「モフモフ異世界ビジネス」
高校二年生の佐藤翔太は、ある放課後に謎の光に飲み込まれ、気がつけば見知らぬ草原の真ん中に一人で立っていた。魔法が日常に溶け込み、竜が空を飛び交うその世界〈ヴェルディア大陸〉では、現代日本の常識など欠片も通用しない。途方に暮れる翔太の前に最初に現れたのは、言葉を持たないくせに人の感情を的確に読み取り、抱きしめた相手の心を溶かしてしまう不思議な生物——モフモフだった。
モフモフは、人間との触れ合いを通じてのみ成長する生物で、かつては貴族の間で珍重されたが、百年前に起きた〈灰色戦争〉の混乱で生息域が激減し、今や絶滅寸前とされていた。翔太にモフモフの生態を教えてくれたのは、ヴェルディア大陸でも数少ないモフモフ研究者の少女ルナだ。落ち着いた声と丁寧な言葉遣いで膨大な知識を淡々と語る彼女は、翔太がとりあえずモフモフを育てて売ってみると言った瞬間、わずかに眉を動かして言った。……非常識ですね。でも、面白いかもしれません。
こうして翔太は、ルナの知識と自分のゼロベースの発想を掛け合わせ、ヴェルディア大陸初のモフモフ流通業を立ち上げることになる。看板を書こうとしたら字が読めず、値段をつけようとしたら
「モフモフ異世界ビジネス」 - 天才と影——触れ合いの先に
看板は、思っていたより小さかった。
ハーゼの小広場の石壁。ざらついた灰色の表面に、翔太はその板を両手で押さえた。ルナが釘を打つ。コン、コン、と乾いた音が朝の空気に響く。
「曲がってます」
「今まっすぐにしてるつもりなんですけど」
「五度ほど右に傾いています」
「……これで固定してください」
ルナが最後の釘を打った。コン。
二人で少し距離を取って、眺める。
板には、昨夜書き直した文字が記されていた。『モフモフ、触れます。疲れた人に』。ルナの几帳面な文字で、五度傾いたまま、石壁に貼り出されている。
「まあ、いいか」
「傾きは直せます」
「いや、ちょうどいい気がしてきた。完璧すぎない方が近づきやすいし」
ルナが翔太をちらりと見た。眉が微かに動く。何かを言いかけて、止めた。
翔太は膝の上のモフモフを確認した。白い毛玉が、朝の光を受けてわずかに輝いている。珊瑚海からの風が平原を渡ってきて、翔太の黒い前髪を揺らした。ハーゼの街はまだ朝の静けさの中にある。遠くで鶏が鳴いた。
(来るかな)
確証はない。昨日まで誰も知らなかった商売だ。看板一枚で、どれだけの人が立ち止まるかわからない。
翔太は石畳の縁に腰を下ろした。ルナが翔太の隣——ちょうど一人分の間隔を空けて——に立ったまま、手帳を開く。ペンを持つ指先が、涼しい朝の空気の中で白く見えた。
そのまま、二人は静かに待った。
◆
最初に近づいてきたのは、老婦人だった。
腰が曲がっている。杖の先が石畳をつく音が、ゆっくりと近づいてくる。翔太は立ち上がろうとして、まず相手の表情を確かめた——警戒しているのか、興味があるのか、それとも道を聞きに来ただけなのか。
老婦人の目は、翔太ではなく、翔太の腕の中のモフモフに向かっていた。
翔太はそっとモフモフを差し出した。
「触ってみますか」
老婦人は何も言わずに、節くれだった指先をモフモフに伸ばした。触れた瞬間——微細な振動が始まる。精気を介して人の感情を緩和するモフモフの共鳴振動が、老いた手のひらに届く。
老婦人の目が、細くなった。
涙が、静かに一筋流れた。泣き声はない。嗚咽もない。ただ、透明なものが頬を伝った。
「……息子の手に、似ている気がしてねえ」
誰に言うでもなく、呟いた。声は低く、穏やかだった。灰色戦争——百年前に大陸を灰燼に帰した戦乱——で多くの命が失われた。老婦人の息子も、そのひとりだったのかもしれない。翔太にはわからない。ただ、その言葉を聞いた瞬間、返す言葉が出てこなかった。
(ああ)
そういうことか、と思った。共鳴振動は癒しだと、翔太は漠然と思っていた。不安を和らげる、疲れを取る——そういうものだと。でも違う。もっと深いところに届く。人の記憶の、核心に。
隣でルナのペンが走る音がした。翔太は老婦人の横顔を見ていた。ルナは手帳を見ていた。二人とも、何も言わなかった。
その沈黙が、なんだか正しいと感じた。
◆
口コミというのは早い。
