乾杯タイムは、まだ二度目
乾杯の合図とともに配信を始める青年・赤城ウェン。旅と料理をこよなく愛する彼の夜の配信は、どこか静かで、どこか寂しい。祖母から受け継いだ出汁の味、一人分の食卓、カメラ越しに繋がる視聴者たち――そんな穏やかな日々の中で、彼はふと零す。「美味しいものは、誰かと食べた方がもっと美味しいんだろうな」と。
その一言をきっかけに、ウェンは配信で"旅の相棒"を募集することに。半ば勢いだった呼びかけに応えたのは、まさかの学園の人気配信者・三森ミコトだった。ギャルらしい明るさの奥に、彼女もまた何かを抱えているようで――。
出汁の香りとカメラのレンズ、ふたつのグラスで交わす二度目の乾杯。すれ違いながらも少しずつ近づいていく、不器用な配信者と人気者の、旅と料理と恋のものがたり。
「乾杯」は、まだ始まったばかり。
乾杯タイムは、まだ二度目 - 海の町、絶望の兄妹と冷たい影
海風が、肌に刺さる。
ローカル線の終着駅、シオハマ駅。木造の駅舎を抜け出た瞬間、四人は思わず立ち止まった。潮の匂いが鼻の奥を満たす。錆びたレールの音が、まだ耳の奥でかすかに響いていた。
「海だー! やば、風つよ! スカート押さえなきゃ!」
ミコトが、ふわふわのギャル巻きヘアをばさばさと揺らしながら笑った。左耳の星形ヘアピンが、薄曇りの空の下でちかりと光る。
「おい、ミコト。はしゃぐなよ。まず宿を探すぞ」
ハルトが、眉間にしわを寄せてミコトの前に立った。風が、彼の刈り上げた前髪を容赦なく乱す。
「海の町は、風が読めませんね。出汁の香りが、すぐに飛んでしまいそうです」
レナは、腰の包丁袋を片手で押さえながら、静かに目を細めた。黒に近い焦げ茶色のポニーテールが、風に流れている。
「まあ、海の町だからね。この風も、シオハマの一部なんだよ」
ウェンは、首から下げた木製スプーンのペンダントを指先で転がしながら、ゆっくりと駅前を見渡した。
駅前には、バス停が一つ。タクシーが一台。あとは、古い商店が数軒、ぽつぽつと並んでいるだけだった。人影はほとんどない。
(ここが、シオハマか……)
ウェンの胸の奥で、あの匿名DMの文字が、じわりと脈打った。
『シオハマの古い食堂が、土地ごと売りに出されている。あの町の出汁が失われる前に、一度行ってみるといい。』
「ねえ、ウェン。民宿ってどこ? あたし、もうお腹すいたんだけど」
ミコトが、ウェンの袖をちょんと引っ張った。
「ああ、ごめん。民宿ナミマは、駅から徒歩十分くらいだって。この道をまっすぐ行くんだよ」
ウェンは、スマホの地図を確認しながら、海の方へと続く一本道を指さした。
四人は、無言で歩き出した。
道の両側には、古い家々が並んでいる。どれも、潮風にやられて、壁の色がくすんでいる。網戸が破れた家。シャッターの閉まった店。庭先に、色あせた漁具が転がっている。
(静かな町だ)
ウェンは、思った。
(でも、どこか、寂しい)
海の町特有の、開放的で明るい空気がない。代わりに、何かが終わった後のような、重い空気が、町全体を覆っていた。
「……なんか、静かだな」
ハルトが、ぽつりと呟いた。
「そうだね。観光地ってわけでもないし、平日だからかな」
ウェンは、そう答えたが、心の中では違うと感じていた。
(観光客がいないだけじゃない。町の人が、外に出ていない)
まるで、町全体が、息を潜めているようだった。
やがて、民宿ナミマの看板が見えてきた。
「あ、あれじゃない? 民宿ナミマ!」
ミコトが、指をさした。
民宿ナミマは、駅から徒歩十分ほどの場所にある、古い二階建ての建物だった。玄関には、赤い提灯が下がっている。
「いらっしゃい」
玄関を開けると、白髪混じりの髪を後ろで一つにまとめた、小柄な女将が出迎えた。久保田フミ。年齢は六十代半ばだろうか。深いしわが刻まれた顔には、温かい笑みが浮かんでいる。
「あ、あたしたち、予約してた三森です! 四人で!」
ミコトが、元気よく挨拶した。
「ああ、あんたたちかい。よく来たねえ。さあ、上がんなさい。今、お茶を淹れるからね」
