「モフモフ異世界ビジネス」
高校二年生の佐藤翔太は、ある放課後に謎の光に飲み込まれ、気がつけば見知らぬ草原の真ん中に一人で立っていた。魔法が日常に溶け込み、竜が空を飛び交うその世界〈ヴェルディア大陸〉では、現代日本の常識など欠片も通用しない。途方に暮れる翔太の前に最初に現れたのは、言葉を持たないくせに人の感情を的確に読み取り、抱きしめた相手の心を溶かしてしまう不思議な生物——モフモフだった。
モフモフは、人間との触れ合いを通じてのみ成長する生物で、かつては貴族の間で珍重されたが、百年前に起きた〈灰色戦争〉の混乱で生息域が激減し、今や絶滅寸前とされていた。翔太にモフモフの生態を教えてくれたのは、ヴェルディア大陸でも数少ないモフモフ研究者の少女ルナだ。落ち着いた声と丁寧な言葉遣いで膨大な知識を淡々と語る彼女は、翔太がとりあえずモフモフを育てて売ってみると言った瞬間、わずかに眉を動かして言った。……非常識ですね。でも、面白いかもしれません。
こうして翔太は、ルナの知識と自分のゼロベースの発想を掛け合わせ、ヴェルディア大陸初のモフモフ流通業を立ち上げることになる。看板を書こうとしたら字が読めず、値段をつけようとしたら
「モフモフ異世界ビジネス」 - 灰色の揺り篭——共鳴する三つの孤独
明け方の空が、まだ藍色に染まっていた。
カザルカ——ヴァナの帳の東端に位置する小さな砦町——を出たのは、夜明け前だ。宿の老主人がパンと干し肉を包んでくれた。「森の中じゃ火を焚いても虫は来ねえが、精気酔いには気をつけろ」と言い残して、扉を閉めた。
三人は街道を外れ、草の湿った匂いがする朝の野を歩いた。
前を行くゴンが、足元の小石を蹴った。石がころりと転がって草むらに消える。
「なんか、空気がもう違う気がするんだけど」
「まだ帳の外です」
ルナが腰の革袋から細長い器具を取り出した。精気計測器——大気中の精気濃度を数値化できる、カナリスの〈生命精気学院〉で支給された観測道具だ。目盛りの針がゆっくりと揺れている。
「現在の精気濃度は平地基準の一・三倍。帳の縁に差し掛かっています」
「一・三倍ってどんな感じ?」
「空気が少し重いと感じるはずです。精気術の使い手であれば、肌に微細な粒が当たるような感覚があります」
「あ、なんかわかるかも。耳の後ろがちりちりする」
翔太も試しに耳の後ろを触ってみたが、特に何も感じなかった。そのことを正直に言うと、ゴンが「え、感じない?」と妙に残念そうな顔をした。
そのとき、腕の中のモフモフが、かすかに体を揺らした。
ふわり、というより、ぴくりという感じだった。いつもの穏やかな振動とは少し違う。翔太はその感触を確かめるように、白い毛玉をそっと両手で包んだ。
(なんだ、これ)
「ルナさん、こいつ今ちょっと反応した気がするんですけど」
ルナが一歩寄ってきて、計測器の針を見ながらモフモフを観察した。水色の瞳が細くなる。
「記録します。精気濃度の上昇に対して、共鳴振動の基底が変化している——」
ルナの手が手帳に走った。翔太はその横顔を一瞬見て、また前を向いた。
巨木の列が、目の前に立ちはだかった。
ヴァナの帳——霧深い大森林帯——の入口は、想像より静かだった。轟音も光もない。ただ、巨大な木々が無言で立っていて、その間から薄い霧が白く漏れ出している。足元の草が、ここから先は生え方が違う。細くて青くて、光を受けてわずかに輝いていた。
「じゃ、入るか」
「なんとかなるっしょ」
「その言葉、いつか本当に何ともならない時が来ますよ」
「じゃあその時はルナが何とかしてくれ」
「……検討します」
ゴンが「検討って言った!検討って!」と声をあげ、翔太が「すごいじゃないか」と笑った。ルナが眉を微かに動かして前を向いた。
三人は、帳の中へ踏み込んだ。
◆
森の中は、別の時間が流れていた。
日の光が巨木の梢に遮られ、地面には斑模様の影が広がっている。匂いが変わった——土と腐葉土と、それ以上に、どこか金属に似た清涼な気配。精気の匂いというものがあるなら、こういうものだと翔太は思った。
