乾杯タイムは、まだ二度目
乾杯の合図とともに配信を始める青年・赤城ウェン。旅と料理をこよなく愛する彼の夜の配信は、どこか静かで、どこか寂しい。祖母から受け継いだ出汁の味、一人分の食卓、カメラ越しに繋がる視聴者たち――そんな穏やかな日々の中で、彼はふと零す。「美味しいものは、誰かと食べた方がもっと美味しいんだろうな」と。
その一言をきっかけに、ウェンは配信で"旅の相棒"を募集することに。半ば勢いだった呼びかけに応えたのは、まさかの学園の人気配信者・三森ミコトだった。ギャルらしい明るさの奥に、彼女もまた何かを抱えているようで――。
出汁の香りとカメラのレンズ、ふたつのグラスで交わす二度目の乾杯。すれ違いながらも少しずつ近づいていく、不器用な配信者と人気者の、旅と料理と恋のものがたり。
「乾杯」は、まだ始まったばかり。
乾杯タイムは、まだ二度目 - 波打ち際の大喧嘩と、曽祖父の隠し味
朝の漁港は、潮の匂いが強かった。
民宿ナミマを出た四人は、カモメ広場の端で足を止めた。海風が吹くたび、髪が乱れる。空は薄い雲に覆われていて、太陽はぼんやりと白く光っていた。
「今日こそ、食堂の準備がんばるぞー!」
ミコトが両手を突き上げた。ふわふわのギャル巻きヘアが風に揺れる。左耳の星形ヘアピンが、鈍く光った。
「お前、昨日も同じこと言って、結局スマホばっかいじってたじゃねえか」
ハルトが眉間にしわを寄せる。刈り上げた黒髪の先が、潮風で湿っていた。
「あれは配信の準備だってば! ハルは細かいなあ」
「騒ぐのは結構ですが、まずは潮風食堂へ向かいましょう。サナさんが待っています」
レナは静かな声で言った。焦げ茶色のポニーテールを一つにまとめ、腰の包丁袋を片手で押さえている。その瞳は、真剣そのものだった。
「そうだね。サナちゃん、朝早くから出汁を引いてるって言ってたから」
ウェンは首の木製スプーンペンダントを指先で転がしながら、漁港の先にある坂道を見上げた。
(あの食堂を、なんとかしないと)
昨日、タイガが看板を海に沈めるのを見た。あの光景が、まだ目の裏に焼きついている。
四人は歩き出した。
漁港では、小さな漁船が数隻、波に揺れていた。網を片付ける漁師たちの姿が、遠くに見える。カモメが二羽、低い声で鳴きながら頭上を横切った。
やがて、潮風食堂の古い木造の建物が見えてくる。
暖簾は下ろされたまま。だが、厨房の窓からは、白い湯気が細く立ち上っていた。
「あ、出汁の匂いだ」
ウェンは鼻をひくつかせた。昆布と鰹節の、柔らかくて深い香り。それに混ざって、何か懐かしい、甘いような匂いがする。
「……この香りは」
レナが、すっと目を細めた。
「出汁がどうしたってんだよ。早く入ろうぜ」
ハルトが先に立って、食堂の引き戸に手をかけた。
ガラガラと音を立てて、戸が開く。
厨房から、サナが顔を出した。くすんだ黒髪のボブを後ろで小さく結んでいる。白い割烹着姿で、手には木のしゃもじを持っていた。
「おはようございます。皆さん、早いですね」
サナの声は、少しだけ弾んでいた。昨日までの沈んだ様子とは、違う。
「おはよー! サナちゃん、今日もかわいいね!」
ミコトが、サナに駆け寄って両手を握った。
「え、あ、ありがとうございます……」
サナが、ほんのりと頬を染める。
「サナさん、今朝の出汁は昆布と鰹節、それに……何か、甘い香りがします。干し椎茸でしょうか」
レナが、真剣な表情でサナに尋ねた。
「分かるんですか? そうです、曾祖父のレシピに、干し椎茸を少しだけ入れると書いてあって」
