冷徹社長と秘密の夜〜キスは蜜より危険で〜
大手化粧品会社で働く平凡なOL、アマノ・ユイは、金曜日の会社の飲み会で泥酔してしまった。ふらふらとバーに迷い込んだ彼女は、そこで出会ったのは、信じられないほどハンサムだけど、少し怖い雰囲気の男性。銀色に輝く髪と冷たい青い瞳が印象的だった。「今夜だけでいい。何も聞かずに、君を抱かせてほしい」そう言われて、ユイの胸はおかしなほど高鳴った。普段なら逃げ出していた。でも、その日は少しだけ自暴自棄になっていたし、彼の瞳がひどく寂しそうに見えた。気がつけば、二人はホテルの一室にいた。彼のキスは、驚くほど熱くて、体の奥がきゅうっと疼いた。大きな手が服の下に滑り込んできて、ブラジャーのホックを外す手つきがあまりに手慣れていて、頭が真っ白になる。何度も名前を呼ばれて、ユイは人生で一番激しい夜を過ごした。翌朝、彼は夢のように消えていた。ところが、週明けの月曜日。社員総会で、新社長として皆の前に立ったのは、あの夜の男だった!「新しい社長のカザマ・レンだ」冷たい声でそう言った彼に、ユイは心臓が止まりそうになった。鋭い視線がユイを見つめる。けれど、あの夜の優しさは、かけらもない。「私とお前の関係は、社内では忘れ
冷徹社長と秘密の夜〜キスは蜜より危険で〜 - 道具と呼ばれた夜――崩れた嘘と、言いかけた言葉
前の日の夕方、社長室の机で見つけたあの書類のことが、どうしても頭から離れなかった。
自分の社員証用の顔写真。それが、被害者名簿の束の中に、一枚、紛れ込んでいた。
(あれは、なに)
布団の中で丸まりながら、ユイは何度も同じことを考えていた。窓の外の遠くの光が、涙でにじんでぼやける。体は疲れているのに、頭の奥がずっとざわざわしていて、目を閉じても眠気はやってこなかった。
気がつくと、カーテンの隙間から朝の白い光が差し込んでいた。ほとんど眠れていない。
それでも、会社に行かなければ。
いつもと同じようにスーツを着て、いつもと同じ電車に乗る。でも、胸の中はぐちゃぐちゃだ。
八階の総務部フロアに着くと、ユイは自分のデスクに座った。パソコンを立ち上げる。画面が光る。経費精算の数字を打ち込もうとして、指が止まった。十万六千八百四十円、と打つべきところを、何度も違う数字を打ってしまう。指が震える。
(ちがう、そうじゃなくて)
デリートキーを押す。また打ち直す。三度目でようやく正しい数字が打てた。ほっと息をつくと、今度は社内メールの宛先を間違えて、総務部全員に送るべき連絡を、なぜか営業部だけに送ってしまった。
「[surprised]あ、あのっ……!」
声が裏返る。慌てて追加送信しようとする手が、マウスを滑らせた。
どうしてこんなことに。
自分が自分じゃなくなっていくみたいだった。
「[gentle]ユイさん、ちょっと大丈夫かい」
顔を上げると、サワダが心配そうにユイのデスクの前に立っていた。短い黒髪の、いつも穏やかな先輩。眼鏡の奥の優しい茶色の目が、ユイの顔をじっと見つめている。
ユイは無理に笑顔を作った。
「[gentle]だ、大丈夫です。ちょっと寝不足なだけですから……」
「[sad]……そうか。でも、午前中だけで三回目のミスだよ。何かあったら話してほしい」
声が震えていたかもしれない。サワダは何か言いたそうに口を開きかけて、でも「うん」とだけ言って自分の席に戻った。
そのとき、フロアの空気が変わった。
話し声が、さあっと引いていく。
顔を上げるまでもなくわかった。レンが八階を通過するのだ。
ユイはとっさにデスクの上の書類を顔の前に持ち上げた。紙がかさりと音を立てる。視界の隅で、背の高い人影が通路を通り過ぎていく。プラチナシルバーの髪が、蛍光灯の下で冷たく光っていた。
レンはこちらを見なかった。
(見ないで)
書類の端をぎゅっと握る。指先が白くなる。
