星の裏で、ひそかにキスを
星の裏側で、秘密はそっとキスをする。
国民的Vtuber・ムーナ・ホシノヴァに救われた高校生、相川カケル。彼女の歌声だけが、孤独だったあの日々の支えだった——そのことは、誰にも言えない秘密のまま。
幼なじみのサクラ、距離感の近いユズハとアカリ。賑やかな新学期が始まったばかりの教室に、一人の転校生がやってくる。
その瞬間、カケルの何気ない日常は静かに、でも確かに色を変えていく。
誰かの"本当"を守るということ。秘密を抱えて生きるということ。画面の向こうとこちら側、二つの世界が重なるとき、少年の夏が終わり、新しい物語が動き出す——。
星空の下、まだ名前のない感情が芽生える、青春ラブストーリー。
星の裏で、ひそかにキスを - 崩れゆく日常と嫉妬の刃
――教室の中は、しんとしていた。
夏の終わりのぬるい風が窓から入ってきて、カーテンをふわりと持ち上げる。十月に入ろうとしているのに、まだ空気はどこかべたついていた。
相川カケルは自分の席で、机の一点をじっと見つめている。
(……やばい。なんでそんなことになったんだ)
胸の奥がざわついて、じっとしていられない。さっきまでホームルームで話していたことが、頭の中でぐるぐる回っていた。
『あおば祭』――文化祭まで、あと二週間。
毎年この時期になると、クラス中が浮き足立つ。出し物を決める時期だからだ。
「はいはーい! ウチ、提案がありまーす!」
ユズハが元気よく手を挙げた。栗色のポニーテールが左右に揺れる。隣に座るアカリは、いつも通りクールな表情でノートを開いている。
「どうぞ、柚原さん」
担任の堂島先生が、ユズハを指名した。
「ずばり! 超人気Vtuber・ムーナ・ホシノヴァ様のコスプレ喫茶と、そっくりさんモノマネ大会でーす!」
――教室が、どよめいた。
「それいい!」
「ムーナ様のコスプレ見たい!」
「モノマネ大会、絶対盛り上がるよ!」
クラスメートの男子も女子も、口々に声を上げる。ムーナ・ホシノヴァは今、この高校でも一番人気のVtuberだ。ファンはクラスの半分以上いる。
「ちょ、ちょっと待てよ、ユズハ……!」
カケルは思わず立ち上がった。
心臓がばくばくと脈打っている。指先が冷たくなっていくのがわかった。
(ハヅキは、ムーナの正体なんだ。もしモノマネ大会で誰かが――)
「なになに、相川っち。反対する理由でもあんの?」
ユズハが、きょとんとした顔でカケルを見る。
「それは……その……」
言葉が出てこない。
(反対するなら、理由を言わないといけない。でも、言えるわけがない)
ハヅキがムーナだということを、クラスのみんなに話すことはできない。それは、彼女の人生を終わらせるのと同じことだ。
「相川くん、顔色悪いよ。どうかした?」
斜め後ろの席から、サクラがじっとカケルを見つめていた。桜色のボブヘアの下で、つり目がちの焦げ茶色の瞳がカケルをじっと観察している。最近、彼女はいつにも増して、カケルのことを注意深く見ている。
「い、いや……別に」
カケルは、慌てて席に座った。
ハヅキの方をそっと見る。彼女は青ざめた顔で、うつむいていた。伊達メガネの奥の紫色の瞳が、恐怖に揺れている。
「……月宮さんはどう思います? ムーナ様の企画」
アカリが、静かな声でハヅキに話しかけた。切れ長の目が、何かを探るようにハヅキを見つめている。
「わ、私は……べつに……」
ハヅキの声は、かすれてほとんど聞こえなかった。
「よーし、じゃあ多数決で決めちゃおう! ムーナ企画に賛成の人、はーい!」
教室の半分以上の手が上がった。
「……反対の人?」
カケルは、手を挙げられなかった。ハヅキも、動けなかった。
「よし、じゃあこれで決定だな。2年3組の出し物はムーナ・ホシノヴァのコスプレ喫茶とモノマネ大会に決定」
――あっさりと、決まってしまった。
(最悪だ……)
カケルは、机の下で拳をぎゅっと握った。
――――
放課後。
教室にはまだ、残った生徒たちが何人かいた。
ユズハとアカリは窓際でスマホを見ながら、何やら話し込んでいる。
「なになに、アカリン! それホント!?」
ユズハが大きな声を上げたので、周りにいたクラスメートたちもそちらに集まってきた。
「まだ噂ですけどね。ムーナ・ホシノヴァの中の人は、どうもミナセ市に住んでいるらしいんですの」
