星の裏で、ひそかにキスを
星の裏側で、秘密はそっとキスをする。
国民的Vtuber・ムーナ・ホシノヴァに救われた高校生、相川カケル。彼女の歌声だけが、孤独だったあの日々の支えだった——そのことは、誰にも言えない秘密のまま。
幼なじみのサクラ、距離感の近いユズハとアカリ。賑やかな新学期が始まったばかりの教室に、一人の転校生がやってくる。
その瞬間、カケルの何気ない日常は静かに、でも確かに色を変えていく。
誰かの"本当"を守るということ。秘密を抱えて生きるということ。画面の向こうとこちら側、二つの世界が重なるとき、少年の夏が終わり、新しい物語が動き出す——。
星空の下、まだ名前のない感情が芽生える、青春ラブストーリー。
星の裏で、ひそかにキスを - 屋上の約束と四角関係の目覚め
放課後のチャイムが、校舎中に響き渡った。
教室のざわめきが一気に大きくなる。帰る準備をする者、部活に向かう者、友達と笑い合う者。
相川カケルは、教科書を鞄に詰めながら、斜め前の席をちらりと見た。
ハヅキは、俯きがちにノートを閉じている。長い黒髪が肩から滑り落ちて、横顔を隠した。伊達メガネの奥の紫色の瞳は、何かを考えているように、じっと机の一点を見つめている。
昨日の図書室でのことが、頭から離れない。
涙をためて、「誰にも言わないで」と懇願した彼女の声。そして、ムーナ・ホシノヴァとしての華やかな姿との、決定的なギャップ。
(あの時、俺は守ると誓った)
カケルは鞄のチャックを閉めた。
(だったら、迷ってる場合じゃない)
教室の前の方では、ユズハとアカリが何か楽しそうに話し込んでいる。ユズハの明るい声が、遠くに聞こえた。
「ちょっと相川っち! 今日もちょっと付き合いなよー!」
ポニーテールを揺らして、ユズハが駆け寄ってくる。後ろにはアカリも静かについてきていた。
「え、いや、今日はちょっと——」
「……あんた、また図書室?」
後ろから、幼なじみのサクラがじっとカケルを見つめていた。桜色のふんわりしたボブヘアの下で、焦げ茶色の大きな瞳が、わずかに揺れている。
サクラは、カケルとハヅキを交互に見比べてから、何も言わずに自分の席へと戻っていった。
(サクラ……)
胸がチクリと痛む。
「まあ、用事があるなら仕方ありませんわね。行きましょう、ユズハ」
アカリがユズハの腕を引く。その切れ長の目が、一瞬だけカケルの顔をじっと見つめた。何かを考えているような、値踏みするような視線だった。
「えー、なんだよぅ……じゃ、また明日ね! 相川っち!」
二人が教室を出て行くのを見送ってから、カケルは小さく息を吐いた。
周りに誰もいないことを確認して、ハヅキに近づく。
「ハヅキ。ちょっと来てほしい場所があるんだ」
ハヅキは驚いたように顔を上げた。その紫色の瞳が、少しだけ不安そうに揺れている。
「……どこへ、ですか?」
「誰にも邪魔されないところ。安心してほしい」
ハヅキは少しだけ唇を噛んでから、こくりと小さくうなずいた。
——
二人は誰もいない廊下を歩いた。
夕方の日差しが窓から斜めに差し込んで、床に長い影を落としている。部活動のかけ声が、遠くから聞こえた。
職員室の隣にある給湯室の前で、カケルは足を止めた。
「ここに、屋上の鍵が隠してあるんだ。体育教師の小宮山先生が、よくサボりに使ってるらしくて」
カケルは棚の裏に手を突っ込んだ。指先が冷たい金属に触れる。
「ある……よかった」
取り出したのは、少し古びた銀色の鍵だった。
ハヅキは目を丸くしている。
「……そんな秘密の場所があったんですね」
「うん。俺も去年、偶然見つけたんだ。ここなら、誰にも見られない。誰にも聞かれない」
二人は階段を上った。
四階まで上がり、さらにその先——「立入禁止」と書かれた黄色いプレートがぶら下がったドアの前に立つ。
カケルは鍵を差し込んで、回した。
カチャリ。
静かな音が廊下に響く。
ドアを押し開けると、九月の夕方の空気がどっと流れ込んできた。
「わあ……」
ハヅキが小さく声を漏らす。
目に飛び込んできたのは、広大な空だった。
雲がオレンジとピンクに染まり始めている。ミナセの街が一望できて、遠くには東京のビル群がかすんで見えた。ソラミ川がきらきらと夕日を反射している。
屋上は思ったより広かった。
フェンスで囲まれた、だいたい二百平方メートルくらいのコンクリートの空間。給水タンクがいくつか並んでいて、風が通り抜けるたびに微かに震えている。
「ここ、誰も来ないんですか?」
