星の裏で、ひそかにキスを
星の裏側で、秘密はそっとキスをする。
国民的Vtuber・ムーナ・ホシノヴァに救われた高校生、相川カケル。彼女の歌声だけが、孤独だったあの日々の支えだった——そのことは、誰にも言えない秘密のまま。
幼なじみのサクラ、距離感の近いユズハとアカリ。賑やかな新学期が始まったばかりの教室に、一人の転校生がやってくる。
その瞬間、カケルの何気ない日常は静かに、でも確かに色を変えていく。
誰かの"本当"を守るということ。秘密を抱えて生きるということ。画面の向こうとこちら側、二つの世界が重なるとき、少年の夏が終わり、新しい物語が動き出す——。
星空の下、まだ名前のない感情が芽生える、青春ラブストーリー。
星の裏で、ひそかにキスを - 夏の終わりとムーンの輝き
なんで夏休みって、終わるのこんなに早いんだろう。
相川カケルは通い慣れた道を、少し重たい足取りで歩いていた。
九月一日。新学期の始業式だ。ミナセ市立あおば台高校へ続く緩やかな坂道の途中、ふと立ち止まって空を見上げる。
青かった。どこまでも青いのに、もう夏の雲じゃない。どこか輪郭のぼやけた、秋の気配が混ざった雲が、ゆっくりと流れている。
「……あーあ」
ため息がこぼれた。
夏休み、ほぼ全部を一人のVtuberに捧げた。ムーナ・ホシノヴァ。チャンネル登録者数三百八十万人。今やテレビCMにも出まくる国民的アイドルだ。Vtuberがこれほど影響力を持つようになったのはここ数年の話で、街を歩けばムーナの声を耳にしない日はない。駅前のショッピングモール「コリドーレ」にだって、等身大パネルが飾ってある。
カケルはそんな社会の空気に、がっつり飲まれていた。
夜更かしして配信を追いかけ、スーパーチャットを眺め、気づけば朝日が差し込んでいる。その繰り返し。ムーナが夜空をバックに歌う「星月夜」を、イヤホンで聴きながら眠りにつくのが習慣になってしまった。
(マジで廃人じゃん……)
頭をかく。少し伸びた黒髪が、寝ぐせでぴょんとはねていた。
「おーい、カケル!」
後ろから声が飛んでくる。振り返ると、ポニーテールを揺らした女子が二人、小走りで追いかけてきた。
ユズハとアカリだ。
「おっはよー! って、その顔!」
ユズハがカケルの目の前に飛び込んできた。明るい栗色のポニーテールが勢いよく跳ねる。猫みたいに丸い目が、好奇心できらきら輝いていた。いつもオシャレなヘアゴム——今日は星のチャームがついている——が、朝日を反射している。
「また夜更かしでしょ? ムーナの配信見てたんでしょ!」
「え、いや、別に——」
「嘘つけー。目が真っ赤だし、髪も寝ぐせついてる」
ユズハが人差し指を突きつける。カケルは思わず一歩後ずさった。
(なんでバレてるんだよ……)
「ユズハ、朝からうるさいわよ」
隣に立つアカリが、静かにたしなめた。青みがかったセミロングの黒髪が、風でさらりと流れる。つやつやと手入れの行き届いた髪は、彼女の几帳面な性格そのものだ。切れ長の目がカケルをじっと見つめる。値踏みするような、でもどこか楽しそうな視線。
「でも確かに、その寝不足顔はひどいわね。ムーナの新曲配信、昨日だったものね」
「お前らも知ってるのかよ!」
「当たり前じゃん! てかカケル、やっぱムーナ推しだったんだ!」
ユズハが嬉しそうにカケルの腕をつつく。距離が近い。
「もー、早く言ってよ! 話合うと思ってたんだよねー!」
「言う必要なかっただろ、べつに……」
カケルは目を逸らした。
この距離感が、少し苦手だった。
——ずっと前から、自分には秘密を守ることができない。
小学生の頃、仲の良かった友人に打ち明けたことがあった。好きな子の名前を、そっと。絶対に言わないと約束してくれたのに、次の日にはクラス中に知れ渡っていた。
思い出すだけで、今でも胸の奥がぎゅっと痛む。
教室中に響いた笑い声。好奇の視線。あいつには本当のことは言うなよと、誰かがささやく声。
(人は秘密で繋がれる。でも、秘密で壊れることもある)
あの日から、カケルは決めている。
誰かの大事なことは、絶対に、自分の命より重く扱うって。
「カケル? なんか暗くなった?」
「え? あ、いや、ちょっと寝不足でぼーっとしてただけ」
慌てて笑顔を作る。
「ほらー、やっぱムーナ見てたんじゃん!」
ケラケラとユズハが笑った。アカリは何も言わず、ただカケルをじっと見つめている。その視線の意味はわからない。
(こいつには、なんか見透かされてる気がする……)
三人で校門をくぐった。校庭からは運動部のかけ声が聞こえる。夏休み中に伸びきった雑草が、まだあちこちに残っていた。
——
2年3組の教室はすでに騒がしかった。
久しぶりに会うクラスメイトたちがあちこちで固まり、夏休みの思い出話に花を咲かせている。海に行った、バイトした、ゲーム漬けだった——みんなそれぞれの夏があったらしい。
「あ、カケル」
教室の入り口で声をかけられて、カケルは立ち止まった。
桜色のふんわりしたボブヘア。右側だけ小さく三つ編みをしている。少しつり目がちな焦げ茶色の瞳が、じっとカケルを見つめていた。
幼なじみのサクラだ。
「……また夜更かししたでしょ。その顔」
「お前もかよ!」
「あんたのことなら、大体わかるわよ。昔からずっと見てるんだから」
サクラが少しだけ眉をひそめる。その表情には、心配と——なんだろう、ほんの少しの寂しさが混ざっているように見えた。
「……まあ、ちゃんと寝なさいよ。今日から新学期なんだから」
「わかってるって」
カケルが笑いかけると、サクラは一瞬だけ口元をほころばせた。でもすぐに、カケルの後ろにいるユズハとアカリに気づいて、ぴたりと表情が固まる。
「……なに? 朝から三人で仲良く登校?」
「サクラもムーナの話しよーよ! カケルがガチ勢って判明したんだよ!」
「……ふうん」
サクラはそれだけ言って、自分の席に戻っていった。窓際の席——カケルの斜め前だ。座るときに、ちらりとカケルを振り返った気がしたけど、気のせいかもしれない。
(なんか機嫌悪い?)
