セーラームーン外伝 月影のカノン
十番町の空に亀裂が走った日、月野うさぎの日常は音を立てて崩れ始めた。商店街に落下してきた記憶喪失の少女・ユイ。彼女が握りしめていたのは、セーラームーンの変身ブローチと瓜二つでありながら、月の「影」を宿す漆黒のブローチだった。ルナが警戒を露わにする中、街では「影」だけを奪われる怪事件が発生。夜ごとユイの脳裏をよぎる、燃え落ちる月の都と黒い影の戦士の記憶——。これは、光の戦士たちの知られざる外伝。月影が導くもう一人の少女の、戦いと覚醒の物語。
セーラームーン外伝 月影のカノン - 家族みたいなもんでしょ ――商店街を襲う影
朝の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいた。
ユイは布団の中で、しばらく天井を見つめていた。知らない天井。知らない匂い。それなのに、昨夜より少しだけ、体が軽い気がした。
枕元に置いた月影のブローチを手に取る。銀色の月の形。深い青の石。握ると、ひんやりと冷たい。でも、その冷たさが、なぜか今は心地よかった。
(ここは、月野さんの家)
昨日、空に開いた穴から落ちてきた自分を、うさぎという女の子が助けてくれた。そして、記憶がないユイを、自分の家に連れて帰ってくれた。
(私、何も覚えてないのに。名前しか、分からないのに)
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
でも、それ以上に、温かいものも感じていた。
コンコン、と軽いノックの音。
「ユイちゃん、起きてるー?」
明るい声。ドアが少し開いて、金色の髪がひょこっと覗いた。
うさぎは、にこにこ笑いながら部屋に入ってきた。両手には、ふかふかのタオルと、着替えの服を抱えている。
「おはよう。よく眠れた?」
「おはよう、ございます。あの、はい、おかげさまで」
ユイは慌てて起き上がり、ぺこりと頭を下げた。
「あはは、そんなにかしこまらなくていいのに。ほら、これ、あたしの服だけど、ユイちゃんにちょうどいいかなって。着替えたら下に来てね。朝ごはん、一緒に食べよ」
うさぎは、ユイの手に服を押し付けると、ぱたぱたと部屋を出ていった。
ユイは、手渡された服を見つめた。白いブラウスに、薄いピンクのカーディガン。ふんわりしたスカート。
(優しい人だなあ)
ユイは、そっと服を抱きしめた。
リビングに下りると、いい匂いがした。トーストと、卵と、温かいスープの匂い。
「あ、ユイちゃん、こっちこっち!」
うさぎが、テーブルの向こうから手を振っている。
テーブルには、うさぎのお母さんと、弟の進悟が座っていた。二人とも、ユイを見るとにっこり笑った。
「まあ、可愛らしい子ね。昨日は大変だったでしょう。ゆっくりしていってね」
「お姉ちゃん、この子が噂の?」
「そう、ユイちゃん。今日からうちの家族みたいなもんだから!」
うさぎが、こともなげに言った。
ユイは、一瞬、自分の耳を疑った。
「……家族、みたいな?」
「うん。だって、行くとこないんでしょ?記憶もないし。なら、うちにいればいいじゃん。あたし、一人っ子だし、妹ができたみたいで嬉しいな」
うさぎは、本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔が、まっすぐで、温かくて。
ユイの胸の奥が、きゅうっと締め付けられた。
(私なんかが、こんなに良くしてもらっていいのかな)
でも、その温かさに、触れていたかった。
「……ありがとう、ございます」
ユイの声が、少し震えた。
目頭が、熱い。
記憶がない。自分が誰かも分からない。そんな不安でいっぱいの心に、うさぎの言葉が、じんわりと染み込んでいく。
「あれ、泣いてる?どうしたの?」
「ううん、大丈夫。嬉しくて、ちょっとだけ」
ユイは、慌てて目元を拭った。
うさぎのお母さんが、そっとユイの肩に手を置いた。
