港に行ったら誰もいなくて、変だと思って町役場に聞いたら、昨日の夕方に申請が書き換えられてた!」
ハルトの声が、怒りで裏返っている。
「そんな……だって、今日はもう始まるのに」
サナが、青ざめた顔で呟いた。くすんだ黒髪のボブが、小さく揺れる。白い割烹着の袖を、ぎゅっと握りしめていた。
「旧小学校は、駅から徒歩十五分の高台です。観光客が集まる漁港からは、かなり離れています」
レナが、静かな声で言った。焦げ茶色のポニーテールを、きゅっと結び直している。腰の包丁袋に手をやり、その瞳は冷たく澄んでいた。
「あの男、最初から祭りを潰す気だったんだ。観光客を漁港に集めて、俺たちの料理を誰にも食わせないように」
ハルトが、唇を噛んだ。
「どうしよう……もう、無理かもしれない」
サナの声が、消え入りそうになる。
「サナさん」
レナが、サナの前に立った。
「私は、露店用のガス台と寸胴を借りてきます。場所が変わったなら、私たちも行き先を変えるだけです」
レナの声は、淡々としていた。まるで、朝の出汁を引く時のような、揺るぎない静けさ。
「レナちゃん……」
ミコトが、レナを見つめた。
「私の一番出汁は、どこでだって引けます。旧小学校の校庭だろうと、山の頂上だろうと。場所に味は左右されません」
レナは、それだけ言うと、民宿の玄関を出て行った。
その後ろ姿を、ウェンは呆然と見ていた。
(レナは、もう戦っている)
(この町の人間でもないのに。ただ、出汁のために)
胸の奥が、熱い。悔しい。自分だけが、包丁を握れない。
「私も行きます」
サナが、顔を上げた。
「リヤカーに、レシピノートと看板を載せて、旧小学校まで走ります。あの看板は、兄が海に沈めたものじゃありません。私が、もう一度作ったんです」
サナの瞳に、強い光が宿っていた。
「あたしも! ウェン、行こう! 手、引くから!」
ミコトが、ウェンの手を取った。
「俺が先導する。魚は俺が背負ってく。幻の魚じゃねえけど、今朝、漁港で一番新鮮なアラを分けてもらったんだ」
ハルトが、玄関の外から声を張り上げた。その背中には、ずっしりと重そうな発泡スチロールの箱があった。
ウェンは、自分の手を見た。
まだ、震えている。
でも、ミコトの手が、それを包み込んでいた。
---
旧シオハマ小学校の校庭は、思ったより広かった。
三年前に廃校になった木造校舎が、高台の上で海を見下ろしている。校庭の端には、漁港から移設されたらしい小さなステージが組まれていた。だが、人の姿はまばらだ。地元の老人が数人と、様子を見に来た観光客がちらほら。漁港で予定されていた賑わいは、どこにもない。
「やあ、君たち。遅かったじゃないか」
その声に、全員の動きが止まった。
マサキが、校舎の入り口に立っていた。
三十五歳前後。丁寧に撫でつけられた黒髪。安っぽくないが、高級でもないスーツ。その口元には、薄い笑みが張り付いている。
「場所が変わって驚いただろう? いやあ、役場の手続きってのは融通が利かなくてね。急な変更で、皆さんには迷惑をかけた」
マサキが、ゆっくりと近づいてくる。
「テメエ……よくも、ぬけぬけと」
ハルトが、発泡スチロールの箱を地面に置き、マサキに詰め寄ろうとした。
「おや、真田くん。そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃないか。私はただ、町のためを思ってね。漁港よりも、この高台の方が風通しが良くて、料理の香りが遠くまで届くだろう?」
「ふざけるな! お前、設営業者に金を握らせて、わざと会場を変えたんだろ!」
ハルトの怒声が、校庭に響いた。
マサキは、笑みを崩さなかった。
「人聞きの悪い。証拠でもあるのかい? それより、君たちに一つ、いい知らせがあるんだ」
マサキは、スーツの内ポケットから一枚の紙を取り出した。
「浜野タイガくんがね、土地売却の書類に、印を押したんだよ。これで、潮風食堂の土地は、正式に私たちカイエン・デベロップが買い取ることになった」
サナの顔から、血の気が引いた。
「うそ……兄さんが……」
サナが、よろめいた。ミコトが、とっさに彼女の肩を支える。
「残念だったね、お嬢さん。でも、これが現実だ。古い食堂に、未来はない。町のためには、新しいリゾートが必要なんだよ」
