星の裏で、ひそかにキスを
星の裏側で、秘密はそっとキスをする。
国民的Vtuber・ムーナ・ホシノヴァに救われた高校生、相川カケル。彼女の歌声だけが、孤独だったあの日々の支えだった——そのことは、誰にも言えない秘密のまま。
幼なじみのサクラ、距離感の近いユズハとアカリ。賑やかな新学期が始まったばかりの教室に、一人の転校生がやってくる。
その瞬間、カケルの何気ない日常は静かに、でも確かに色を変えていく。
誰かの"本当"を守るということ。秘密を抱えて生きるということ。画面の向こうとこちら側、二つの世界が重なるとき、少年の夏が終わり、新しい物語が動き出す——。
星空の下、まだ名前のない感情が芽生える、青春ラブストーリー。
星の裏で、ひそかにキスを - 星が集う屋上
夕暮れ。
文化祭の喧騒が、遠くでまだ続いていた。後夜祭の準備だろうか。誰かがマイクで叫ぶ声が、風に乗って断片的に聞こえる。
相川カケルは、校舎裏のコンクリートに座り込んでいた。
背中を冷たい壁に預けて、膝を抱えている。視線の先には、ゴミ箱だ。文化祭のゴミが無造作に突っ込まれ、溢れ返っている。
彼の手の中には、泥で汚れたムーナ・ホシノヴァの団扇があった。
月と星をモチーフにしたアバターの笑顔が、ぐしゃりと歪んでいる。ステージで叫んだ時、誰かが投げ捨てたものだ。
カケルはそれを、ただ握りしめていた。
「これで……よかったんだ」
声は、かすれていた。
喉が痛い。ステージで絶叫したせいだ。
(よかったんだ)
頭の中で繰り返す。
(ハヅキの正体は、守れた)
代わりに、自分は全てを失った。クラスメートからの信用。ユズハやアカリとの関係。サクラとの、幼い頃から続けてきた絆。全部、粉々に壊れた。
それでも。
(ハヅキが、笑えるなら)
それでいい。そう、思おうとした。
でも。
目の奥が、熱くなった。
視界が、じわりと歪む。
頬を、生暖かいものが伝った。
(……なんでだよ)
自分で選んだことだ。後悔はない。ないはずなのに。
涙は、止まらなかった。
声もなく、肩を震わせて泣いた。誰にも見られないように、膝に顔を埋めて。手の中の団扇が、涙でさらに濡れていく。
どれくらい、そうしていただろう。
――コツ、コツ。
足音が、近づいてきた。
カケルは顔を上げなかった。
(誰だっていい)
どうせまた、陰口を叩かれるか、哀れみの視線を向けられるか。
でも。
足音は、カケルのすぐ横で止まった。
そして、隣に、誰かが座り込む気配がした。
「……カケル」
カケルの肩が、びくっと震えた。
顔を上げる。
隣に座っていたのは、サクラだった。
桜色のボブヘアは乱れて、ところどころ跳ねている。つり目がちの焦げ茶色の瞳は、真っ赤に泣き腫らしていた。その目から、まだ涙がこぼれ落ちている。
「あんたが、そこまでするなんて……」
サクラの声は震えて、かすれていた。
「あの子のこと、本気なんだね」
カケルは、何も言えなかった。
(サクラ……)
彼女は、なぜここにいるんだろう。なぜ泣いているんだろう。
「私ね……卑怯だった」
サクラは、自分の膝をぎゅっと抱え込んだ。
「アカリさんの、USBメモリ。文化祭の前の晩に、見つけたの」
カケルの胸の奥で、何かが跳ねた。
「ハヅキさんの声のデータが入ってて……これがあれば、モノマネ大会でハヅキさんを追い詰められるって、すぐにわかった」
サクラの指が、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
「だって、悔しかったんだもん。あんたが、ハヅキさんばかり見てるのが。私の知らないところで、こそこそ会ってるのが、許せなかった」
彼女は、唇を噛んだ。
「だから、あのデータをアカリさんに渡そうと思った。そうすれば、ハヅキさんの正体はバレて、あんたもハヅキさんも終わる。ざまあみろって、そう思った」
(……知ってたのか)
サクラは、ハヅキの正体を突き止めていたのだ。
でも、違う。今、サクラはここにいる。泣きながら、自分を責めている。
「でも……できなかった」
サクラは顔を上げた。涙で濡れた顔で、真っ直ぐにカケルを見つめる。
「USBメモリの中身、全部消した。代わりに、ネットで拾ってきた無関係なボイスサンプルを入れて……アカリさんに渡した」
カケルの呼吸が止まった。
(サクラが……守ってくれたのか?)