フミは、四人を客間へと案内した。
客間は、畳敷きの六畳間だった。窓から、海が見える。遠くで、波の音が聞こえていた。
「疲れたでしょう。この町は、電車の本数が少なくてねえ。大変だったろう」
フミは、湯呑みにお茶を注ぎながら、四人の顔を一人ひとり見た。
「いえ、あたし、初めてのローカル線で、ちょっと楽しかったです!」
ミコトが、にこにこと笑った。
「俺は、隣でずっとゲームしてたから、酔わなかったけどな」
ハルトが、ぼそりと言った。
「私は、車窓から見える山の形を観察していました。あの山の伏流水は、きっと出汁に適しています」
レナが、真面目な顔で言った。
「あんたたち、面白い子たちだねえ」
フミは、声を上げて笑った。
そして、少し間を置いて、静かに言った。
「……あんたたち、潮風食堂のことを聞いて、来てくれたんだってね」
ウェンの背筋が、すっと伸びた。
「はい。市場で、フミさんに紹介していただいて」
「そうかい。……あの食堂は、今、大変なことになっているんだよ」
フミは、湯呑みを両手で包み込みながら、重い口調で話し始めた。
「潮風食堂は、百年も続いた、この町の台所だった。漁師たちが、朝早くから寄って、アラ汁をすすって、海に出て行った。子どもたちが、学校帰りに寄って、おやつを食べた。町の誰もが、あの食堂の味を、体で覚えている」
フミの声は、静かだった。
「でも、最近は、国道沿いに大きなチェーン店ができてね。客足が、すっかり遠のいてしまった。サナちゃんは、たった一人で、店を守ろうと必死なんだよ」
「サナちゃん……?」
「ああ、潮風食堂の看板娘だよ。まだ十七歳なのに、健気でねえ」
フミは、窓の外に目をやった。
「それでね、最近、この町に、変な男が出入りしているんだよ。マサキとかいう、不動産ブローカーだ。土地を安く買い叩いて、どこかに転売するのが仕事らしい。サナちゃんの兄のタイガくんに、食堂の土地を売るように、しつこく勧めているらしいんだ」
ウェンの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
(マサキ……)
レナが、市場で口にした名前。
「そのマサキという男は、どんな人物なのですか」
レナが、静かに尋ねた。
「さあねえ。見た目は、物腰の柔らかい、感じのいい男だよ。でも、あたしは、あの男の目が、どうにも信用できない。笑っているのに、目が全然笑っていないんだ」
フミは、湯呑みを置いた。
「あんたたち、気をつけなさい。この町には、今、何かが起きている。あたしには、それが、とても嫌な予感がするんだよ」
フミの言葉が、静かに、しかし重く、部屋の中に沈んでいった。
ミコトが、不安そうに、ウェンの袖を掴んだ。
「……ウェン」
ウェンは、ミコトの手を、そっと握り返した。
(大丈夫だよ)
そう、伝えたかった。
でも、ウェン自身、心の中は、嵐のように荒れていた。
(あのDMの内容と、フミさんの話が、一致している)
(マサキ。土地。食堂の危機)
(これは、偶然じゃない)
ウェンは、首から下げた木製スプーンのペンダントを、ぎゅっと握りしめた。
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潮風食堂は、シオハマ駅から徒歩四分。漁港を見下ろす小さな坂の途中にあった。
木造二階建ての、古い建物。
しかし、開店時間のはずなのに、暖簾は下がっていなかった。
店の前には、段ボール箱と、ガムテープが、無造作に積み上げられている。
「……なに、これ」
ミコトが、足を止めた。
「閉まってる……のか?」
ハルトが、首をかしげた。
「……嫌な気配がします」
レナが、腰の包丁袋に手を当てた。
ウェンは、何も言えなかった。
(ここが、潮風食堂……)
(百年続いた、町の台所)
(なのに、どうして)
ウェンは、店の引き戸に手をかけた。
ガラガラガラ。
引き戸は、重い音を立てて開いた。
中は、薄暗かった。
帳簿も、レジも、そのままに。
椅子は、テーブルの上に上げられていた。
空気が、澱んでいる。