「嘘よ! タイガさんが、そんなことするはずない!」
ミコトが、叫んだ。
「信じる信じないは、君たちの自由だ。でも、事実は事実だよ。ほら、ここに、彼の署名がある」
マサキが、紙をひらひらと揺らした。
その瞬間。
「——それは、偽物だ」
低い声が、校舎の中から響いた。
全員が、校舎の入り口を見た。
浜野タイガが、立っていた。
二十二歳。短く刈り込んだ髪。鋭い目つき。だが、その目には、昨日までの迷いが消えていた。
「タイガ……くん?」
マサキの笑みが、初めて、凍りついた。
タイガは、無言でマサキに歩み寄ると、その手から紙を奪い取った。
そして、ビリ、ビリ、と音を立てて、破り捨てた。
「俺は、土地を売らねえ。書類には、印なんて押してねえよ。お前が持ってるのは、俺の名前を勝手にコピーした偽物だ」
タイガの声は、冷たく、しかし、確かな強さがあった。
「潮風食堂は、俺が守る。妹と、あの味を、これ以上お前に好き勝手にさせるわけにはいかねえ」
紙片が、風に舞った。
マサキの顔から、笑みが消えた。
「……そうかい。だがね、タイガくん。土地を売らないというのなら、それで結構。だが、君たちの料理を食べる者は、この町にはいないよ」
マサキが、もう一枚、紙を取り出した。
「これは、私が独自に実施したアンケート調査の結果だ。『あなたは、潮風食堂の料理を食べたいと思いますか?』という問いに対し、なんと九十三パーセントの町民が、『いいえ』と答えた。古い食堂の味に、興味はない。みんな、新しい味を求めているんだよ」
マサキが、わざとらしく、大きな声で読み上げた。
校庭に集まっていた町民たちが、ざわめいた。
「……九十三パーセントも?」
「そりゃあ、潮風食堂は、もう古いからなあ」
「でも、あのアラ汁は、うまかったけど……」
ささやきが、波のように広がる。
空気が、凍りついていく。
ウェンは、指先を見た。
震えが、止まらない。
(また、だ)
(俺の料理なんて、誰も望んでない)
(味なんて、どうでもいいんだ)
あの言葉が、頭の中で、ぐるぐると回る。
その時。
「——待ってください」
サナが、一歩、前に出た。
彼女の手には、古びたノートがあった。
「皆さん、聞いてください。これは、私の曾祖父が、百年かけて書き綴ったレシピノートです」
サナの声は、震えていた。でも、止まらなかった。
「曾祖父は、このノートの最後に、こう書きました。『海を見ながら食べる飯は、なんでもうまい』と」
サナは、ノートを、群衆の前に、打ち捨てた。
パサリ、と音を立てて、ノートが地面に落ちる。
「私たちの料理は、特別なものじゃありません。でも、海を見ながら、家族や友達と一緒に食べる。それだけで、どんな飯も、ごちそうになるんです。曾祖父は、そう信じて、百年、この町で料理を作ってきました!」
サナの叫びが、高台の風に乗って、海へと流れていく。
「お願いします。私たちのアラ汁を、一口でいいから、食べてください。曾祖父の味を、私の味を、兄が守ろうとしている味を、どうか!」
校庭が、静まり返った。
波の音だけが、遠くで、ザァ、ザァ、と繰り返す。
ウェンは、サナの背中を見ていた。
(海を見ながら食べる飯は、なんでもうまい)
その言葉が、胸の奥に、染み込んでいく。
ふと、脳裏に浮かんだのは、祖母の台所だった。
朝、目を覚ますと、味噌汁の香りがした。
「おはよう、ウェン。今日は、お前の好きな、あさりの味噌汁だよ」
祖母は、いつも笑っていた。
湯気の立つ白米。小さな茶碗。自分の席。
(俺の料理を、最初に待っていてくれたのは)
(視聴者でも、客でもなかった)
(いつも、笑ってくれた、おばあちゃんだった)
——ストン。
何かが、胸の奥で、静かに落ち着いた。
指先の震えが、止まった。
「……サナちゃん」
ウェンは、一歩、前に出た。
「俺にも、作らせて」
サナが、振り返った。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも、笑った。
「……はい!」
---
ガス台に、火が点いた。
寸胴に、水が張られる。
ウェンの指が、昆布に触れた。
(これでいい。これが、俺の出汁だ)
乾物屋で仕入れた、厚みのある真昆布。水から、じっくりと、時間をかけて。
「ウェン先生、私の一番出汁を、お使いください」
