木曜日の昼休みは、いつも決まった形で始まる。 チャイムが鳴って、クラスが一斉に動き出す。弁当を取り出す音、椅子を引く音、笑い声。2-Cの教室が一瞬にして生き物みたいになる。 ミズキは自分の鞄に手をかけたところで、声をかけられた。 「ミズキ、ちょっと」 振り返ると、愛佳が立っていた。 いつもと違う。 それが最初の感触だった。笑顔はある。純白のロングヘアも、金色の瞳も、何も変わっていない。でも——目が、据わっていた。フルールの取り巻きたちに向ける穏やかさでも、男子に向けるかわいらしさでもない。もっと奥の方から来ている目だった。 「中庭、行きましょ」 誘いでも、お願いでもなかった。確認だった。 ミズキは「……うん」 と答えて、鞄を机の上に置いた。 * 6月の中庭は、まだそれほど蒸し暑くなかった。 本館と別館に挟まれた芝生エリアに、午後の光が柔らかく落ちている。樹齢30年のケヤキが中央に立っていて、その枝が午後の日差しをまだらに遮っていた。葉の隙間から見える空が、淡い青だった。 二人はいつものベンチに座った。小学生の頃から使い続けている場所。弁当もない。ただ、二人だけだった。 愛佳がしばらく黙っていた。 ミズキは膝の上で指を組んだ。左耳の銀のイヤーカフに、無意識に触れた。 「コウくんのこと、好きなの?」 声が、低かった。 ミズキの指が止まった。 否定しようとした。口が動きかけて、でも言葉が出てこなかった。愛佳の金色の瞳が、まっすぐこちらを向いていた。逃げ場がなかった。 「違う、そういうわけじゃ——」 「嘘つかないで」 遮られた。穏やかな声だったが、その奥に刃みたいなものが入っていた。 「あんたの目、あたしを見る時と同じ目であの子を見てた」 ケヤキの葉が風で揺れた。乾いた音がした。 ミズキは、頭の中が真っ白になった。 あたしを見る時と同じ目。 その言葉の意味を、ゆっくりと飲み込んだ。愛佳は——知っていたのだ。ずっと、知っていた。ミズキが愛佳に何を感じているか。その視線が何を意味しているか。全部、分かっていて、ずっと何も言わなかった。 (いつから) それを聞く勇気は、なかった。 「余計なことしないで」 愛佳は、視線をケヤキの幹に向けた。ミズキのほうを見なかった。 「あんたはあたしの一番の親友でしょ。それ以上のことは、望まないで」 台詞の温度が、不思議と冷たくなかった。怒っているわけじゃない。恐れている、とミズキは感じた。この関係が変わることを、愛佳はずっと恐れていたのだ。だからこそ先手を打った。線を引いた。ここから先には来ないでと、言葉で柵を作った。 分かる。 分かるから、もっと痛かった。 (愛佳が、怖いんだ) 胸の奥で、何かが静かに砕けた。派手な音じゃなかった。ガラスが割れるみたいな、小さくて冷たい音だった。 ミズキは顔を上げた。 笑った。 意識してそうしたわけじゃない。顔が勝手にそうなった。何年も続けてきた動作だから、もう反射になっていた。泣きそうな顔を、笑顔に塗り替えた。 「うん。わかった」 それだけ言って、立ち上がった。 「お昼、食べてくるね」 歩き出した。ケヤキの影を踏んで、芝生を横切って、本館の扉に向かった。背中が見えているうちは、震えないようにした。 愛佳が呼び止めることは、なかった。 * その夜、ミズキがカイセイウォッチャーの最新投稿を見たのは偶然だった。 フォトリアのタイムラインを何も考えずに流していて、リポストで流れてきた。 「三浦愛佳の幼なじみ・斎藤ミズキが転校生の桐山コウに色目を使い、愛佳と修羅場。モブのくせに身の程知らずwww」 コメントが、もう50件を超えていた。 「愛佳ちゃんかわいそう」「モブ子は空気読めよ」「一軍に色目って正気?」「笑えん」 スクロールするたびに、新しい悪意が増えていた。 ミズキはベッドの上で横になったまま、画面を閉じる気力が湧かなかった。 