悪い子はお仕置き
鈴木陸斗は、秘密の趣味を持つ高校二年生。門限を破った娘を母親がお仕置きする音声記録を密かに聴くのが癖で、叩かれる音と泣き声に心臓が高鳴る。自分はおかしいと思うけれど、やめられない。
ある日の帰り道、陸斗は路地裏で古びたボタンを見つける。押してみると、幼馴染の水無月ひなたが突然現れ、クラスメイトの柊るなのお尻を叩き始めた。パシン! るなが悲鳴を上げ、陸斗の頭は真っ白になる。ボタンには『お仕置き実行ボタン』と書かれていた。
押すたびに、女の子たちが勝手にお仕置きし合う。止められない。でも陸斗は気づく——叩かれている子も、どこか安堵した顔をしていることに。罪悪感と好奇心がぶつかり合う。
一方、校内一厳しい風紀委員長・白河真冬が陸斗をマーク。『校内の風紀の乱れ』を調査し始める。陸斗は必死に隠そうとするが、ボタンの力はお構いなしに暴走していく。
陸斗の秘密を知る謎の少女・柊るなが問い詰める。「そのボタンは危険よ。私に渡しなさい」。るなは、お仕置きされる女の子たちを操れる力のことを知っていた。
陸斗は葛藤する。ボタンを使うたび、誰かが傷つく。でも、涙目の女の子が「許してください」と言いな
悪い子はお仕置き - 月哭堂の少女 ―魂を削る代償―
昼休みの教室は、むっとするほど空気が重かった。
窓の外では十月の日差しが運動部の掛け声を運んでくるのに、教室内だけは別の生き物みたいに静かで、そのくせ、ぴりぴりと張りつめた何かが渦巻いている。
掃除当番を巡る言い争いだった。
「先週もあんた、サボったじゃない」
声の主は、教室の中央で腕を組んで立っている女子生徒。ショートカットの髪を耳にかける仕草に、いらだちがにじんでいる。
「はあ? 私、先週はちゃんとやったし」
言い返したのは、窓際の席に座ったままのもう一人。頬杖をついて、相手を見上げる形になっている。
「やってないから言ってるんだけど」
「証拠でもあんの? ないなら黙ってくんない?」
鈴木陸斗は、自分の席で小さくなっていた。
机の上に置いた弁当箱を、まだ開けていない。箸を握ったまま、二人のやり取りを聞くともなく聞いていた。
(また始まった……)
ここ三日、教室の空気はずっとこんな感じだった。ボタンを拾ってから、というより、あの日教室で妙な音が響いてから、女子同士のいざこざがやけに増えた気がする。いや、増えたんじゃない。前からあったものが、急に目につくようになっただけかもしれない。
「だいたい、あんたの班って毎回掃除が遅いんだよ。私らのせいにしないで」
「は? うちの班が遅いんじゃなくて、あんたの班が勝手に帰ってるだけでしょ」
「なにそれ。聞き捨てならないんだけど」
声が大きくなっていく。周りの生徒たちは、聞こえないふりをしてスマホをいじったり、早足で教室を出たりしている。誰も止めようとしない。
陸斗も、止められなかった。
(あの二人、またぶつかるのかな)
そう思った瞬間だった。
ポケットの中で、何かが震えた。
ほんのわずかな、熱。
(え——)
パァン!