レナが、寸胴を差し出した。
夜通し、漉し続けたという一番出汁。昆布と鰹節の、澄み切った黄金色。
「レナ、これ、いつから……」
「昨日の夜からです。ウェン先生が、もう一度、包丁を握ってくれると信じていましたから」
レナの頬が、ほんのりと赤い。
「レナちゃん、顔赤いよ」
ミコトが、横から覗き込んだ。
「なっ、これは、火の熱です!」
レナが、声を荒げた。
「はいはい、二人とも! 魚、持ってきたぞ!」
ハルトが、発泡スチロールの箱を開けた。
中には、今朝、水揚げされたばかりの、大きなアラが一匹。銀色の鱗が、朝日を受けて、きらきらと輝いている。
「ありがとう、ハルト。これ、すごくいい魚だよ。脂の乗り方が違う」
ウェンは、アラの腹に手を当てた。
「だろ? 俺が、漁師のおっちゃんに、土下座して分けてもらったんだよ。『幻の魚は無理でも、一番うまいアラをくれ』ってな」
ハルトが、鼻の頭をかいた。
「ハル、あんた、そんなことしてたの?」
ミコトが、目を丸くした。
「うるせえ。俺だって、やる時はやるんだよ」
ハルトが、照れ隠しのように、顔を背けた。
「さあ、やろう。みんなで、一番うまいアラ汁を作るんだ」
ウェンは、包丁を握った。
柄が、手に吸い付く。
震えは、もう、なかった。
---
アラを、さばく。
頭を落とし、三枚に下ろす。骨から、いい出汁が出る。
ウェンの包丁さばきは、迷いがなかった。
ザク、ザク、と、小気味よい音が、校庭に響く。
「……すげえ」
ハルトが、呟いた。
「ウェン、かっこいい! あたし、この包丁の音、好き!」
ミコトが、目を輝かせた。
「……さすがです、ウェン先生。基本ができている」
レナが、うっとりとした表情で、ウェンの手元を見つめている。
「私も、お手伝いします。野菜を切りますね」
サナが、大根と人参を手に取った。
「俺も、何かやる。……何をすればいい?」
タイガが、不器用そうに、エプロンを手に取った。
「兄さん……」
サナが、タイガを見た。
「勘違いするな。俺は、お前の味を、確かめたいだけだ。それに、この男の料理が、本当にうまいのか、見届けてやる」
タイガは、そう言って、ウェンを睨んだ。
だが、その目は、昨日までの冷たさとは、少し違っていた。
「じゃあ、タイガさんは、お椀の準備をお願いします。あと、箸も。数が多いから、大変だけど」
ウェンが、笑った。
「……分かった」
タイガが、素直に頷いた。
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寸胴の中で、一番出汁が、静かに沸騰し始める。
昆布の香り。鰹節の香り。そして、干し椎茸の、甘い香り。
「いい匂い! やば、お腹すいてきた!」
ミコトが、寸胴の前で、ぴょんぴょん跳ねた。
「この香りです。これが、潮風食堂の味の、土台です」
レナが、深く息を吸い込んだ。
「曾祖父も、この香りを、百年間、嗅いでいたんですね」
サナが、目を閉じた。
「さあ、アラを入れるよ。ここからが、勝負だ」
ウェンは、下ろしたアラの骨と身を、寸胴に投入した。
ジュッ、と音がして、湯気が、一気に立ち上る。
校庭に、出汁の香りが、広がっていく。
町民たちが、ざわざわと、集まってきた。
「なんだ、この匂い……」
「うまそうだな……」
「潮風食堂の、アラ汁の匂いだ……」
さっきまで、マサキの言葉に、疑いの目を向けていた人々の表情が、変わっていく。
「……何をしている。その料理は、誰も食べないと言っているだろう」
マサキが、声を張り上げた。
だが、もう、誰も、彼の言葉に耳を貸そうとはしなかった。
「食べるかどうかは、食べてから決めればいい。そうでしょう?」
ウェンは、マサキをまっすぐに見た。
「俺たちは、ただ、一番うまいアラ汁を作るだけです。それを食べるかどうかは、皆さんの自由だ」
ウェンの声は、穏やかだった。
でも、その瞳には、揺るぎない自信があった。
---
完成したアラ汁を、サナが、一人ひとりに振る舞う。
「どうぞ。熱いので、お気をつけてください」
最初は、怖がっていた町民たち。
一人が、恐る恐る、お椀に口をつけた。
「……うまい!」
その一言が、静寂を破った。
「なんだこれ! 出汁が、すごく澄んでる!」
「アラの身が、ほろほろだ! こんなの、初めて食べた!」
