セーラームーン外伝 月影のカノン
十番町の空に亀裂が走った日、月野うさぎの日常は音を立てて崩れ始めた。商店街に落下してきた記憶喪失の少女・ユイ。彼女が握りしめていたのは、セーラームーンの変身ブローチと瓜二つでありながら、月の「影」を宿す漆黒のブローチだった。ルナが警戒を露わにする中、街では「影」だけを奪われる怪事件が発生。夜ごとユイの脳裏をよぎる、燃え落ちる月の都と黒い影の戦士の記憶——。これは、光の戦士たちの知られざる外伝。月影が導くもう一人の少女の、戦いと覚醒の物語。
セーラームーン外伝 月影のカノン - 影の穴から落ちてきた少女
空に、ひびが入った。
十番町商店街の真ん中で、買い物袋を両手に提げた月野うさぎは、ふと足を止めた。夕暮れの空が、まるでガラスに罅が入るみたいに、ピシリ、と音を立てた気がした。
次の瞬間、目の前の空間が割れた。
「え……?」
黒い亀裂が、空中に走る。人一人が通れるくらいの、ぽっかりと開いた穴。そこから、どす黒い霧が溢れ出してきた。
そして。
少女が、逆さまに落ちてきた。
長い黒髪が、重力に逆らって空へ広がる。白いブラウスに紺のリボン、チェックのスカート。細くて華奢な体が、まるで人形みたいに、ゆっくりと、でも確実に、地面へ向かって落ちてくる。
うさぎは、考えるより先に走り出していた。
買い物袋を放り出す。夕飯の材料が道に散らばる。そんなの、どうでもよかった。
「っ……!」
両腕を伸ばして、少女の体を受け止める。細い肩が、うさぎの腕の中にすっぽりと収まった。ずしり、と重い。でも、温かい。ちゃんと生きてる。
少女は、ぐったりと目を閉じていた。肩までの黒髪が、毛先だけ少し跳ねている。長いまつげが、白い頬に影を落としていた。右の手のひらには、小さな三日月の形をした痣がある。
そして、もう片方の手には。
「これ……何?」
うさぎは、息を呑んだ。
少女が握りしめているのは、ブローチだった。月の形をした、美しい意匠。銀色の土台に、深い青の石が嵌め込まれている。それは、うさぎが毎日のように使っている、自分の変身ブローチと、あまりにもよく似ていた。
でも、違う。
うさぎのブローチは、月の光を表すように明るく輝く。でも、このブローチは、月の影を写したように、静かに、暗く、深く光っていた。
胸の奥が、ドクンと鳴った。
「……なにこれ、なんで、あたしのと……」
言葉にならない。ただ、嫌な予感だけが、じわじわと背中を這い上がってくる。
周囲に、人だかりができ始めていた。
「大丈夫ですか?」「救急車呼んだ方がいいんじゃない?」「今の、何だったの……空に穴が……」
ざわざわと、人々の声がうさぎの耳に入ってくる。でも、うさぎは少女から目を離せなかった。
「ねえ、しっかりして。ねえ!」
うさぎは少女の頬に手を当てて、何度も呼びかけた。返事はない。でも、呼吸はしている。規則正しく、胸が上下している。
「うさぎちゃん!」
人垣を縫って、一匹の黒猫が駆け寄ってきた。額に三日月の模様を持つ、雌の黒猫。ルナだ。
ルナは、うさぎの腕の中の少女を見て、ピタリと動きを止めた。
その青い瞳が、少女の手に握られたブローチに釘付けになる。
「……ルナ?」
ルナは答えない。ただ、尻尾が逆立つのを、うさぎは見た。
「ルナ、どうしたの?この子、空から落ちてきたの。それで、これ、あたしのブローチとすごく似てて……」
「……うさぎちゃん」
ルナの声は、周囲の人間には「ニャー」としか聞こえない。でも、うさぎにはちゃんと聞こえた。その声が、震えているのが分かった。
「この子、只者じゃないわよ」
低く、抑えた声。ルナがこんなに警戒しているのを、うさぎは久しぶりに見た。
「それ、セーラームーンのブローチと瓜二つだわ。でも、意匠が違う。月影……?まさか……」
ルナは、それ以上何も言わなかった。ただ、少女をじっと見つめて、何かを考え込んでいる。
「ルナ、この子、どうするの?病院に連れて行った方が……」
「……ダメよ。普通の病院じゃ、この子のことは診られないわ」
「え?どういうこと?」
「とにかく、一旦うちに連れて帰りましょう。話はそれからよ」
ルナの声は、有無を言わせない強さがあった。うさぎは黙って頷いて、少女を背負い直した。
空の亀裂は、いつの間にか消えていた。あとには、何事もなかったかのような、夕暮れの商店街だけが残っている。
でも、うさぎの心の中には、消えない違和感が残っていた。
この子は、一体何者なんだろう。
そして、このブローチは。
少女の手の中のブローチが、夕日を浴びて、一瞬だけ不気味に光ったように見えた。
十番町。人口約三万人の、東京の片隅にある小さな街。うさぎが生まれ育った、この街。商店街にはゲームセンター「クラウン」や喫茶店「アレー」、精肉店「大久保」が並んでいて、夕方になると買い物客で賑わう。高台には火川神社があって、親友のレイが巫女をしている。
そんな、どこにでもある普通の街に、今、空から少女が降ってきた。
うさぎは、背中の少女の重みを感じながら、家への道を急いだ。
月野家のリビング。
「あらあら、まあまあ」
うさぎの母・育子は、ソファに横たわる少女を見て、目を丸くした。
「買い物に行ったら、空から女の子が落ちてきてさ。それで、その、記憶がないみたいで……」
うさぎは、しどろもどろになりながら説明した。
「空から?」
父・謙之も、眉をひそめる。