乾いた音が教室に響いた。
「きゃっ!?」
「いっ——!?」
二人の悲鳴が重なる。ショートカットの子は後ろを振り返るようにして、もう一人は椅子から飛び上がって、どちらも自分のお尻を押さえていた。
「な、なに今の!?」
「痛っ……なんで……!?」
周りがざわつく。男子が数人、何事かと立ち上がる。誰かが「まただよ」と呟くのが聞こえた。
陸斗は、心臓が縮む思いだった。
(まただ。また、あの音だ)
ポケットに手を突っ込む。ボタンの縁が、まだほんのり温かい。指先で触れると、その熱が手のひらに吸いつくように伝わってくる。
(俺のせいだ)
確信があった。前回までは、もしかしたら偶然かもしれないと思えた。でも、もう違う。あの二人が言い争いを始めたとき、陸斗の頭の中にはたしかに「やめてほしい」という思いがあった。それと同時に、もっと別の、名前をつけたくない感情も、ほんの少し。
(あの音、また聞こえるかな)
その思いが浮かんだ瞬間、ボタンが震えた。
パァン、と音がした。
(違う、俺は望んでない)
そう心で否定しても、指先はまだボタンを離せない。むしろ、親指の腹で表面の彫りをなぞっていた。お仕置き執行、という掠れた文字。その凹凸を確かめるみたいに、ゆっくりと。
「おい、大丈夫か?」
男子が一人、二人に声をかける。二人は顔を真っ赤にして、お尻を押さえたまま「だ、大丈夫」「なんでもない」と早口で答えた。
教室内が、妙な空気に包まれる。誰もが「今のはなんだったんだ」と思っているのに、誰も口に出さない。
陸斗は、そっと席を立った。
(外の空気、吸いたい)
教室を出る。廊下に出ると、汗ばんだ手のひらを制服のズボンで拭いた。
心臓がまだうるさい。
(俺が、あの二人に……)
最後まで考えられなかった。
放課後。
陸斗は、いつもの道を外れていた。
家に帰るには、駅前を通ってバスに乗るのが一番早い。でも、今日の足は、なぜか駅とは反対方向へ向かっていた。御影神社の裏手、代償坂の方角。あの路地でボタンを拾ってから、陸斗の帰り道は少しずつ変わっていた。
(なんでこっちに来たんだろ)
自分でもよくわからない。ただ、教室でのことが頭から離れなくて、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
旧市街の常世宿通りは、夕方の光を受けて、石畳が橙色に染まっていた。江戸時代の宿場町の面影を残す通りで、両側には古い木造の店が並んでいる。和菓子屋の御影堂、代々続く蕎麦屋の更科。どれも、陸斗が幼い頃から変わらない風景だった。
でも、今日はいつもより、この通りが遠い世界のように見えた。
(俺、なんでここにいるんだ)
歩きながら、何度も思った。
通りの端まで来たところで、足が止まった。
古書店だった。
看板には、月哭堂、と書かれている。木の板に墨で書かれた文字が、長い年月を経てかすれていた。店先には、虫干しなのか、古い巻物や和綴じの本が無造作に並べられている。
陸斗は、その中の一つに目を奪われた。
(代償……?)
巻物の端に、そう読める文字が見えた。代償、という言葉。昨日、ネットで調べたあの言葉。代償の理。常世宿の盟約。この街に古くから伝わるという、罰と贖いの考え方。
胸の奥が、ずくりと鳴った。
(これ、関係あるのか)
足が、勝手に店の中へ向かっていた。
カラン、と木の扉を開ける音がする。
店内は薄暗く、古い紙と埃と、ほんの少し線香のような匂いが混ざっていた。天井まで届きそうな本棚が何列も並び、その間を縫うようにして、骨董品や古い箱が積み上げられている。
カウンターの奥に、人がいた。
少女だった。
腰まで届く黒髪を一つに結んでいて、毛先だけが深い紫に染まっている。切れ長の紫色の瞳が、手元の古書に落ちていた。左目の下に、小さな泣きぼくろがある。
柊るな、だった。
陸斗は、彼女を知っている。同じ学校の、隣のクラスの子。廊下ですれ違ったことは何度もある。でも、話したことは一度もない。
(あの子、こんな店の子だったんだ)
るなは古書を整理する手を止めて、顔を上げた。
そして、陸斗を見た瞬間、その表情が、すっと硬くなった。
まるで、氷を張ったみたいに。
「……いらっしゃい」
声は、静かだった。感情が読めない、平坦な声。
陸斗は、急に場違いな場所に来てしまった気がして、目を泳がせた。
「あの、その……店先の巻物が気になって」
「代償の文字が見えたのね」
るなは、陸斗の言葉を遮るように言った。カウンターから出てきて、陸斗の正面に立つ。身長は陸斗より少し低いくらい。なのに、見下ろされているような圧迫感があった。