「翔太、色、どう見える?」
ゴンが唐突に聞いた。
「え?」
「いや、俺なんかこう……葉っぱがめちゃくちゃ緑に見えるんだよな。目が慣れてないせいかな」
翔太は周りを見回した。確かに、葉の緑が鮮明に見える。影の輪郭がくっきりしている気がする。
「あ、俺も。なんか色が鮮やかに見える」
ルナが計測器を確認して、手帳にペンを走らせた。
「森酔いの初期症状は視野の歪み・眩暈・聴覚過敏です。色の鮮明化は……」
ルナがそこで少し黙った。視線が計測器の針から翔太の顔に移る。
「翔太さんの場合、精気感知能力の微弱な発現である可能性があります」
「え!?それってすごくないですか」
「可能性、です。断言はできません。現時点では仮説です」
「でも仮説でも嬉しいじゃないですか」
「はしゃぐのは確認が取れてからにしてください」
ゴンが「でもちょっとかっこいいよな」と耳打ちした。翔太が「だろ」と返した。ルナが「聞こえています」と前を向いたまま言った。
腕の中のモフモフが、また揺れた。今度は少し強く、方向を持つように——右斜め前、という感じで。翔太はそちらに視線をやった。太い根が地面を這い、その先に小さな開けた場所がある。
(道?)
「こっち側、なんか開けてる気がするんですけど」
ルナが確認して、軽く頷いた。
「獣道です。遺跡への古いルートと一致しています」
モフモフが、進路を示していた。
◆
二日目の夜が来た。
三人は巨木の根元に陣地を作った。ゴンが枯れ枝を集め、ルナが精気術——大気中の精気を操る技術——の火燐系で着火した。小さな炎が赤く揺れる。湿った森の空気の中で、火の温かさが輪郭を持つように感じられた。
見張りをゴンが買って出た。「三時間したら起こす」と言い残して、炎から少し離れた木の根に腰を下ろした。暗がりの中で、ゴンの琥珀色の瞳だけが時折光る。
翔太とルナが、焚き火を挟んで向かい合った。
沈黙だった。悪い沈黙ではなかった。翔太はモフモフを膝に乗せて、炎が揺れるのを眺めていた。ルナは手帳を開いていたが、ペンが動いていなかった。
どのくらい経ったか。
「……父と一緒に、焦土帯に行ったことがあります」
ルナが、炎を見たまま言った。声は穏やかだった。でも、どこか——ずっとしまい込んでいたものを、そっと取り出すような、慎重な質感があった。
翔太は何も言わなかった。ただ、聞いていた。
「焦土帯——百年前の灰色戦争で広域焦土術が使われた跡地——は、ミドラ平原の南縁から西に続く灰色の帯です。百年経っても草木がまばらで、精気が乱流している。子どもの私には、ただ怖い場所でした」
「何歳の時ですか」
「九歳です。父は研究者でした。生命精気学院に籍を置いていた」
ルナのペンが、手帳の端を無意識に押さえた。
「その帯の中で、父が何かを見つけました。瀕死のモフモフでした。毛色は白で——体が半分、土に埋まっていた。父がそれを掘り出して、胸に抱えた。私はそれまで、父の顔がああいう風に緩んでいるのを見たことがなかった」
炎が揺れた。
「モフモフはその夜に死にました。翌朝、父が私に言ったんです。——この子の毛は、戦争の前には大陸中にあったのに、今は二百体も残っていないかもしれない。なぜ失われたかを知ることが、私の仕事だ、と」
翔太は聞きながら、ルナの横顔を見ていた。炎の赤が、銀色の髪をわずかに染めている。その表情に、普段の落ち着きとは別の何かがあった。七年間、一人で抱えていたものを、初めて誰かに手渡す時の、静かな緊張。
「父は今も研究を続けていますか」
ルナが一瞬、間を置いた。
「五年前に亡くなりました。研究の途中で」
翔太は何も言えなかった。言葉を探したが、どれも軽すぎた。代わりに、ただそこにいた。
焚き火が小さく爆ぜた。
「だから〈灰色の揺り篭〉に行きたかった。父の問いへの、私なりの答えを見つけたかった」
それだけ言って、ルナはペンを閉じた。手帳をそっと膝に置く。
暗がりから、ゴンが音を立てずに戻ってきた。二人の空気を読んだのだろう。何も言わずに翔太の隣に腰を下ろして、枯れ枝を一本、炎に加えた。それだけだった。