レンがフロアを通り過ぎた後も、ユイはしばらく書類を下ろせなかった。だって、下ろしたら自分の目がレンの背中を追いかけるのが、わかっていたから。
(見たくないのに)
(もう全部終わりにしたかったのに)
どうして目が勝手に追いかけるんだろう。
拳を膝の上でぎゅっと握った。
昼休みのチャイムが鳴った。
サワダがユイのデスクに戻ってきて、静かに言った。
「[gentle]ユイさん、ちょっと外の空気を吸いに行かないか。話があるんだ」
二人は本社ビルから少し離れた、小さな公園のベンチに座った。十一月の空気は冷たくて、木の葉がほとんど散ってしまった枝が、灰色の空に細い線を描いている。
サワダはしばらく黙っていた。指先が、わずかに震えているのが見えた。
「[serious]ユイさん。今日、君にどうしても見せたいものがあるんだ」
サワダはスマホを取り出して、写真フォルダを開いた。その手が、かすかに震えている。
画面に映っていたのは、若い女性の顔だった。頬から顎にかけて、皮膚が赤く爛れて、まだらに変色している。痛々しい、生々しい傷跡だった。
「[sad]僕の、姉なんだ」
ユイは息を呑んだ。
「[sad]数年前にね、別の美容メーカーの製品で肌トラブルを起こしたんだ。一時期は外にも出られなくなって、部屋に閉じこもってた。……この会社のことも、すごく調べたよ。ライズコスメティクスがどんな隠蔽をしてきたかも、ずっと、知ってた」
サワダの声は静かだった。でも、その静かさの中に、抑え込んだ怒りが詰まっているのが伝わってきた。
「[serious]だから、僕はこの会社の冷酷さが、心の底から許せない。ずっと内側に持ってたんだ」
箱根の露天風呂で、レンが見せたスマホの画面がよみがえった。
笑顔の若い女性。
レンの妹。
(あの人も、サワダ先輩の姉も)
同じ、痛みを持っている。
胸の中の怒りと悲しみが、静かにつながっていくのを感じた。
「[serious]でもね、ユイさん。もし仮に、社長のやろうとしていることが、ただの復讐じゃなくて、真実を暴くためだとしたら——」
サワダの言葉が、ユイの胸の奥に小さな芽を落とした。
(真実を、暴くため)
あの書類の写真は、それだったのか。
でも、まだ信じられなかった。信じるには、あの冷たい無表情が、道具として扱われたかもしれないという怖さが、大きすぎた。
ユイは何も言えなかった。胸の中で言葉がぐるぐる回っているだけで、口からは出てこない。
「[gentle]ユイさんがもし、会社を辞めるつもりでも——逃げる前に、答えを確かめてほしい」
サワダがまっすぐにユイを見つめる。その目の奥に、何か特別な感情が滲んでいるのに、ユイはうっすらと気づいた。
でも、今はそのことを考える余裕はなかった。
自分のことで、心がいっぱいだった。
夕方まで仕事をした。
ミスだらけで、サワダが何度もフォローしてくれた。定時になって、ユイはふらふらと会社を出た。
夜。
中野のアパートに帰ったユイは、小さな机の前に座っていた。観葉植物の葉が、窓から入る風に少しだけ揺れている。
机の上には、白い封筒と、退職届の用紙が一枚。
ボールペンを握る手が震えた。
書き出しを「一身上の都合により」と書いて、でも文字が震えて歪んで、何度も書き直した。書き損じた紙を丸めて、ゴミ箱に捨てる。三枚目でようやく、まともな字が書けた。
最後の署名をして、封筒に入れた。
鞄の中にしまった瞬間、体が少しだけ軽くなった気がした。
(終われる)
(これで、終わりにできる)
でも——終わる前に、どうしても聞かなければならないことがあった。
(あの人は、私のことを)
(最初から、道具として見てたのか)
ちゃんと確かめてから、終わりにしよう。
ユイは立ち上がった。時計を見ると、まだ夜の九時半だった。
ライズコスメティクスの本社ビルは、夜の闇の中にそびえ立っていた。
