スマホの画面が、また光った。 ミズキは布団の中でそれを見た。でも、指が動かなかった。 土曜日の夜から、ずっとこうだった。カイセイウォッチャーのコメント欄は週末のあいだも止まらず伸び続けて、愛佳からのLINEも、コウからのLINEも、既読のまま放置されている。返せない。何を書けばいいか分からない。いや、そもそも顔を上げる気力がなかった。 月曜日の朝が来た。 カーテンの隙間から差し込む光が、いつもより明るく感じた。でも布団から出られなかった。HRの時間が過ぎた。1時間目が始まった。2時間目。ミズキは天井を見ていた。 (あのクラスに、もう戻れないかもしれない) その考えが、朝からずっと頭の中をぐるぐるしていた。怖い、というより、ただ、体が動かなかった。ベッドと自分が一体化してしまったみたいで、引き剥がすための力が、どこにもなかった。 昼過ぎ、チャイムが鳴った。 ミズキはピクリとも動かなかった。宅配かな、と思った。でも続けてもう一回。それからまた。3回目のチャイムで、ようやく布団から足を出した。パジャマのまま、廊下に出た。 玄関のドアを開けた。 愛佳が、立っていた。 制服が、ぐっしょりと濡れていた。傘もない。白いブレザーが雨を吸って色が変わっている。純白のロングヘアが頬に張り付いていて、金色の瞳は真っ赤に腫れていた。いつもパーフェクトなアイドルスマイルを貼り付けているはずの顔が、今は、ただただぐしゃぐしゃだった。 ミズキは固まった。 何か言おうとした。でも言葉が出てこなかった。 愛佳が、玄関の段差に力なく座り込んだ。膝をつく音がした。濡れた制服が、ミズキの家の玄関タイルを濡らした。 「……ごめん」 それだけだった。 その一言の後、愛佳は声を押し殺して泣き始めた。肩が震えた。指先が白くなるほど膝を握りしめていた。 ミズキは、胸の奥で何かが締め付けられる感覚があった。愛佳が泣いているのを見たことが、今まで一度もなかった。小学校の時も、中学校の時も。何があっても笑っていた人が、今、目の前で崩れていた。 パジャマのまま、ミズキは玄関に膝をついた。 「あたしが……怖かったの」 しゃくり上げながら、愛佳は続けた。 「ミズキに嫌われるのが怖くて……ひどいことを言った。ケヤキの下で言ったこと……あんなこと言いたかったわけじゃなかった。怖かっただけ。あたしが、ただ、怖かっただけ」 声が震えていた。いつもの計算された穏やかさとは全然違う、ばらばらになってしまったような声だった。 「あたしにとってミズキは……親友なんかじゃない。もっと大事な、誰よりも——」 そこで、声が詰まった。 愛佳は続きを言えなかった。唇が震えたまま、言葉になれなかった何かが宙に浮いた。でも、ミズキには分かった。その続きが何なのか。言葉にならなかったその震えが、全部を語っていた。 (愛佳は……ずっと、あたしのことを) ミズキも、泣いていた。いつから泣き始めたのか分からなかった。ただ、気がついたら視界がぼやけていた。 愛佳を、抱きしめた。 濡れた制服の冷たさが、ミズキのパジャマに伝わった。雨の匂いがした。愛佳は一瞬固まって、それから両腕を回してきた。しがみつくような力だった。子どもみたいな力だった。 しばらく、二人は動けなかった。玄関で、ただそのまま、泣いていた。 愛佳が言いかけた続きは、まだ宙に浮いたままだった。でも今は、それでよかった。ここから、もう一度始められる気がした。 * 着替えて、愛佳の制服を乾かして、二人で並んでカイセイ学園に向かったのは午後の2時を過ぎた頃だった。 雨は上がっていた。道路が濡れていて、光を反射している。 カイセイ学園の校門をくぐる足が、重かった。ミズキの頭には、あの教室の空気が染み付いていた。视線。ひそひそ声。白石カナの笑い声。机の上のメモ。 2-Cの扉の前で、足が止まった。 愛佳の手が、ミズキの手をぎゅっと握った。指の間に力が入った。何も言わなかった。でもその握り方だけで、十分だった。 ドアを引いた。 教室の空気が、一瞬で凍りついた。いくつかの会話が止まった。視線が集中する。窓際の席の白石カナが、何か言いかける表情をした。 でも——教壇の前に、誰かが立っていた。 漆黒の長髪を後ろで束ねた、3年生。カイセイ学園生徒会長・音無タクミが、2-Cの教室にいた。 左目の下の小さなホクロ。冷たい銀色の瞳が、静かにクラス全体を見渡している。背が高い。長机の前に立つその姿は、威圧的というより——圧倒的に、静かだった。 「生徒会は今週から、カイセイウォッチャーの投稿パターンの分析調査を正式に開始しました」 声が、教室に落ちた。 低く、落ち着いた声だった。急かすわけでも怒鳴るわけでもない。ただ、事実を告げるように言った。それだけなのに、ひそひそ声が、すっと止まった。 「現在、特定の生徒に向けた投稿が継続的になされています。これは学校の倫理規定に抵触する可能性があります。全校生徒に周知した上で、来週金曜の生徒総会で正式に問題提起を行う予定です」 そこで、タクミの視線が、ほんの一瞬だけミズキに向いた。 