「何も心配しなくていいのよ。ここにいていいの」
その言葉に、ユイはもう一度、深く頷いた。
テーブルの上では、黒猫のルナが、ちょこんと座っていた。額の三日月模様が、朝日にきらりと光る。
ルナは、普通の猫のように「ニャー」と鳴きながら、ユイの顔をじっと見ていた。
その青い瞳が、ユイの胸元のブローチに、一瞬だけ向けられる。
(このブローチ……やっぱり、ただの飾りじゃないわ)
ルナは、心の中でそう呟いた。
朝食の後、うさぎはユイを商店街に連れ出した。
「今日は、ユイちゃんの日用品とか、服とか買いに行こう。あ、あと、ゲーセンにも寄りたいな」
「ゲーセン?」
「ゲームセンター。十番町商店街にあるの。クラウンって言うんだけど、あたしの行きつけなの。後で一緒にやろうよ」
「うん、いいの?私、ゲームとか、したことあるのかな」
「大丈夫、教えてあげる!」
うさぎは、ユイの手を引いて、商店街を歩き出した。
十番町商店街。
昼前の商店街は、買い物客で賑わっていた。八百屋の店先には、色とりどりの野菜が並んでいる。魚屋からは、威勢のいい声が聞こえる。パン屋の前を通ると、焼きたてのバターの匂いがふわりと漂ってきた。
「ここが精肉店の大久保。まこちゃんの家。こっちが喫茶店のアレー。亜美ちゃんがよく勉強してるの。あ、あれがゲームセンタークラウン!」
うさぎは、次々に店を指さして説明してくれた。
ユイは、初めて見る街の景色に、目を丸くした。
(ここが、十番町。私が落ちてきた街)
記憶はない。でも、この街の空気は、なぜか少しだけ、懐かしいような気がした。
「ユイちゃん、あれ見て!たい焼き!食べようよ」
「え、あ、うん」
うさぎは、屋台に駆け寄って、たい焼きを二つ買った。
「はい、あんこ。熱いから気をつけてね」
「ありがとう」
ユイは、両手でたい焼きを受け取った。
湯気が立っていて、甘い匂いがする。
一口かじると、カリッとした皮と、熱々のあんこが口の中に広がった。
「……おいしい」
「でしょ!ここのたい焼き、最高なんだよね」
うさぎは、嬉しそうに笑った。
ユイも、つられて小さく笑った。
(少しずつ、笑えるようになってきた)
うさぎと一緒にいると、不安が薄れていく気がした。
その時だった。
商店街の空気が、ふいに冷え込んだ。
「……え?」
うさぎが、足を止めた。
夏の日差しが照りつけているのに、背中に冷たいものが走る。
ユイも、気づいた。
路地の影が、異様に濃い。
黒いもやのようなものが、地面から湧き上がるように、じわじわと広がっていく。
「なに、これ……」
ユイの手の中で、月影のブローチが、かすかに熱を帯びた。
次の瞬間。
悲鳴が上がった。
「ぎゃあああああ!!」
商店街の真ん中で、黒い影が、人々の足元から伸び上がった。
二体。
真っ黒な、人の形をした、影のような怪物。
カゲだ。
カゲは、近くにいたスーツ姿の男性の足元に、ぬるりと絡みついた。
「な、なんだこれ!?離せ!!」
男性が叫ぶ。だが、カゲは離れない。
男性の足元の影が、ぐにゃりと歪み、引きはがされるように、カゲの中に吸い込まれていく。
「あ……ああ……」
男性の声から、力が抜けていく。
表情から、感情が消えていく。
まるで、魂を抜かれた人形のように。
男性は、その場に、がくりと崩れ落ちた。
「いやああああ!!」
別の場所でも悲鳴。買い物帰りの主婦が、もう一体のカゲに影を奪われた。
主婦は、手に持っていた買い物袋を落とし、その場にへたり込んだ。
目は、虚ろだった。
「なに、あれ……人が、倒れて……」
ユイの体が、震えた。
(あの人たちの影が、消えた)
恐怖で、足がすくむ。
だが、うさぎは違った。
「みんなを守らなきゃ!」
うさぎは、ユイの前に出た。
そして、胸元から、変身ブローチを取り出した。
月の形をした、黄金のブローチ。
「ムーン・プリズム・パワー!メイクアップ!!」