長い間、人の気配がない。
(……店が、死んでいる)
ウェンは、息を呑んだ。
「……誰か、いるの?」
ミコトが、恐る恐る、店内を見回した。
その時だった。
「おい、勝手に入るな」
低い、男の声が、奥から聞こえた。
奥の座敷から、二人の男が現れた。
一人は、二十代前半の若い男。
短く刈り込んだ髪。鋭い目つき。口元は、への字に結ばれている。
浜野タイガ。
サナの兄だ。
もう一人は、三十代半ばの、スーツ姿の男。
丁寧に整えられた髪。銀縁の眼鏡。口元には、薄い笑みを浮かべている。
マサキ。
不動産ブローカー。
「学生さんかな。ここは、もう営業していないんだけど」
マサキが、ウェンたちを値踏みするように見た。
その目は、笑っていなかった。
「お前ら、何の用だ。客なら、よそへ行け」
タイガが、ウェンたちの顔も見ずに、吐き捨てるように言った。
「私たちは、フミさんから、この食堂のことを聞いて来ました。手伝えることがあればと思って」
ウェンは、一歩前に出た。
「手伝う? 学生が? はっ、笑わせるな」
タイガが、鼻で笑った。
「この店は、もう畳む。土地も手放す。お前らにできることなんて、何もない」
タイガの言葉に、ウェンは、胸を殴られたような衝撃を受けた。
「畳む……?」
「そうだ。古い店に、残る価値はない。こんな田舎町に、未来はないんだよ」
タイガは、そう言い放った。
その時、厨房の奥から、小さな物音が聞こえた。
カタン。
「……兄さん」
か細い声が、聞こえた。
厨房の奥から、一人の少女が、ゆっくりと現れた。
くすんだ黒髪のボブ。後ろで小さく一つに結んでいる。くっきりとした二重の黒い瞳は、海の色を映して、深く揺れていた。
浜野サナ。
潮風食堂の看板娘。
彼女は、古いレシピノートを、胸にぎゅっと抱えていた。
その体は、小刻みに震えていた。
「……兄さん、お願い。この店を、畳まないで」
サナの声は、消え入りそうだった。
「サナ、またその話か。何度言ったら分かるんだ。この店は、もう終わりなんだよ」
タイガは、サナの方を振り返りもせずに言った。
「でも……ここは、曾祖父さんから続く、大切な場所で……」
「だから、それが何だ! 古いだけの店に、何の価値がある! 客は来ない。売り上げはゼロだ。そんな店を、いつまで続けるつもりだ!」
タイガが、声を荒げた。
サナは、びくりと体を震わせ、うつむいた。
唇を、ぎゅっと噛みしめている。
「まあまあ、タイガくん。妹さんも、気持ちの整理がついていないんだよ。もう少し、優しくしてあげなよ」
マサキが、タイガの肩を、軽く叩いた。
そして、ウェンたちの方を向き直った。
「君たち、学生さんだよね。悪いことは言わないから、この町のことは、忘れた方がいい。首を突っ込むと、痛い目を見るよ」
マサキは、微笑みながら、書類の束をウェンたちに突きつけた。
「これが、土地売却の最終書類だ。タイガくんは、これに署名する。そうすれば、この町は、もっと大きな、素晴らしいリゾート地に生まれ変わる。古い食堂は、そのための、ほんの小さな、取るに足らない、犠牲だ」
マサキの言葉は、丁寧だった。
しかし、その一つ一つに、町の人間を見下すような、冷たい軽蔑が、滲んでいた。
「おい、あんた。その言い方は、なんだよ」
ハルトが、一歩前に出た。
「おや、何か?」
マサキが、ハルトを見た。
その目は、まるで、虫けらを見るようだった。
「あんた、この町の人間でもないのに、勝手なこと言うなよ! 食堂がなくなったら、この町の人たちは、どうするんだよ!」
ハルトの声は、震えていた。
「この町の人たち? ああ、君たちみたいな、若い人がいなくなった、この町のこと? 大丈夫だよ。リゾートができれば、また人が戻ってくる。今よりも、ずっと、豊かな町になる」
マサキは、薄気味悪い笑みを浮かべた。
「それとも、君たちは、この古い食堂が、この町の未来だと言うのかい? 笑わせるな。古い味に、価値なんて、あるわけがない」
タイガが、吐き捨てた。
その言葉に、ウェンの胸の奥で、何かが、弾けた。
(古い味に、価値がない……?)