「これが、潮風食堂の味なのか? 俺、子供の頃に食べた、あの味だ!」
次々と、歓声が上がる。
一口食べるたびに、町民たちの顔が、笑顔に変わっていく。
「……これは、本物だ」
地域の市議が、お椀を置いて、深く息を吐いた。
「この味を、この町から失わせるわけにはいかない。私が、潮風食堂の存続に、全面的に協力しよう」
市議の言葉に、町民たちから、拍手が沸き起こった。
「やった! やったよ、ウェン!」
ミコトが、ウェンの腕に、飛びついた。
「わ、ちょっと、危ないよ」
ウェンは、笑いながら、ミコトを受け止めた。
「……よかった。本当に、よかった」
サナが、涙をこぼしながら、笑った。
「……お前の味は、本物だ」
タイガが、サナの肩を、そっと抱いた。
「兄さん……」
「俺が、間違ってた。お前の味は、町の味だ。曾祖父の味だ。……俺は、それを、守りたかっただけなのに、壊そうとしてた」
タイガの声が、震えていた。
「兄さん……!」
サナが、タイガの胸に、飛び込んだ。
二人は、校庭の真ん中で、泣きながら抱き合った。
---
夕方。
ウェンたちは、潮風食堂の前にいた。
タイガが、自らの手で、新しい看板を、店先に打ち直す。
カン、カン、と、釘を打つ音が、静かな坂道に響いた。
「これで、よし」
タイガが、一歩下がって、看板を見上げた。
『潮風食堂』
その文字が、夕陽を受けて、金色に輝いていた。
「わあ、きれい! 新しい看板、すごくいい!」
ミコトが、拍手した。
「この看板は、もう、海に沈まないですね」
レナが、静かに言った。
「……はい。もう、大丈夫です」
サナが、看板を見上げて、笑った。
ウェンは、その光景を、少し離れた場所から見ていた。
(よかった)
心から、そう思った。
「ねえ、ウェン! あたし、おにぎり作ってきたんだ! 食べて!」
ミコトが、ラップに包まれたおにぎりを、差し出した。
「ミコトが? 作ってくれたの?」
ウェンは、驚いて、おにぎりを受け取った。
「うん! あたしも、何かしたくて! サナちゃんに教えてもらって、がんばったんだから!」
ミコトが、胸を張った。
ウェンは、おにぎりを一口、かじった。
……固い。
そして、しょっぱい。
コンビニのおにぎりより、ずっと固くて、ずっとしょっぱい。
「……うん、おいしいよ」
ウェンは、笑った。
心から、笑った。
「ほんと!? やった! あたし、才能あるかも!」
ミコトが、飛び上がって喜んだ。
その無邪気な笑顔を見て、ウェンは、また笑った。
(勝負の後の、普通の食卓が、一番のごちそうだ)
---
夜。
民宿ナミマの、ウェンの部屋。
ウェンは、久しぶりに、配信機材をセットした。
スマホのカメラを、三脚に固定する。
「……よし。これで、大丈夫かな」
ウェンは、配信プラットフォーム「ミルヴュー」のアプリを起動した。
『赤城ウェンの乾杯タイム』
配信タイトルを入力し、配信ボタンを押す。
「ちゅーっす、ウェンでーす! お久しぶりです! 今日は、みんなと一緒に、乾杯タイムをやりたいと思います!」
コメント欄が、一気に流れ始めた。
『おかえり!』『ずっと待ってた!』『ご飯まだですか?』『ウェンくん、痩せた?』
「ただいま! いやあ、色々あったんだけど、今日は、最高の一日だったんだよ。あ、みんな、こっち来て!」
ウェンが、部屋の隅に手を振った。
ミコト、ハルト、レナ、サナが、カメラの前に集まってくる。
「ちゅーっす! 三森ミコトでーす! みんな、見てるー?」
ミコトが、カメラに向かって、ピースサインをした。
「お、俺は、真田ハルトだ。別に、配信者じゃねえけど」
ハルトが、照れながら、手を振った。
「霧島レナです。本日は、ウェン先生の一番出汁を、お届けしました」
レナが、丁寧に、お辞儀をした。
「浜野サナです。今日は、皆さんのおかげで、食堂を守ることができました。ありがとうございます」
サナが、深々と、頭を下げた。
コメント欄が、さらに加速する。
『え、美女しかいないんだけど』『ハーレム?』『ウェンくん、何してたの?』
「まあまあ、みんな、今日は、シオハマの大漁祭で、アラ汁を振る舞ってきたんだよ。これが、大成功でね。潮風食堂も、存続が決まったんだ!」
ウェンは、笑顔で、今日の出来事を語った。
「それで、それで! ウェン、乾杯の音頭、取ってよ!」
