「一番の親友でいるから」 ケヤキの下で口にした言葉が、まだどこかに引っかかっていた。 本当に言いたかったのとは、違う言葉だった。でも他に言えるものがなかった。愛佳の肩に頭をもたせかけられたまま、ミズキはずっとその「違う言葉」を飲み込んでいた。 6月1日、月曜日。 2-Cの朝はいつもと同じだった。窓から中庭のケヤキが見えて、南向きの教室に朝の光が斜めに入ってきている。ミズキは後方ロッカー付近の定位置に座って、シャーペンを出しながらHRを待っていた。 ——そのとき、担任の前田先生が引き戸を開けた。 「今日から転入生が来る。カクごとくらい調べてるだろうから今更だと思うが、改めて紹介するぞ」 前田先生のこの「今更だと思うが」という口癖は、EP2のノートの端にもそっくり再現してある。ミズキはその文字をペン先でそっとなぞった。 教室がざわついた。女子の声が上がる。 廊下から入ってきた人物を見て、ミズキは一瞬、思考が止まった。 身長180センチ。銀髪のショートヘアで、前髪に青いメッシュが混じる。紺のブレザーを着崩すでもなく着込むでもなく、ただ着ているだけなのに、妙に様になっていた。左目の下に細い傷跡。鋭い紫色の瞳が教室をゆっくりと一周した。 「桐山コウです。趣味はカレー作り、特技は何もないです。よろしくどうぞ」 それだけだった。 飾りがなさすぎる自己紹介に、女子が一拍遅れて沸いた。「えっかわいくない?」「銀髪じゃん」「傷跡!」という囁きが飛び交う。男子は黙って、値踏みするような視線を向けている。 ミズキは愛佳を見た。 愛佳は口元に余裕のある笑みを浮かべて、コウを見ていた。純白のロングヘアが少し揺れた。金色の瞳が、静かにコウを観察している。 ——値踏みしてる。 ミズキには分かった。「この人は自分のライバルになりうるか」を測る、愛佳のあの目だ。フルールのトップとして7ヶ月間ランキング1位を守ってきた愛佳が、初めて「ひょっとしたら学園の空気を変えるかもしれない」と感じた相手を見るときの目。 指定された空席は、ミズキの斜め前だった。 コウが通路を歩いてくる。ミズキはノートに視線を落とした。別に緊張することはない。通り過ぎるだけだ。 ——なぜか視線を感じた。 顔を上げた瞬間、コウと目が合った。一秒にも満たない時間。コウは特に何の反応もなく、そのまま席についた。 それだけだった。それだけなのに、なぜかその紫色の瞳がしばらく頭から消えなかった。 * 一時間目は現代文だった。 担当は西川先生——「つまるところ」を一節に三回は使う人で、ミズキのノートの隅にはその口癖カウンター表がひっそりと存在している。 黒板に板書が始まった隙に、ミズキはノートの端に西川先生の字のクセと「つまるところ」の崩し方を再現した。隣の松田サクラに、そっと見せる。 サクラが口を押さえた。肩が震えている。ダメだ笑っちゃダメという顔で前を向いている。 その一秒後、ミズキは背後に視線を感じた。 斜め前の席——コウが、ほんのわずかに首を横に向けていた。横目で確認していた。そして前に向き直った。 気づかれた、とミズキは思った。なんか見られた。でもそれだけで、授業は続いた。 * 昼休みになった。 移動教室の後の廊下、ミズキが流れに乗って歩いていたとき、後ろから声がかかった。 「お前さ、さっき授業中に先生のモノマネしてただろ」 足が止まった。 振り返ると、コウがいた。廊下には何人かのクラスメイトがいる。一軍でも二軍でもないミズキに、転入初日のコウが——それだけで周囲の動きがわずかに止まった気がした。 「……気づいてたんだ」 「まあな。面白かった。