サナが、目を丸くした。
「なるほど。昆布と鰹節だけでは出せない、奥行きのある甘み……。さすがです、サナさん」
レナが、うっとりとした表情で出汁の香りを吸い込んだ。
「レナちゃん、ほんと出汁のことになると別人だね」
ミコトが、けらけら笑った。
「おい、ウェン。俺はちょっと、浜に行ってくる」
ハルトが、突然そんなことを言い出した。
「浜? どうして?」
ウェンが、首をかしげる。
「決まってるだろ。幻の魚を釣るんだよ」
ハルトは、真剣な顔で言った。
「幻の魚って、シオハマの海にいるの?」
「知らねえよ! でも、この町には伝説があるんだ。青く光る魚を釣った者には、願いが叶うって」
ハルトの目が、らんらんと輝いている。
「ハル、あんた釣りなんてしたことないじゃん。リールの握り方も分かんないでしょ」
ミコトが、呆れたように言った。
「うるせえ! やればできるんだよ! 俺は、幻の魚を釣って、お前に……」
ハルトは、そこで言葉を切った。顔が、みるみる赤くなる。
「あたしに? なに? 言ってみなよ」
ミコトが、意地悪そうに笑いながら、ハルトの顔を覗き込んだ。
「な、なんでもねえ! とにかく、俺は浜に行くから!」
ハルトは、そう叫ぶと、逃げるように食堂を飛び出していった。
「相変わらずだなあ、ハルは」
ミコトが、笑いながら言った。
「でも、ハルトくんのそういう真っ直ぐなところ、俺は好きだよ」
ウェンは、ハルトの背中を見送りながら言った。
「え? ウェン、ハルのこと好きなの?」
ミコトが、ぱちぱちと瞬きをした。
「違う違う、人としてだよ。あの一生懸命な感じ、いいなあって」
ウェンは、笑って首を振った。
「ウェン先生。私も、先生のそういう人柄が好きです」
レナが、真顔で言った。
「え、あ、ありがとう……」
ウェンは、少し照れながら頭をかいた。
「ちょっと、レナちゃん! なに自然に好きとか言ってんの!」
ミコトが、レナに詰め寄る。
「事実を述べたまでです。あなたに許可を取る必要はありません」
レナは、涼しい顔で言い返した。
「あたしがウェンの相棒なんだからね!」
「いいえ、私です。出汁が取れないあなたには務まりません」
「出汁出汁って、出汁ばっか! 料理は出汁だけじゃないでしょ!」
「出汁が命です。基本ができていない者は二流です」
二人の言い合いが、食堂の中に響き渡る。
「ああ……また始まった……」
ウェンは、ため息をついた。
「……ふふ」
サナが、口元を押さえて笑った。
「サナちゃん?」
「皆さん、本当に仲が良くて。見ていて、温かくなります」
サナは、そう言って、にこりと笑った。
その笑顔を見て、ウェンの胸の奥が、ほんの少し軽くなった。
(そうだ。俺は、この笑顔を守りたいんだ)
ウェンは、エプロンを手に取った。
「よし、じゃあ俺も、まかないを作るよ。みんな、お腹すいてるでしょ」
「やった! ウェンの料理だ!」
「勉強させていただきます」
「私も、お手伝いします」
三人の声が、重なった。
ウェンは、厨房に立った。
冷蔵庫を開ける。昨日、サナと一緒に仕入れた食材が並んでいる。大根、人参、豆腐、油揚げ。そして、漁港で買ったばかりのアジ。
「今日は、アジの味噌汁と、大根の煮物にしようかな。あと、卵焼きも」
ウェンは、まな板にアジを置いた。
包丁を握る。
(この感覚。久しぶりだな)
昨日は、まともに料理ができなかった。タイガの言葉が、頭から離れなかった。
『古い味に、価値はない』
あの言葉が、包丁を握る手を重くしていた。