「あんたがあんなに必死になるなら、ハヅキさんは、あんたにとってそれだけ大事な人なんだって……思ったら、できなかった」
サクラの声が、嗚咽で途切れる。
「私、あんたに好きになってもらいたくて、ライバルの秘密を守ることにしたの。……卑怯でしょ? 最低でしょ?」
サクラは、そう言って、泣き笑いのような顔をした。
「だから、もう……あんたのことは、諦めるね」
カケルの胸の真ん中が、ぎゅっと締めつけられた。
諦める。
その言葉の重みが、ずしりと突き刺さる。
(サクラ……お前は)
卑怯なんかじゃない。
俺のために、自分の気持ちを殺したんだ。
「……サクラ」
カケルは、彼女の名前を呼ぶのが精一杯だった。
「ありがとう」
そう言うと、サクラはまた、ぼろぼろと涙をこぼした。
――その時。
「相川っち!!」
叫び声と共に、誰かが校舎の角を駆けてきた。
栗色のポニーテールをばさばさと揺らして、ユズハが全力で走ってくる。その後ろから、アカリが早足でついてくるのが見えた。
ユズハはカケルの前に来ると、その場にへたり込んだ。大きな猫のような丸い目は、これでもかというほど涙で濡れている。
「ごめん! ウチ、考えなしだった!」
ユズハは、両手で顔を覆って泣き始めた。
「ムーナのファンとしてじゃなくて、ハヅキさんのこと、全然考えてなかった! あんな風に、みんなの前で歌わせようとして……ハヅキさんがどんな気持ちか、全然わかってなかった!」
カケルは、呆然とユズハを見つめた。
「ステージで相川っちが叫んだ時、あんな顔させたかったんじゃないのに……って、やっと気づいて……ウチ、ほんとにバカだ……」
ユズハの後ろで、アカリが立ち止まった。
いつも冷静で、表情をあまり変えない彼女が、今はうつむいている。青みがかった黒髪のセミロングが、顔を隠すように揺れた。
「……ごめんなさい」
アカリは、深く頭を下げた。
「私のせいで……あんなことになって。音声解析のソフトを出したのも、すべて私の責任です」
切れ長の目が、ゆっくりと上げられる。その目は、わずかに潤んでいた。
「相川さん……あなたにあんな顔をさせてしまって、本当にごめんなさい」
アカリの声は、震えていた。
彼女がこれほど感情を露わにするところを、カケルは初めて見た。
「……いいんだ」
カケルは、なんとか声を絞り出した。
「二人とも、わざとやったわけじゃないってわかってる。だから、いいんだ」
「でも……!」
「俺も、もっとちゃんと話しておけばよかったんだ。お前たちだけのせいじゃない」
そう言うと、ユズハは声を上げて泣き始めた。アカリも、うつむいたまま肩を震わせている。
――そして。
「相川! ここにいたのか!!」
今度は、複数の足音が近づいてきた。
顔を上げると、クラスの男子数人が、揃って走ってくるのが見えた。
「お前、すげーな!!」
先頭の男子が、カケルの肩をバンと叩いた。
「あの場で飛び出す勇気、マジでカッコよかったぜ!」
「俺ら、ずっと陰で『相川グッジョブ』って言ってたんだよ!」
カケルは、ぽかんと口を開けた。
(え……)
「だってあれ、絶対に俺らにはできねえもん」
「全校の前であそこまでやるとか、マジで漢すぎるわ」
「ムーナのモノマネ大会、なんか重い空気になってただろ? あのままハヅキさんが歌わされたら、たぶんちょっとヤバかったよな」
男子たちは口々に、カケルを称えた。
「お前ら……俺のこと、嫌いになってなかったのか?」
「なんでそうなるんだよ!」
「ちょっと空気読めなかったかもだけど、でもお前のあれは『正しいことをした』んだよ。なんていうか……勇気ある行動?」
「そうそう。後夜祭の準備しながら、みんなで相川の話してたんだぜ」
カケルは、言葉を失った。
(みんな……俺のことを)
てっきり、全校から嫌われたと思っていた。
白い目で見られ、陰口を叩かれ、孤独になったと。
でも、違った。
守ってくれていた奴らがいた。
カケルは、下を向いた。
もう一度、涙がこぼれそうになる。
(……だめだ)
止めようとした。でも、もう無理だった。
さっきまでとは違う涙が、ぼろぼろと溢れてくる。
「…………っ」
カケルは、声を上げて泣いた。