紫色の瞳が、まっすぐに陸斗を見つめる。
「あなた、代償坂で何か拾わなかった?」
心臓が、跳ねた。
(なんで、それを)
陸斗は言葉に詰まった。ポケットの中で、ボタンが急に重くなった気がした。
「……なんで、そんなこと聞くの」
やっとのことで、それだけ言った。声が裏返りそうになるのを、必死に抑える。
るなは、目を逸らさない。
「答えになってないわ」
「……拾ってない、と思うけど」
「嘘」
即答だった。
陸斗は、後ずさりしそうになった。
るなは、ゆっくりと陸斗に近づく。古い紙と、微かに甘い香りが、ふわりと届いた。
「あなたのポケット、少し熱を持ってる。私にはわかるの」
「……は?」
「それ、私の家のものよ」
るなの声が、一段低くなった。
「お仕置き執行ボタン。代償坂の石畳の下に、ずっと眠っていたもの。祖母から聞いてるわ。押すたびに、持ち主の魂が削られていく、危険な代物よ」
陸斗の頭の中が、真っ白になった。
(なんで、そんなことを。なんで、この子が知ってるんだ)
「……なに言ってるのか、わかんない」
「とぼけないで。あなた、もう何度か使ったでしょ。教室で、あの音を響かせたのは、あなたね」
陸斗は、息が止まりそうだった。
(見られてた? いや、そんなはずない。あのとき、誰も俺のことなんて)
「……違う。俺は、押してない」
「押してなくても、発動するの。そのボタンは、持ち主の心を映す。あなたが望めば、勝手に動く」
「勝手に……?」
「そう。あなたの、深いところにある願い。罰を与えたい、誰かを泣かせたい、そういう気持ちを、ボタンが拾うのよ」
陸斗は、首を振った。
「そんな……俺は、そんなこと望んでない」
「本当に?」
るなの瞳が、鋭く光った。
「あなた、今、自分で自分のことを信じられないんでしょ。それで、ボタンを手放せない。違う?」
図星だった。
陸斗は、唇を噛んだ。
(なんで、そんなことまで)
「……あんたには関係ない」
「関係あるわ。それを回収するのが、私の役目だから」
るなは、手を差し出した。白くて細い指。
「それを、私に渡して。今ならまだ、手遅れにならずに済む」
陸斗は、一歩下がった。
「……嫌だ」
「鈴木くん」
「なんで、あんたに俺の気持ちがわかるんだよ。なんで、俺が拾ったものを渡さなきゃいけないんだ。俺は、何も悪いことしてない」
声が、震えていた。
るなは、何か言おうとして、でも、口を閉じた。
その沈黙が、陸斗には「お前は何もわかってない」と言われているみたいで、たまらなく苦しかった。
「……もういい」
陸斗は、店を飛び出した。
夕暮れの常世宿通りを、走る。石畳を蹴る音が、やけに大きく響いた。
(なんなんだよ、あの子)
(なんで、俺のこと、全部見透かしたみたいに)
(俺は、押してない。押してないのに)
心の中で、何度も繰り返す。
でも、足を止めたとき、気づいた。
ポケットの中で、ボタンを握りしめていた。
走っている間も、ずっと。
その夜。
陸斗は自室の机に向かっていた。
部屋の明かりは点けていない。スマホの画面と、パソコンのモニターだけが、青白い光を放っている。
机の上に、ボタンを置いた。
真鍮の表面が、モニターの光を鈍く反射する。緑青の斑点が、古い傷みを物語っていた。
(魂が削られる、か)
るなの言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
(押すたびに、俺の魂が)
そんなこと、信じられるわけがない。非科学的だ。古臭い迷信だ。
でも、昼間の教室でのことは、たしかに起きた。ボタンが熱を持って、あの音が響いて、二人の女子がお尻を押さえて悲鳴を上げた。
(あれは、俺のせいなのか)
陸斗は、ボタンを手に取った。指先で転がす。冷たい。さっきまでポケットの中にあったのに、もう熱は感じない。
(あの子、俺のことを、勝手に決めつけて)
苛立ちが、ふつふつと湧いてくる。
(俺が、誰かを罰したいって? 誰かを泣かせたいって?)
(そんなわけない。俺は、ただ……)
指先に、力が入る。
(ただ、あの音が、好きなだけで)
その瞬間だった。
ボタンが、急に熱くなった。
「……っ」
思わず手を離す。ボタンが机の上に落ちて、カタン、と音を立てた。
熱い。さっきまで冷たかったのに、今は火傷しそうなくらい熱い。
そして、ボタンが震え始めた。
まるで、意思を持った生き物みたいに。
(なに、これ——)
パァン!
音がした。
窓の外から。遠くから。でも、はっきりと。
あの、乾いた音。
陸斗は、体が固まった。
(今、俺、何を考えてた?)