でも、今は違う。
サナの笑顔を見た。ミコトの明るい声を聞いた。レナの真剣な眼差しを感じた。
(料理は、人のためにある)
(俺は、みんなに美味しいものを食べてほしい)
ウェンは、深呼吸した。
包丁を、アジの腹に入れる。
ザクッ。
小気味よい音がした。
「わあ、手際がいい!」
ミコトが、拍手した。
「流れるような包丁さばき……。さすがです、ウェン先生」
レナが、食い入るように見つめている。
「赤城さん、本当に料理がお上手なんですね」
サナも、感心したように言った。
「これくらい、普通だよ。ほら、ミコトも卵を割ってみる?」
ウェンは、ミコトに卵を差し出した。
「え! あたし!? 無理無理、殻入るし!」
ミコトが、両手をぶんぶん振った。
「大丈夫、ゆっくりやればいいから。ほら、ここで軽く打って」
ウェンは、ミコトの手を取って、ボウルの縁に卵を打ち付けた。
パカッ。
「あ、できた! 殻入ってない!」
ミコトが、嬉しそうに叫んだ。
「ほら、やればできるじゃないか」
ウェンは、笑った。
「あたし、初めて卵割れたかも! やば、嬉しい!」
ミコトが、ぴょんぴょん跳ねた。
「私も、何か手伝います」
レナが、包丁を手に取った。
「お前は大根を切って。厚さは均一に、だぞ」
ウェンが、職人の顔で言った。
「承知しました。任せてください」
レナが、大根をまな板に置いた。
トントントン……
リズミカルな音が、厨房に響く。
「レナちゃん、包丁の音がプロっぽい……」
ミコトが、目を丸くした。
「このくらいは、当然です。基本ですから」
レナは、淡々と大根を切り続ける。
(この二人、本当に料理に対する向き合い方が違うんだよな)
ウェンは、苦笑いしながら、味噌汁の準備を進めた。
しばらくして、食堂に、出汁と味噌の香りが満ちた。
「いい匂い! お腹すいた!」
ミコトが、テーブルに箸を並べながら言った。
「もう少しでできるよ。サナちゃん、お椀出してもらえる?」
「はい、分かりました」
サナが、棚からお椀を取り出す。
その時だった。
「ほう……なかなか楽しそうだねえ」
低い声が、食堂の入口から聞こえた。
ウェンの手が、止まった。
振り向くと、スーツ姿の男が、引き戸に寄りかかって立っていた。マサキ。不動産ブローカーを名乗る、あの胡散臭い男だ。
「何の用ですか」
サナの声が、一瞬で硬くなった。
「いやあ、ちょっと通りかかったら、美味しそうな匂いがするからね。覗かせてもらったよ」
マサキは、にこやかに笑いながら、食堂の中へと足を踏み入れた。
「あなたに、ここへ入る資格はありません。出て行ってください」
レナが、包丁を握ったまま、マサキの前に立ちはだかった。
「おや、怖いねえ。君は確か、山から来た料理人さんだったかな。包丁を人に向けるのは、料理人のすることじゃないと思うけど」
マサキは、両手を上げて、大げさに肩をすくめた。
「お前、何しに来たんだよ!」
ミコトが、ウェンの前に立って、マサキを睨みつけた。
「まあまあ、そんなに敵対的にならないで。私は、君たちに有益な情報を届けに来たんだよ」
マサキは、スーツの内ポケットから、一枚の紙を取り出した。
「これ、何だと思う? シオハマの住民に聞いた、君たちの料理に対する評価だよ」
マサキは、紙をひらひらと揺らした。
「住民の……評価?」
ウェンの胸が、ざわりと騒いだ。
「そう。タイガくんが、町の人たちに聞き取り調査をしてくれてね。その結果が、ここにまとめてある」
マサキは、紙をウェンの目の前に差し出した。