老婦人が杖をついて立ち去ってから半刻も経たないうちに、広場に人が集まり始めた。最初は三人、次に五人、気づけば十人近い列ができている。旅の疲れを抱えた行商人、子どもを連れた親、宿場町の住人。
翔太は忙しく動いた。モフモフを差し出して、触れてもらって、反応を確かめる。料金は一回一フェン——銅貨一枚、パン半分ほどの値段。法外でもなく、無料でもない。ルナが帳簿をつけ、翔太が対応する。凸凹が、うまく機能していた。
そこに、場違いなほど元気な声が飛んできた。
「うお、なんだなんだ!すげえ列じゃん!」
振り返ると、栗色の乱れた短髪に、鋭くも無邪気さを持つ琥珀色の瞳の青年が、人混みをかき分けてこちらに歩いてくる。背は翔太よりわずかに高い。腰には短剣を下げていて、胸には遊歴仲介所——冒険者への依頼仲介を行う公的機関——の銅級証章がついていた。手を振り回しながら喋るのが癖らしく、右手が盛大に空気を切っている。
「俺も並んでいいか!なんとかなるっしょ!」
翔太が反射的に答えた。
「どうぞ。一番後ろです」
「了解!俺、ゴン。銅級冒険者!絶対役に立つから!」
「翔太。モフモフ流通商です」
「モフモフ流通商!?そんな仕事あるんだ!?」
「今作りました」
「天才じゃん!」
自己紹介としては十分だった。ゴンは列の後ろに並んだ。が、じっとしていられないたちらしく、前後の人に話しかけ始めた。翔太はそれを横目で見ながら、次の客に集中した。
数分後、ゴンの番が来た。
翔太がモフモフを差し出すと、ゴンは「よっ」と気安く手を伸ばした。指先が白い毛玉に触れた瞬間——
ゴンの表情が、ほんの少し変わった。
陽気な笑顔に、かすかな亀裂が走る。口角はそのままなのに、瞳だけが一瞬、どこか遠い場所を見た。琥珀色の目が宙を泳いで、何かを堪えるように、唇がわずかに引き結ばれる。
それは一秒にも満たない変化だった。
(あれ)
翔太はその変化を、見逃さなかった。
次の瞬間にはゴンは元に戻っていた。「いやー、毛並みがいいだけだろ、こういうの!」と笑いながらモフモフを翔太に返す。八重歯がちらりと見えた。
「この商売、俺が広めてやるよ!なんとかなるっしょ!」
「いや、まあ……ありがとうございます」
翔太は適当に流しながら、ゴンの言葉の先を聞いていた。あの一瞬が気になっていたからだ。何かを閉じ込めるように笑う人間の、笑いが少し速すぎる感じ。
だがゴンはもう喋り始めていた。近くにいた男性市民の肩を叩いて「これ、すごいから触ってみてって!俺が保証する!」と宣言しながら、モフモフを取ろうと手を伸ばす。
「ちょっと待って待って!」
翔太が止める前に、ゴンが豪快に白い毛玉を男性に向けた。
男性市民の顔が、みるみる青くなった。
「精気獣だ!」
その一言で、広場に波が走った。
精気獣——精気が変異した危険な生物のことで、ヴェルディア大陸では討伐対象とされている。外見だけなら、確かにモフモフとは似ても似つかないが、「白くてふわふわした毛玉」という印象だけで混同する人間がいないとも限らない。
瞬く間に列が乱れた。子どもが泣き、行商人が荷物を抱えた。
ルナが一歩前に出た。
「落ち着いてください。これは精気感応生物——正確には『オーラム共鳴体・精気共振種』に分類される生命体であり、精気獣とは発生原理からして根本的に異なります。精気獣が外部の精気を無秩序に吸収・変異するのに対し、精気感応生物は内部に精気受容組織を持ち、周囲の感情パターンに共鳴振動を返す——」
広場が静まり返った。
ただし、それは安心したからではなく、全員が「何を言われているかわからない」という顔をしていたからだった。子どもがまた泣き始めた。行商人の顔は余計に青くなった。
翔太が一歩前に出た。
「怖くないし噛まない。以上です」
沈黙。
それから、誰かがぷっと吹き出した。緊張の糸が切れるような笑い声が広がり、広場の空気が一気に緩んだ。子どもが泣き止んだ。行商人が苦笑した。ゴンが「いやー騒がせてすまん!」と頭を掻いた。
ルナが翔太の隣に戻った。その横顔には、特に感情が浮かんでいない。
「……補足は不要でしたか」
「ルナさんの説明は論文として完璧です。看板の時と同じです」
「理解しました」
ルナが手帳に何かを書いた。「一般聴衆への情報伝達:平易な表現が有効」とでも書いたのかもしれない。
騒動が落ち着いた後、ゴンが翔太の横に並んだ。