十八階建てのガラス張りのビル。エントランスはもう閉まっていて、守衛室にいる警備員だけが灯りの下に座っている。ユイは社員証のICカードをかざして、通用口から中に入った。
エレベーターホールには、誰もいなかった。
清掃員の姿も、今は見えない。
ボタンを押して、エレベーターを待つ。
(社長室には入れない)
十六階の役員フロアは、生体認証がなければ入れないのだ。ユイのICカードでは、八階までしか上がれない。
それでも、来てしまった。
(どうするかも、決めてなかったのに)
エレベーターが到着する。扉が開いた。
誰も乗っていない。
ユイは中に入った。
壁に手をついて、ため息をつく。冷たい金属の感触が、手のひらに気持ちよかった。
八階のボタンを押した。
扉が閉まりかけた、その瞬間——
廊下を走ってくる足音が聞こえた。
ユイの心臓が、ひときわ大きく跳ねた。
開きかけた扉の隙間から、スーツ姿の男が滑り込んできた。
扉が閉まる。
密室に、二人きり。
プラチナシルバーの髪。冷たい青い目。
レンだった。
レンはユイを一瞥しただけで、何も言わなかった。いつもの無表情。ボタンを押す。十六階が光った。
沈黙が、重たかった。
エレベーターのモーター音だけが、ぶうんと小さく響いている。
ユイの手が、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
今だ。今しかない。
「[scared]あの、書類、見ました」
自分の声が、震えて小さくて、自分でも聞き取りにくいほどだった。でも、レンの目が、ほんのわずかに動いた。
ユイは続けた。
「[crying]被害者名簿の中に、私の写真が、ありました」
声が震える。涙が、勝手にあふれてきて、視界がぼやける。
「[crying]私のことも、最初から、道具だったんですか」
レンは答えない。
(どうして何も言ってくれないの)
体だけ使えばよかったんですか——そう続けようとした言葉が、喉の奥で張り裂けて、嗚咽になった。
「[crying]ひ、くっ……」
レンは、ただ黙ってユイを見下ろしていた。その沈黙が、ユイには肯定に聞こえた。
(やっぱり)
(全部、嘘だったんだ)
八階の到着を告げるブザーが鳴った。
扉が開く。
ユイは荷物を抱えて、逃げ出そうとした。
その瞬間、右腕を強い力で掴まれた。
体が引き戻される。揺れる視界の中で、レンの長い指が閉じるボタンを押すのが見えた。
扉が再び閉まる。
エレベーターが動き始めた。
レンはユイの背中を、冷たい壁に押しつけた。
逃げ場がない。
顔を上げると、レンの顔がすぐ近くにあった。近すぎて、息がかかりそうな距離。
いつもの冷たい無表情が、ない。
レンの眉が、ほんの少し歪んでいる。青い目が、切なげに細められていた。
唇が、開きかけた。
「[whispers]君だけは——」
かすれた声だった。
(君だけは)
その続きが、来ると思った。
でも、レンは口を噤んだ。
喉の奥で、何かが止まったみたいに、言葉が消えた。
レンはゆっくりと目を逸らした。そして、ユイの腕を離す。
手が、落ちた。
言葉の続きは、来なかった。
エレベーターが、一階に到着する。
ブザーの音と同時に、扉が開いた。
ユイはもつれる足を必死に動かして、エレベーターから飛び出した。玄関ホールを駆け抜ける。
外に出ると、十一月の冷たい夜の空気が、熱くなった頬を冷やした。
六本木の街灯が、ぼんやりとユイの影を照らしている。
立ち止まる。
息が、あがっていた。
涙が止まらなかった。
(君だけは、違う)
そう言いかけたのだと思った。
思ったけど、確かめられなかった。言葉の続きは、まだレンの口の中にある。
鞄の中には、退職届が入っている。
なのに、足が動かなかった。
冷たい空気の中、ユイはただビルの前に立ち尽くしていた。
君だけは——
その四文字が、頭の中でぐるぐると回り続けて、足をその場に縫いとめていた。