その行動が、翔太にはなぜか温かく感じた。言葉より行動で示す、ゴンのやり方だと思った。
しばらく経ってから、翔太はモフモフをそっとルナの膝の近くに差し出した。ルナが少し驚いたように視線を下げて、それから白い毛玉に指先を伸ばした。触れた瞬間、共鳴振動が柔らかく始まった。
翔太はそのまま横を向いた。ルナの横顔が、炎の光の中にあった。七年間の孤独を初めて誰かに明け渡した人間の顔が、そこにあった。
胸の奥で、何かが静かにじわりと広がった。それが何なのか、翔太にはまだわからなかった。ただ、その温度だけは確かだった。
◆
〈灰色の揺り篭〉は、翌日の昼頃に見えてきた。
巨大な灰色の石門が、樹々の間に立っていた。高さは十メートルを超える。表面は苔に覆われ、古代の刻紋が薄く残っている。門の向こうは暗く、底が見えない。精気の気配が、ここまで来ると肌を圧するように濃かった。
「あれが〈灰色の揺り篭〉——伝説で、全モフモフの始祖が眠るとされる遺跡です」
ルナの計測器の針が、上限近くで揺れていた。
「入り方ですが」
ルナが三人の輪の中心に立って、手帳を開いた。
「一層には精気感知網が張られています。精気術の使い手が踏み込むと反応して罠が作動する。ただし——」
「精気術が使えない人間は素通りできる」
「……大雑把な要約ですが、統計的には合理的です」
「褒めてます?」
「正確さを犠牲にした要約として評価しています」
翔太はしばらく考えた。それが褒めなのか貶しなのか判定できなかった。
「だから翔太が先頭を歩けばいいんじゃないか。俺もルナも精気術が使えるから、先頭に立つと罠が反応する」
「精気術が使えないことが、逆に役立つわけか」
「多数決、どうです」
「多数決って——え、なんで俺が不利な方向に話が進んでるの」
「二対一です」
「ルナさんも?」
「統計的に合理的です」
翔太は空を見上げた。木々の隙間から空が覗いている。空は青かった。とても青かった。
「……わかった。行くよ」
◆
一層は、思ったより静かだった。
翔太が先頭を歩く。足元は古い石畳で、表面が滑らかに磨耗している。遥か昔に多くの人が踏んだ証拠だ。壁面には刻紋が続いていて、松明の代わりに精気が染み出た石が淡く光っている——精気灯、とルナが言った。
腕のモフモフが、振動の方向を変えた。左へ、そして少し下へ。翔太が立ち止まって確認すると、右側の床板に微かな段差があった。
「右、避けた方がいいと思う」
ルナがその場所を調べた。
「精気の圧縮装置が埋まっています。踏むと爆発的に精気が放出される仕組みです」
「よく分かったな、モフモフ」
ゴンが感心したように呟いた。翔太も白い毛玉を見た。モフモフは何も答えない——声を持つ生き物ではないから。ただ、振動が穏やかに続いている。
一層を抜けた。
二層は暗かった。精気灯の数が減り、壁面の刻紋が細かく密になっていた。石の色が少し変わっている——より古い層だ。翔太はモフモフの振動を頼りに進んだ。左、右、止まれ、進め。言葉はないが、翔太にはわかった。不思議なほどに。
その時だった。
通路の中央に、石造りの台座があった。直径一メートルほどの円形で、表面に複雑な刻紋が刻まれている。台座の上面が、かすかに輝いていた——冷たい青白い光で。
「止まって」
ルナの声に、全員が動きを止めた。
「古代の精気共鳴装置です。接近者の感情を増幅させる機構を持っています。強烈な感情を持つ者が触れると、その感情が閾値を超えて——」
言い終わらないうちに、ゴンの足が止まった。
翔太が振り返った。ゴンの顔色が変わっていた。琥珀色の瞳が、焦点を失って遠くを見ている。手が微かに震えていた。膝が折れかけて、近くの壁に体を預けた。
「ゴン」
「……あ、悪い。なんか急に」
声が、いつもと違った。陽気さが抜けていた。
(過去の何かが出てきてる)
翔太はすぐにゴンの隣に移動した。肩に手を置いた。言葉は選ばなかった。
「俺ここにいる」
それだけ言った。
