「モフモフ異世界ビジネス」
高校二年生の佐藤翔太は、ある放課後に謎の光に飲み込まれ、気がつけば見知らぬ草原の真ん中に一人で立っていた。魔法が日常に溶け込み、竜が空を飛び交うその世界〈ヴェルディア大陸〉では、現代日本の常識など欠片も通用しない。途方に暮れる翔太の前に最初に現れたのは、言葉を持たないくせに人の感情を的確に読み取り、抱きしめた相手の心を溶かしてしまう不思議な生物——モフモフだった。
モフモフは、人間との触れ合いを通じてのみ成長する生物で、かつては貴族の間で珍重されたが、百年前に起きた〈灰色戦争〉の混乱で生息域が激減し、今や絶滅寸前とされていた。翔太にモフモフの生態を教えてくれたのは、ヴェルディア大陸でも数少ないモフモフ研究者の少女ルナだ。落ち着いた声と丁寧な言葉遣いで膨大な知識を淡々と語る彼女は、翔太がとりあえずモフモフを育てて売ってみると言った瞬間、わずかに眉を動かして言った。……非常識ですね。でも、面白いかもしれません。
こうして翔太は、ルナの知識と自分のゼロベースの発想を掛け合わせ、ヴェルディア大陸初のモフモフ流通業を立ち上げることになる。看板を書こうとしたら字が読めず、値段をつけようとしたら
「モフモフ異世界ビジネス」 - 共生の理——緑の器に根を張る
白金の光が、三人の顔を照らしていた。
翔太は扉の隙間から漏れた輝きに目を細めながら、石の板を押し続けた。右にゴン、左にルナ。三人分の力が合わさって、重い石扉がゆっくりと動いていく。低い軋みが三層の回廊に響き、その先から温かく乾いた風が流れ込んできた。
懐かしい、という感覚だった。
嗅いだことがあるはずのない匂いなのに——草と土と、精気とも違う何か——翔太の胸の奥がじんわりと緩んでいくのを止められなかった。
扉が完全に開いた。
◆
広間は、想像より広かった。
天井が高い。どれほどの高さかもわからない。石の壁面には灰色の戦争以前の文様が刻まれ、白金の光がそれを柔らかく照らしている。光源は見えない。ただ空間そのものが発光しているような感覚で、影が生まれない不思議な明るさだった。
そして、中央に。
宙に浮かぶ球体があった。
体長は翔太の腕の中のモフモフより三回りほど大きい。全身を覆う毛は白ではなく白金——本物の金属光沢を持った繊維毛がゆっくりと揺れている。目も口もない。音もない。ただ、そこに在る。
翔太の腕の中で、モフモフが震えた。
ぶるりと一度、強く。それから激しく、それから——段々と、穏やかに。まるで久しぶりに会った家族に体を落ち着かせていくみたいな震え方だった。
「……原初モフモフ」
ルナが、かすれた声で言った。手帳を開いていたが、ペンが動かない。水色の瞳が白金の球体を捉えて、離れない。七年間、記録の断片の中でだけ存在していたものが、今ここに在る——その事実に、いつも冷静なルナの表情から一瞬だけ、何かが剥がれた。
翔太は何も言えなかった。
言葉より先に、何かが来た。
波のようなものだった。音ではない。光でもない。ただ、体の芯に直接届く何か。翔太は胸の中心が急に温かくなるのを感じて、同時に思い出した——第一話の草原。見知らぬ世界に一人で立って、どうすればいいかもわからなくて、ただ怖かった夜。あの時、膝の上の白い毛玉が震えた。その振動が、孤独と恐怖をじわじわと溶かしていった。あの感覚と、今の感覚が、まったく同じだった。
所有ではない。
言語を持たないそれが、言語を使わずに伝えてくる。感情の交流によってのみ、モフモフは存在を維持できる。それが「共生の理」——制度でも規則でも定義でもなく、根源的な事実として、三人の体の芯に直接送り込まれてきた。
ルナのペンが、ようやく動き始めた。震えながら、止まりながら、それでも動いた。
ゴンは一歩も動かなかった。声も出さなかった。ただ広間の入口に立って、腕を組んで、二人と白金の球体を静かに見守っていた。
白金の光が、少しずつ落ち着いていく。
呼吸ができるようになった頃、翔太はようやく口を開いた。
「……七百年分くらい来た気がする」
「……どのくらいですか」
「なんか……すごく長い感じ」
「具体的に」
「え? えーと、なんつうか……みんな、一緒にいたほうがいい」
二秒の沈黙。
「……それが七百年分の精気記録の要約ですか」
