星の裏で、ひそかにキスを
星の裏側で、秘密はそっとキスをする。
国民的Vtuber・ムーナ・ホシノヴァに救われた高校生、相川カケル。彼女の歌声だけが、孤独だったあの日々の支えだった——そのことは、誰にも言えない秘密のまま。
幼なじみのサクラ、距離感の近いユズハとアカリ。賑やかな新学期が始まったばかりの教室に、一人の転校生がやってくる。
その瞬間、カケルの何気ない日常は静かに、でも確かに色を変えていく。
誰かの"本当"を守るということ。秘密を抱えて生きるということ。画面の向こうとこちら側、二つの世界が重なるとき、少年の夏が終わり、新しい物語が動き出す——。
星空の下、まだ名前のない感情が芽生える、青春ラブストーリー。
星の裏で、ひそかにキスを - 月の裏側と秘密の放課後
――始業式から一夜明け、教室の空気はどこか緩んでいた。
まだ夏の終わりの湿気が廊下に残っていて、窓を開けても風は生ぬるい。黒板の上に掛けられた時計の針は、ホームルーム開始十分前を指していた。
相川カケルは自分の席でぼんやりとスマホを眺めていた。画面の中ではムーナ・ホシノヴァが微笑んでいる。昨夜の配信アーカイブだ。何度も見た動画なのに、また再生ボタンを押しそうになる。
(やめとこ。寝不足でサクラに何か言われる)
イヤホンを耳から外し、机に突っ伏す。隣の席の女子が何やら恋バナで盛り上がっている声が聞こえた。
教室のドアが開く。
四十代半ばの国語教師、堂島先生が入ってきた。いつものように、くたびれたジャケットを羽織り、手には出席簿とプリントの束を持っている。
「おーい、みんな席に着けー」
生徒たちはまばらに自分の席へ戻っていく。ユズハとアカリも、窓際の席で何やら話し込んでいたのをやめて、椅子に座った。
「今日はな、新しい仲間を紹介する」
教室がざわついた。
「転校生?」
「この時期に珍しくない?」
「男?女?」
あちこちでダチの声が飛び交う。カケルも顔を上げた。
堂島先生がドアの外に声をかける。
「入っていいぞ」
ゆっくりと、扉が開いた。
――――
教室の喧騒が、水を打ったように静かになる。
現れたのは、一人の女子生徒だった。
背はあまり高くない。百五十八センチくらいか。腰まで届きそうな艶やかな黒髪が、歩くたびにふわりと揺れる。重ための前髪と、大きな伊達メガネが顔の半分を隠していて、その表情はよく見えない。
彼女が教壇の前に立つと、メガネの奥の紫色の瞳が、そっと教室を見渡した。
「――月宮はづきです。よろしくお願いします」
その声は、小さくて、どこか遠慮がちで。
でも――。
(え?)
カケルの指が、机の上でぴくりと跳ねた。
声の高さ。語尾の柔らかな響き。その一瞬だけ上がる、微かな癖。
(なんで……)
胸の奥で、何かが警告を発している。
(この声、知ってる?)
違う、と首を振る。偶然に決まっている。だって、ムーナ・ホシノヴァはVtuberだ。機械を通した声と、生の声が同じなわけがない。
だのに。
なぜか鼓動が早くなっているのを感じながら、カケルは彼女をただ見つめていた。
「席は、窓際の――そうだな、相川の前だ。一番後ろの窓際だ」
堂島先生が指し示した先は、カケルの斜め前の席だった。空席になっていた場所だ。
彼女――ハヅキは、小さく会釈をしてから、そっと自分の席へと歩いていく。
カケルの前を通り過ぎた瞬間。
ただの偶然だと思う。
彼女の長い黒髪がふわりと揺れ、ほんの少しだけ彼女の横顔が見えた。メガネの奥で、紫色の瞳が伏せられている。その白い横顔には、どこかで見たような面影があって。
(気のせいだ。きっと)
カケルは自分に言い聞かせた。
落ち着け。俺はただのファンなんだ。声が似てるだけで、こんなに動揺するなんて。
――でも、胸のモヤモヤは消えないままだった。
――――
一限目の授業が終わると、案の定だった。
「相川っち!」
ポニーテールを跳ねさせながら、ユズハがカケルの席に突進してくる。後ろからはアカリも静かについてきている。
「転校生の子、なんか放課後すぐ帰っちゃうみたいだね!隣のクラスの子が言ってたんだけどさー」
「へえ……そうなのか」
カケルは気のない返事をした。
(さっきから、彼女のことが頭から離れない)
声が。仕草が。何より、俯きがちに歩くあの姿が、どうしてもムーナ・ホシノヴァの配信画面の向こうにいる、キラキラした姿と重なるのだ。
「でさでさ、今度の日曜日にムーナ様の新曲のMVが公開されるんだって!YouTubeでプレミア配信するらしいよ!」
「ああ、それは知ってる」
