星の裏で、ひそかにキスを
星の裏側で、秘密はそっとキスをする。
国民的Vtuber・ムーナ・ホシノヴァに救われた高校生、相川カケル。彼女の歌声だけが、孤独だったあの日々の支えだった——そのことは、誰にも言えない秘密のまま。
幼なじみのサクラ、距離感の近いユズハとアカリ。賑やかな新学期が始まったばかりの教室に、一人の転校生がやってくる。
その瞬間、カケルの何気ない日常は静かに、でも確かに色を変えていく。
誰かの"本当"を守るということ。秘密を抱えて生きるということ。画面の向こうとこちら側、二つの世界が重なるとき、少年の夏が終わり、新しい物語が動き出す——。
星空の下、まだ名前のない感情が芽生える、青春ラブストーリー。
星の裏で、ひそかにキスを - 文化祭の絶望とたった一人の叫び
体育館が、熱気でぐらぐらと揺れていた。
十月の第三土曜日、あおば祭は最高潮を迎えている。ステージを埋め尽くす照明が客席を照らし、生徒たちの興奮した声が渦を巻く。
「さあさあお待ちかね! 2年3組企画、ムーナ・ホシノヴァそっくりさんモノマネ大会、スタートでーす!!」
栗色のポニーテールを揺らして、ユズハが司会進行を叫んだ。隣ではアカリがノートパソコンを操作し、舞台袖ではムーナのコスプレをしたクラスメートたちが緊張した面持ちで控えている。
体育館の後ろの方で、相川カケルは拳を握りしめていた。
(頼む。何事もなく終わってくれ)
指先が冷たい。脂汗が背中を伝う。隣のクラスの奴らが何か囃し立てているが、言葉はまるで耳に入らない。
ハヅキはどこだ。
視線だけで探す。ステージの下手袖。暗がりに、彼女はいた。俯いて、両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。伊達メガネの奥の紫色の瞳は、何かに怯えるように揺れていた。
(大丈夫だ。俺がついてる)
そう念じるしかなかった。
「最初の挑戦者は、我らがクラスの期待の星! 月宮ハヅキさんでーす!!」
どよめきと拍手の中、ハヅキはびくっと肩を震わせた。
「……私、やっぱり……」
彼女の唇がそう動いたのを、カケルははっきりと見た。しかしアカリが静かに彼女の背中を押し、ハヅキは半ば強制的にステージの中央へと歩かされる。
スポットライトが彼女を照らし出す。長い黒髪が、光を浴びて銀色に輝いた。
「おおおー! 雰囲気あるじゃん!」
「声、似てんのかなー?」
客席がざわつく。
ハヅキはマイクスタンドの前で、まるで翼を折られた小鳥のように立ち尽くした。
「それでは、まずは判定から参りましょうか」
アカリの声が、体育館に冷静に響く。彼女はノートパソコンを操作し、ステージ後方の巨大スクリーンに何かのアプリケーションを表示させた。波形が二列、無機質に並んでいる。
「これは最新の音声解析ソフトですわ。事前に録音したハヅキさんの声と、ムーナ様の配信アーカイブの音声を比較してみましょう」
カケルの心臓が、ドクンと跳ね上がった。
(音声解析……だと?)