ウェンは、その紙を受け取った。
そこには、手書きのアンケート結果が、びっしりと書き込まれていた。
『ウェンの料理は、古臭くて美味しくない』
『配信で映えるだけで、実際は大したことない』
『あんな味、誰も求めていない』
『都会の若造が、田舎の味を勝手に語るな』
『潮風食堂の味を、あの男が汚している』
匿名の書き込みが、何十件も並んでいる。
ウェンの顔から、血の気が引いていった。
指先が、冷たくなる。
(嘘だ)
(こんなの、嘘に決まってる)
頭では、そう思う。
でも、心の奥底で、あの言葉が響いた。
『古い味に、価値はない』
タイガの声。
『君の料理は、配信で映えるだけだ』
マサキの声。
二つの声が、頭の中でぐるぐると回る。
「君の料理は、配信で映えるだけなんだよ。動画の再生数を稼ぐための、道具にすぎない。地元の人間は、君の料理なんて、本当は食べたくないんだ」
マサキが、ウェンの耳元で、ささやくように言った。
「やめろ! ウェンに変なことを吹き込むな!」
ミコトが、マサキを突き飛ばした。
「おっと、失礼。私はただ、事実を伝えただけだよ。それじゃあ、私はこれで。タイガくんとの打ち合わせがあるんでね」
マサキは、そう言い残して、食堂を出て行った。
残された四人とサナは、しばらく言葉を失っていた。
「ウェン先生。大丈夫です。あんな男の言葉、気にする必要はありません」
レナが、ウェンの顔を覗き込んだ。
「そうだよ! あの胡散臭いおっさんの言うことなんて、信じなくていいから!」
ミコトが、ウェンの腕をぎゅっと掴んだ。
「赤城さん。私、赤城さんの料理、本当に美味しいと思います。だから……」
サナが、涙を浮かべながら言った。
でも。
ウェンの耳には、誰の声も届いていなかった。
(俺の料理は……)
(誰も喜ばせない……)
(配信で映えるだけの、偽物なんだ……)
ウェンは、手に持っていた包丁を見下ろした。
手が、震える。
ガチャン。
包丁が、床に落ちた。
「ウェン!?」
ミコトが、叫んだ。
ウェンは、その場にしゃがみ込んだ。
(ダメだ)
(包丁が、握れない)
(手が、動かない)
指先が、自分のものじゃないみたいに、冷たく硬直していた。
「……ごめん。今日は、ちょっと無理だ」
ウェンは、そう呟くと、ふらふらと立ち上がった。
「待って! ウェン! どこ行くの!」
ミコトが、ウェンの背中に縋りついた。
「……ちょっと、外の空気を吸ってくる」
ウェンは、ミコトの手を、そっと外した。
そして、食堂を出た。
後ろで、ミコトの泣き声が聞こえた。
でも、振り返ることができなかった。
──
その夜。
民宿ナミマの客間で、四人は重い空気の中、座っていた。
「ウェン、あたし、信じてるからね。あんたの料理が一番美味しいって、あたしが一番知ってるから」
ミコトが、ウェンの隣に座って、小さな声で言った。
ウェンは、何も答えなかった。
ただ、膝の上で、自分の手をじっと見つめている。
(あの手は、もう動かないのか)
(料理人として、終わったのか)
ウェンの心は、深い海の底に沈んでいくようだった。
「ウェン先生。私、先生の作った料理を、最初に配信で見た時のこと、覚えています。山奥の民宿で、一人で食べていた私に、先生の料理は、温かい光のように見えました。あれは、映えのためだけの料理ではありません」
レナが、真っ直ぐにウェンを見つめた。
「俺だって……俺だって、お前の料理、美味いと思ってるんだよ。認めたくないけど、あの卵焼き、本当に美味かった。だから……」