西川先生の字の崩れ方まで再現してたの、かなりやばかったぞ」 悪意がない。本当に、ただそれだけを言いたくて来た、という感じだった。 ミズキはうまく返せなかった。何か気の利いたことを言おうとして、出てこなくて、結局口から出たのは短い「……ありがと」 だけだった。 コウはそれで満足したみたいに、軽く頷いた。 少し離れた場所で、愛佳がいた。 取り巻きたちとの会話の途中で、こちらを見ていた。一瞬、笑顔が消えた。金色の瞳が鋭くなった。でも次の瞬間にはもう笑顔に戻っていて、何事もなかったように隣の子の話に反応していた。 ミズキはそれを見ていた。 (あれは、気にしてる顔だ) * 放課後、鞄を取りに教室に戻ろうとしたとき、コウが廊下にいた。 「ちょっといいか。愛佳のこと、聞きたいんだけど」 ああ、そういうことか、とミズキは思った。 (また、これだ) 愛佳の幼なじみという肩書きで、男子に愛佳のことを聞かれるのは初めてじゃない。どんな子? 好きな食べ物は? 彼氏とかいるの? その都度、ミズキは「親友代理」として情報を提供してきた。愛佳のことを知るための、便利な窓口。 (分かってる。それが自分の役割だって) 「……うん、いいよ。カフェ、行く?」 ノワールに着いたのは4時前だった。波多野さんがいつものように「いらっしゃい」と言った。奥のボックス席に向かい合って座る。ミズキはアールグレイを頼んだ。コウはブレンドコーヒーを頼んで、砂糖を二つ入れた。 「三浦愛佳って、どんな奴?」 「……明るくて、誰とでも仲良くなれる。カイセイウォッチャーのランキング、7ヶ月連続1位だよ。フォロワーも学内一番多くて」 「それは知ってる。SNSで調べれば出てくる情報だろ」 コウがコーヒーカップをくるりと回した。 「もっと、人間として、どういう奴なのかが聞きたい」 ミズキは少し詰まった。愛佳の「人間としての部分」——ケヤキの下で疲れた顔を見せること、「ミズキがいないとダメ」という声、そういうものはミズキだけが知っていた。それを誰かに話すのは、何か、いけない気がした。 「……強い人だよ。自分のポジションをちゃんと分かってて、どう動けばいいかも分かってる。あたしには絶対できないやつ」 「ふうん」 コウはそこで少し黙った。窓の外、トキワ台の商店街に夕方の人が増え始めていた。エブリマートの中島店長が外の看板を出している。 「お前、後ろの席でいつもノートに何か書いてるだろ。あれ、何?」 「……え、授業中?」 「それもあるけど、なんか授業と関係ない感じのやつも書いてるよな。さっきの先生のモノマネとか」 (なんで知ってるんだ、この人) 「……なんか、気になったこととか。面白かったこととか、そういうの」 「どんな?」 「えっ……」 聞かれるとは思っていなかった。愛佳の話ではなくて、自分のノートの中身を聞かれている。ミズキは少し迷って、鞄からノートを取り出した。表紙をめくって、先週書き溜めたページを開く。 西川先生の口癖カウンター表。前田先生の「今更だと思うが」の字の崩れ方の研究。体育館の床の木目が朝と夕方で全然違う色に見えることの走り書き。 コウがそれを見た。 少し間があった。 それからコウが、少し笑った。初めて見る表情だった。教室での飄々とした感じじゃなくて、もう少し本当の感じがする笑い方だった。 「やばい。これ全部、自分で書いたのか?」 「……うん、なんか、口癖って面白くて。喋り方にその人のクセが全部出てる感じがするから」 「お前の方が全然おもしろいな、愛佳より」 コウがごく普通の口調でそう言った。 ミズキの頭の中が、一瞬、静かになった。 嬉しかった。 それは本当だった。誰かが——自分を見てくれた。