「大事なとこだけ取り出した」
「研究者として、かなり気力が削られる発言です」
ゴンが噴き出した。こらえようとして、こらえきれなくて、肩を震わせながら笑った。白金の広間に、その笑い声だけが響く。
翔太も笑った。ルナも、ペンを持ったまま、眉を微かに動かして、口の端を小さく上げた。
重かった空気が、その笑いと一緒にほぐれていく。遺跡の奥深くで、三人はしばらくそうして笑っていた。
◆
〈ヴァナの帳〉を抜けるのに、丸一日かかった。
帰路は来た道より心なしか短く感じた。霧は相変わらず濃く、精気計測器の針は帳を出るまでずっと高い位置を指していたが、三人の足取りは行きより軽かった。
カザルカの砦町で一泊して、翌朝からトルマへ向かう街道を歩いた。
昼前の日差しが平原に降り注いで、草の上で小さな虫が飛んでいる。ノルグ川の支流が道の傍らを流れ、水音が穏やかに響いていた。翔太は腕の中のモフモフを確認した。白い毛玉は穏やかに揺れている。普段通りの、優しい振動。
「人とモフモフの共生を仲介する業、って言い方が一番近いと思うんだよな」
歩きながら、翔太が口にした。前々から頭の中にあった言葉を、ようやく正確に形にできた気がする。
「精気共鳴の仲介、ですね」
ルナが並んで歩きながら、翔太の言葉を受け取って組み替えた。手帳は今もバッグの中にあるのに、頭の中で整理している様子がある。
「商品を売るんじゃない。感情の交流を成立させる場を作る——それが法的カテゴリとして新しい。精気感応生物取引の法的空白を『商品売買』の枠で埋めようとするから黄鉄商連に『無認可商行為』と言われる。でも『精気共鳴の仲介』なら既存の商業法の外側に立てます」
「……最初から俺が言ってたことと同じじゃないですか」
「構造は同じです。根拠の深度が違う」
「それが大事なんですか」
ルナが少し間を置いた。水色の瞳が前を向いたまま、何かを考えている。
「……あなたには最初から根拠があったのかもしれません。言語化できていなかっただけで」
翔太は返す言葉を一瞬探して、結局何も言わなかった。その代わりに、腕の中のモフモフを軽く撫でた。ルナの言葉の意味が、じわじわと胸の中で広がっていく感じがした。
「あのさ」
後ろからゴンが口を挟んだ。手を振りながら歩いてくる、いつものゴンの歩き方。
「難しい話はいいんだけど、俺、黄鉄商連に借りとか貸しとかあるんだっけ」
「返すんじゃなくて、新しく作る話だ」
翔太が即座に返した。ゴンが少し黙った。その顔から、いつもの軽い笑いの仮面が、ほんの少しだけ外れた。目の奥の何かが、前を向いた。
「……そっか」
短い一言。それだけだった。でも翔太には、その言葉の重さがわかった。
夜営は小さな川の傍らで張った。ゴンが火を起こして、ルナが乾燥食料を湯で戻した。三人で鍋を囲んで、大した会話もなく食べた。
火が落ち着いてきた頃、翔太はルナの隣に腰を下ろした。特に意味はなかった。ただ、そこが自然な場所だった。
腕のモフモフを差し出すと、ルナが少し驚いた顔をしてから、それを膝の上に受け取った。白い毛玉が、二人の間で穏やかに揺れる。
翔太は何か言いかけた。
でも、言葉がうまく出てこなかった。何を言いたいのかが、自分でもはっきりしなかった。ルナも記録帳を静かに閉じて、火を見ていた。振動が、二人の間の空気をそっと包んでいる。その沈黙は、うるさくなかった。
対岸でゴンが何かを小声で歌っていた。音程はかなりずれていたが、不思議と邪魔にならなかった。
◆
トルマに着いたのは翌日の昼過ぎだった。
珊瑚海からの風が港町の石畳を渡り、中央市場「セドラの環」の喧騒が遠くから届いてくる。魚の塩漬けの匂いと、焼き菓子の匂いが混ざり合った、いつものトルマの匂いだ。翔太はその匂いを嗅いで、少し安心した。
「行くか」
「行くか、じゃないよ。鉄冠館だぞ」
「分かってる」
鉄冠館——黄鉄商連の本部として港湾都市トルマの一角に立つ、五階建ての石造建築——の正面玄関は、想像より静かだった。常駐職員が出入りしているが、混乱した様子はない。ただ、建物が持つ重さがある。百年間、大陸の流通を握り続けた組織の、積み重ねの重さ。
翔太は三人で玄関をくぐった。
受付の職員に名前を告げると、少し待たされてから、四階の会議室に案内された。
◆