ハルトが、涙声で言った。
でも。
ウェンは、まだ黙ったままだった。
(みんな、優しい)
(優しいから、嘘をついてくれている)
(本当は、俺の料理なんて、大したことないのに)
マサキの言葉が、耳から離れない。
『地元の人間は、君の料理なんて、本当は食べたくないんだ』
(そうだ。あの紙に書いてあったことは、きっと本当なんだ)
(俺は、自分の料理を過信していた)
(配信のコメントに、いいねの数に、浮かれていた)
(結局、俺はただの、自己満足の料理人だったんだ)
ウェンは、目を閉じた。
──
翌朝。
ウェンは、一人で、潮風食堂の裏手にある小さな砂浜にいた。
波の音が、頭の中に響く。
(俺は、どうすればいいんだろう)
(料理を、やめるのか)
(でも、それ以外に、何ができるんだ)
ウェンは、砂の上に座り込み、膝を抱えた。
「……赤城さん」
小さな声がした。
顔を上げると、サナが、古びたノートを胸に抱えて立っていた。
「サナちゃん……どうしてここに?」
「民宿の方に、赤城さんが海の方へ歩いていくのが見えたって、女将さんが教えてくれたんです」
サナは、ウェンの隣に、そっと座った。
「……あの、これ、見てほしいんです」
サナは、抱えていたノートを、ウェンに差し出した。
「これは……曽祖父さんの、レシピノート?」
「はい。最後のページに、解読できない記述があって……。私、ずっと一人で悩んでいたんです。でも、赤城さんなら、何か分かるかもしれないと思って」
サナの瞳は、真剣だった。
ウェンは、ノートを受け取った。
表紙は、手垢で黒ずんでいる。何十年も、何十年も、使い込まれた証拠だった。
ページをめくる。
曾祖父の達筆な文字で、レシピがびっしりと書かれている。
アラ汁の出汁の取り方。
地魚の煮付けの火加減。
なめろうのたたき方。
そして、最後のページ。
そこには、他のページとは違う、乱れた文字で、何かが書かれていた。
「……これは」
ウェンは、息を呑んだ。
『海を見ながら食べる飯は、なんでもうまい』
その下に、さらに、小さな文字で、こう書かれていた。
『ただし、出汁だけは、ちゃんと取ること。出汁が命だ』
『昆布は、利尻。鰹節は、枕崎。椎茸は、原木。水は、朝一番の井戸水』
『そして、最後の隠し味は——』
そこから先の文字が、かすれていて、読めなかった。
「……最後の隠し味、か」
ウェンは、ノートをじっと見つめた。
(この配合……)
(おばあちゃんの、レシピノートと、同じだ)
ウェンの祖母も、料理人だった。
祖母のノートにも、同じような出汁の配合が書かれていた。
昆布は利尻。鰹節は枕崎。椎茸は原木。
そして、最後の隠し味。
「……あっ」
ウェンは、声を上げた。
「どうしたんですか?」
サナが、身を乗り出した。
「この隠し味……俺、知ってる。おばあちゃんが、教えてくれたんだ」
ウェンの声が、震えた。
「本当ですか!? 何なんですか、その隠し味って!」
サナの目が、輝いた。
「……それはね、『一緒に食べる人の笑顔』なんだって」
ウェンは、そう言って、サナを見た。
「笑顔……ですか?」
サナが、きょとんとした。
「うん。おばあちゃんが言ってた。『どんなに高級な食材を使っても、一人で食べる飯は味気ない。でも、誰かの笑顔を見ながら食べる飯は、何よりもうまいんだ』って」
ウェンは、ノートの最後のページを、指でなぞった。
(そうだ)
(俺は、誰の笑顔を思い出して、料理を作っていたんだっけ)
(配信の向こうにいる、顔も知らない視聴者?)