(違う。そんなはずがない)
(だって、この匂いは……)
ウェンは、厨房から漏れる、古い醤油と、煮干しの匂いを、深く吸い込んだ。
(……おばあちゃんの、台所の匂いだ)
ウェンの脳裏に、幼い頃の記憶が、鮮やかに蘇った。
夏休み。田舎の祖母の家。
台所に立つ、祖母の背中。
ぐつぐつと煮立つ鍋。
醤油と、煮干しと、昆布の、混ざり合った、優しい匂い。
「お腹すいた?」
振り返って笑う、祖母の顔。
(ああ……)
ウェンの体は、無意識に、動いていた。
気がつくと、彼は、厨房に立っていた。
米を研ぐ。
水を切る。
手早く、握り飯を作る。
「ウェン!? 何してんの!?」
ミコトの声が、遠くで聞こえた。
しかし、ウェンの耳には、届いていなかった。
彼は、ただ、無心で、握り飯を作り続けた。
(この子に、食べさせたい)
(温かいものを、食べさせたい)
(だって、この子は、ずっと、一人で、震えている)
ウェンは、握り飯を二つ、作り終えた。
そして、サナの前に、差し出した。
「……よかったら、食べて」
サナは、驚いたように、顔を上げた。
大きな黒い瞳が、ウェンを見つめる。
「温かいうちに。お腹、空いてるでしょ」
ウェンは、優しく微笑んだ。
サナは、恐る恐る、握り飯を受け取った。
そして、一口、かじった。
もぐもぐと、噛む。
その瞳から、一粒の涙が、こぼれ落ちた。
「……おいしい」
サナは、泣きながら、握り飯を食べた。
「……温かい……おいしい……」
サナの涙が、止まらなかった。
「おい、てめえ!」
タイガが、ウェンの胸ぐらを掴んだ。
「誰が、勝手に厨房を使っていいと言った! ふざけるな!」
タイガの目は、怒りで燃えていた。
「……ごめん。でも、彼女が、あんまりにも、つらそうだったから」
ウェンは、タイガの手を振り払わなかった。
「だから、お前ら部外者は、黙ってろ! これは、俺たち兄妹の問題だ!」
タイガが、怒鳴った。
その時だった。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
ミコトが、ウェンの前に、立ちはだかった。
「あんた、さっきから、古い味に価値がないとか、部外者は黙ってろとか、勝手なことばっか言ってるけど! あたし、ウェンの作るおにぎりが、一番おいしいと思う! 今、サナちゃんも、おいしいって言ったじゃん! それが、答えでしょ!」
ミコトは、タイガを、真っ直ぐに見据えた。
「古い味に価値がない? じゃあ、なんで、あんたの妹は、その古い味を守ろうと、一人で震えてるの!? それを、あんたが、一番分かってないで、どうすんのよ!」
ミコトの言葉は、鋭く、タイガの胸に突き刺さった。
タイガは、一瞬、言葉に詰まった。
「そうだ! お前、サナちゃんの兄貴だろ! 妹が、あんなに泣いてるのに、なんで、守ってやらないんだよ! お前が食わないなら、そのおにぎり、全部、俺が食うからな!」
ハルトが、涙目で、タイガに食ってかかった。
「……この出汁は、古いのに、こんなに澄んでいる」
静かな声が、厨房から聞こえた。
レナが、冷蔵庫を開け、残っていた出汁を、黙って一口含んでいた。
「……この味を、絶やしたら、先祖が泣きます」
レナは、そう呟くと、静かに冷蔵庫を閉めた。
タイガの顔が、わずかに、歪んだ。
「……うるさい。古い味を守っても、誰も食いに来ない。現実を見ろ」
タイガは、そう言い捨てると、奥の座敷へと、戻っていった。
マサキが、それを見て、薄く笑った。
「若いっていいね。夢があって。でも、現実は、甘くないよ。君たち、明日までに、この町を出て行きなさい。これ以上、首を突っ込むと、本当に、痛い目を見るよ」