「小宮山先生は、放課後すぐに帰るから。部活の先生たちも、わざわざこんなところまで来ないよ」
カケルはフェンスの近くまで歩いていった。
風が吹き抜けて、カケルの黒髪を揺らす。
「それに、ここはもう立ち入り禁止になってるから、生徒も近づかない」
ハヅキはカケルの隣に立った。
フェンス越しに、街を見下ろす。ミニカーのような車が、ゆっくりと動いていた。
「ここなら、私……ムーナじゃなくても、いいんですね」
ハヅキがぽつりと言った。
風が彼女の黒髪をふわりと持ち上げる。メガネの奥の紫色の瞳が、夕日に照らされて少しだけ潤んでいるように見えた。
「ああ。ここは、俺とハヅキだけの場所にしよう」
カケルはそう言って、少し照れくさくなった。
(なんだよ、それ。ちょっと恥ずかしいだろ)
でも、ハヅキは嬉しそうに微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます、カケル君」
その笑顔を見た瞬間、カケルの胸の奥がドキリと跳ねた。
(やばい。今、すごくドキッとした)
——
しばらく、二人は無言で街を見下ろしていた。
風の音だけが聞こえる。遠くで、放課後のチャイムがもう一度鳴った。
「……カケル君は、どうしてそんなに優しいんですか?」
ハヅキが、ポツリと尋ねた。
「優しい? 俺が?」
「はい。私の秘密を知っても、誰にも言わないでくれて。それどころか、こんな場所まで教えてくれて……。私、迷惑かけてばかりなのに」
ハヅキはフェンスに手をかけて、うつむいた。
「画面の向こうでは、キラキラしたアイドルを演じているのに……。本当の私は、こんなに弱くて。誰かにこうやって、甘えたくてしょうがなくて」
声が少し震えている。
「ムーナは、私の理想の自分なんです。でも、それは仮面で。本当の私は、誰にも見せられないような、こんな情けない存在で……」
カケルは何も言わずに、ハヅキの横顔を見つめていた。
(ああ、そうか)
(この人はずっと、孤独だったんだ)
中学三年の冬。自分がムーナの配信に救われた夜のことを、思い出していた。
布団の中で、泣きながら見たあの配信。
画面の向こうの彼女は、まるで自分の悩みをすべて見透かしているかのように、「大丈夫だよ」と言ってくれた。
あの時の言葉が、どれだけ自分の心を軽くしてくれたか。
「俺さ」
カケルは口を開いた。
「中学の頃、結構きつい時期があって。学校に行くのが嫌で、でも逃げられなくて。毎日が灰色だったんだ」
ハヅキが顔を上げた。
「そんな時、ムーナの配信を見つけた。画面の向こうで笑ってる君を見て、なんか、救われた気がした」
「……私が?」
「うん。君は、画面の向こうのムーナも仮面だって言うけど、俺はその仮面にも、確かに救われたんだ」
カケルはハヅキの目をまっすぐに見た。
「でも、今は違う。今は、こうして隣にいるハヅキのことを、ちゃんと見てたいと思ってる。ムーナじゃなくて、本当の君を」
ハヅキの目が、見開かれた。
紫色の瞳が、大きく揺れている。
「……本当の、私を……?」
「ああ。弱くて、情けなくて、でも誰かに甘えたくてしょうがない——そういう君を、ちゃんと見てる。それって、俺にとってはすごく大事なことなんだ」
ハヅキは唇を震わせて、そして、静かに涙をこぼした。
「……ありがとう、ございます」
声が掠れている。
「私、誰かに本当の自分を見てもらえるなんて……思ってもみませんでした」
彼女はメガネを外して、涙を拭った。
メガネの奥に隠れていた紫色の瞳が、夕日に濡れて輝いている。その横顔は、画面の向こうのムーナよりも、ずっと綺麗だとカケルは思った。
(ああ、俺、この人のこと——)
そこまで考えて、慌てて首を振る。
(いや、落ち着け。今はそんなことを考えてる場合じゃないだろ)
「……って、なんか恥ずかしいこと言っちゃったな。忘れてくれ」
カケルが頭をかくと、ハヅキは涙をぬぐいながら、少しだけ笑った。
「ふふ……。忘れませんよ。絶対に。一生の宝物にします」
——
その時だった。
一陣の強い風が、屋上を吹き抜けた。
ビュウッ——
「あっ」
ハヅキがポケットから出したハンカチが、風にさらわれて舞い上がった。
白い小さな布が、ひらひらと空に浮かんで、フェンスの外の縁に引っかかる。
「私の、ハンカチ……!」
ハヅキが慌てて身を乗り出した。
「あ、危ない! やめろ!」
次の瞬間。
ハヅキの足が、屋上の縁の小さな段差に取られた。
彼女の体が、ぐらりと傾く。
(落ちる——!?)