カケルは首をかしげながら、自分の席についた。窓際の一番後ろ。ここが定位置だ。
——
始業式が終わって、教室に戻ってきても、まだ騒がしさは続いていた。
カケルは机に突っ伏して、こっそりイヤホンを耳に入れる。
ムーナ・ホシノヴァの「星月夜」。
静かなピアノのイントロが流れ始めた。
——中学三年の冬。
あの頃のカケルは、学校に行くのが嫌で仕方なかった。友達関係の小さなこじれが大きくなって、グループから浮いてしまったのだ。居場所がなくて、でも受験勉強はしなきゃいけなくて、毎日がただ灰色だった。
ある夜、布団の中でスマホをいじっていて、偶然見つけた配信。
画面の向こうでは、月と星をあしらった白いドレスを着たアバターが、夜空の映像をバックに語りかけていた。
「みんなはさ、時々、世界に一人ぼっちだって思うことない? でもね、そんな夜でも、空を見上げたら月は必ずそこにいるんだよ。大丈夫だよ、って言ってくれてるみたいに」
カケルの目から、涙がこぼれた。
なぜか、わからなかった。でもその言葉が、ぎりぎりで持っていた何かを、ふっと緩めてくれたのだ。
たとえ画面の中の笑顔が仮面でも、たとえその声を作り物でも、自分は確かに救われた。
その事実は、決して嘘じゃない。
——
「……何聴いてるの?」
突然背後から声がして、カケルは飛び上がった。イヤホンを外しながら振り返ると、サクラが立っている。
「さ、サクラ!?」
「……放課後だよ。もうみんな帰ったわ」
見回すと、確かに教室には誰もいなかった。窓の外は茜色に染まり始めている。
「あんた、たまに一人で変な顔してるから、心配したの」
「変な顔って……」
「……なんでもない。早く帰る準備しなさいよ。また夜更かししないようにね」
サクラはそっけなく言って、先に教室を出て行った。
階段を降りる足音が遠ざかっていく。
カケルはイヤホンを握りしめた。
(サクラには、バレてるんだろうな。俺がムーナを聴いてたこと)
幼なじみだ。十五年以上、ずっと隣で生きてきた。隠し事が通じる相手じゃない。
でも。
(秘密を守るって、簡単じゃないからな)
カケルは立ち上がり、窓の外を見た。ミナセの街並みが夕日に染まっている。ソラミ川が光って見えた。遠くに東京のビル群がうっすらと浮かんでいる。
Vtuber。画面の向こうの仮面の芸能人。
その存在に、自分は確かに救われた。
(誰かの秘密を軽く見て、傷つけるやつがいるなら。俺は、絶対に許さない)
そう心に決めて、カケルは教室を出た。
——
帰り道、カケルは駅前のショッピングモール「コリドーレ」の前を通りかかった。
巨大なスクリーンに、ムーナ・ホシノヴァの新曲PVが流れている。月明かりを背に舞う白いドレス。見上げる人々が何人も立ち止まっていた。
「ムーナ様マジ天使……」
「握手会、当たんないかなー」
そんな声が聞こえる。
(すごいよな。こんなに人を惹きつけて)
でも、中の人はどう思っているんだろう。
名前も顔も隠して、誰にも本当の自分を見せられないまま、何千人何万人という視線を浴び続ける。
「……孤独、なのかな」
誰にともなくつぶやいて、カケルは歩き出した。
——
次の朝。
眠い目をこすりながら登校すると、教室が妙にざわついていた。
「転校生だって!」
「この時期に珍しくない?」
「男子? 女子?」
ホームルームが始まると、担任の堂島先生が教壇に立った。四十代の温厚そうな国語教師だ。
「えー、今日から新しい仲間が加わることになった」
教室内がシンと静まる。
「……入れ」
扉が、ゆっくりと開いた。
カケルはなんとなく感じた。
(なにか、始まる気がする)
それが良いことか、悪いことか。
まだ、わからないけど。
窓の外で、夏の終わりの風が、カーテンをふわりと揺らした。Noveliaとは?
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