枕に顔を押しつけた。涙が、枕の布に吸い込まれていった。 声を出せなかった。壁が薄い。隣には愛佳の家がある。変な音を立てたら、聞こえるかもしれない。だから、ただ息を堪えた。布団を握りしめた。指の関節が白くなった。 愛佳に封じられた言葉。コウに「おもしろい」と言われた瞬間の、嬉しさと罪悪感。今夜の投稿。全部が一度に、胸の上にのしかかってきた。 (誰も、知らなかったわけじゃなかったんだ) 知られていた。ずっと。あたしが愛佳を好きなことも、コウに少し心が動いたことも。全部、外から見えていた。あたしだけが見えていないふりをしていた。 画面の中でコメントが増え続けていた。 ミズキは画面を伏せて、目を閉じた。 * 金曜日の朝。 2-Cの教室の扉を開いた瞬間、分かった。 視線の圧がある。 教室に入ると、空気が変わった。いくつかの会話が止まった。数人がひそひそと囁き合いながら、こちらを見た。意図的に目をそらす子もいた。 ミズキは前を向いたまま、自分の席に向かった。 机の上に、折り畳まれた紙が貼り付けてあった。 剥がして開くと、手書きの文字が三つ。 「身の程を知れ」 丁寧に折られていた。わざわざ折り目をつけて、テープで貼った。誰かが時間をかけてやった。 ミズキはその紙を、そっと机の中に押し込んだ。 教室の中心で、愛佳が笑っていた。 取り巻きたちと何かを話していて、楽しそうに笑っていた。純白の髪が揺れた。その笑顔が、ミズキの方向には一切向かなかった。 見ないふり、だった。 直接の悪意じゃない。でも、その「見ない」という行為が、刃みたいに刺さった。愛佳がひとこと言えば、この空気は変えられる。でも愛佳は何も言わない。言わないことで、今の状況を肯定している。 (分かってる。あたし自身の話だから、関係ないんだ) 自分に言い聞かせた。でも言い聞かせるほど、胸の奥が痛んだ。 白石カナが通りざまに言った。 「モブ子が一軍の男狙いとか、ウケるよねー」 声が大きかった。聞こえよがしだった。 周囲でクスクスと笑いが広がった。最初は近くの数人だけだった。でも笑いはじわじわと伝播して、教室の半分くらいまで届いた。 ミズキはメモを机の中に押し込んだ手を、そのまま膝の上に置いた。指先が冷たかった。前を向いた。何も聞こえていないふりをした。 (これが、今のあたしにできる唯一の抵抗だ) そう思いながら、目の奥が熱くなった。泣いてはいけなかった。泣いたら、もっとひどくなる。それだけは分かっていた。 * 1時間目、現代文の授業が始まった。 西川先生の声が、遠くから聞こえた。「つまるところ」という口癖が、いつもなら可笑しかった。今日は何も感じなかった。 ノートに文字が書けなかった。シャーペンを握っているのに、何も出てこなかった。 椅子の上で、じわじわと体が小さくなっていく感じがした。 隣の席の子が、ほんの少しだけ椅子を遠ざけた気がした。気のせいかもしれない。でも、その数センチが、ものすごく遠く感じた。 そのとき、斜め前の席から、小さな声がした。 「大丈夫か」 授業中の、ほとんど聞こえないくらいの声だった。 でも、その瞬間、周囲の数人がこちらを向いた。 ざわっ、と空気が動いた。誰かが小声で「やっぱりそういうことじゃん」と言った。また笑いが起きた。今度は小さかったが、確実に教室の中に広がった。 コウの善意が、そのまま燃料になった。 ミズキはノートを見たまま、唇を結んだ。 (コウのせいじゃない) それは分かっていた。でも分かっていても、追い詰められていく感覚は止まらなかった。 まだ大丈夫。まだ大丈夫。まだ——。 何かが切れた。 理由は分からなかった。特別なことが起きたわけじゃなかった。ただ、ある瞬間に、それがすっと限界を超えた。ガラスに亀裂が入るみたいに、じわじわとではなく、ある一点で突然に。 