(違う)
(最初は、そうだったかもしれない)
(でも、今は違う)
(ミコトの笑顔)
(ハルトの悔しそうな顔)
(レナの真剣な眼差し)
(サナの、嬉しそうな顔)
(みんなの顔を思い浮かべて、俺は料理を作っていた)
(それが、俺の隠し味だったんだ)
ウェンの目から、涙が、一粒こぼれ落ちた。
「赤城さん……?」
サナが、心配そうに、ウェンの顔を覗き込んだ。
「……ありがとう、サナちゃん。俺、大事なことを忘れてた」
ウェンは、涙を拭いながら、笑った。
「え……?」
「俺、誰の笑顔のために料理を作るのか、忘れてた。マサキの言葉に、惑わされてた。でも、思い出したよ。俺の料理は、みんなの笑顔のためにあるんだ」
ウェンの声には、力が戻っていた。
「赤城さん……」
サナの目からも、涙があふれた。
「ありがとう。本当に、ありがとう。君のおかげで、俺はまた、包丁を握れる」
ウェンは、サナの手を、そっと握った。
──
その時。
「おーい! ウェン! サナちゃん! 大変だ!」
ハルトの叫び声が、浜に響いた。
振り向くと、ハルトが、ずぶ濡れになりながら、何かを抱えて走ってくる。
「ハルトくん!? どうしたの、その格好!」
ウェンが、立ち上がった。
「見ろよ! 釣れたんだ! 幻の魚が!」
ハルトが、抱えていたものを、ウェンの前に差し出した。
それは、青く輝く魚だった。
「これは……イナダだね。青いイナダ。幻の魚じゃないけど、すごく美味しい魚だよ」
ウェンは、魚を見て言った。
「げ……幻じゃないのかよ! でも、青く光ってるだろ! 伝説の魚に似てるだろ!」
ハルトが、涙目で反論した。
「あはは、ハル、それただのイナダじゃん! でも、よく釣れたね!」
いつの間にか、ミコトとレナも、浜に来ていた。
「うるせえ! これはな、俺が命がけで釣った魚なんだよ! 波に流されて、何度も転んで、それでも諦めずに釣ったんだ!」
ハルトが、必死に訴えた。
「それは、立派です。釣り上げた魚は、料理人が責任を持って、美味しく調理すべきです」
レナが、真面目な顔で言った。
「そうだよ! ウェン、この魚、料理してよ! ハルが釣ったやつ!」
ミコトが、ウェンに駆け寄った。
「うん、いいよ。新鮮なイナダだ。刺身にして、あら汁も取れる。最高の朝ごはんになる」
ウェンは、ハルトから魚を受け取った。
「お前……料理、できるのかよ。昨日、包丁落としてたじゃねえか」
ハルトが、不安そうに言った。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
ウェンは、しっかりと頷いた。
「ウェン……あたし、あたしね、ハルが釣った魚より、ウェンが作ってくれた、あの黄金色のおにぎりが食べたいの!」
ミコトが、突然、大声で叫んだ。
「……え?」
ウェンが、目を丸くした。
「あの日、市場で、ウェンが握ってくれたおにぎり! あれが、あたしが今まで食べた中で、一番美味しかったの! だから、もう一度、あのおにぎりが食べたい! ウェンの手で作った、あのおにぎりが!」
ミコトの涙が、ぽろぽろとこぼれた。
「ミコト……」
ウェンの胸が、熱くなった。
「あたし、ウェンの料理が大好きなの! 誰がなんて言おうと、あたしはウェンの料理が一番美味しいって知ってる! だから、もう、包丁を捨てるなんて言わないで!」
ミコトが、ウェンの胸に飛び込んだ。
「……ミコト、俺は……」
ウェンは、ミコトの温かさを感じながら、言葉を失った。
「ちょっと! 何してるんですか! ウェン先生から離れてください!」
レナが、包丁を握りしめて、ミコトとウェンの間に割って入った。
「あんたこそ、なんで包丁持ってんのよ! 危ないでしょ!」