光が弾けた。
うさぎの体が、光に包まれていく。
リボンが舞い、光の粒が集まり、白と青のセーラー服が現れる。
変身した。
セーラームーン。
「愛と正義のセーラー服美少女戦士、セーラームーン!月にかわって、おしおきよ!」
セーラームーンは、カゲに向かって駆け出した。
「みんな、逃げて!」
悲鳴を上げながら逃げ惑う人々。
カゲは、倒れた人々から離れ、次の獲物を探すように、ゆらりと動いた。
「させるか!」
セーラームーンは、頭のティアラに手を当てた。
「ムーン・ティアラ・アクション!!」
ティアラが、光の輪となって飛んでいく。
光の輪は、一体のカゲを正面から貫いた。
「ギシャアアアア!!」
カゲが、耳障りな悲鳴を上げた。
黒い体が、光に焼かれるように、みるみる縮んでいく。
そして、カゲは、煙のように消え去った。
「やった!」
だが、もう一体が残っている。
もう一体のカゲは、セーラームーンを避け、逃げ遅れた人々の方へ向かっていた。
いや、違う。
カゲの標的は、ユイだった。
「……え?」
ユイは、その場に立ちすくんでいた。
恐怖で、足が動かない。
カゲが、真っ直ぐに、ユイに向かってくる。
黒い、影の塊が、ユイの足元に、するりと伸びてくる。
(いや……来ないで……)
ユイの手の中で、月影のブローチが、熱を帯びた。
カゲの爪が、ユイの顔に迫る。
その瞬間。
ユイは、無意識に、ブローチを前方にかざしていた。
「……やめて!」
ブローチが、淡く輝いた。
銀色の光。
月の光のような、柔らかな、でも、確かな光。
光は、ユイの前に、薄い膜を作った。
カゲの爪が、その膜に触れた。
「ギイイイイイ!!」
カゲが、悲鳴を上げた。
光の膜に触れた部分が、ジュッと音を立てて、溶けていく。
カゲは、弾き飛ばされるように、後ろに吹っ飛んだ。
そして、地面に落ちると、そのまま、影の中に沈むように、消えていった。
「……え?」
ユイは、自分の手を見つめた。
ブローチは、もう光っていない。
でも、手のひらには、温かい感覚が残っていた。
「わたし……なにを……」
ユイの手が、震える。
「ユイちゃん!」
セーラームーンが、駆け寄ってきた。
そして、ユイの体を、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫!?怪我ない!?」
「だい、じょうぶ……でも、今、私、何かが……」
「ユイちゃんが、カゲをやっつけたんだよ!すごい!すごいよ!」
セーラームーンは、ユイの肩を掴んで、まっすぐに見つめた。
その瞳は、驚きと、喜びで輝いていた。
「ユイちゃん、あんた、やっぱりただの子じゃないんだ!」
「……でも、私、何も分からなくて」
ユイの声は、まだ震えていた。
商店街には、倒れた人々が、ぽつりぽつりと残っていた。
影を失った人々。
感情を失った、抜け殻のような人々。
ユイは、その光景を見て、胸が痛んだ。
(あの人たち……助けられなかった)
セーラームーンも、唇を噛んだ。
「……くそ、一体のカゲは倒したけど、影を奪われた人たちは……」
その時、足元から声がした。
「うさぎちゃん、ユイちゃん」
ルナが、いつの間にか二人の足元に来ていた。
「ルナ!」
「今の光……ユイちゃんのブローチが放った光。あれは、ただの攻撃じゃないわ。カゲを弾き飛ばした時、奪われかけた影が、少しだけ、持ち主のところに戻ろうとしていた」
「え?」
「影を還す力の片鱗……まさか、本当に、戦士の生まれ変わり……?」
ルナは、ユイの胸元のブローチを、じっと見つめた。
「ルナ、それってどういうこと?」
「分からないわ。でも、ユイちゃんの力は、カゲを倒すだけじゃない。奪われた影を取り戻す力かもしれない。だとしたら、この街で起きている事件を、解決できるのは、ユイちゃんだけかもしれない」
ユイは、自分の手を、ぎゅっと握った。
(私の力が……あの人たちを助けられる?)