ミズキは静かに席を立った。 「斎藤、どこへ——」 先生の声が聞こえた。足が止まらなかった。扉を開けて、廊下に出た。扉が閉まる音だけが、後ろから追いかけてきた。 * 階段を駆け上がった。 3階、4階。誰にも会わなかった。4階の突き当たり、生徒会室の前を通り過ぎて、非常扉を押した。金属の重さが手に伝わった。 屋上に出た。 空が広かった。 6月の風が、前髪を揺らした。給水タンクの陰に滑り込んで、コンクリートの壁に背中をつけて、膝を抱えてうずくまった。 そこで、ようやく涙が出た。 声を殺して泣いた。肩が震えた。口を閉じたまま、喉の奥で詰まっている音が、少しずつ外に漏れた。誰も来ないように、コンクリートに顔を押しつけた。 (あたしはやっぱり背景のままでよかったんだ) スマホを、無意識に開いていた。 カイセイウォッチャーのコメント欄が画面に映った。昨夜より、ずっと長くなっていた。まだ増えていた。名前を知らない誰かたちが、次々と言葉を積み上げていた。 「愛佳ちゃんがかわいそう」「モブは分かってない」「誰も頼んでないよね」 画面を閉じようとして、閉じられなかった。見ていたくなかった。でも、目が離せなかった。 (誰かの特別になろうとしたのが間違いだったんだ) 愛佳の隣にいれば、安全だった。付属品と言われても、背景と思われても、そこには居場所があった。でも愛佳への気持ちを自覚して、コウの言葉に嬉しいと思ってしまって、何かを望もうとした瞬間に、全部が崩れた。 欲しいと思わなければよかった。 そう思った。思いながら、それでもその考えが正しいとは思えなくて、ぐるぐると同じところをまわっていた。 屋上の非常扉が、軋む音がした。 ミズキは慌てて顔を拭った。でも泣き腫れた目は、ごまかせなかった。 銀髪が見えた。前髪の青いメッシュが、6月の風に揺れた。 コウだった。 何も言わなかった。給水タンクの陰を覗いて、ミズキの隣にしゃがみ込んだ。コンクリートに腰を下ろして、前を向いた。それだけだった。 沈黙が続いた。 遠くの街の音が、かすかに聞こえた。どこかのサイレン。車の音。学校の外側の世界の音。 その沈黙が、予想外に温かかった。押しつけがましくなかった。ただ、隣にいた。 また涙が出そうになった。 「……なんで来たの」 声が、かすれた。 コウは少し間を置いた。屋上の端のフェンスを見ながら、少し迷った顔をして、それから言った。 「お前が出ていって、なんか放っておけなかった」 それだけだった。 嬉しかった。 本当に、嬉しかった。誰かが追いかけてきてくれた。居場所を失ったこの屋上まで、来てくれた。 でも、その嬉しさの直後に、別の感覚が来た。 (これが、また炎上の種になる) コウがここにいることが誰かに知れたら、また投稿が来る。またコメントが増える。またクラスがざわつく。この人の善意が、そのたびにミズキを追い詰める材料になる。 素直に受け取れない。そのことが、悲しかった。 ミズキはスマホの画面を膝の上に伏せた。コンクリートの冷たさが、手のひらに伝わった。 「……ありがと、かな」 絞り出した言葉は、それだけだった。 コウは何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、隣に座ったままだった。 風が吹いた。ケヤキの葉擦れの音が、4階まで届いた。午前の授業はまだ続いているはずだった。教室の中では今も、誰かがミズキのことを話しているかもしれなかった。 でも今この瞬間、屋上には風と、遠くの街の音と、二人の沈黙だけがあった。 ミズキは膝を抱えたまま、目を閉じた。 (明日、学校に来られるかな) その言葉が、頭の中に浮かんで、沈んだ。土日を挟む。二日間がある。でも月曜日の朝、あの教室の扉の前に立てるかどうか、今のミズキには全然分からなかった。