昨夜のことを、ミズキはまだ引きずっていた。 屋上でコウに告白されて、夕暮れの空を仰いで、頭が真っ白になったまま家に帰った。夕食もろくに食べられなかった。布団の中で天井を見ながら、愛佳の声、タクミの視線、コウの飾り気のない一言が、順番に頭の中を回り続けた。 三人分の気持ちを、一人で抱えている。 答えを出せないまま、朝が来た。 * 金曜日の朝のカイセイ学園は、いつもと少しだけ空気が違った。 昇降口を入ったところで、クラスの子たちがひそひそ話しているのが聞こえた。「今日の生徒総会、あれやるんだって」「カイセイウォッチャーの件でしょ」「タクミ先輩が正式に問題提起するって」。そういう声が、廊下のあちこちから聞こえてくる。 ミズキは制服の裾を握りしめて、2-Cへ向かった。 愛佳がいた。いつもどおり純白のロングヘアを揺らして、取り巻きと話していた。視線がちらりとミズキに向いて——ほんの一瞬、唇が動いた。言葉にはならなかった。でも、その目は「大丈夫」と言っていた気がした。 ミズキは自分の席に座った。指先が、無意識に左耳の銀のイヤーカフに触れた。 * 午前10時。体育館に全校生徒が集まった。 座席数を超える700名が、ざわざわとした空気の中に収まっている。2年生は中央ブロック。ミズキはクラスの列の端に座った。両隣に知らない顔が並ぶ。壇上には演台と、数枚の紙を持った音無タクミが立っていた。 漆黒の長髪を後ろで束ねた3年生。生徒会長としていつもと変わらない立ち姿だったが、今日は何かが違った。静かなのに、体育館全体の空気を引き寄せているような——そういう存在感だった。 「生徒会より、報告があります」 低い声が、体育館に落ちた。マイクを通した声なのに、どこか肉声に近い重みがあった。ざわめきが静まっていく。 「カイセイウォッチャー——匿名SNSのフォトリア上で運営されているアカウントです。このアカウントは過去3ヶ月で、特定の生徒を名指しした投稿を31件行っています。そのうち13件は、本人の同意なく撮影された写真を使用していた」 ざわり、と後ろの列が揺れた。 「この1ヶ月で、同アカウントの投稿を起因とする嫌がらせを受けた生徒が、少なくとも3名います。そのうち1名は、現在も不登校の状態が続いています」 誰かが小さく「え」と言った。静寂が広がった。 タクミは淡々と続けた。感情的ではなかった。証拠と事実だけを積み上げる口調。それがかえって、教室で「面白いコンテンツ」として笑いながらランキングを見ていた生徒たちの顔を、少しずつ強張らせていった。 ミズキは膝の上で手を組んだ。 タクミの視線が、一瞬だけこちらに向いた。 その一瞬に、先週の生徒会室でのやりとりが蘇った。「君はこのままでいる必要はない」——あの言葉が、今日この場所に繋がっている。自分の名前のついた事例が、あの資料の中にある。そのことを、ミズキは分かっていた。手のひらに、じわりと汗が滲んだ。 タクミの発言が終わった。体育館が静まり返った。 そこへ——声が上がった。 「被害者ぶってるだけじゃないですか?」 白石カナが立ち上がっていた。2年生のブロック、斜め前の列。彼女の周囲にいた数人が、ぎょっとした顔でカナを見た。 「ランキングはみんなで楽しんでる文化ですよ。それを勝手に嫌だって言って、全体の責任みたいにするのはおかしくないですか。気にしすぎる人が騒いでるだけで、大半の人には関係ない話だと思いますけど」 体育館が揺れた。ざわめきが広がる。同意する声も、困惑する声も混じっていた。 「そうじゃん」という声が、どこかから聞こえた。 ミズキの中で、何かが動いた。 関係ない、じゃない。大半には関係ない、じゃない。あの机の上のメモは、あたし宛てだった。