カケルは考えるより先に、体を動かしていた。
「つかまれ!!」
ハヅキの腕をガッと掴んで、思い切り引き寄せる。
彼女の華奢な体が、カケルの胸の中に飛び込んできた。
——ドサッ。
二人はそのまま、コンクリートの床に倒れ込んだ。
下になったカケルの背中が、少し痛い。
でも、それよりも——。
「……あ」
ハヅキの顔が、数センチの距離にあった。
紫色の大きな瞳が、驚きに見開かれて、カケルをじっと見つめている。長いまつげが震えていた。彼女の息遣いが、カケルの唇に触れる。
(ち、近い……!)
胸と胸がくっついている。
彼女の鼓動が、服越しに伝わってきた。それは驚くほど早くて、大きい。
自分も同じだ。
心臓が、バクバクと音を立てている。
「ご、ごめん! 大丈夫か!?」
カケルは慌てて手を離した。
ハヅキも顔を真っ赤にして、カケルの上から飛びのく。
「私の方こそ、すみません……! あの、その、助けてくれてありがとうございました……!」
彼女の白い肌が、耳の先まで真っ赤に染まっていた。うつむいて、両手を胸の前でぎゅっと握っている。
(なんか、すごくいい匂いがした……)
カケルはそんなことを考えて、すぐに自己嫌悪に陥った。
(ばか! 今のは不可抗力だろ! 変なこと考えるな!)
二人とも、しばらく何も言えなかった。
ハヅキはうつむいたまま、チラチラとカケルを見上げている。カケルもどこを見ればいいのかわからず、目の前の夕焼け空をただ見上げるしかなかった。
「……ハンカチ、惜しかったな」
ようやくそれだけ言うと、
「……いいえ。ハンカチよりも、大切なものを、もらいましたから」
ハヅキはまだ顔を赤くしたまま、でも、はっきりとそう言った。
——
それから、二人は夕日が完全に沈むまで、少し距離を置いて並んで座っていた。
無言だった。
でも、嫌な沈黙じゃなかった。
ときどき、風が吹く。フェンスが揺れる音がする。遠くでカラスが鳴いた。
(こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
カケルは思った。
でも、すぐに打ち消す。
(いや。俺は彼女の秘密を守るって決めたんだ。それ以上を望んじゃいけない)
チラリと隣を見ると、ハヅキも同じように膝を抱えて、空を見つめていた。
その横顔は、画面の中のムーナよりもずっと、人間らしくて、あたたかかった。
(俺は、この人を見てるよ)
(だから、大丈夫だ)
——
翌日。
教室はいつも通りの喧騒に包まれていた。
窓の外は快晴。九月の日差しがキラキラと教室の中に差し込んでいる。
「相川っち!! やばいやばいやばい!!!」
朝っぱらから、ユズハがすごい勢いでカケルの机に突進してきた。
「なんだよ、朝からうるさいな……」
「うるさくもなるって!! 見てこれ!!!」
彼女が突きつけたスマホの画面には、「当選」の二文字がデカデカと表示されている。
「来月のムーナ・ホシノヴァ握手会のチケット、当たったんだよ!!! しかもウチとアカリンの分、二枚も!」
ユズハは飛び跳ねそうな勢いだ。ポニーテールがピョンピョン跳ねている。
「すっごいな! 抽選倍率、すごかったんだろ?」
「もちろん! 百倍は軽く超えてた! だから相川っちも一緒に行こうよ! 当日券まだあるかもしれないし、ダメでもグッズだけ買いに行こう!」
「え? いや、俺は……」
(ハヅキ本人と俺が、握手会に行く?)
(いやいやいや。それはマズいだろ。いろんな意味で)
カケルが言いよどんでいると、すぐ隣でアカリが口を開いた。
「まあまあ、ユズハ。相川さんにも事情があるんだよ。きっと、放課後もお忙しいみたいだし」
青みがかった黒髪のセミロングを、彼女はサラリと手で払った。切れ長の目が、カケルの顔をチラリと見る。
その口調は穏やかだけど、何かを含んでいるように聞こえた。
(……やっぱり、アカリは何か気づいてるのか?)