ミコトが、レナに食ってかかった。
「恋のライバルは、多いほど燃えるんです。ウェン先生を守るためなら、私はいつでも包丁を握ります」
レナは、真剣な顔で言った。
「いや、守るって、何から!?」
ウェンが、混乱した。
「お前ら、俺の魚を無視して、何やってんだよ! 俺だって、ミコトに……ミコトに、美味しいって言われたかったんだぞ!」
ハルトが、海に向かって叫んだ。
そして、そのまま、ざぶざぶと海の中へ走り込んでいった。
「ハル!? 何してんの!」
ミコトが、叫んだ。
「うるせえ! 俺は、泳いで頭を冷やしてくる! お前ら、好きにしろ!」
ハルトは、泣きながら、沖に向かって泳ぎ始めた。
「……あはは、何あれ。ハル、ほんとバカだなあ」
ミコトが、笑いながら、涙を拭いた。
「……あいつ、本当にミコトのことが好きなんだね」
ウェンは、海を泳ぐハルトの背中を見ながら、呟いた。
「え?」
ミコトが、ウェンを見た。
「ハルトくんは、君のために、命がけで魚を釣ってきた。君に美味しいって言ってもらいたくて。その気持ち、俺には分かるよ」
ウェンは、静かに言った。
「……あたし、ハルのこと、そういう風に見たことなかった。ずっと、ただの幼なじみで、からかってばっかりで」
ミコトの声が、小さくなった。
「それでいいんだよ。ハルトくんの気持ちは、ハルトくんのものだから。君がどう受け止めるかは、君が決めればいい」
ウェンは、ミコトの頭を、ぽんと撫でた。
「ウェン……」
ミコトが、顔を上げた。
「でも、一つだけ、言わせてほしい。君が、俺の料理を美味しいって言ってくれたこと。あの黄金色のおにぎりを、食べたいって言ってくれたこと。それが、今の俺の、料理人としての支えなんだ。ありがとう」
ウェンは、ミコトの目を、真っ直ぐに見つめた。
「ウェン……あたし、あたしね、ウェンのことが……」
ミコトが、何かを言いかけた。
その時。
「ウェン先生。そろそろ、その魚を捌かないと、鮮度が落ちます」
レナが、包丁を構えたまま、ウェンとミコトの間に立った。
「レナちゃん! 空気読みなさいよ!」
ミコトが、怒った。
「私は、料理人として、食材の鮮度を最優先に考えています。空気を読むより、魚を捌く方が重要です」
レナは、真顔で言った。
「……あはは、もう、なんなの、この状況」
ウェンは、思わず笑ってしまった。
(でも、なんだか、すごく楽しい)
(みんな、バカで、真っ直ぐで、必死で)
(こんなに騒がしいのに、こんなに温かい)
(ああ、俺は、この場所で、料理を作りたい)
ウェンは、ハルトの釣ったイナダを手に、砂浜に立った。
「よし。じゃあ、みんな。今日は、このイナダで、最高の朝ごはんを作るよ。手伝ってくれる?」
ウェンは、三人とサナに、笑いかけた。
「もちろん! あたし、卵焼き作る!」
「私は、出汁を取ります」
「私も、お手伝いします」
「お、俺も……俺の釣った魚だし、俺も手伝う!」
ハルトが、ずぶ濡れのまま、浜に上がってきた。
「ハル、風邪引くよ。ほら、タオル」
ウェンは、持っていたタオルを、ハルトに投げた。
「……サンキュ」
ハルトが、素直に受け取った。
五人で、潮風食堂へと向かう。
波の音が、後ろから追いかけてくる。
空は、いつの間にか、薄雲が晴れて、青い色を取り戻していた。
──
翌朝。
ウェンは、民宿の部屋で、スマホの通知音で目を覚ました。
画面を見る。
知らない番号から、メッセージが届いていた。
『潮風食堂のレシピ本を、高く買い取らせていただきたい。大漁祭までに、ご返事をいただきたい。カイエン・デベロップ代表取締役、宮前シンジ』
ウェンは、スマホを握りしめたまま、動けなくなった。
(レシピ本を……買い取る?)
