昨日の放課後、愛佳の髪から桜の花びらを取った感触が、まだ指先に残っている気がした。 実際にはもう何日も前の話だ。でも、こういう感覚というのは、思い出すたびにリセットされて、また新鮮になる。ミズキはそれが少し嫌だった。忘れてしまえたら楽なのに、忘れられない。 5月第4週の月曜日。体育の授業は3時間目だった。 カイセイ学園の体育館は朝の光が斜めに入ってきて、床の木目がきれいに見える時間帯がある。ちょうどその時間だった。準備体操を終えた後、体育教師の橋本先生が出席簿を持ってクラスの前に立った。 「今日はペアストレッチをやる。くじ引きで決めるから、隣の人と交互に引いてくれ」 紙を折って箱に入れたやつを、順番に引いていく。ミズキは自分の順番になってから、折り畳まれた紙を開いた。 「14」 愛佳が隣で自分のを開いて、ぱっと顔を上げた。 「あ、あたしも14ですわ」 クラスがどよめいた。わかりやすいほどの騒ぎ方だった。「え、愛佳ちゃんとペアじゃん」とか「ラッキー」とか、そういう声が男子側から聞こえた。女子のほうは「あら」という感じで、特に何も言わない。ただ視線だけが飛んでくる。 ミズキは何も言えなかった。愛佳が微笑んでいた。何も言わない、ただ微笑んでいるだけ、なのに、それだけでミズキの中で何かがぐらりと揺れた。 ペアを組んで向かい合って座る。床に二人で脚を伸ばして、お互いの足の裏を合わせる形のストレッチだった。前屈の補助みたいなやつ。相手の手首を掴んで、交互に引き合う。 愛佳の手がミズキの手首を包んだ。 その瞬間、体が固まった。 手のひらが温かい。体温が直接伝わってくる。愛佳の指の細さと、しっかりした力加減と、爪のきれいさが、ほんの少しの時間でぜんぶ伝わってくる。 顔が熱くなった。 (やばい) 止められなかった。止め方が分からなかった。頬だけじゃなく耳まで熱い。愛佳の顔が、体育館の騒音と一緒に、ぼんやりと視界の中心に迫ってくる。純白の髪が肩から流れて、金色の瞳がミズキをじっと見ている。吐息の距離が近い。 愛佳が小首をかしげた。 「……どうしたの、ミズキ」 目を細めて、微笑んでいた。気づいている、という顔だった。全部、ぜんぶ気づいていて、でも何も言わない。その「分かっていて何も言わない」というやり方が、愛佳らしかった。 「……なんでもない、だよ」 笑おうとして、うまくいかなかった。だから顔を少しそらして、「続けよっか」と言った。愛佳は何も言わずに、引っ張った。ストレッチが続く。体育館の騒ぎ声が戻ってきた。 でも、手首の温かさは消えなかった。 * 放課後になって、愛佳が「ちょっといい?」と言った。 フルールの他の子たちに「先に帰ってて」と声をかけて、二人で廊下を歩く。どこに行くか言わなかったけど、分かった。中庭のケヤキだ。 5月の午後の中庭は静かだった。本館と別館に挟まれた芝生エリアに、午後の光がまだらに落ちている。樹齢30年のケヤキが一本、中央に立っていた。葉っぱが光を透かして、緑色のまだら模様が地面にできていた。ベンチの一つに二人で腰を下ろす。 小学生の頃から使っていた場所だ。ミズキも愛佳も、それを口には出さなかった。 愛佳が少し黙っていた。珍しいこと、というのはもう言わなくていい。こういう愛佳を見るのはミズキだけだ、とミズキは思っている。他の誰にも見せない顔。 「ミズキ」 名前だけ呼んで、愛佳はミズキの手をそっと握った。 (え) 体育の時間と違う。今度は愛佳のほうから、だった。指が絡むわけじゃない、手のひらを重ねる感じ。でも確実に、握っていた。 「ミズキがいないと、あたしダメなんだよね」 静かな声だった。いつもの、みんなに向けるきれいな声じゃなかった。 ミズキは返事ができなかった。胸の奥で何かがものすごい勢いで脈打っていた。一回、二回じゃなくて、ずっと続けてそこだけが熱い。肺の動きが少し遅れた。愛佳の横顔を見ることができなくて、ケヤキの幹に目をやった。 (何を言えばいいんだろう) 「ありがとう」でいいのか。「あたしもだよ」でいいのか。どちらも正解じゃない気がした。正解があるかどうかも分からなかった。 だから黙っていたら、愛佳のスマホが鳴った。 一回じゃなかった。二回、三回。バイブレーションが続いていた。愛佳が片手でポケットから取り出して、画面を見た。その一瞬、ミズキの目に画面が映った。 「好きです」という文字。名前が見えた。男子の名前だった。その通知が消えて、また別の通知が来た。また別の名前。また「好き」という文字。 愛佳は「またか」 とつぶやいて、スマホをポケットに戻した。面倒くさそうに、ではなく、もう慣れている感じで。 手が離れた。握っていた手が、自然に解けた。 ミズキはケヤキを見たままだった。 (愛佳の世界は広い) それは知っていた。ずっと知っていた。フォロワー3,800人。毎月ランキング1位。フルールのトップ。