「で、さっきちょっと聞こえたんだけど、黄鉄商連には気をつけた方がいいぞ」
翔太の耳がピクリと動いた。
「……それ、どういう意味ですか」
「俺、依頼を二重受注したことがあってさ」
ゴンが軽い口調で言った。「天才的なミスだった!」と笑いながら手を振る。でもその笑い方が、また少し速かった。
「黄鉄商連——ヴェルディア大陸の流通をほぼ握ってる商業組合——の荷を運ぶ依頼と、その競合商家の荷を運ぶ依頼を同時に受けちまって。両方に『もう一方の情報』を渡せとか言われて、まあ色々あった」
「色々って」
「なんとかなった!いや、ちょっとなんとかならなかった部分もあったけど、まあ!」
ルナがゴンを静かに見た。
「確率的に、三重受注も時間の問題では」
「ない!絶対ない!俺は天才だから学習する!」
「天才は二重受注をしません」
「痛いな今の!」
ゴンが苦笑いした。その笑いには、今度はさっきより少し余裕があった。ルナのツッコミを受け入れている。
翔太はゴンを見ていた。陽気で、うるさくて、失敗を笑い飛ばす。でも、根のところに何かある。あのモフモフに触れた一瞬の、堪えるような表情。それと、今の「色々あった」という一言。
「一緒にやりませんか」
ゴンが目を丸くした。
「え」
「モフモフ流通商。俺とルナさんだけじゃ手が回らない。ゴンさんが宣伝してくれたおかげで今日の列もできたし」
「……いや、俺は邪魔したんじゃ」
「賑やかになりました。一定の集客効果はあります」
「フォローになってないですよルナさん」
ゴンは数秒、黙った。珍しく、手を振り回していなかった。
「……俺、役に立てるかな」
声のトーンが、少しだけ変わった。軽口じゃない、素の声。
「立てます。さっきみたいに騒ぎを作るのだけやめてください」
「それは努力する!」
ゴンが笑った。今度はちゃんと、少し間のある笑いだった。
◆
日が傾き始めた頃、翔太は初めて「手応え」というものを感じていた。
今日だけで三十人近くが触れた。泣いた人が二人。笑った人が七人。何も言わずに去った人が十人以上。でも全員、その場を離れる時の顔が少し違った。来た時より、ちょっとだけ柔らかい顔をしていた。
これが全部だ、と翔太は思った。第3話の夜、宿の廊下で女の子がモフモフに頬を寄せた時に感じたのと同じ確信が、今日の積み重ねで一層強くなっていた。
広場の人が少なくなり始めた夕刻。翔太が帳簿をルナに渡した瞬間、広場の外縁に人影が見えた。
商人風の男だった。歳は四十前後。地味な紺色の上着。目立たない出で立ち。ただ一点だけ——左胸に、鉄輪に封蝋を刻んだ徽章をつけていた。
ルナがそれを一目見て、翔太の袖をそっと引いた。
翔太がルナを見た。ルナの水色の瞳が、普段より少し鋭く細まっていた。その表情に、翔太は見慣れない真剣さを見た。胸の中で何かが張り詰めた。
男が静かに近づいてくる。
「佐藤翔太殿、でよろしいですか」
穏やかな声だった。脅しているわけでも怒っているわけでもない。それがかえって翔太には不安だった。
「黄鉄商連——ヴェルディア大陸の流通管理を行う商業組合——の者です」
男が続けた。
「本日の催しについて、確認させていただきたいことがあります。精気感応生物の無認可展示および対価の授受は、当組合の管轄する商業秩序の維持上、介入事案に該当いたします」
「まだ何も——正式な取引なんて——」
翔太が言いかけた瞬間、男が懐から一冊の帳簿を取り出した。革表紙の、きっちりとした帳簿だった。
開かれたページには、数字と文字が整然と並んでいた。
体験会の開始時刻。参加者の概算人数。一名あたりの支払額。ゴンが近隣市民に声をかけた時刻と場所。翔太が老婦人に差し出した際の反応の記録まで、すべてがそこに書かれていた。
翔太の言葉が止まった。
(開始前から、見られていた)
それが意味することを、頭が一瞬で処理した。看板を貼る前から。朝からずっと。誰かが、どこかで記録していた。
「黄鉄の連中め」
ゴンが低い声で呟いた。翔太がゴンを見ると、ゴンは男の徽章を見ていた。その目に、個人的な感情が滲んでいた——怒りとも、苦さとも取れる色が。
男はゴンに視線を向けることなく、翔太だけを見た。
「次に同様の行為があれば、遊歴仲介所トルマ支所への通達、および宿場町議会への申し立てを行います。ご理解いただけますよう」