愛佳の幼なじみとしてではなく、M.S.でも付属品でもなく、ノートの中身ごと「お前」として見てくれた。 でも次の瞬間、罪悪感が来た。 (これは、愛佳への裏切りじゃないか) 愛佳よりおもしろい、という言葉は、愛佳を下に見る言葉だ。それを嬉しいと思ってしまった自分が、急に恥ずかしくて怖くなった。コーヒーカップを持つ手に、少し力が入った。 「……ありがと、かな」 精一杯の返事はそれだけだった。 * ノワールを出て帰り道を歩き始めたとき、スマホが連続して振動した。 一回じゃなかった。続いている。 ポケットから出して、画面を見た。 LINE。愛佳から。 「今日コウくんと何話したの」 「ねえ返事して」 「ミズキ?」 「ちょっと」 「ミズキ」 5連続だった。 ミズキは立ち止まった。 文章を何度か読み直した。句読点の打ち方。語尾の省略の仕方。「ちょっと」だけで送った三通目。全体から漂う空気が、いつもの愛佳と全然違った。いつもの愛佳のLINEは余裕がある。可愛くて、ちょうどいい長さで、読んだ瞬間に返したくなる文章だ。でもこれは、余裕がなかった。 愛佳が焦っている。 その事実が、妙な感触でミズキの中に沈んだ。 (愛佳が、あたしのことで、焦ってる) 返信を打ちかけた。「ちょっと話しただけだよ」と打って、消した。「愛佳の話を聞きたいって言われて」と打って、それも消した。どの文章も正確ではなかった。コウが最終的に聞きたかったのは愛佳の話じゃなかった。それを書くと、もっと説明が必要になる。説明すれば、「お前の方が全然おもしろい」という言葉まで出てくる。それは、言えない。 スマホをポケットに押し込んで、歩き続けた。 自室のベッドに倒れ込んだのは6時を過ぎた頃だった。 天井を見た。 返信は、まだしていない。 窓の外に、愛佳の部屋の明かりが見えた。白くて静かな光。今夜だけは、それを見ていられなかった。ミズキはベッドから手を伸ばして、カーテンを引いた。 暗くなった。 スマホの画面が、ポケットの中でもう一度振動した。 * 翌朝、教室に入ると、愛佳はもうコウの席の前に椅子を引いて座っていた。 満面の笑みだった。誰が見ても自然な光景で、金色の瞳が楽しそうに輝いている。純白のロングヘアが肩から流れて、「昨日、どこに行ったんですの?」という声は穏やかで、計算された距離感があった。 「ちょっとそこのカフェに」 コウが答えて、ミズキの方に一瞬、視線を向けた。 それだけだった。本当にそれだけで、何も言わなかった。でも十分だった。 愛佳の顔から、一瞬だけ、笑顔が消えた。 ミズキは自分の席に座って、視線を机の上に落とした。 隣の列から、声が聞こえてきた。白石カナの声だ。 「……転校生、愛佳ちゃんには興味ないってマジ? じゃあ誰? まさかモブ子じゃないでしょwww」 笑い声が上がった。最初は近くの二、三人だけだった。でも笑いはじわじわと広がっていって、教室の前の方まで届いた。 ミズキは机の下で、スカートの裾を握った。 (笑えない) 笑い返せない。怒鳴り返せない。泣けない。何もできない。前を向いたまま、ただ指に力を込めた。 愛佳は何も言わなかった。コウとの会話を続けていた。この空気を消してくれることもなく、ミズキの方を見ることもなく。 (分かってる。愛佳には関係ない、あたし自身の話だから) それが正しいとも、正しくないとも言えなかった。 ただ——机の下で、スカートの布が少しずつ、皺になっていった。 嬉しかった記憶と、罪悪感と、このじりじりした恐怖が、三層になって胸の中に積み上がっていた。 この三層が、いつか崩れる日が来るのか、どうか。 ミズキにはまだ分からなかった。