「うん。なんか、空に穴が開いて、そこから落ちてきたの」
「穴……?」
両親は顔を見合わせた。当然だ。信じられる話じゃない。
でも、目の前に少女が倒れているのは事実で、その少女が、この辺りでは見かけない制服を着ているのも事実だった。
「それで、この子、名前は?」
「まだ分かんない。意識が戻ってないから」
「そう……」
育子は、少女の前髪をそっと撫でた。
「まあ、かわいらしい子ね。こんなに細くて、何日も食べてないんじゃないかしら」
「ねえ、お母さん。この子、しばらくうちに置いてあげてもいい?」
「え?」
「だって、記憶がないんだよ?自分の名前も、家も分かんないんだよ?こんな子を放り出すなんて、できないよ」
うさぎの目は、真剣だった。
育子は、少し考えてから、ふっと笑った。
「そうね。行く場所がないなら、仕方ないわね。うちで預かりましょう」
「ほんと!?ありがとう、お母さん!」
「ただし、ちゃんと学校には行くのよ?あんた、最近遅刻多いんだから」
「うっ……それは……」
うさぎが言葉に詰まっていると、ソファの上の少女が、小さく身じろぎした。
「……ん……」
「あ、起きた!」
少女の深い茶色の瞳が、ゆっくりと開く。その瞳は、最初はぼんやりと天井を見ていた。でも、すぐに焦点が合って、うさぎの顔を映した。
「……ここは……」
声は、かすれていた。
「大丈夫?あたし、月野うさぎ。ここはあたしの家。あんた、空から落ちてきたの、覚えてる?」
少女は、ゆっくりと首を傾げた。
「空から……?」
「うん。十番町の商店街で、空に穴が開いて、あんたが落ちてきたの」
少女は、しばらく黙っていた。何かを思い出そうとしているみたいに、眉を寄せて、虚空を見つめている。
「……ごめんなさい。覚えてない」
「そっか。じゃあ、自分の名前は分かる?」
「名前……」
少女は、自分の両手を見た。右の手のひらにある、三日月の形の痣。そして、左手に握りしめたままのブローチ。
「……ユイ」
「ユイ?」
「私の名前。ユイ。それしか、思い出せない」
ユイと名乗った少女は、申し訳なさそうに、うつむいた。
「他のことは、何も。自分が誰で、どこから来たのか、なんであの場所にいたのか……全部、真っ白なの」
「そっか……」
うさぎは、ユイの隣に座った。
「でも、名前が分かっただけでも良かったじゃん。ユイって言うんだ。よろしくね、ユイ」
うさぎが笑いかけると、ユイは少しだけ目を見開いた。
「……あんた、すごく明るいのね」
「え?そう?」
「うん。私、今すごく怖いはずなのに、あんたの顔見てたら、ちょっとだけ、落ち着いた」
ユイは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。それが、この日初めて見せた、ユイの笑顔だった。
「あんた、うちの家族みたいなもんでしょ。だから、遠慮しなくていいよ。困ったことがあったら、何でも言って」
「……ありがとう」
ユイの声は、まだ小さくて、頼りなかった。でも、その瞳には、ほんの少しだけ、光が戻ってきていた。
部屋の隅では、ルナがじっとユイを観察していた。
(あのブローチ……やっぱり、セーラームーンのブローチと瓜二つだわ。でも、あの子は、自分のことを何も覚えていない。これは、いったい……)
ルナは、ユイが左手に握りしめているブローチを、何とかして調べようと近づいた。
「ユイちゃん、ちょっとそのブローチ、見せてもらってもいいかしら?」
でも、ユイは首を横に振った。
「……ダメ。これだけは、離しちゃダメな気がする」
「え?」
「分からないの。でも、これを手放したら、私が私じゃなくなるような、そんな気がするの」
ユイは、ブローチを胸の前に抱え込むようにして、ぎゅっと握りしめた。
(やっぱり、あのブローチに何かあるのね……)
ルナは、内心で舌打ちした。
(あの子が無意識にブローチを守ろうとしている。ということは、あのブローチは、あの子の存在と深く結びついている。月影のブローチ……聞いたことがあるような、ないような……)
ルナは、それ以上追及するのをやめた。今は、ユイを刺激しない方がいい。
夜。
月野家のリビングのテレビから、ニュースの音声が流れていた。
『次のニュースです。今夜、十番町で、帰宅途中の会社員男性が、意識不明の状態で発見されました。男性は、体に外傷はないものの、呼びかけに一切応答せず、病院に搬送されました。医師によると、男性の「影」だけが、消失しているという報告が……』
「え?」
うさぎは、箸を止めてテレビに釘付けになった。
『影が消えるという、医学的には説明のできない現象が起きています。警察は、事件と事故の両面で捜査を進めていますが、原因はまだ分かっていません。近隣の住民の方は、夜間の一人歩きを控えるなど、十分に注意してください』
画面には、十番町の見慣れた風景が映っていた。うさぎたちが、毎日のように歩いている、あの商店街の近くの路地。
「なにこれ……影だけって、どういうこと?」
うさぎの声が、震えた。
「まあ、物騒ねえ。最近、物騒な事件が多いから、あんたも気をつけなさいよ」
育子が、食器を片付けながら言った。
「うん……」
うさぎは、生返事をしながら、テレビの中の映像を見つめていた。
影が消える。そんなこと、普通はありえない。でも、今日、空に穴が開いて、ユイが落ちてきた。
(もしかして、関係あるの?)