扉を開けた先に、五人がいた。
上座に座る銀髪の大柄な男——組合長ヴィクト・ハルゲン——は、翔太が想像していたより老けて見えた。五十八歳と記録では知っていたが、目の奥に疲労の色がある。ただ、油断はできない目の鋭さだった。
その両脇に二人ずつ。片方は三十代から四十代の若い商家の代表が二人、もう片方は六十代と思しき重鎮が二人。ルナから事前に聞いていた通り——改革派と保守派、それぞれの代表だ。
翔太、ルナ、ゴンが並んで席についた。
「佐藤翔太とおっしゃる方ですね」
ハルゲンが静かに口を開いた。声は低く、落ち着いている。値踏みしている、という感じではなかった。ただ、この場に慣れている人間の静けさだった。
「はい」
「精気感応生物の流通業を新設したいと聞いています。法的空白を突く形で、と」
「突くというより、埋める提案です」
翔太は言葉を選んだ。ルナと帰路で整理した論理が、頭の中に組み上がっている。
「精気感応生物——モフモフを含む——は、現在の商業法では売買対象として明確に規定されていません。それは百年前、貴族が私的に飼育するだけで、流通する必要がなかったからです。でも今、状況が変わっています」
保守派の重鎮の一人が、かすかに眉を寄せた。翔太は続けた。
「私が提案するのは、商品売買ではありません。精気共鳴の仲介です。モフモフが人間の感情に共鳴する——その現象を安全に、合法的に、誰もが体験できる場を作ること。それは既存の商業法の『物品売買』カテゴリの外側にある、新しい業態です」
会議室が静かになった。
翔太は続けようとして——言葉が詰まった。論理はある。根拠もある。でも、この場の重さが、ここで初めて足に来た。五人の視線が、一点に集まっている。
その時、腕のモフモフが振動を強めた。
いつもの、穏やかな共鳴振動。ただそれだけ。でも翔太の胸の中で、何かがすっと落ち着いた。
「……お前のモフモフが一番堂々としてる」
ゴンが耳元に顔を寄せて、ぼそりと囁いた。
翔太は思わず吹き出した。こらえようとしたが、口の端から笑いが漏れた。声を出さないようにしたが、肩が揺れた。
会議室の空気が、一瞬だけ変わった。
改革派の若手商家の一人——三十代半ばの、まだ顔に緊張の残る男——の表情から、ほんのわずかに警戒が緩んだ。翔太の笑いを見て、何かを測り直したような顔だった。
「失礼しました」
翔太は一度息を整えた。それから、ルナに目配せした。
ルナが手帳を開いた。いつもの落ち着いた手つきで、でもその目の奥には研究者としての確かな意志がある。
「〈灰色の揺り篭〉——ヴァナの帳の最深部にある遺跡——の三層で採取した、原初モフモフの精気共鳴データです」
ルナが紙を広げた。手書きの記録が、びっしりと並んでいる。
「このデータは、約七百年前の精気共鳴記録と一致します。つまり、モフモフと人間の共生関係は、灰色戦争以前から大陸に存在していた。所有や支配ではなく、感情の交流として」
改革派の若手商家が、身を乗り出した。もう一人も、記録用紙に視線を落とした。
保守派の重鎮の一人が口を開いた。
「しかし原初モフモフへの接触記録がないとすれば、これは——」
「あります」
ルナが静かに遮った。穏やかな声だが、芯がある。
「私が直接採取しました。三日前」
重鎮が黙った。もう一人の重鎮が、ハルゲンに視線を向けた。ハルゲンは動じた様子もなく、記録紙を受け取って目を通している。
改革派の若手商家が、ゴンの方を見た。
「……あんた、もしかして」
「ゴン。銅級冒険者です。元ですけど」
「……ポルスの息子か?」
ゴンが少し驚いた顔をした。
「知ってるんですか」
「昔、一度だけ取引した。父親から聞いていた。息子が冒険者になったって」
その商家の男が、ハルゲンの方を向いた。
「組合長。この案件、私が内側から検討してみます」
保守派重鎮が顔色を変えたが、ハルゲンが片手を軽く上げた。
◆
会議は三時間かかった。
何度も押し返され、何度もルナが記録を出して、翔太が言葉を尽くした。保守派の反発は最後まで完全には消えなかったが、改革派の若手商家——と、ゴンとの個人的な繋がりを持つその男——が内側から橋渡しを続けた。
ハルゲンが最終的に口を開いたのは、日が西に傾いた頃だった。
「精気共鳴仲介業。試験的な認可を出しましょう」