クラスで一人になったのは、あたしの話だった。名前も知らない誰かが、あたしに「身の程を知れ」と書いて貼り付けた。それは——あたしには関係ある話だ。 足が、震えていた。 それでも、ミズキは立ち上がった。 * 全校生徒の視線が、一点に集中した。 2年生ブロックの端。青紫色のボブカット、藍色の瞳。誰かが「あの子誰」とつぶやいた。別の誰かが「愛佳ちゃんの幼なじみじゃん」と返した。壇上のタクミが、静かにマイクをこちらに向けた。 ミズキは歩いた。震える足で、壇上のマイクの前まで歩いた。700人分の視線の重さが、肩にのしかかってくる。肺の動きが、一瞬固まった。 でも、止まらなかった。 「……あたしの机に、メモが貼ってあったんです」 声が小さかった。でもマイクが拾った。体育館の端まで届いた。 「『身の程を知れ』って、書いてありました。テープで、丁寧に貼ってありました。誰が書いたか分からない。名前がなかったから。でも、あたしが特定の人と話したことをカイセイウォッチャーに投稿されて、次の日の朝に机に貼ってありました」 ざわめきが止まった。 「授業中、隣の席の人がちょっとだけ椅子を遠ざけました。気のせいかもしれない。でも、その数センチがすごく遠かった。廊下を歩いていたら笑い声が聞こえて、もしかして自分のことかなって思い始めたら、教室に入るのが怖くなりました」 声が、割れた。 涙が出てきた。止めようとしたが、止まらなかった。こんな場所で泣きたくなかった。でも、涙はミズキの意思を無視した。視界が滲む。声が震える。 それでも、マイクから離れなかった。 「……関係ない話じゃないんです。気にしすぎじゃないんです。あたしが気にしたのは——気にせざるをえない状況が、実際にあったからで」 そのとき、体育館のどこかで誰かが立ち上がった。 「ミズキ!」 愛佳の声だった。 純白のロングヘアを揺らして、2年生ブロックの席から立ち上がった愛佳が、まっすぐにミズキを見ていた。金色の瞳が、赤くなっていた。泣いていた。 その声が、体育館のざわめきをぴたりと止めた。 一拍遅れて、別の場所でも誰かが立った。銀髪の前髪に青いメッシュが混じる——コウだった。両腕を組んで、ただ立っていた。それだけだった。でも、その立ち方が「ここにいる」と言っていた。 壇上のタクミが、静かに手を差し伸べた。言葉はなかった。ただ、その手があった。 ミズキは涙を拭った。手の甲で、雑に。 「あたしは——背景じゃないです。モブじゃないです」 声が、体育館に落ちた。 「ランキングの数字で、人の値打ちは決まらないと思う。あたしはそう思う」 最初の一人が、拍手を打った。 パン、と乾いた音。それが次の一人を呼んで、また次を呼んで、波のように広がっていった。全部が拍手になるわけじゃなかった。黙って座ったままの生徒もいた。でも、確かに体育館の中で何かが変わった。空気の密度が、少しだけ変わった。 白石カナが、顔を歪めて座席に崩れ落ちた。 生徒総会はその後、採決を経て、カイセイウォッチャーへの学校側対応強化を決議した。 * 放課後、中庭のケヤキの下に愛佳が来た。 いつもの場所。二人が小学生の頃から使い続けている、樹齢30年のケヤキの木の下。6月の午後の光が、葉の隙間からまだらに落ちてくる。芝生が柔らかく光を返している。 愛佳は先に来ていた。ベンチに座らずに、木の幹に背中を預けて立っていた。ミズキの顔を見た瞬間、唇がちょっとだけ震えた。 「……よかった。壇上で立ってるの見て、泣いちゃったわ」 ミズキは苦笑いした。「あたしも泣いてたよ、思いっきり」という言葉は、声になる前に消えた。 愛佳がゆっくりと話し始めた。 「私ね、7ヶ月間ずっと1位でいたのは——楽しかったからじゃないの」 ミズキは黙って聞いた。 