それだけ言って、男は踵を返した。石畳を踏む音が遠ざかっていく。一度も声を荒げなかった。一度も笑わなかった。それが、どんな怒鳴り声よりも重かった。
広場に、三人だけが残った。
翔太は黙っていた。
怒りはある。困惑もある。でも一番大きいのは——わかった、という感覚だった。昨日まで「黄鉄商連が動くかもしれない」という話を、翔太はどこか遠い話として聞いていた。でも今、それは現実として目の前に来た。帳簿という形で。数字という形で。
ルナが帳簿の内容を静かに確認していた。男が置いていった写しらしきものを手に取り、ページを繰る。
「本日の体験会は、既に精気感応生物の商取引として認識・記録されています。法的空白を逆手に取ることが可能という私の読みは正しかった。ただし、彼らが無認可商行為として攻撃してきた場合の反論根拠が、まだ薄い」
冷静な声だった。感情を挟まず、ただ事実を整理している。
「それでもやめる気はない」
翔太が言った。
笑っていなかった。楽観でもなかった。ただ——怖いと分かった上で、それでも、という言葉だった。第3話の夜に「怖くないわけじゃない。でも、怖いと分かった上での言葉だった」と自分に言い聞かせたあの感覚が、今日また同じ形で戻ってきた。前より少しだけ、重く。
その時、腕の中のモフモフが小刻みに振動した。
三人の緊張を、静かに吸収するように。
◆
宿屋「潮風のゆりかご」の食堂は、夜になると燻製の魚の匂いがする。
女将のミレーヌが鉄鍋で何かを煮ていた。翔太が注文したのは昨日と同じパンとスープ。ゴンはエールを頼んだ。ルナは水だ。三人が同じ卓を囲んだのは、今夜が初めてだった。
「黄鉄商連ってさ」
ゴンがエールを一口飲んでから、口を開いた。
「内部、割れてるんだよな。改革派の若い連中と、既得権益を守りたい保守派のじいさんたちで。俺も昔ちょっと——」
そこで、ゴンは止まった。
「いや、俺には関係ない話だ」と、ゴンはエールを持ち直した。話題を変えるように「明日からどうする?」と聞いてくる。
翔太は問い返さなかった。
無理に引き出す話じゃないと感じた。ゴンが話したい時に、話す。それでいい。
「トルマに行こうと思ってます」
「トルマ!?黄鉄商連の本拠地じゃないか」
「だからこそ」
ゴンが目を丸くした。それから、徐々に笑い始めた。口の端が上がって、八重歯が出て、少し呆れたような、でも楽しそうな顔になった。
「……お前、面白いな」
「よく言われます」
「言われないだろそれ」
隣でルナが手帳を開いた。ペンを持つ。今日の記録をつけるつもりらしい。
でも、ペンが止まった。
翔太がそれに気づいた。ルナの横顔が、いつもと少し違う。研究者として書き留めるべき事象——老婦人の「息子の手に似ている」という一言——を前に、ペンが動かない。整理しようとして、何かが邪魔をしている。感情として処理しきれていないものが、記録という形にならない。
ルナ自身は、それに気づいていないようだった。ただペンを持ったまま、手帳の白いページを見ていた。
翔太はそれを一瞬だけ見て、何も言わずにエールを一口飲んだ。
(ルナさん、今日の老婦人のこと、まだ中にある)
言葉にならない関心が、翔太の中にそっと積もった。それが何なのかは、まだわからなかった。
ミレーヌが追加のパンを持ってきた。「また騒がしいことしてたね」と言いながら、笑って去った。翔太がさっきの広場の騒動を話すと、ゴンが「俺は悪くない!」と言い張り、ルナが「ゴンさんが精気感応生物を無断で手渡した記録があります」と手帳を開きかけ、ゴンが「帳簿みたいなこと言わないで!」と叫んだ。
食堂に笑い声が広がった。
珊瑚海から来た風が、宿の古い窓を揺らした。蒼月——青白く輝く大きな月——が夜空に出ていた。赤月はまだ見えない。
翔太はパンを食べながら、明日のことを考えた。トルマ——大陸最大の港湾都市で、黄鉄商連の本部が置かれている場所——に向かう。帳簿を持つ組織の本拠地に、自分は一枚の看板とモフモフ一体で乗り込もうとしている。
(なんとかなるかな)
いや、なんとかなると思い込んで動いてきた結果が今日だ。でも今夜はもう少し、現実を直視していたかった。
モフモフが膝の上でゆっくりと振動した。
その温かさだけは、確かだった。