翔太は羊皮紙を渡された。
ヴェルディア文字で、業態の名称と認可の条件が書かれている。翔太にはまだ読めない文字もある。でも、自分の名前のところに——ルナが横でそっと教えてくれた——翔太はペンを持った。
書き込んだ瞬間、高揚より先に、深い息が出た。
腕のモフモフが、ゆっくりと、今まで感じた中で一番穏やかな振動を返してきた。揺れ方が柔らかい。包まれるみたいな温かさ。
(ここまで来た)
それだけだった。大袈裟な感動じゃない。ただ、草原で一人だったあの夜から、制度の中に名前が刻まれるまでの道のりが、静かに確定した感覚。
◆
宿「潮風のゆりかご」に戻ると、女将のミレーヌが玄関で待ち構えていた。
「あんたたち、また無茶なことして戻ってきたんだろ!」
元冒険者の肝っ玉おばちゃんは、三人の顔を見るなり、そう言いながら食堂の奥に引っ込んでいった。珊瑚海の魚を大きな皿に盛って、塩とハーブで仕上げた料理が三皿、どんと机に置かれた。
「食え。話は後」
三人で机を囲んだ。
ゴンが真っ先に箸を伸ばした。魚を口に入れて、目を丸くした。
「うめえ!」
「うるさい。食え」
「いやでも本当に——俺、天才的な舌持ってるんで分かるんですよ、これ——」
「天才的な舌ねえ」
「はい、俺、絶対役に立つんですよ色々と、これからも——」
「ゴン、自称天才の成功確率を計算したことありますか」
ルナが静かに口を挟んだ。ゴンが「え?」と顔を向ける。
「過去の観察から推定すると、あなたの場合、約三回に一回です」
「……それって、天才の範囲には入りますか」
「入りません」
「辛い」
翔太は二人の間で苦笑いしながら、魚を食べた。塩が効いていて、身がほろりとほぐれる。ミレーヌが追加でパンを持ってきた。外はもう暗くなっていて、港の波音が遠く聞こえる。
食事が終わって、ゴンが「先に寝る」と二階に上がった。ミレーヌも厨房に引き上げた。
翔太が蝋燭の前でぼんやりしていると、廊下から足音がした。
「翔太さん」
ルナが廊下の角から顔を出した。手帳を抱えている。いつもの落ち着いた顔だったが、どこかが少し違った。翔太はうまく言えないが、長い間抱えていたものを持ったまま、ここまで歩いてきた人の顔、みたいな気がした。
「少し、話せますか」
廊下に出た。窓の外に赤月が見える。
「遺跡のデータの中に、もう一つ、気になる記述がありました」
「なんですか」
「灰色戦争の発端について——一般的には、精気鉱脈の採掘権紛争だとされています。でも原初モフモフの精気記録の断片には、別の文脈がある」
翔太は黙って聞いた。
「モフモフの生息域が焼かれたのは、戦争の結果ではなく——原初モフモフの力を巡る争いが、戦争の原因の一端だった可能性があります」
廊下に沈黙が落ちた。蝋燭の光が揺れている。
「それを、調べたいんです。でも一人では——七年間、一人でやってきましたが」
ルナが、翔太の顔を真っ直ぐ見た。水色の瞳が、静かに光を持っている。
「あなたと一緒に調べたい」
翔太は一拍置いた。
「……俺でいいんですか」
ルナが、視線を外さないまま答えた。
「あなたがいいんです」
研究パートナーとしての言葉だ。翔太にも分かっている。でも、その言葉の端に、言語化されていない何かが滲んでいるような気がして——翔太は少し、顔が熱くなった。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。
「分かった。一緒にやろう」
それだけを返した。ルナが小さく頷いて、廊下を戻っていった。
翔太は部屋に戻って、寝台に横になった。腕の中のモフモフを胸の上に乗せると、白い毛玉がゆっくりと揺れる。
眠りの縁に差し掛かった頃、翔太は思い出した。
六層——いや、三層に入る手前で感じた何かを。遺跡の奥の暗がりから、こちらを見ている感覚。原初モフモフが発する白金の光とは方向の違う、何者かの視線。あの時は気のせいだと思っていた。でも今、もう一度思い出すと、そう単純でもない気がする。
腕の中のモフモフが、夜の静寂の中で一度だけ、強く揺れた。
方向を持つ振動だった。遺跡の方角ではない。もっと遠く、ヴァナの帳の向こう——いや、その先の、翔太にはまだ見えていない何かを指すように。
翔太はその振動を確かめながら、目を閉じた。