「相川っちのムーナ愛が足りないんじゃない!? 推しに会えるんだよ!? 目の前で声が聞けるんだよ!?」
「いや、愛はある。愛はあるけど……その日はちょっと、予定が……」
「なにそれ、はっきりしないなー!」
ユズハが頬を膨らませる。
教室の窓際。
自分の席に座ったまま、サクラはじっとそのやり取りを見つめていた。
桜色のボブヘアの下で、少しつり目がちの焦げ茶色の瞳が、冷めたように細められている。
手に持ったペンを握る指が、白くなっていた。
(カケル。あんた、やっぱり変だよ)
(昨日だって、ハヅキさんと二人でどっか行ったでしょ)
(それに、ムーナの握手会に興味ないなんて、あんたらしくない)
彼女の中で、モヤモヤがどんどん大きくなっていった。
——
放課後。
カケルは一人、靴を履き替えて校門へと向かった。
今日はハヅキと会う約束はない。
配信がある日は、彼女はすぐに帰る。だから、こうして一人で帰る日も、まだ少しはあった。
(でも、昨日のことは……)
屋上の、あの瞬間。
胸の中に飛び込んできたハヅキの重みと、シャンプーのような甘い匂い。
数センチの距離で見つめ合った、濡れた紫色の瞳。
思い出すだけで、顔が熱くなる。
(バカ。考えるな。俺は彼女の秘密を守るだけだ)
そう自分に言い聞かせて、下駄箱から靴を取り出した時だった。
「……ちょっと、いいかな」
その声に、ビクッと肩が跳ねた。
振り返ると、サクラが腕を組んで立っている。校門の柱にもたれかかって、じっとカケルを待っていたらしい。
「サクラ……まだ帰ってなかったのか?」
「あんたを待ってたの」
サクラは無表情だった。
でも、長い付き合いだからわかる。彼女の目は、怒っている。それも、かなり深く。
「最近、ずっと変だよ。あんた」
「そ、そんなことないって……」
「嘘。あんたが嘘つく時は、いつもそう。私から目を逸らす」
サクラが一歩、近づく。
夕日が、彼女の桜色の髪をオレンジに染めていた。
「あんた、最近ずっとハヅキさんと何してるの?」
どきり、と心臓が跳ねた。
「な、何って……別に……」
「嘘!」
突然、サクラの声が大きくなった。
目に、涙が溜まっている。
「私、見たんだから。あんたがハヅキさんと図書室から出てきたところも、屋上の鍵を給湯室からこっそり持ち出すところも」
カケルは言葉を失った。
(見られてた……のか?)
「昔から、ずっと一緒にいたのに……。私には隠し事なんて、今までなかったのに。なんで今になって、そんなに秘密を作るの……?」
サクラの声は震えていた。
目のふちに溜まった涙が、今にもこぼれそうだ。
「ハヅキさんと、何を話してるの? 私には言えないことなの? 昔から、ずっと一緒にいたのに……」
「サクラ……ごめん。今は、言えない」
カケルは俯いた。
(言いたい。でも、言えない。言っちゃいけないんだ)
サクラは幼なじみだ。生まれた時から隣にいて、カケルが困った時はいつも助けてくれた。彼女に隠し事をするのは、心臓をえぐられるように痛い。
でも。
(ハヅキの秘密は、俺の命より重い。たとえサクラでも、話すわけにはいかない)
「……わかった。もう、いい」
サクラは冷たく言い放った。
「……サクラ?」
「わかったって言ってるの!」
そして、彼女は背を向けて走り出した。
校門を抜けて、坂道を駆け下りていく。桜色の髪が、夕日に揺れていた。
「おい、サクラ……!」
呼び止めようとしたけど、彼女はもう止まらない。
小さな背中が、どんどん遠ざかっていく。
(……泣かせてしまった)
罪悪感が、胸を締め付ける。
サクラは、何も悪くないのに。ただ、幼なじみのことを心配していただけなのに。
それなのに、俺は彼女を傷つけた。
何より、そんな彼女の気持ちに、気づかないふりをしてきた。ずっと。
(……俺は、どうすればいいんだろうな)
カケルは立ち尽くした。
右手には、ハヅキを守りたいという固い決意。
左手には、サクラを傷つけてしまった罪悪感。
どちらも本物で、どちらも譲れない。
ミナセの街に、夕日が沈んでいく。長い影が校庭に伸びて、カケルの足元を黒く染めていた。
(ユズハとアカリも、これからどんどん距離を縮めてくるだろう。握手会のこともある)
女子三人の顔が、頭の中に浮かぶ。
ハヅキの泣き笑いの顔。
サクラの、涙で歪んだ怒りの顔。
そして、ユズハの無邪気な笑顔と、アカリのすべてを見透かしたような、静かな目。
(これが、四角関係ってやつなのか……?)
バカなことを考えて、乾いた笑いが漏れた。
でも、状況は笑えないくらいややこしくて、どうにもならなくなっていた。
風が吹いて、校庭の木々がざわめく。
カケルは重たい足を引きずるようにして、ようやく家への道を歩き始めた。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。Noveliaとは?
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