孤りだと思っていた。
全部失ったと思っていた。
でも。
こんなにたくさんの人が、自分のことを見ていてくれた。
温かい。
胸の奥が、じわりと熱くなって、その熱が涙になって溢れてくる。
「わ、相川っちが泣いてる!」
「あら……」
「ばか……あんたが泣いてどうすんのよ……」
サクラも、泣きながら笑った。
ユズハも、アカリも、男子たちも、みんなが泣き笑いのような顔をしている。
夕日が、みんなを等しく照らしていた。
――ガチャリ。
突然、頭上から金属の音が響いた。
全員が、顔を上げる。
屋上の扉が、開いたのだ。
開けたのは――ハヅキだった。
彼女は、鍵の束を握りしめて立っていた。腰まである艶やかな黒髪が、風にふわりと揺れる。伊達メガネの奥の紫色の大きな瞳が、まっすぐにカケルを見つめていた。
「……カケル君」
ハヅキは、屋上から階段を降りてきた。
足音が、コツ、コツと近づいてくる。
「お前、どうやって鍵を……?」
「前に、教えてくれましたよね。『給湯室の棚の裏に隠してある』って」
ハヅキは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「カケル君が一人で泣いてるって、サクラさんが私に連絡をくれたんです」
カケルは、サクラを見た。
サクラは、顔を赤くしてうつむいた。
「私のために……ごめんね」
ハヅキは、カケルの前にしゃがみ込んだ。
涙でぐしゃぐしゃのカケルの顔を、そっと見つめる。その紫色の瞳も、涙で潤んでいた。
「私のために、こんなにボロボロになってくれて……ありがとう」
彼女は、そっと手を伸ばして、カケルの涙を指で拭った。
「カケル君は、私だけの本当のヒーローだよ」
そう言って、ハヅキは太陽のような、温かい笑顔を見せた。
――瞬間。
カケルの胸の奥で、何かがはじけた。
(ああ、俺は――)
この笑顔を守りたかったんだ。
そのために、すべてを投げ出せたんだ。
今、その笑顔が、自分のために向けられている。
それだけで、もう、何もいらなかった。
「……ハヅキ」
カケルは、また泣いた。
でも、今度の涙は、嬉しかった。
「うおおお! なんだこれ! 青春かよ!!」
「やっぱり二人はそういう感じだったんだな!」
「相川、改めてお前すげーよ! こんな可愛い彼女いんのかよ!」
「ち、違う! 彼女とかじゃなくて……!」
カケルは慌てて否定したが、もう誰も聞いていなかった。
みんなが笑顔で、口笛を吹いたり、冷やかしたり。
「ま、でも本当によかったよ。相川、ハヅキさん、おめでとう」
男子の一人が、静かにそう言った。
カケルは、もう何も言えずに、ただうつむいた。
顔が熱い。耳まで真っ赤だ。
ハヅキは隣で、照れたように小さく笑っている。
夕日が、そんな二人を包んでいた。
ミナセの街が、オレンジ色に染まっている。
文化祭の喧騒は、もうほとんど聞こえなくなっていた。
代わりに、風が校庭の木々を揺らす音が聞こえる。
あたたかい風だった。
――その頃。
文化祭の敷地外れ、林の中。
木々の隙間から、無機質なレンズが屋上を覗いていた。
カシャ、カシャ、カシャ。
シャッター音が、機械的に響く。
スーツ姿の男が、望遠レンズ付きのカメラを構えている。年齢は三十代半ばといったところか。無表情で、感情の読めない目が、ファインダー越しに二人を捉えていた。
カシャ。
ハヅキがカケルに微笑みかける瞬間が、一枚の写真に収まる。
男は、無線機を手に取った。
「ヴェイルガード、標的を確認」
ノイズ混じりの声が、無線から返ってくる。
『続けろ』
「ルート機密アウト。対象は、中の人の正体を確実に把握していると思われる。早急にレベル3案件に移行すべきかと」
無線の向こうが、一瞬、沈黙した。
『……許可する。ただし、痕跡は残すな。始末は静かにやれ』
「了解」
男は無線を切った。
そして、もう一度カメラを構える。
カシャ。
無邪気に笑い合う、カケルとハヅキ。
その姿が、無機質なレンズに焼き付けられていく。
男の口元が、わずかに歪んだ。
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