「さすが相川っち、情報早い!」
ユズハが嬉しそうにカケルの腕をつつく。その横で、アカリがひっそりと口を開いた。
「そういえば、SNSではムーナ様の中の人は高校生だっていう噂が流れてますわね。本当なら、私たちと同じくらいの年齢で活動していることになりますわ」
カケルの心臓が、ドクンと跳ねた。
「まあ、噂ですけど。それに、Vtuberの中の人を詮索するのはタブーですもの」
アカリの切れ長の目が、ほんの少しだけ細められる。まるで、カケルの反応を観察しているみたいだった。
「……とはいえ、もし本当に私たちの近くにいたら面白いですわね。例えば――そう、この学校の生徒だったり」
嫌な汗が、背中を伝う。
(なんで今、あの転校生が頭に浮かぶんだ)
偶然だ。絶対に。
「アカリン、何言ってるの!まさかうちの学校にいるわけないじゃん!」
「そうね、冗談よ」
アカリはそう言って微笑んだが、その目はまったく笑っていなかった。
カケルは胸の奥で、何かがざわつくのを感じていた。
――――
放課後になった。
カケルは机の引き出しに手を突っ込んで、顔をしかめた。
(……あ)
数学のノートがない。
昨日、返却されたノートをしまい忘れて、図書室に置いてきたのだ。図書室で自習していたのは、サクラに「たまには勉強しろ」と小言を言われたからだ。
(サクラに知られたらまた怒られる)
カケルは急いで教室を出ようとした――が、廊下の向こうから、サクラが歩いてくるのが見えた。
「あ、カケル」
「サ、サクラ!?」
「忘れ物してただろ、ノート。図書室にあったよ」
サクラは右手にノートを持っていた。桜色のボブが揺れる。
「あ、ありがとう……」
「まったく、あんたは私が見てないとダメなんだから」
彼女が差し出したノートを受け取ろうとした、その時。
「……って、あれ?」
サクラが教室の中を見回した。
「あんた、今、教室にいなかった?図書室にノートがあったから届けようと思ったのに」
「あ、ああ、ちょっとトイレに」
カケルは適当にごまかした。その間にも、胸はドキドキと落ち着かない。
(ハヅキはもう帰ったのか?それとも……)
「……ふうん」
サクラはジト目でカケルを見つめた。
「ま、いいけど。それより、今日の転校生、なんかすごく綺麗な子だったね」
「え?あ、ああ……」
「でも、あんたの席の前だし、あんまりその子にちょっかい出さないでよ。あんた、すぐ困ってる人を助けようとするから」
「ちょっかいって……」
「はい、ノート。じゃあ、私は部活行くから」
サクラはノートを押し付けるように渡すと、早足で廊下を歩いていった。
その後ろ姿を、カケルはただ見つめていた。
(サクラ……怒ってる?)
いや、怒っているというより、もっと別の感情のように見えた。
何かを察しているような、そんな目だった。
――――
カケルは一人、図書室へ向かっていた。
二階の突き当たりにある図書室は、放課後になるとほとんど人が来ない。この時間は、司書の三島さんさえ職員室に戻っていることが多い。
(自分でも、なぜ図書室に戻る気になったのか。ノートはもう手に入ったのに)
でも、足は自然と図書室のドアへ向かっていた。
引き戸をそっと開ける。
蔵書のほこりっぽい匂いと、静けさが体を包んだ。
誰もいない。
窓から差し込む夕日が、本棚の背表紙を茜色に染めている。
(やっぱり気のせいか)
カケルが踵を返そうとした、その時だった。
「――今日も、配信見に来てくれてありがとー!」
図書室の奥から、声が聞こえた。
聞き覚えのある声。
キラキラして、明るくて、画面の向こうからいつも自分を励ましてくれる――ムーナ・ホシノヴァの声。
(え?)
カケルは思わず本棚の陰に身を隠した。
「次の配信では新曲の振り付け、少しだけ見せちゃおっかなー?」
本棚の隙間から、恐る恐る覗き込む。
図書室の一番奥、誰も使わない書架の影で――ハヅキがいた。
伊達メガネを外し、スマホのカメラに向かって、まるで配信中のように笑いかけている。
「みんな、待っててね!ムーナからのお知らせでしたー!」
普段教室で見せる、あの物静かでおとなしいハヅキの姿は、そこにはなかった。
今、目の前にいるのは、まぎれもなく自分が毎晩画面越しに見てきた「ムーナ・ホシノヴァ」だった。
(そんな――)
頭の中が真っ白になる。
(転校生が――ムーナだったなんて)
混乱した。
ムーナ・ホシノヴァはVtuberだ。顔も本名も非公開で、ファンの間では「中の人は絶対に探さない」のが絶対のルールだ。
もしこのことが外に漏れたら?