ゴンがゆっくりと息を吸った。一度、二度。翔太の手の温度が伝わるように、少しずつ体の震えが収まっていった。
同時に、ルナが装置に向かって歩いていた。計測器で数値を読みながら、左手に複雑な形の手印を組む——精気術の手印だ。詠唱が始まった。短い、五語の定型文。
しかし途中で、ルナの動きが鈍った。
「……っ」
ルナの顔から血の気が引いた。精気枯渇症の始まりだ——精気の使いすぎで、体内の精気が底をつきかけている。激しい倦怠が一気に押し寄せる症状だ。手印が崩れかけた。
翔太は咄嗟に動いた。ゴンへの手を外して、腕のモフモフを持ち上げ——台座の近くに、高く差し出した。
モフモフが、変わった。
全身の毛が一斉に立ち上がり、細かく、激しく震えた。いつもの共鳴振動とは次元が違う。周波数が違う。台座の青白い光が揺れ始め——フッと、弱くなった。冷たい輝きが半分以下に落ちた。
感情の増幅が、著しく和らいだ。
ルナが構えを立て直した。手印を組み直し、詠唱を完成させた。台座の刻紋が一度閃いて、消えた。
静寂が来た。
「……理論上、あり得ない」
ルナが壁に手をついて息を整えながら、独り言のように呟いた。手帳を出して何かを書こうとしたが、手が震えていた。それでも、ペンは動いた。
ゴンが壁から体を起こした。いつもの顔に戻っていたが、目の奥だけは違った。何かを見てきた人間の目だった。ゆっくりと笑った。八重歯が少し見えた。
「……あのさ」
静かな声で言った。
「お前ら二人といると、なんか——大丈夫な気がするんだよな」
それだけだった。それ以上の言葉はなかった。でも、翔太にはその一言の重さがわかった。昨夜の酒場で見せた、ゴンの目の奥の影——過去の護衛失敗の記憶が、今この場でようやく少し、前を向いた。
三人は息を整えてから、三層への入口に向かった。
◆
三層の扉は、石造りの巨大な一枚板だった。
高さ五メートル。幅三メートル。表面に刻まれた紋様が、翔太の知る文字とも刻紋とも違う——もっと古い何かだ。ルナの記録帳によれば、この扉より奥に到達した記録は過去五十年で三件しかない。
扉の前に立った瞬間、翔太はモフモフの変化を感じた。
全身が震えていた。激しく、でも——方向性を持って。右斜め上、扉の中心点。まるで「そこ」を指し示すように。いつもの共鳴振動とは別物だった。もっと強く、もっと深いところから出ている感じがした。
ルナの計測器の針が、ぱきりという音とともに上限の金具に当たった。
「……上限を超えました」
ルナが計測器を下ろして、翔太のモフモフを見た。水色の瞳が、静かに光を帯びた。
「翔太さん。あなたが第一話で——ミドラ平原で拾ったそのモフモフが、ここへの鍵かもしれない」
翔太は腕の中の白い毛玉を見た。最初に出会った時、草むらに転がっていた小さな球。言語も持たない、目も口もない、ただふわふわした生き物。その子が今、激しく、方向を持つ振動を続けている。
「お前のモフモフが、俺たちをここまで連れてきたんだよ」
ゴンが静かに言った。翔太はその言葉を聞いて、それが正しいと思った。仕入れ先を探してルナと出会い、ゴンが加わり、封鎖を受けて、遺跡へ向かうことを決めた。その全ての流れのどこかに、この白い毛玉がいた。
翔太はモフモフに問いかけた。声に出して。
「なあ。中に何がある?」
返答はなかった。言葉を持たない生き物だから、当たり前だ。ただ、振動は続いていた。強く、確かに、同じ方向を向いて。
三人が、扉に手をかけた。翔太が中央、ゴンが左、ルナが右。重い石の感触が掌に伝わる。
押す。
石が動き始めた。低い音が遺跡の奥まで響いていく。
扉の隙間から、光が漏れた。
白金の光だった。蒼月の色でも赤月の色でも、炎の色でも精気灯の青白さでもない——もっと深く、もっと古い、何か別の輝き。その光が三人の顔に当たった。
翔太の頬に、扉の向こうからの風が届いた。温かく、乾いていて、懐かしいとしか言いようのない匂いがした。
腕の中のモフモフが、この旅で一番穏やかに振動した。
まるで——ただいまと言うように。