星の裏で、ひそかにキスを
星の裏側で、秘密はそっとキスをする。
国民的Vtuber・ムーナ・ホシノヴァに救われた高校生、相川カケル。彼女の歌声だけが、孤独だったあの日々の支えだった——そのことは、誰にも言えない秘密のまま。
幼なじみのサクラ、距離感の近いユズハとアカリ。賑やかな新学期が始まったばかりの教室に、一人の転校生がやってくる。
その瞬間、カケルの何気ない日常は静かに、でも確かに色を変えていく。
誰かの"本当"を守るということ。秘密を抱えて生きるということ。画面の向こうとこちら側、二つの世界が重なるとき、少年の夏が終わり、新しい物語が動き出す——。
星空の下、まだ名前のない感情が芽生える、青春ラブストーリー。
星の裏で、ひそかにキスを - 星空のご褒美と忍び寄る影
遠くで、音楽が聞こえていた。
校庭ではキャンプファイヤーが赤々と燃えていて、フォークダンスの輪がいくつもできている。弾けるような笑い声と、はしゃぐ足音が、夜風に乗ってここまで届いていた。
相川カケルは、屋上の給水タンクの陰に立っていた。
冷たい風が吹くたび、十月の夜気が肌にしみる。自分の息が白い。東京の方角を見れば、ビル群の灯りが遠く瞬いていた。
(ハヅキ、来てくれるかな)
さっき教室で「後夜祭、屋上で会えないか」って言った時、彼女は小さく頷いただけだった。本当に来るかどうか、確信はない。
屋上の扉が、ギィ、と鳴った。
振り返る。
月明かりを背に、ハヅキが立っていた。
制服の上に薄手のカーディガンを羽織って、両手を胸の前で組んでいる。いつもの伊達メガネの奥で、紫色の瞳が揺れていた。
「……来ちゃった」
彼女は少し照れたように言って、カケルの隣に立った。肩と肩の間は、拳一つ分。近いような、遠いような距離だった。
「寒くないか?」
「ううん、平気です」
ハヅキは首を振ったけど、その指先は少し赤くなっていた。カケルは自分のブレザーを脱ごうかと思ったけど、やめた。なんとなく、まだ早い気がした。
二人は黙って、校庭を見下ろした。
キャンプファイヤーの炎が、遠くで揺れている。オレンジ色の光が、踊る生徒たちの影を長く伸ばしていた。楽しそうな笑い声が、ここまで聞こえてくる。
でも、ここは静かだった。
喧騒から切り離された、二人だけの場所。
カケルは、今日一日のことを思い出していた。
体育館のステージで、全校の前で叫んだこと。クラスメートから「痛い」と笑われたこと。サクラが泣きながら、自分の気持ちを打ち明けてくれたこと。そしてハヅキが「私だけの本当のヒーローだよ」と言ってくれたこと。
もう遠い昔の出来事みたいに思える。
(でも、まだ何も終わってない)
カケルは拳を握った。
ハヅキの正体は守れたけど、明日からどんな嫌がらせが待っているか分からない。「空気読めないやつ」として、学校中の笑い者になるかもしれない。
それでもいいと思った。
だって、今ここにハヅキがいる。
それだけで、十分だった。
「……あの時、どんな気持ちだった?」
カケルが尋ねると、ハヅキは俯いた。
長い黒髪が、風に揺れて流れる。
「どんな気持ちって……」
「ステージで、追い詰められて、俺が飛び出した時」
ハヅキはしばらく黙っていた。
自分の指先を見つめて、何かを言いかけては口を閉じる。
「……怖かったです」
彼女の声が、震えた。
「最初は、もうダメだって思って。正体がバレて、ムーナとしても、ハヅキとしても、全部終わるんだって」
ハヅキは、自分の両腕をぎゅっと抱きしめた。
「みんなが私を見てるのが、すごく怖くて。ムーナの声で話せって言われても、喉が震えて、声が出なくて」
涙が、彼女の目尻に溜まっていく。
「そしたら、カケル君が飛び出してきて……」
ハヅキは顔を上げた。
涙で濡れた紫色の瞳が、真っ直ぐにカケルを見つめる。
「あの瞬間、初めて思ったんです。私、一人じゃないんだって」
彼女の声が、震えながらもはっきりと響いた。
「ムーナとして画面の向こうで、たくさんの人に愛されてきたけど、今ここにいる弱くて泣き虫な本当の私を、守ろうとしてくれた人は……カケル君が、初めてでした」
涙が、彼女の頬を伝った。
きらりと光る雫が、月明かりに弾ける。
「だから、ありがとう。本当に、ありがとう」
彼女はそう言って、深く頭を下げた。
カケルは息を呑んだ。
胸の真ん中が、じわりと温かくなる。
(そんなこと、言われる資格なんてない)
自分はただ、がむしゃらに叫んだだけだ。何の作戦もなかった。結果的に、クラスのみんなを敵に回して、サクラにまで迷惑をかけた。
でも。
ハヅキは今、「一人じゃないと思えた」と言った。
その言葉だけで、今日の全部が救われた気がした。
「……俺の方こそ」
カケルは、屋上のフェンスに手を置いた。
冷たい鉄の感触が、手のひらに伝わる。
「俺さ、中学の時、すごく辛いことがあって」
ハヅキが、顔を上げてカケルを見つめる。
「親友だと思ってたやつに、秘密をバラされて。クラス中に笑われて、学校に行くのが嫌で仕方なかった」
声が、少し震えた。
今でも思い出すと、胸の奥が痛む。
「その時、たまたま見たのが、ムーナの配信だったんだ」
ハヅキの目が、見開かれた。
「画面の向こうで、ムーナが笑っててさ。すごく楽しそうで、キラキラしてて。見てるだけで、嫌なことを忘れられた。……あの時、お前に救われたんだ」