うさぎの胸に、嫌な予感が広がる。
ルナは、テレビの前で、じっと画面を見つめていた。
「……これは、ただ事じゃないわ」
「ルナ?」
「現場の映像から、かすかに影の気配を感じる。これは、普通の事件じゃないわ。何かが、十番町で起き始めてる」
ルナの声は、いつもよりずっと低くて、真剣だった。
「影の気配って……」
「分からない。でも、嫌な感じがするわ。今日の空の穴といい、この事件といい、何かがおかしい。うさぎちゃん、しばらくは一人で夜に出歩いちゃダメよ」
「う、うん……」
うさぎは、こくりと頷いた。
その夜。
うさぎの部屋の隣の客間で、ユイは一人、布団の中で目を開けていた。
眠れない。
知らない家。知らない天井。知らない匂い。何もかもが、自分と関係のないものみたいに感じる。
(私は、誰?)
ユイは、右手のひらの三日月の痣を見つめた。
(この痣は、いつからあるの?ユイという名前以外、何も思い出せない。家族も、友達も、住んでいた場所も。全部、真っ白)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(怖い。すごく、怖い)
ユイは、枕元に置いた月影のブローチを手に取った。
銀色の月の形。深い青の石。握ると、ひんやりと冷たい。でも、不思議と、安心する。
(これだけが、私のもの。これだけが、私と繋がってる)
ユイは、ブローチを両手で包み込むようにして、ぎゅっと握りしめた。
その瞬間。
ブローチが、淡く光った。
「え……?」
温かい。
ブローチから、じんわりと温かい力が、手のひらを通して体の奥へ流れ込んでくる。まるで、凍えた夜に、温かいスープを飲んだ時みたいに、体の芯から温かくなっていく。
「何、これ……」
ユイは、ブローチを見つめた。光は、もう消えていた。でも、温かさは残っている。
(このブローチは、私を守ってくれる。そうだ、そう感じる)
ユイは、ブローチを胸に押し当てた。
(大丈夫。これがあれば、きっと大丈夫)
そう思うと、少しだけ、心が軽くなった。
ユイは、窓の外を見た。
カーテンの隙間から、月が見える。
真ん丸な、明るい月。
その月を見上げた瞬間。
ユイの脳裏に、何かが、走った。
——崩れ落ちる、白い宮殿。
——燃え上がる、月の都。
——そして、月の光を背にして立つ、黒い影の戦士。
「……っ!」
頭が、割れるように痛い。
映像が、次々と流れ込んでくる。知らない場所。知らない人々。でも、どこか懐かしい、遠い記憶。
(なに、これ。なんなの、これ)
黒い影の戦士が、こちらを振り返る。
その顔は、見えない。でも、その瞳だけが、はっきりと見えた。
深い、深い、闇のような瞳。
「いや……!」
ユイは、頭を抱えて、布団の上にうずくまった。
「わたし、なんなの……?あの映像は、なに……?」
体が震える。歯が、カチカチと鳴る。
(あの黒い戦士は、誰?なんで、私の頭の中に、あんな映像が……)
ユイは、震える手で、月影のブローチを胸に押し当てた。
ブローチは、変わらず、ひんやりと冷たかった。
でも、さっきまでの温かさは、もう感じられなかった。
(お願い。教えて。私は、誰なの?)
答えは、返ってこない。
ただ、窓の外の月だけが、静かにユイを見下ろしていた。
十番町の夜は、深く、静かに、更けていく。
この夜から、すべてが始まった。
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