マサキは、そう言い残すと、タイガの後を追って、座敷へと消えていった。
---
夕方。
ウェンは、一人で、シオハマ漁港に立っていた。
空は、茜色に染まっていた。
海風が、ウェンの髪を、冷たく撫でていく。
(俺は、何をしているんだろう)
ウェンは、自分の手を見た。
米を握った手。
(無断で、厨房を使って、握り飯を作って……)
(タイガくんに、怒鳴られて……)
(でも、サナちゃんは、おいしいって言ってくれた)
(それで、よかったのかな)
ウェンの心は、ぐちゃぐちゃだった。
マサキの言葉が、頭から離れない。
『学生に何ができる』
『痛い目を見るよ』
(俺は、配信者で、料理が好きで……)
(でも、それだけだ)
(この町の問題を、解決できる力なんて、何もない)
ウェンは、唇を噛んだ。
その時、背後から、足音が聞こえた。
振り返ると、タイガが立っていた。
タイガは、ウェンには目もくれず、漁港の突堤の方へと歩いていく。
その手には、潮風食堂の看板が、抱えられていた。
「……タイガくん」
ウェンは、思わず声をかけた。
タイガは、振り返らなかった。
彼は、突堤の先まで歩いていくと、看板を、地面に置いた。
そして、その看板を、自分の手で、外した。
「潮風食堂」
百年の歴史が刻まれた、古い木の看板。
タイガは、それを、じっと見つめた。
そして、海に向かって、投げ捨てた。
看板は、夕闇の海に、音を立てて、沈んでいった。
「……タイガくん!!」
ウェンは、叫んだ。
タイガは、振り返らなかった。
「……古いものは、みんな、海に沈めばいい」
タイガは、そう言い残すと、夕闇の中へと、消えていった。
ウェンは、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
(……絶対に、守る)
(この食堂を、守る)
ウェンは、沈んでいく看板を、見つめ続けた。
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夜。
民宿ナミマの客間。
ウェンたち四人は、重い空気の中、今後のことを話し合っていた。
「……マサキって奴、明日までに出て行けって、民宿まで来たんだろ? なんなんだよ、あいつ」
ハルトが、苛立たしげに言った。
「……うん。あの目、本当に、嫌な感じだった」
ミコトが、身を震わせた。
「……あの男は、危険です。言葉の端々に、町の人間を見下す、軽蔑が、滲んでいました」
レナが、静かに言った。
「……俺、何も言い返せなかった。あいつに、配信者の影響力を使って、お前の動画を、拡散してやるって、脅されたんだ」
ウェンは、うつむいた。
「え? あいつ、そんなことを?」
「……うん。あいつの会社は、そういうことを、平気でやるらしい。俺の配信を、悪意のある形で、拡散するって。そうしたら、俺だけじゃなくて、ミコトも、レナも、ハルトも、学校にいられなくなるかもしれないって」
ウェンの声は、震えていた。
「なんだよ、それ! 卑怯すぎるだろ!」
ハルトが、畳を叩いた。
「……ごめん。俺が、もっと、しっかりしていれば……」
ウェンは、自分の無力さに、打ちひしがれていた。
その時だった。
コンコン。
控えめな、ノックの音がした。
「……あの、赤城さん、いらっしゃいますか」
か細い声が、聞こえた。
「サナちゃん!?」
ミコトが、急いで、障子を開けた。
そこには、古いレシピノートを抱えた、サナが立っていた。
「……夜分に、すみません。どうしても、赤城さんに、見ていただきたいものが、あって……」