カケルは、真っ直ぐにハヅキを見つめた。
「だから、今度は俺が守りたかった。あの時救ってくれた人を、今度は俺が」
ハヅキは、両手で口を覆った。
涙が、指の隙間からこぼれ落ちる。
「……そんな、私……カケル君にそんなこと言われるなんて……」
彼女は、声を詰まらせた。
「私、ムーナとして配信してる時、いつも思ってた。画面の向こうにいる誰かが、少しでも笑ってくれたらいいなって。でも……本当に救われた人がいたなんて……こんな風に、目の前で言われる日が来るなんて」
彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「私、本当に……幸せ者です」
その笑顔が、月明かりに照らされて、あまりにも綺麗で。
カケルは、心臓がドキドキと早鐘を打つのを感じた。
(ああ、そうか)
今、はっきりと分かった。
俺は、この子が好きだ。
ムーナじゃない。ハヅキが、好きなんだ。
「……カケル君」
ハヅキが、一歩、近づいた。
拳一つ分の距離が、ゼロになる。
彼女は、恥ずかしそうに俯きながら、小さく息を吸った。
「私ね、今日、初めてわかったことがあるんです」
「……何だ?」
ハヅキは、顔を上げた。
紫色の瞳が、真っ直ぐにカケルを見つめる。その奥で、星が瞬いているみたいだった。
「ムーナじゃなくて、ハヅキとして、初めて誰かに恋をしたんだって」
カケルの呼吸が止まった。
「今までずっと、画面の向こうでムーナを好きでいてくれる人たちに、申し訳ないと思ってた。だって私は、本当はこんなに弱くて、泣き虫で、ダメなやつだから。ムーナみたいな完璧なアイドルじゃないから」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「でも、カケル君は、そんな本当の私を見てくれた。守ってくれた。だから……私のヒーローは、カケル君だけなんです」
彼女は、背伸びをした。
手を、カケルの肩にそっと置く。
吐息が触れ合う距離。
「今日、一番かっこよかったヒーローへのご褒美です」
そう言って、ハヅキは目を閉じた。
カケルは、動けなかった。
頭の中が真っ白になって、心臓だけがバクバクと暴れている。
(キス、される——)
彼女の唇が、触れた。
ほんの一瞬、触れて、すぐに離れる。
柔らかくて、温かい感触が、唇に残った。
「……好きです」
ハヅキの声が、耳元で震えた。
その瞬間、カケルの体が動いていた。
自分でも驚くほど自然に、彼女の背中に手を回していた。
「……俺も」
言葉が、自然に出てきた。
「俺も、ハヅキが好きだ。ムーナじゃなくて、ハヅキのことが」
カケルは、今度は自分から、彼女の唇に顔を近づけた。
ハヅキが、驚いたように目を見開く。
でも、すぐにその紫色の瞳が、そっと閉じられた。
二人の唇が、重なった。
さっきより長く、深く。
彼女の体が、少し震えている。カケルは彼女をもっと強く抱きしめた。
遠くで、歓声が上がった。
キャンプファイヤーが、一際大きく燃え上がったのだろう。校庭から、黄色い声が聞こえてくる。
満天の星空の下。
揺れる炎の灯りが、遠くから二人を照らしていた。
ミナセの街の灯りが、宝石みたいに瞬いている。
初めての口づけは、少しだけ、火の粉の匂いがした。
──カシャ。
カシャ、カシャ、カシャ。
無機質な連写音が、闇の中で響いた。
文化祭の敷地の、一番外れ。
林の中に、黒い影があった。
スーツ姿の男が、望遠レンズ付きのカメラを構えている。年齢は三十代半ばといったところだ。無表情で、まるで彫像のように動かない。でも、その目だけが、獲物を狙う蛇のようにぎらついていた。
カシャ。
屋上で重なり合う、二人のシルエット。
男は、かすかに口元を歪めた。
カメラを置き、無線機を手に取る。
「ヴェイルガード、標的を確認しました」
ノイズ混じりの声が、無線から返ってくる。
『報告しろ』
「ムーナ・ホシノヴァの中の人、月宮ハヅキと、接触している一般人です。学校はミナセ市立あおば台高等学校。同学年の男子生徒」
男は手帳を取り出し、カケルの顔写真が貼られたページを開いた。
そこには、カケルの名前、住所、家族構成、交友関係まで、事細かにメモが書き込まれている。
「対象は、体育館での騒動の際、中の人の正体を隠蔽するため、全校生徒の前で偽の情報を流しました。ルート機密アウトの可能性は極めて高いと思われます」
無線の向こうで、誰かがため息をつく音が聞こえた。
『……レベルは?』
「レベル3です。対象は中の人の正体を確実に把握し、かつ隠蔽工作を行っています。情報漏洩のリスクが高い。早急な対処を進言します」
一瞬の沈黙。
それから、冷たい声が返ってきた。
『……許可する。対象をレベル3案件として登録。排除対象に指定する』
「了解」
男は無線を切った。
もう一度カメラを構える。
カシャ。
手を繋いで星空を見上げる、カケルとハヅキ。
「青春、か」
男は吐き捨てるように言った。
「長くは続かないさ」
彼はカメラをケースにしまい、林の奥へと消えた。
静かになった闇の中で、遠くのキャンプファイヤーの揺らめきだけが、赤く、赤く燃えていた。Noveliaとは?
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