まだ、信じられなかった。
でも、確かに、ブローチが熱かった。
確かに、光が、カゲを追い払った。
「……私、やっぱり、何者なのかな」
ユイは、ぽつりと呟いた。
すると、セーラームーンが、ユイの手を、ぎゅっと握った。
「ユイちゃん」
セーラームーンの手は、温かかった。
「あんたは、敵なんかじゃない。あたしが保証する」
まっすぐな声。
迷いのない、信頼の言葉。
ユイの目から、涙がこぼれた。
「……うさぎ、さん」
「あたし、ユイちゃんが何者でも、あんたはあんただって、そう思う。だから、そんなに怖がらないで。大丈夫。あたしがついてる」
ユイは、涙を拭いながら、何度も頷いた。
(私、一人じゃない)
(うさぎさんが、信じてくれる)
そのことが、何よりも、心強かった。
夕方。
ゲームセンタークラウンの地下。
秘密の指令室。
ルナが、十番町の地図を広げていた。
地図の上には、赤い点が、いくつも打たれている。
「これ、何の印?」
「シャドウロストの発生地点よ。昨日の会社員の事件と、今日の商店街の事件。それから、十番町で起きた、影にまつわる小さな異変も含めて、全部マークしたわ」
ルナの声は、真剣だった。
「見て、この点の並び。規則性があるわ。これは自然発生じゃない。誰かが、意図的に影を集めている」
「誰かが、わざと影を……?なんでそんなこと」
うさぎの声が、震えた。
ユイは、地図を見つめた。
赤い点が、まるで、何かの形を作るように、十番町の地図の上に散らばっている。
(誰かが、影を集めてる?)
その時、ユイの胸元で、月影のブローチが、かすかに熱を帯びた。
「……あ」
ユイは、ブローチを握りしめた。
商店街で倒れた人々の顔が、脳裏に浮かぶ。
感情を失った、虚ろな目。
(あの人たち、今も、影のないまま)
(苦しい?それとも、何も感じないの?)
ユイの胸が、ぎゅっと痛んだ。
「私の力で……あの人たちの影、還せないのかな」
ユイは、小さな声で、でも、はっきりと言った。
ルナが、ユイを見た。
「まだ片鱗よ。でも、可能性はあるわ。今日、カゲを弾いた時、影が少し戻ろうとした。ユイちゃんの力は、きっと、影を還すための力だわ」
「影を、還す……」
ユイは、自分の手のひらを見つめた。
右の手のひらには、小さな三日月形の痣。
そして、左胸には、月影のブローチ。
(私、やれるかな)
(でも、やらなきゃ)
(あの人たちを、助けたい)
ユイの心に、初めて、前向きな気持ちが生まれた。
「私、頑張る。私なんかが、どこまでできるか分からないけど……でも、あの人たちの影を取り戻したい」
ユイの声は、まだ小さい。
でも、その瞳には、確かな意志の光が宿っていた。
うさぎが、ユイの肩を、ぽんと叩いた。
「その意気だよ、ユイちゃん!あたしも一緒に頑張る!」
「うん」
ユイは、うさぎに笑い返した。
ルナは、二人の様子を見て、小さく息をついた。
(ユイちゃんの力が、本当に影を還す力なら、この戦いの鍵になるわ。でも……)
ルナは、地図の赤い点を見つめた。
(誰が、何のために、影を集めているの?)
(それに、あのブローチの気配……月の光だけじゃない。影の気配も混ざってる)
ルナの胸に、小さな不安が残った。
夜が更けていく。
指令室のモニターには、十番町の地図が、静かに光っていた。
赤い点は、まるで、闇の中に浮かぶ、不気味な星座のようだった。
その中心には、ぽっかりと、黒い空白があった。
「穴」があった場所。
ユイが落ちてきた、あの場所。
ルナは、その空白を、じっと見つめた。
(何かが、始まってる)
(これは、ほんの序の口かもしれないわ)
ルナの尻尾が、ゆっくりと揺れた。Noveliaとは?
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