ルミナスター・プロダクションが持つ秘匿契約――違反した場合の罰金は五千万。リヴィール事件以来、Vtuber事務所は身バレに対して異常なほど敏感になっている。
ハヅキの人生は、終わる。
(どうする?)
動揺したカケルは、足を一歩引いた。
ガタンッ。
――運悪く。
足元に置いてあったブックトラックに、膝がぶつかってしまった。
大きな音が、静かな図書室に響き渡る。
「――だ、誰!?」
ハヅキが弾かれたように振り返る。
その顔は、血の気が引いて真っ青だった。
紫色の瞳が、恐怖に見開かれている。
「……相川、君」
カケルの姿を認めたハヅキの手から、スマホが滑り落ちた。床に落ちて、小さな音を立てる。
時間が、止まった。
――――
「お願い……お願いです……」
ハヅキはカケルの胸にすがりつくようにして、震えていた。
「誰にも……言わないで……。これがバレたら、私……もうムーナじゃいられなくなる……。学校にも……いられなくなる……」
声が震えている。
涙が、大きな紫色の瞳から零れ落ち、床にぽたぽたと染みを作った。
普段の物静かな彼女からは、想像もできないほどの取り乱し方だった。
「私……私は、ただみんなに楽しんでほしくて……でも、自分のことが嫌いで、自分に自信がなくて……だから、ムーナっていう仮面をかぶって、みんなを笑顔にしたくて……」
嗚咽が漏れる。
「こんな私でも……ムーナなら、みんなを幸せにできるから……お願いです、奪わないで……」
――その言葉は、あまりにも痛かった。
でも、カケルはすぐに気づいた。
この言葉は、嘘じゃない。
彼女は今、一番大事な秘密を自分の前で暴露してしまった恐怖に震えながら、それでも正直に、本音を話してくれているのだ。
「こんな時」に話す言葉こそ、その人間の本当の顔だ。
(この人は、本気で怯えている。それでも、嘘をつかない。言い訳をしない。ムーナの仮面の裏側には、こんなに純粋で、傷つきやすい女の子がいるんだ)
カケルの胸の奥が、熱くなった。
――ずっと昔のことを思い出す。
小学生の頃、信頼していた友達に秘密をばらされた時のこと。教室中に笑われ、好奇の視線を浴びて、もう二度と誰にも心を開くまいと誓ったあの日。
(秘密を守れない奴が、一番大嫌いだ)
そう思ったからこそ、秘密を預ける側の気持ちが痛いほどわかる。
――そして、中学三年の冬の夜。
すべてが灰色に見えたあの日、布団の中で偶然見つけた配信。画面の向こうのムーナが言った、「世界に一人ぼっちだって思うことない?でもね、そんな夜でも、空を見上げたら月は必ずそこにいるんだよ。大丈夫だよ、って言ってくれてるみたいに」
あの言葉が、どれだけ自分を救ってくれたか。
――今度は。
(今度は、俺があの人を守るんだ)
カケルは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「――ハヅキ」
名前を呼ぶと、彼女の肩がビクッと震えた。
「絶対に、誰にも言わない。俺はお前の秘密を、命がけで守る」
ハヅキの紫色の瞳が、驚きに見開かれる。
「……な、ぜ……どうして、そんなこと……言えるの……?私のこと、知ったばかりなのに……」
カケルは、まっすぐに彼女の目を見つめた。
「昔な、秘密をばらされて、すごく嫌な思いをしたことがあるんだ。それ以来、決めてる。誰かの大事な秘密は、自分の命より重く扱うって」
「……それ、だけ……?私が、ムーナだから……じゃなくて?」
「うん。お前がムーナでも、そうじゃなくても、関係ない。ただ、お前が俺を信じて秘密を預けようとしてくれた。だから俺も、それに応える。それだけだ」
本心だった。
でも、心の奥で、もう一つの思いが燃えているのも感じていた。
(それに――俺は、あんたに救われたんだ)
夜の配信で、何度も涙を拭いてもらった。
ムーナの声があったから、学校に行く勇気を持てた。
(あの時救ってくれた人を、今度は俺が守る)
「……ふ、ぅ……」
ハヅキは、その場にしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆い、小さく泣いている。
でも、その涙は、さっきまでの恐怖の涙とは違う。
安堵の涙だった。
「ありがとう……ありがとう、ございます……相川君……」