アカリの言葉に、教室がざわついた。
「ええ!? じゃあ私たちの街にいるの!?」
「まさか、この高校の生徒だったりして?」
「もしそうだったら、あおば祭のモノマネ大会でバレちゃうかもね!」
カケルの背中を、冷たい汗が伝った。
見ると、ハヅキはまだ教室に残っていた。顔を伏せて、机に手を置いたまま動かない。
「ルナリンクの裏掲示板に書き込みがあったんですの。『中の人はミナセ市の高校生で、結構な美少女らしい』って。あら、本当かしら」
アカリの声はあくまで淡々としていたが、その目は獲物を探すように教室の中をゆっくりと見渡している。
「ちょっと相川っち! ムーナ様がこの街にいるんだって! やばくない!?」
ユズハがカケルの席に駆け寄ってきた。ポニーテールが跳ねている。
「あ……ああ、そうだな」
「探そうよ! もしかしたらほんとにうちの学校の生徒だったりして! そしたら毎日会えるよ!?」
「……やめたほうがいいと思う」
ハヅキが、小さな声で言った。
教室の全員が、彼女の方を向いた。
「よ、よく言うでしょ。Vtuberの中の人を詮索するのは……タブーだって……」
声は震えていた。彼女の指が、膝の上で白くなるほどぎゅっと握られている。
「……そういえば、月宮さんってミナセ市に引っ越してきたばかりなんですわよね?」
アカリが、さらりと言った。
ハヅキの体が、ぴくりと跳ねた。
「それに、月宮さんって声がとても綺麗ですわ。モノマネ大会に出てみません?」
「や、やめてください……わたし、そういうのは……」
ハヅキが立ち上がる。顔は真っ青で、今にも泣き出しそうだった。
(やめてくれ、アカリ……!)
カケルも立ち上がろうとした、その時――。
バンッ!
教室のドアが、勢いよく開いた。
「ハヅキさん!」
入ってきたのは、サクラだった。
右手に、何かをぎゅっと握りしめている。桜色の髪が、怒りで震えているのが見えた。
「これ、何?」
サクラが掲げたのは、一枚のプラスチック製のカードだった。
表面には、銀色の文字で『LUMINASTAR PRODUCTION』と刻まれている。裏面には『STAFF/RELATIONS – HAZUKI TSUKIMIYA』という文字と、ハヅキの顔写真。
「それ……!」
ハヅキが、言葉を失った。
「図書室の返却本の整理をしてたら、本の間から落ちてきたんだ」
サクラの声は、低く震えている。
「ルミナスター・プロダクション。ムーナ・ホシノヴァが所属してる事務所だよね。しかも、この中にはNDAの違約金のメモまで入ってた。五千万円だって」
教室に残っていた生徒たちが、ざわつき始めた。
「え、なになに? 月宮さんがルミナスターの関係者なの?」
「ちょっと待って……それじゃあ、中の人ってまさか……」
「ハヅキさん。あんた、ムーナの中の人なんじゃないの!?」
サクラが叫んだ。
教室中が、凍りついた。
ハヅキは、青ざめた顔で立ちすくんでいる。口を開きかけて、閉じた。
「それだけじゃない。あんた、最近ずっとカケルと一緒にいるよね。放課後も、休み時間も」
サクラの目から、涙がこぼれた。
「カケルに近づいて、何がしたいわけ!? あんたのせいで、カケルは最近ずっと変なんだ!」
「ち、違います……私は……」
「そうやって、迷ってるカケルをたぶらかしてるんじゃないの!?」
サクラの声は、ヒステリックになっていった。嫉妬と悲しみが混ざり合った声だった。
(もうダメだ。秘密がバレる――)
カケルは、頭の中が真っ白になった。
(ハヅキを守る。それが俺の誓いだった。秘密は誰にも渡さないって)
カケルは、サクラの前に歩み出た。
「やめろ、サクラ。それ、俺のだ」
サクラが、驚いた顔でカケルを見る。
「……は?」
「そのパスケース、俺の落とし物だ。ルミナスターの警備員のバイトをしてるんだ、夏休みから。たまたま落とした」
それは、でたらめの嘘だった。でも今は、どんな嘘でもいい。ハヅキを守れれば。
「……嘘よ。だって、ここにハヅキさんの顔写真が」
「それは俺が拾ったんだ。ハヅキが落としたのを、俺が届けようと思って持ってた。ほら、返すよ」
カケルはサクラの手からパスケースを奪い取ると、ハヅキの前に差し出した。
「……カケル君」
ハヅキが、震える手でパスケースを受け取る。
教室の生徒たちは、なんだ、そういうことか、と興味を失ったようだった。