(なぜ、あのレシピ本を?)
(カイエン・デベロップ……マサキの背後にいる、あの会社か)
窓の外では、朝日が、海面を金色に染めていた。
でも、ウェンの心は、再び、冷たい影に覆われ始めていた。
その頃。
シオハマ漁港の近くの、古い空き店舗の二階。
タイガの仮オフィスで、マサキは、一枚の書類をタイガの前に置いた。
「タイガくん。君が食堂を畳んで、土地を売ってくれれば、妹さんを、都会で一人前の料理人にするための、全面支援を約束するよ。調理師学校の学費も、生活費も、全てこちらで持つ。どうだい、悪い話じゃないだろう?」
マサキは、優しい笑顔で、タイガに囁いた。
タイガは、書類をじっと見つめた。
その瞳の奥で、何かが、揺れていた。
タイガは、しばらく書類を見下ろしていた。白い指先が、紙の端をなぞる。部屋に潮風が流れ込んで、カーテンをゆっくりと膨らませた。
「……悪い話じゃない、か」
タイガの口元が、笑った。
「そうだよ。君と妹さんの未来のために、私が力になれる。これはチャンスだ」
マサキは、タイガの肩に手を置いた。
タイガは、その手を振り払いもしなかった。ただ、窓の外を見た。
港の向こうに、潮風食堂の屋根が、小さく見える。
(俺は、あそこを潰すために、ここに来たはずだ)
(なのに、どうして)
(手が、震えるんだ)
タイガは、自分の右手のひらを、目の前に広げた。書類を持つ手。サインをする手。あの暖簾を、下ろさせる手。
「……返事は、大漁祭の後に聞かせてくれればいい。じっくり考えなさい。ただし、あまり遅くなると、話が流れるかもしれないよ」
マサキは、それだけ言うと、オフィスを出て行った。
タイガは、閉まったドアを、しばらく見つめていた。
やがて、机の引き出しから、一枚の写真を取り出した。幼い頃のタイガと、サナ。二人で食堂の前で笑っている、色褪せた写真。
タイガは、写真を、静かに机に伏せた。
──
潮風食堂の前では、ウェンが一人、掃き掃除をしていた。
早朝の空気は冷たく、ほうきを動かすたび、砂がさらさらと音を立てた。
「おはようございます、赤城さん」
サナが、白い息を吐きながら、小走りに近づいてくる。
「あ、おはよう。サナちゃん、早いね」
ウェンは、サナに気づいて、動きを止めた。
「はい。昨夜はなかなか寝つけなくて……あの、これ、朝の出汁です。少しだけ、試してもらえますか?」
サナは、小さな蓋つきの容器を差し出した。中から、昆布と鰹節の香りが、ふわりと立ち上る。
「ありがとう。……ん、いい香り。干し椎茸の甘みが、昨日よりまろやかになってる」
ウェンは、一口含んで、目を閉じた。
「昨日、曾祖父のノートを一緒に読んで、出汁の取り方、少し変えたんです。椎茸をもっと薄く削って、火を止めるタイミングも、十秒だけ早くしたんです」
「十秒で、こんなに味が変わるんだね。すごいよ、サナちゃんは、本当に料理が好きなんだな」
ウェンがそう言うと、サナは嬉しそうに笑った。海風が、彼女の前髪を揺らした。
「赤城さんと話してると、料理がもっと好きになる。だから、私、食堂を守るんです」
サナの声が、強く澄んでいた。
ウェンは、その横顔を見る。
(昨日の朝とは、全然違う。迷いが、消えている)
「……あのさ、サナちゃん。今日の夜、みんなに話したいことがあるんだ。大漁祭のことだけど、一つ、提案がある」
ウェンは、真剣な声で切り出した。
「提案ですか?」
「うん。この食堂を、みんなで一番最高の場所にする。そして、大Noveliaとは?
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