そう言って、彼女は震える声で、何度も頭を下げた。
カケルは彼女の隣にしゃがみ込んだ。
「頭、上げてよ。――なあ、ハヅキ。俺はこれから、お前がムーナと学校、どっちもやり遂げられるように、できる限りのことをする」
「……!?」
「それで、もしまた泣きそうになったら、今度は一人で泣くなよ。俺を呼べ」
ハヅキは、顔を上げた。
涙で濡れた紫色の瞳が、カケルをじっと見つめる。その目に映る感情は、感謝なのか、驚きなのか、それとも――。
「……本当に、いいの……?こんなに重い秘密なのに……」
「重いとか軽いとかじゃないよ。お前が大切にしたいものを、俺も大切にしたいだけだ」
沈黙が流れた。
図書室に、窓の外から運動部のかけ声が遠く聞こえる。
夕日が、二人の影を長く長く伸ばしていた。
「……相川君って、変わってるね」
ハヅキが、泣き笑いのような顔で言った。
「よく言われる」
カケルは苦笑いする。
その瞬間――カツン、と廊下に足音が響いた。
二人は同時に息を呑んだ。
廊下の向こうから、誰かが図書室に近づいてくる。
「――サクラ!?見つかる!隠れて!」
カケルは咄嗟にハヅキの手を引いて、書架の陰に身を潜めた。
図書室の入り口に、サクラが立った。
彼女は辺りを見回し、何かを探しているようだった。
(さっき教室にいなかったから、探しに来たのか……)
カケルは心臓が口から飛び出しそうだった。
「……カケル?」
サクラが中に入ろうとした――が、何かを感じ取ったのか、足を止めた。
彼女の視線が、本棚の陰に向けられる。
(やばい……!)
――でも、サクラは首をかしげると、そのまま静かにドアを閉めて立ち去っていった。
廊下を歩く足音が、だんだん遠ざかっていく。
「……行ったか」
カケルは大きく息を吐いた。
隣では、ハヅキも胸をなでおろしている。
「今の……幼なじみの、サクラさん?」
「ああ。俺のことでちょっと過保護なところがあってさ。バレないようにしないと」
「……ごめんなさい。私のせいで、相川君にまで迷惑をかけてしまって」
「迷惑じゃない。だから気にするな」
カケルは立ち上がった。
「もうすぐ日が暮れる。帰ろう。――でも、また明日。何かあったらすぐ相談してくれ。俺にできることなら、何でもする」
ハヅキは、カケルの顔をじっと見上げた。
「……うん。ありがとう、カケル君」
そう言って、彼女は初めて、心からの笑顔を見せた。
――――
カケルが校舎から出て、校門へ向かおうとした時だった。
「ちょっと」
門の所に、サクラが立っていた。
両腕を組んで、じっとカケルを待っている。
「あんた、図書室にいたの?」
「え?あ……ああ、ノートを」
「……変なの。最近あんた、ずっと上の空だし、今日もずっと変だったよ。それに、さっき教室で会った時も、なんか慌ててたでしょ」
サクラは、桜色のボブを揺らしながら一歩近づいた。
「ハヅキさんと、何かあったの?」
どきり、と胸が跳ねた。
カケルは必死に平然を装う。
「べ、別に。なんでもないって」
「……ふうん。まあいいけど。でも、なんか隠してるなら、絶対に許さないからね」
それだけ言うと、サクラはくるりと背を向けて歩き出した。
(バレてる。絶対、何かを感じ取ってる)
サクラは幼なじみだ。十五年以上、ずっとそばにいる。カケルが少しでも嘘をつけば、すぐにわかる。
サクラの背中を見送りながら、不安が波のように押し寄せる。
(秘密を守るって、こんなに大変なのかよ)
ハヅキを守ると誓ったその瞬間から、自分はサクラに嘘をついている。それはすごく胸が痛かった。
(でも)
守らなければいけないものがある。
今日、図書室で、ハヅキは泣きながら自分の弱さをカケルに見せた。あれは信頼の証だ。
その信頼を裏切ることは、自分が最も嫌う行為だった。
(俺は、絶対に秘密を守る)
サクラの疑念は深まる一方だろう。ユズハとアカリは、ムーナの正体を無邪気に探ろうとしている。
ハヅキの正体がバレれば、彼女の学校生活もVtuber活動も、すべて終わる。
(これから、どうすればいいんだろうな)
ミナセ市の夕焼け空の下、カケルは一人、重たい足取りで家路についた。
胸の中では、決意と不安が渦巻いている。
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