事前にそんな説明はなかった。アカリが勝手に用意したものだ。
「解析スタート」
スクリーンに二つの波形が重ねられていく。青がハヅキ、赤がムーナ。
体育館中が、息を呑んで見守る。
重なる。
ぴったりと、二つの波形が一つになった。
スクリーンに、でかでかと数字が飛び出す。
【波形一致率 98.7%】
――体育館が、凍りついた。
一瞬の沈黙。
それから。
「うおおおおお!! なんだよその数字!!」
「やっぱり似てるんじゃん!!」
「歌え! 歌え!」
割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こった。
「すっごーい! ハヅキさん、やっぱりムーナ様に声が激似なんだよ! モノマネ、やってみて!」
ユズハが、弾けるような笑顔でハヅキの肩をバンバン叩く。
ハヅキは、青ざめていた。
顔から血の気が引き、唇が震える。マイクを握る指が、白くなるほどに強張っている。
「……わ、私は……」
声が、出ていなかった。
かすれた空気が漏れるだけで、彼女はまるで金縛りにあったように動けない。
「ムーナ! ムーナ! ムーナ!」
誰かが唱和を始めた。
あっという間にそれは広がり、体育館全体が一つの生き物のように彼女の名前を叫び始める。
「ムーナ! ムーナ! ムーナ!」
無邪気なコールが、ハヅキに降り注ぐ。
拷問のように。
ハヅキの目に、涙が盛り上がった。
(やめろ)
カケルは歯を食いしばった。
(やめろ。それ以上、彼女を追い詰めるな)
拳を握る。爪が手のひらに食い込んで、血が滲んだ。
その時。
「もうやめなよ!!」
客席の最前列から、サクラが飛び出した。
桜色のボブヘアを乱して、彼女はステージに駆け上がる。つり目がちの焦げ茶色の瞳が、怒りと恐怖で燃えていた。
「本人が嫌がってるでしょ! なんでそんなこともわかんないの!?」
サクラはハヅキを庇うように、両腕を広げて立ちはだかる。
「ちょっとサクラちゃん、何言ってるの? 文化祭の出し物なんだから、協力してよ!」
ユズハがムッとした顔で反論する。
「協力って……あんた、自分のやってることの意味がわかってるの!?」
「意味って何? ウチはただ、盛り上げようとしてるだけだよ!」
二人の言い争いが、ステージ上で激しさを増していく。
会場のボルテージは、その喧嘩すら見世物のように楽しんでいた。
「カケル! 何とか言ってよ!!」
サクラが、振り返って叫んだ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
幼なじみの、必死の形相。
カケルは――動けなかった。
(……何を言えばいいんだ)
頭の中が真っ白になる。
拳を握る。震える。歯を食いしばって、唇を噛む。
血の味がした。
「データは嘘をつきませんわ」
アカリの声が、マイク越しに響いた。
彼女は冷静にスクリーンを指さす。ノイズのようにしか聞こえないその言葉が、混乱した会場をさらに一つにまとめ上げていく。
「この波形一致を見てください。98.7%。これは偶然では片付けられない数字ですわ。月宮さん、あなたは――」
その時。
ハヅキの目から、涙がこぼれ落ちた。
きらりと光る雫が、スポットライトに弾ける。
彼女は、逃げ出そうとした。
ステージ袖に向かって、震える足で一歩を踏み出す。
その瞬間。
「やめろおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
カケルは叫んでいた。
自分でも制御できないほどの大声で、喉が張り裂けるかと思うほどの絶叫で。
気づいた時には駆け出していた。
椅子を蹴倒し、人の肩を押し退け、ステージに飛び乗る。
靴底が床を擦る音が、やけに遠く響いた。
彼はユズハの手からマイクを奪い取り、ハヅキを自分の背中に隠した。
「彼女はただの転校生だ! ムーナの声と似てるだけだ! 証拠を見せてやる!」
震える手でスマホを取り出す。
画面をタップする指が、恐怖でまともに動かない。
(頼む。頼むから、動いてくれ)
事前に用意していたデータ。
ネットの海からかき集めた、ムーナの声マネ音源。いくつもの声を切り貼りして、編集した偽のボイスサンプル。
カケルはそれを、スピーカーに無理やり接続した。
ガガガガッ!