ミコトが、ジュースの紙コップを、掲げた。
「そうだね。じゃあ、みんな、紙コップ持って! ハルト、レナ、サナちゃんも!」
ウェンは、自分の紙コップに、麦茶を注いだ。
五人が、それぞれの紙コップを、カメラの前に掲げる。
「じゃあ、いくよ! これ、いい出汁出てる! まずは乾杯タイム! かんぱーい!」
「「「「「かんぱーい!」」」」」
五つの紙コップが、カメラの前で、こつん、と音を立てた。
コメント欄が、祝福の言葉で、埋め尽くされていく。
『おかえり!』『乾杯!』『これからも応援してる!』
「ありがとう、みんな! それでね、今日、みんなに、報告したいことがあるんだ」
ウェンは、カメラをまっすぐに見た。
「俺、次の旅も、みんなと一緒に行きたい。ミコトと、ハルトと、レナと、サナちゃんと。五人で、次の町へ。そして、次の町でも、乾杯タイムをやりたいんだ」
ウェンの言葉に、ミコトが、顔を輝かせた。
「それ、あたしも! 絶対、行く!」
「俺も、行くに決まってんだろ。お前を一人で行かせたら、何するか分からねえ」
ハルトが、笑った。
「私も、もちろん、ご一緒します。ウェン先生の出汁を、もっと学びたいですから」
レナが、真剣な顔で、頷いた。
「私も……私も、行きたいです。皆さんと、もっと、いろんなところへ」
サナが、小さく、でも、はっきりと、言った。
コメント欄が、さらに、盛り上がる。
『次の旅、楽しみ!』『みんな仲良し!』『ウェンくん、恋人いるの?』
そのコメントを見た瞬間。
ミコトとレナが、同時に、カメラに顔を寄せた。
「え、ちょっと、それ、どういう意味?」
「恋人は、いません。ウェン先生には、まだ、恋人はいません」
「おい、てめえら、カメラの前で何してんだ! ウェン、お前、なんとか言えよ!」
ハルトが、画面の外で、叫んでいる。
「え、なに、どうしたの、みんな? あはは、まあ、恋人かあ。今は、料理と旅と、みんなとの乾杯タイムが、一番楽しいかな!」
ウェンは、何も気づかずに、笑った。
五人の賑やかな笑い声が、民宿の小さな部屋に、いつまでも響いていた。
---
翌朝。
ウェンは、民宿の縁側で、海を眺めていた。
朝の海は、穏やかだった。
昨日の興奮が、嘘のように、静かな波が、岸に打ち寄せている。
ブブッ。
スマホが、震えた。
ウェンは、画面を見た。
『山下商事』
見知らぬ名前からの、DMだった。
ウェンは、何気なく、それを開いた。
そして、息が、止まった。
『赤城ウェン様
初めまして。カイエン・デベロップ代表取締役、宮前シンジと申します。
昨日は、シオハマの大漁祭、盛況だったようで、何よりです。
本日は、お願いがあって、ご連絡しました。
潮風食堂のレシピノートを、100万円で、お譲りいただけませんか。
もし、お譲りいただけない場合は、残念ですが、シオハマの土地開発を、予定通り、強行させていただきます。
祭りが成功した町の土地を、買い叩くのは、少々、心が痛みますが、ビジネスですので。
それと、一つ、忠告です。
レシピノートの最後の数ページに記された、隠し味の記述。
あれは、我々にしか解けない暗号です。
近々、直接、お会いしましょう。
宮前シンジ』
ウェンの指先が、冷たくなった。
(レシピノートを、100万円で……)
(応じなければ、土地を、買い叩く……)
(隠し味の記述は、我々にしか解けない暗号……)
ウェンは、自分の鞄から、祖母のレシピノートを取り出した。
そして、隣に置いてあった、サナの曾祖父のレシピノートのコピーを、手に取る。
二冊のノートを、交互に見つめる。
祖母のノートの、最後のページ。
サナの曾祖父のノートの、最後の数ページ。
そこには、同じような、独特の出汁の配合が、記されていた。
昆布。鰹節。干し椎茸。
そして、もう一つ。
解読できない、記号の羅列。
(あの解読不能なページが、おばあちゃんの出汁と、繋がっている)
(隠し味の暗号……)
ウェンは、二冊のノートを、ぎゅっと握りしめた。
「……みんな、次の旅は、もう始まってるみたいだ」
ウェンは、静かに、呟いた。
朝日が、海面に、金色の道を作っていた。
その光の先に、次の戦いが、静かに、待っていた。Noveliaとは?
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