「なんだよ相川、ルミナスターでバイトしてたのか」
「警備員かよ、地味なバイトだな」
クラスメートが去り、教室の中は静かになっていった。
でも――。
サクラだけはまだ、その場に立っていた。
「……そう。あんたがそう言うなら」
サクラは冷たく言い放つと、カバンをひっつかんで教室を出て行った。
その背中から、悲しみがにじみ出ているようだった。
――――
日が暮れ始めた屋上。
九月の終わりの風が、ミナセの街を吹き抜けている。遠くの高層ビル群が、夕日でオレンジに染まっていた。
ハヅキは、フェンスにもたれて泣いていた。
「……ごめんなさい、カケル君。私のせいで、サクラさんにまで嘘をつかせて」
涙が、彼女の頬を伝って落ちる。伊達メガネがずれて、美しい紫色の瞳が露わになっていた。
「気にするな。俺が勝手にやったことだ」
カケルは、ハヅキの隣に立った。
「でも……サクラさんはすごく傷ついてた。それは私のせいです」
「ハヅキ。お前が気に病むことじゃない。話したいか? どうしてここまで、秘密を怖がるのか」
ハヅキは、うつむいたまましばらく震えていた。
それから、ゆっくりと話し始めた。
「……二年前、リヴィール事件ってのがあったんです」
「……知ってる。ニュースで見た」
「あの事件で、正体を暴かれたVtuberは、自宅の住所も本名もネットに晒されました。それで……精神を病んで、今も消息不明なんです」
ハヅキの指が、震えていた。
「私も同じになるかもしれない。もしバレたら、学校にも来られなくなるし、ムーナも終わりです。家族にも迷惑がかかる。カケル君にも……サクラさんにも」
「俺は怖くない」
カケルは、強く言った。
「誰が何と言おうと、お前の秘密は俺が守る。ルミナスターがどうであれ、五千万の違約金があろうがなんだろうが、お前がハヅキでいる場所は俺が必ず守る」
「……どうして、そこまでしてくれるんですか」
「言っただろ。俺は、今はムーナじゃなくてハヅキを見てるんだって」
ハヅキの目から、また涙がこぼれた。
でも、今度は少しだけ、違う涙だった。
「……ありがとう」
彼女はそう言って、小さく微笑んだ。
――――
翌日の放課後。
カケルは、サクラからの呼び出しで校舎裏に来ていた。
ひんやりとした日陰に、サクラは立っていた。
桜色の髪が、かすかに風に揺れている。
「……調べたんだ」
サクラは、スマホの画面をカケルに突き出した。
「あのパスケース、ルミナスターの非売品だよね。関係者にしか配られないやつ。ネットで調べたらすぐわかった」
カケルは、言葉を失った。
(……全部、バレてたのか)
「あんた、ハヅキさんの秘密を知ってるんだね。それで、私に嘘ついたんだね」
サクラの目に、涙が浮かんでいた。
「あの時、二人が図書室から出てきたのを見た。放課後、一緒に屋上にいるのも見てた。いつから? いつから私に黙って、ハヅキさんとそんな関係になったの?」
「……ごめん、サクラ。言えない」
「嘘つき!」
サクラの声が震えた。
「私は昔から、ずっとあんたのそばにいて、ずっと……ずっとあんたのことが……」
言葉が、途中で消えた。
彼女は、唇をぎゅっと噛んだ。
「じゃあ私、もうこのこと、クラスで言うから。ムーナの正体がハヅキさんだって、みんなに教えるから」
「……サクラ!?」
カケルの心臓が、凍りついた。
(そんな……それだけは……!)
「嘘をつかれるのが一番嫌いなの。あんたに嘘をつかれるのが、一番嫌い!」
サクラは、涙をぬぐってカケルをきっと睨みつけた。
その目は、カケルが知っている幼なじみの優しい目じゃなかった。
傷ついて、怒って、悲しみに塗れた、壊れそうな少女の目だった。
「さよなら、カケル」
彼女は背を向けて、走り去った。
桜色の髪が、夕日に染まって、泣いているように揺れていた。
カケルは、立ち尽くした。
(もう、どうすればいいんだ)
守りたいものが二つある。ハヅキの秘密と、サクラとの絆。
でも、今はどちらも壊れかけている。
どちらかしか選べないなら、俺は――。
胸の奥が、ぎしぎしと痛んだ。
ミナセの街に、夕日が沈んでいく。その光は、なぜかいつもよりずっと、赤く見えた。Noveliaとは?
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