(るなに、腹が立ってた)
(あの子も、お仕置きされればいいのに、って)
血の気が引いた。
「……うそだろ」
声が、かすれた。
ボタンは、まだ机の上で小さく震えている。熱は、少しずつ冷めていっていた。
陸斗は、その夜、一睡もできなかった。
翌朝。
空は、昨日よりずっと低くて、灰色の雲が重く垂れ込めていた。
陸斗は、ふらふらと通学路を歩いていた。
寝不足で、頭がぼんやりする。足元が、覚束ない。
(夢だったら、いいのに)
何度も思った。でも、ポケットの中のボタンは、今朝もたしかにそこにある。
校門が見えてきた。
その手前で、人影が一つ、立ち止まっていた。
陸斗の足が、止まった。
柊るなだった。
制服姿で、鞄を両手で持って、じっとこちらを見ている。黒髪が、朝の風に揺れていた。
るなは、陸斗に近づいてきた。
足音が、やけにゆっくりに感じる。
陸斗の目の前で、るなは立ち止まった。紫色の瞳が、まっすぐに陸斗を捉える。
その顔は、昨日よりずっと静かで、でも、どこか悲しそうだった。
「……おはよう」
陸斗は、絞り出すように答えた。
るなは、少しだけ間を置いて、言った。
「昨日の夜、私、家でお尻を叩かれたわ」
陸斗の心臓が、どくりと鳴った。
「誰にでもなく、突然、パァン、って。それで、私、膝をついた。痛くて、しばらく立てなかった」
るなの声は、淡々としていた。
「……それが、なに」
「あなたが、私を罰したいと思ったから起きたのよ」
「違う!」
陸斗は、自分でも驚くくらい大きな声を出していた。
「俺は、押してない! あれは、ボタンが勝手に——」
「そう。勝手に、あなたの心を映したの」
るなは、一歩、陸斗に近づいた。
「これが、あなたの望みなの?」
その声は、とても静かで、だからこそ、鋭く胸に突き刺さった。
陸斗は、何も言えなかった。
違う、と言いたかった。でも、喉が張りついて、言葉が出ない。
(俺は、あの子に罰を与えたかったのか?)
(腹が立ってた。勝手に決めつけるなって。でも、それで、お尻を叩かれることを望んだのか?)
答えは、出ない。
出ないことが、答えだった。
「……ごめん」
やっと出た声は、涙で濡れていた。
「ごめん、俺、そんなつもりじゃ……ごめんなさい」
陸斗は、下を向いた。
目の前の石畳が、にじんで見える。
(俺は、最低だ)
(誰かを傷つけて、泣かせて、それで、ごめんしか言えない)
るなは、何も言わなかった。
ただ、じっと、陸斗を見つめていた。
長い沈黙の後、るなが、小さく息を吐いた。
「……今日の放課後、また店に来なさい」
陸斗は、顔を上げた。
るなの表情は、もう硬くなかった。
「話を、続けましょう。あなたがそれを手放すのか、それとも、使い続けるのか。どちらにしても、知っておくべきことがあるの」
それだけ言うと、るなは背を向けて、校門へ歩いていった。
陸斗は、しばらく、その場から動けなかった。
教室に着くと、また、あの声が聞こえた。
「もー、またお尻痛いんだけど」
森野だった。
教室の隅で、友人に愚痴っている。
「なんで? またお母さんに叩かれたの?」
「そうなんだよ。門限破ったのバレて。しかも、昨日の夜、急にすごい音がして、お尻がじんじんして」
「え、お母さんに叩かれたんじゃないの?」
「違うの! お母さんは台所にいたし、誰もいないのに、急にパァンって」
陸斗は、自分の席で、教科書を開くふりをしながら、聞いていた。
(森野にも……)
ボタンの力が、自分の知らないところで、どんどん広がっている。
(俺が、この街を、おかしくしてる)
恐怖が、足元から這い上がってくる。
そのとき、廊下から、別の声が聞こえた。
「最近、校内で不可解な体罰事案が増えているんです。心当たりはありませんか」
凛とした、よく通る声。
陸斗は、顔を上げた。
廊下の向こうに、白河真冬がいた。
風紀委員長の腕章をつけて、教師と並んで歩いている。銀色の髪が、窓からの光を反射して、やけに眩しかった。
「体罰、ですか?」
教師が、首をかしげる。
「はい。生徒たちが、突然お尻を叩かれたと訴えています。原因が特定できないまま、件数だけが増えている。これは、風紀の問題です」
真冬の声は、氷みたいに冷たかった。
陸斗は、急いで下を向いた。
(見つかる)
(このままだと、あいつに、見つかる)
心臓が、うるさい。
放課後。
陸斗は、月哭堂の前に立っていた。
でも、店は閉まっていた。
木の扉には、古い鍵がかかっていて、店先の巻物も片付けられている。
「……休み、か」
来るのが、遅かったのかもしれない。
陸斗は、店の前でしばらく迷ってから、帰ろうとした。
そのとき、足元に、白いものが落ちているのに気づいた。
紙片だった。
折りたたまれた、小さな紙。
陸斗は、それを拾い上げた。
広げると、細い字で、こう書かれていた。
御影神社 贖いの石
(あがないの、いし……?)