ハウリング。
耳をつんざく音が体育館に響き渡り、生徒たちが一斉に耳を塞ぐ。
「ほら見ろ! ムーナの中の人は別にいるんだ! こいつはこの声の主だ! わかったか!!」
スピーカーから、歪んだ音声が流れる。
それは明らかに、ムーナの声とは違う、素人の声マネだった。
技術も何もない、ただのコピー。
誰が聞いたって、偽物だとわかる。
――でも。
「……なにあれ」
「空気読めなくない?」
「やばい。めっちゃ痛いんだけど」
客席の空気が、一変した。
熱狂が、一瞬でドン引きに変わる。
「ちょっとカケル君、何してるの……」
ユズハが、困惑した顔でカケルを見つめている。
その目にはもう、親しみも、仲間意識もなかった。
単なる、異物を見る目。
「音響トラブルでしょ」
アカリが、マイクの電源を切った。
ブツン。
静寂。
全ての音が消えた体育館で、カケルは立ち尽くす。
荒い息だけが、自分の耳に響く。
「……っ」
背後で、ハヅキが泣き声を漏らした。
彼女は俯いたまま、肩を震わせている。
周りを見渡す。
クラスメートたちの顔。
ユズハの戸惑い。
アカリの冷たい視線。
サクラの、何かを言いたげに口を開きかけて、閉じる顔。
観客席の全員が、カケルを見ていた。
まるで、試験管の中の虫を観察するみたいに。
(……終わった)
カケルは理解した。
ハヅキの正体は守れた。
でも、その代償として、自分は全てを失った。
信用も、友情も、居場所も、全部。
「……本日のモノマネ大会は、ここで終了とさせていただきます」
アカリの宣言で、場は幕を閉じた。
ざわざわと人が散っていく中で、カケルはただ、その場に立ち尽くすしかなかった。
――――
夕暮れ。
文化祭の熱気が嘘のように冷め切った校庭に、カケルはいた。
人気はまばらだった。
ほとんどの生徒は、後夜祭の準備で盛り上がっている。
遠くから、楽しそうな音楽が聞こえてくる。
「相川マジでウザいな」
「なんであんなことしたの? 目立ちたがり屋かよ」
「つーか、空気読めなさすぎでしょ。二度と話しかけんなって感じ」
すれ違う生徒たちの声が、棘のように突き刺さる。
聞こえよがしの悪口。
カケルは俯いたまま、足を動かした。
校門の近くに、ゴミ箱が並んでいる。
文化祭のゴミが無造作に捨てられ、溢れかえっていた。
――その中に。
ムーナ・ホシノヴァの団扇が、突き刺さっていた。
印刷された笑顔が、泥で汚れている。
月と星をモチーフにしたアバターが、ゴミに埋もれて見えなくなっていた。
カケルは、手を伸ばした。
汚れた団扇を拾い上げる。
「……これで、よかったんだ」
声が、震えた。
何一つよくなんてない。
守れたのは秘密だけで、他は全部粉々に壊れた。
(でも、それでいい)
カケルは団扇を握りしめた。
紙がぐしゃりと歪む。
(ハヅキが笑えるなら、それでいいんだ)
涙は出なかった。
もう、出尽くしたのかもしれない。
ただ、胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたような虚無だけが残っていた。
風が吹く。
「――カケル!」
頭上から、声がした。
カケルが顔を上げる。
屋上。
フェンスの向こうから、サクラが身を乗り出して叫んでいた。
夕日を背に受けて、桜色の髪が燃えるように輝いている。
「ごめん……!! 私、私があんなことしなければ……!!」
サクラの声は、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
彼女は両手で顔を覆い、肩を震わせながら泣いている。
その右手に、何かが握られていた。
銀色に光る、小さなUSBメモリ。
あれは――。
「私が、あのデータをアカリさんに……」
言葉の続きは、嗚咽にかき消された。
カケルの胸の奥で、何かが軋んだ。
(サクラが……?)
でも、その先の言葉は、彼女の涙の中に溶けていった。
屋上からの泣き声が、夕焼け空に吸い込まれていく。
ミナセの街に、夜が訪れようとしていた。
カケルは、壊れた団扇を握りしめたまま、動けなかった。Noveliaとは?
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