告白されるのも、選ばれるのも、全部当たり前のことだ。 でも今この瞬間に「嫉妬」という言葉が頭に浮かんだのは、初めてだった。 (嫉妬している) 認めるのが怖かった。でも、もう認めた後だった。手のひらの温かさと、画面に次々と来る「好き」が、ミズキの中でぐるぐると混ざった。愛佳にとって、あの手の温かさはどういう意味だったのか。「ダメなんだよね」という言葉は、どこまで本気だったのか。それをミズキは聞けなかった。聞く権利が自分にあるのかも分からなかった。 自分の世界は狭い。愛佳一人で、ほとんど全部だ。 その非対称が、今日ほど痛く感じたことはなかった。 * 夜、自室のベッドに横になって、スマホをぼんやり眺めていた。 フォトリアのタイムラインを流し見していたのは、特に何も考えていなかったからだ。誰かの夕食の写真。誰かの猫の動画。どうでもいいコンテンツがぞろぞろと続く。指を動かすのも考えずに、ただ流していた。 白石カナのアカウントが出てきた。 投稿写真の中に、愛佳とクラスメイたちが写ったものがあった。ショーケースで撮ったやつだ。カナが投稿している。その直前の別の投稿が目に入った。文字だけの投稿。 「愛佳ちゃんの隣にいつもいるモブ子、ウケるんだけどwww 自分の立場わかってる?笑」 いいねが34個ついていた。コメントが7つ。 「わかるww」 「愛佳ちゃんかわいそう」 「毎回ちゃっかりしてるよねえ笑」 ミズキはスマホを裏返した。 天井を見た。 何も感じない、と思おうとした。でも、胸の真ん中が、じわりと冷たくなっていくのを止められなかった。今日の午後のことが頭に蘇った。愛佳の手の温かさ。「ダメなんだよね」という声。それから、通知の多さ。全部がぐるぐると混ざって、どれが本物でどれが嘘なのか分からなくなった。 愛佳に言うか。 すぐに却下した。言えば告げ口になる。カナがさらに動く。グループの空気が変わる。愛佳が間に入って、なんとかしようとして、ぜんぶがぐちゃぐちゃになる。 黙っていれば、自分だけが傷つく。言っても、自分が傷つく形が変わるだけ。どちらにしても、逃げ場がない。 布団に顔を埋めた。 窓から見える愛佳の部屋の明かりがついていた。白くて静かな光。中で何をしているのか分からない。スマホを見ているのか、宿題をしているのか、それとも誰かとやりとりしているのか。 中学の頃まで、あの窓越しに話せた。「ミズキ〜」「なに〜」。今はその距離がずっと遠く感じる。5メートルは変わらないのに。 ミズキは目を閉じた。 * 翌日の昼休み、愛佳が「ケヤキ行かない?」と言った。 また二人だけで、中庭に向かった。今日も天気がいい。5月の青い空に、ケヤキの葉っぱが細かく揺れていた。昨日と同じベンチ。昨日と同じ並び方。ミズキは弁当箱を膝の上に置いた。 愛佳がしばらく黙ってから、ぽつりと言った。 「あたし、ワガママかな」 昨日の続きみたいな言い方だった。 ミズキは胸の奥で何かがぎゅっとなるのを感じた。昨夜のカナの投稿のことが頭をよぎった。「ダメなんだよね」という言葉のことが。告白の通知のことが。自分の嫉妬のことが。全部、ぜんぶが一瞬のうちに浮かんで、沈んだ。 (言えない) 言えるわけがない。愛佳に「嫉妬した」なんて言えない。カナの投稿のことを告げ口できない。本当に言いたい言葉——「好きだよ」「あたしだけを見てほしい」「あの手の温かさはどういう意味だったの」——そのどれも、声に出せる場所にない。 代わりに、ミズキは顔を上げた。 明るい顔を作った。笑顔を作った。意識してそうしたわけじゃない。体が勝手にそうした。何年も続けてきた動作だから、もう反射になっていた。 「大丈夫だよ。あたしは愛佳の一番の親友でいるから、ずっとそばにいるよ」 言い終わって、息を吐いた。 愛佳がほっとしたように表情を緩めた。ぱっと笑って、ミズキの肩に頭をもたせかけてきた。 「ありがと、ミズキ」 重みが肩にかかった。愛佳の髪の柔らかさが、頬のあたりに触れた。温かかった。 ミズキはその重みを感じながら、さっき自分が言った言葉を頭の中で繰り返した。 一番の親友でいる。ずっとそばにいる。 嘘だ、とは言えない。本当のことでもある。でも本心の全部じゃない。「一番の親友」というのは、今のミズキが口にできる限界の言葉だった。本当に言いたい言葉の手前で、ぎりぎりのところで止めた言葉。その差分が、胸の奥にじわりと積み上がった。 ケヤキの葉が風に揺れた。乾いた音がした。葉擦れの音だけが、二人の沈黙を埋めていた。 (この笑顔を、いつまで続けられるんだろう) 自分でも分からなかった。一番の親友という言葉が、だんだん窮屈になってきている。嫉妬があって、傷があって、言えない本音が重なっていって、それでもこの肩の重みを、手放す気にはなれない。 矛盾している。分かってる。 でも今はまだ、この場所にいたかった。 ケヤキの影が、二人の上にゆっくりと落ちていた。