陸斗は、紙片を握りしめた。
御影神社は、御影山の麓にあった。
参道を抜けると、ひんやりとした空気が肌を包む。都会の喧騒が、嘘みたいに遠くなる。
陸斗は、境内の奥へ進んだ。
本殿の裏手に、それはあった。
贖いの石。
大きな、黒い石だった。人の背丈くらいあって、表面はつるつるとしている。何年も、何十年も、人が触れ続けたせいで、てっぺんが丸く磨り減っていた。
(これが、贖いの石)
陸斗は、石の前に立った。
触れると心が軽くなる、という言い伝えがあるらしい。子どもの頃、誰かに聞いたことがある。
(本当に、そんな力があるのかな)
陸斗は、そっと手を伸ばした。
指先が、石に触れる。
ひやり、と冷たかった。
その瞬間、ポケットの中で、ボタンが、ほんの一瞬だけ、冷たくなった。
(え)
熱いのではなく、冷たい。
まるで、石の冷たさが、ボタンに伝わったみたいに。
「……その石に触れた学生は、久しぶりだね」
背後から、声がした。
陸斗は、飛び上がるほど驚いて、振り返った。
そこに立っていたのは、白い装束を着た老人だった。
御影静馬。この神社の神主だ。
「あ、すみません。勝手に入って」
「いいんだよ。ここは、誰にでも開かれた場所だからね」
静馬は、穏やかな笑みを浮かべた。
「君、この街の子かい?」
「はい。青葉ヶ丘に住んでます」
「そうか。学校は、常世ヶ丘高校かな」
「はい」
静馬は、うん、と頷いた。
「この街には、代償の理という、古いしきたりがある。知っているかい?」
陸斗の心臓が、跳ねた。
「……少しだけ」
「そうか。君は、何を知らずに背負ってしまったようだね」
静馬の目が、陸斗のポケットを、ちらりと見た。
(見えてる? この人にも、わかるのか)
「あの、一つ聞いていいですか」
「なんだい?」
「ボタンを、元に戻す方法って、ありますか」
静馬は、少しだけ目を細めた。
「それは、君が決めることだよ」
「……俺が?」
「そうだ。誰かに決めてもらうことじゃない。君自身が、どうしたいのか。それだけだ」
静馬は、それ以上は何も言わず、ゆっくりと社務所の方へ歩いていった。
陸斗は、贖いの石の前で、しばらく立ち尽くしていた。
夜。
陸斗は、またパソコンに向かっていた。
検索窓に入力する。
『代償坂 月哭堂 お仕置き』
結果は、ほとんど出なかった。
『月哭堂 柊家』
今度は、少しだけヒットした。
郷土史のデジタルアーカイブ。江戸時代の宿場町の地図。
そこに、たしかに、柊家の文字があった。
常世宿の中心部、今の月哭堂がある場所に、柊家、と記されている。
(江戸時代から、あの場所に……)
るなの家系が、少なくとも百五十年以上、この街で古書店を営み、何かを守り続けてきた。
(あの子の家は、ずっと、この街の裏側を知ってるんだ)
陸斗は、画面を見つめたまま、考えた。
(るなに、会って話を聞かなきゃ)
(でも、会ったら、またボタンが反応するかもしれない)
(俺の、変な気持ちを、ボタンが拾って)
(また、誰かが傷つく)
陸斗は、机の上のボタンを見た。
真鍮のそれが、部屋の明かりを、静かに反射している。
(俺は、どうすればいいんだ)
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