かすかに、頷いた。 言葉はなかった。でも、その目には確かに「見ていた」というメッセージがあった。週末のあいだも、ここで起きていたことを、ちゃんと知っていた——そういう目だった。 ミズキは胸の奥で何かが動くのを感じた。タクミのことをちゃんと「見た」のは、これが初めてかもしれなかった。 * 放課後、ミズキの机に小さなメモが置かれていた。 几帳面な字で「少し来てほしいです。4F生徒会室まで。——音無」とだけ書いてあった。 本館4階。廊下の突き当たりにある生徒会室——普段は用のない場所だ。ミズキはメモを折って、鞄に入れた。 他の生徒が帰り始めた頃、4階に上がった。廊下の窓から夕暮れが見えた。薄暗い廊下。突き当たりの扉。 ノックすると、「どうぞ」という声がした。 中に入ると、古いソファと長机が4つ、ホワイトボード。窓から西の空が見えた。タクミは長机を挟んで向かい側の椅子に座っていて、ミズキが入るとすっと顔を上げた。 「座ってください」 向かいの椅子を示した。ミズキは鞄を膝に抱えて座った。 タクミは長机の上に数枚の紙を広げていた。手書きのメモと、フォトリアのスクリーンショットらしき印刷物だった。 「カイセイウォッチャーの投稿を、過去3ヶ月分調べました。投稿の時間帯は月曜深夜と金曜夜に集中しています。文体のパターンと、投稿に含まれる情報の鮮度から——運営者は在校生の可能性が高い」 淡々とした口調だった。感情を乗せない分、言葉の重さがそのまま届いてきた。 「来週金曜の生徒総会で、ルックスランキングによる差別的扱いの実態を、全校の前で問題提起します。賛否はあるでしょうが、やります」 ミズキはうまく返事ができなかった。自分のために、ここまで動いている人がいた。それが、どう受け取ればいいのかまだ分からなかった。 タクミが、ふと間を置いた。 それから、静かに言った。 「君のことは、前から気になっていた」 ミズキは顔を上げた。 「愛佳のそばで、いつも笑っている。でも、目だけ笑っていない。そういう人間は——強いか、壊れかけているかのどちらかです」 胸の奥をそのまま言われた、という感覚があった。 誰にも見えていないと思っていた部分を、真正面から見られた。ミズキは何か言おうとして、言葉が出てこなかった。指先が、無意識に左耳の銀のイヤーカフに触れた。 「どちらにせよ、君はこのままでいる必要はない」 タクミの銀色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。冷たいわけじゃなかった。ただ、静かだった。誰も向けてくれたことのない種類の視線で——それがかえって、胸に刺さった。 なんだか……ちょっとね、と口の中で呟いた。声には出なかった。 * 生徒会室を出たミズキは、4階の非常扉を押して屋上に出た。 夕暮れの空が広がっていた。オレンジと紫が混ざった色。風が髪を揺らした。 給水タンクの陰に回ると——コウがいた。 壁にもたれて、スマホをポケットにしまいながら顔を上げた。銀髪の前髪に混じる青いメッシュが、夕風になびいた。 「遅かったな」 「……なんで屋上にいるの」 「待ってたんだよ。生徒会室に行くの見えたから」 コウは少し間を置いて、壁から背中を離した。 「土日、白石カナに会いに行ってきた」 ミズキは目を丸くした。 「直接言った。お前がやってることはいじめだって。人を追い詰めて笑って、面白いかって。俺は全然笑えないと」 「……なんで、そんなこと」 コウは少し、頭をかいた。照れているというより、どう言えばいいか探しているような感じだった。 「お前が学校来なくなって……つまんなかった」 夕暮れの風が、屋上を吹き抜けた。 「だから——もう関係ないけど言う。俺、愛佳じゃなくてお前が好きだ」 まっすぐだった。 飾りが全部剥がれたみたいな、ただそれだけの言葉だった。転入初日から、コウがずっとミズキ自身を見ていたことが——その一言に、全部詰まっていた。 ミズキは、胸のど真ん中を何かに打たれた感覚があった。肺の動きが、一瞬止まった。 コウの紫色の瞳が、こちらを見ていた。答えを急かすでもなく、ただ見ていた。 ミズキは、空を仰いだ。 オレンジの空。夕暮れの雲。 頭の中に、三人の顔が浮かんだ。 雨の中、玄関で崩れた愛佳。言いかけた続きを、飲み込んだ愛佳の震える声。 生徒会室で、「目だけ笑っていない」と言ったタクミの静かな銀色の瞳。誰も向けてくれなかった種類の見られ方。 そして今、この屋上で——お前が好きだと言ったコウの、飾りのない声。 三方向から、矢が飛んできた。 誰かを傷つけたくなかった。でも、全員の気持ちが重かった。答えが出なかった。出せなかった。 ミズキはそのまま、夕暮れの空を見上げていた。 風だけが、ずっと吹き続けていた。 来週金曜。生徒総会。タクミはミズキを、あの壇上の問題提起に巻き込もうとしている。三人分の感情を抱えたまま、全校の前に立てるのかどうか——その問いだけが、夕暮れの風の中に残った。