サナは、うつむきながら、部屋に入ってきた。
「これが、曾祖父さんから、代々受け継がれてきた、レシピノートです」
サナは、ウェンの前に、ノートを差し出した。
ウェンは、ノートを受け取った。
手触りは、ざらざらとしていた。
何十年も、何十年も、使い込まれてきた、古いノート。
ページを、一枚、一枚、めくる。
そこには、曾祖父のものと思われる、達筆な文字で、料理のレシピが、びっしりと書き込まれていた。
アラ汁の出汁の取り方。
地魚の煮付けの、火加減。
なめろうの、たたき方。
「……すごい。これ、全部、手書きなんですね」
ウェンは、感嘆の声を上げた。
「はい。曾祖父は、このノートを、宝物のように、大切にしていました」
サナは、ノートを見つめながら、言った。
「でも、最後の数ページだけ、どうしても、解読できないんです」
サナは、ノートの最後のページを、開いた。
ウェンは、そのページを見た。
(……これは)
ウェンは、息を呑んだ。
そこには、独特の、出汁の配合が、書き込まれていた。
(この配合……)
(おばあちゃんの、レシピノートでも、見たことがある)
ウェンは、自分の祖母のレシピノートを、思い出した。
祖母のノートにも、同じような、独特の出汁の配合が、書かれていた。
「……この出汁の配合、知ってる」
ウェンは、呟いた。
「え? 本当ですか!?」
サナが、顔を上げた。
「うん。俺の祖母も、同じ配合で、出汁を取っていた。昆布と、鰹節と、あともう一つ、秘密の材料が、あるんだ」
ウェンは、ノートをじっと見つめた。
(ああ、そうか。だから、この店の出汁は、あんなに澄んでいたのか)
ウェンは、レナが一口含んで、絶句した、あの出汁の味を、思い出した。
「……この出汁は、特別だよ。百年も、受け継がれてきた、宝物だ」
ウェンは、サナに、ノートを返した。
サナは、ノートを、ぎゅっと抱きしめた。
そして、ノートの最後のページを、ウェンに見せた。
そこには、曾祖父の言葉が、書かれていた。
『海を見ながら食べる飯は、なんでもうまい』
「……曾祖父は、いつも、そう言っていたそうです」
サナの瞳から、涙が、こぼれ落ちた。
「……海を見ながら、みんなで、一緒に食べる。それが、一番のごちそうだって」
ウェンの胸に、熱いものが、こみ上げてきた。
(海を見ながら食べる飯は、なんでもうまい)
(……そうだ)
(料理は、人を笑顔にするために、あるんだ)
(一人で食べる飯も、おいしい)
(でも、誰かと一緒に、笑いながら食べる飯は、もっと、おいしい)
(この食堂は、そのための場所なんだ)
ウェンは、サナの手を、そっと握った。
「……サナちゃん。俺、この食堂を、守りたい。君と、一緒に」
ウェンの目は、真剣だった。
「……赤城さん……」
サナは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、ウェンを見上げた。
「……俺に、できること。それを、探させてほしい。絶対に、この食堂を、守ってみせるから」
ウェンの言葉に、サナは、何度も、何度も、うなずいた。
その夜、ウェンの心に、一筋の光が、差した。
(海を見ながら食べる飯は、なんでもうまい)
曾祖父の言葉が、ウェンの弱った心を、静かに、しかし確かに、照らしていた。
だが、その光は、まだ、あまりにも小さく、儚いものだった。
窓の外では、暗い海が、どこまでも広がっていた。Noveliaとは?
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