「1位でいないと、みんなが離れていくと思ってた。ランキングで上にいる間は、誰も私のこと忘れない。話しかけてくれる。声をかけてくれる。——それが怖くて、手放せなかった」 金色の瞳が、ケヤキの幹を見上げた。 「でもね。ランキングに関係なく、ずっとそばにいてくれたのは——ミズキだけだった」 愛佳の声が、少し詰まった。 「私が本当に好きなのは、ミズキです。ずっと好きだった。でも怖くて言えなかった。また変になったら嫌だって——でも、もう言わないのはもっと嫌だから」 ミズキの目から、また涙が出た。 嬉しかった。本当に嬉しかった。愛佳の気持ちが届いた。長い時間をかけて、ぐるぐると回り続けた気持ちが、ようやく言葉になって届いた。 でも——ミズキの頭の中に、昨日の屋上が蘇った。コウの声。タクミの視線。三人分の気持ちを、まだ全部抱えたままだった。 「……愛佳のこと、好きだよ」 正直に言った。 「でも、今すぐ答えを出せない。愛佳のことも、コウのことも、タクミさんのことも——全員の気持ちに、ちゃんと向き合ってから。あたしが本当に何を望んでいるかを、まだ分かってないから」 愛佳はしばらく黙っていた。 それから、泣きながら笑った。 「……ずるいわね、ミズキは」 泣き笑いだった。きれいじゃない顔だった。でもミズキは、愛佳のその顔が——普段の完璧な笑顔より、ずっと好きだと思った。 「待つわ。でも絶対に、あたしが勝つから」 そのとき、芝生の向こうから足音がした。 「……え、告白の直後? タイミング最悪すぎないか、俺」 コウが立っていた。銀髪の前髪に青いメッシュ、左目の下の細い傷跡。状況を察したらしく、頭をかきながら苦笑いしていた。 愛佳がジロリとコウを見た。「もう少し気を遣えないの」という顔だった。コウはひるまなかった。 「でもまあ、言っとく。俺も降りる気はないぞ」 ミズキは、思わず吹き出した。笑いたい場面じゃない。でも、なんだか笑えた。ケヤキの木の下で、三人がそれぞれ複雑な顔をしながら立っている、この状況が——どうしようもなく可笑しくて、どうしようもなく本物だった。 愛佳が「笑うな」と言いながら自分も笑っていた。コウが「いや笑うだろ」と返した。 本館4階の窓に、人影があった。 音無タクミが、生徒会室の窓の向こうから、三人を静かに見下ろしていた。表情は読めなかった。ただ、その視線には——何かが宿っていた。静かで、しかし揺るがない何かが。 ミズキはその窓を見上げた。タクミと目が合った気がした。 すぐに視線を外して、ケヤキの幹を見上げた。6月の空が、葉の隙間から見えた。 * その夜。 自室のベッドに座って、スマホのタイムラインを開いた。フォトリアに、カイセイウォッチャーの投稿が上がっていた。 今月の更新日じゃない。深夜0時を少し過ぎた時刻。 投稿の内容は、短かった。 「6月度女子ルックスランキング1位:該当者なし。なぜならランキング自体が——」 そこで、投稿が途切れていた。 続きは更新されなかった。コメント欄は混乱していた。「どういう意味」「運営消えた?」「続きは」。でも、投稿はそのまま、途切れた形で残り続けた。 ミズキはその投稿を、しばらく見つめた。 運営者の正体は、まだ分からない。なぜ途中で止まったのかも分からない。「なぜならランキング自体が——」その先に何があったのか、まだ誰も知らない。 スマホを置いた。 3人分の気持ちを、まだ全部抱えたまま。運営者の答えも、まだ闇の中のまま。 でも今日、体育館で声を出した。震えながら立ち上がって、涙が出ても止まらなかった。それだけは、確かだった。 背景じゃない。モブじゃない——自分の声で、言い切った。 ミズキは目を閉じた。ケヤキの葉擦れの音が、まだ耳の奥に残っていた。