冷徹社長と秘密の夜〜キスは蜜より危険で〜
大手化粧品会社で働く平凡なOL、アマノ・ユイは、金曜日の会社の飲み会で泥酔してしまった。ふらふらとバーに迷い込んだ彼女は、そこで出会ったのは、信じられないほどハンサムだけど、少し怖い雰囲気の男性。銀色に輝く髪と冷たい青い瞳が印象的だった。「今夜だけでいい。何も聞かずに、君を抱かせてほしい」そう言われて、ユイの胸はおかしなほど高鳴った。普段なら逃げ出していた。でも、その日は少しだけ自暴自棄になっていたし、彼の瞳がひどく寂しそうに見えた。気がつけば、二人はホテルの一室にいた。彼のキスは、驚くほど熱くて、体の奥がきゅうっと疼いた。大きな手が服の下に滑り込んできて、ブラジャーのホックを外す手つきがあまりに手慣れていて、頭が真っ白になる。何度も名前を呼ばれて、ユイは人生で一番激しい夜を過ごした。翌朝、彼は夢のように消えていた。ところが、週明けの月曜日。社員総会で、新社長として皆の前に立ったのは、あの夜の男だった!「新しい社長のカザマ・レンだ」冷たい声でそう言った彼に、ユイは心臓が止まりそうになった。鋭い視線がユイを見つめる。けれど、あの夜の優しさは、かけらもない。「私とお前の関係は、社内では忘れ
冷徹社長と秘密の夜〜キスは蜜より危険で〜 - 真実の朝と、ミッドナイト・ブルーの再会キス
朝の光が、六本木の高層ビル群を冷たく照らしていた。
二月の空気はまだ凍てついていて、吐く息が白く染まる。アマノ・ユイは、ライズコスメティクス本社ビルの前に立っていた。いつも通りの出勤時間。いつも通りのスーツ姿。でも、鞄の中にはあの退職届は、もう入っていない。
代わりにあるのは、胸の奥の、小さくて固い決意だった。
(今日だ)
彼女はエントランスをくぐり、社員証をかざす。受付嬢がぎこちない笑顔で「おはようございます」と頭を下げた。空気が違う。いつものオフィスのざわめきが、今朝はぴりぴりと張り詰めている。何かが起きる——誰もが、そう感じている顔だった。
八階の総務部に上がると、サワダ・タクミがもうデスクに座っていた。短い黒髪、優しい茶色の目の先輩。彼はユイの顔を見ると、眼鏡の奥の目を少しだけ細めて、静かに頷いた。
「[gentle]おはよう、ユイさん。……寝られたかい」
「[serious]はい。少しだけ」
嘘だった。ほとんど眠れなかった。何度もUSBの中身を確かめて、何度もレンの言葉を思い返して、夜が明けるのをただ待っていた。サワダも多分、同じだ。彼の目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
「[serious]九時から、十八階の大会議室だそうです。全社員招集の緊急タウンホールミーティング。今日は……来るんですね、社長が」
来る。必ず。ユイはそう信じていた。
サワダは一つ息をついて、それから、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「[whispers]……長い戦いだったな」
それは過去形だった。でも、二人とも知っている。終わるのは、ここからなのだ。
午前九時。
十八階の大会議室は、異様な熱気に包まれていた。六百名近い社員が所狭しと並べられたパイプ椅子に座り、戸惑いの表情でざわめいている。普段は立ち入ることすら稀な役員フロアの、その中心。壁一面の大型スクリーンが、まだ何も映さずに黒く光っていた。
ユイはサワダの隣、壁際の席に座っていた。膝の上で、両手をぎゅっと握りしめる。指が冷たい。
(誰かの人生を、変える)
(誰かの罪を、暴く)
怖くないと言ったら、嘘になる。
ざわめきが、ふっと静まった。
壇上に、カザマ・レンが立った。
プラチナシルバーの髪が、会議室の冷たい蛍光灯の下で、いつもよりずっと硬質に光っている。百八十五センチの長身。凍てつく湖のような、鋭く冷たい青い目。彼はマイクの前に立つと、一瞬だけ、まっすぐ前を見た。
いつもの冷徹な無表情。でも、ユイにはわかった。
(あの人は、今、戦っている)
「[serious]本日は、皆さんに事実をお見せします」
低い声が、静まり返った会議室に響き渡る。
彼が手元のリモコンを操作した。
大型スクリーンが、白く光る。
映し出されたのは、一枚の文書だった。2016年10月、取締役会議事録。上部に、社名と日付。そして、その中央に——
『毒性試験の中間報告において、皮膚刺激性グレード三に該当する結果が含まれていたが、販売スケジュールを鑑み、当該試験結果の公表と最終報告への記載を留保するものとする』
決議文。
その下に、ずらりと並ぶサイン。
当時の取締役たちの、署名。
会場が、凍りついた。
数十秒の、完全な沈黙。
誰もが、スクリーンを見上げたまま、動けなかった。理解が、追いついていなかった。あの製品事故が、隠蔽だったなんて——そんなことが、ありえるのか。
ざわ、と誰かが息を呑む音がした。
次の瞬間、蜂の巣をつついたような騒ぎが、会場を爆発させた。
「な、なんだこれは……!」
「嘘だろ……!」
「あの事故が……隠蔽……?」
声が、悲鳴が、怒号が、混ざり合う。
ユイは、震えていた。
スクリーンを見上げる視界が、涙で滲む。自分がコピーした、あの隠し部屋のファイル。あのUSBのデータが、今、この瞬間に、現実になっている。
(私、やったんだ)
(私が、あの人の復讐の、最後のピースを)
隣に座るサワダの手が、そっと、ユイの手に触れた。
一瞬だけ、握りしめる。
「[gentle]よかったな」
小さな、震える声だった。
ユイは頷こうとした。でも、首が動かない。代わりに、涙がこぼれた。一粒、また一粒。スカートの上に、小さな染みを作る。止まらなかった。
壇上のレンが、続ける。
「[cold]当時の経営陣は、この事実を隠蔽し、被害者への十分な補償を拒否した。本日、この証拠を公表すると同時に、当社は被害者の会への正式な謝罪と、損害賠償交渉を開始する」
彼の声は、少しも震えていなかった。
でも、ユイにはわかった。あの声の奥で、レンが八年分の怒りと悲しみを、抑えつけていることを。
同日午後、記者会見が開かれた。
場所は本社ビル一階のショールーム。白い壁に囲まれた広い空間に、テレビカメラがずらりと並び、フラッシュがひっきりなしに焚かれる。各社の記者たちが、殺到していた。旧経営陣の不正というスクープに、メディアが飛びつかないわけがない。
レンは壇上で、淡々と事実を説明していた。証拠資料の投影、法的観点からの解説。彼のプレゼンテーションは完璧で、一切の隙がなかった。いつもの、冷徹な社長の顔だった。
ユイは、プレス席の最後列、壁にもたれて立っていた。総務部の社員という立場で、今日の会見の裏方として動員されたのだ。
(あの人は、これでやっと)
復讐が、終わる。
しかし、レンの表情は、まだ硬かった。まだ何かが足りない——そう言っているように、ユイには見えた。
会見の終盤、レンは一旦言葉を切り、そして、静かに言った。
「[serious]最後に、一人、皆さんに紹介したい人がいます」
会場の空気が、変わった。
壇上の袖から、一人の若い女性が、ゆっくりと歩み出てきた。
ベージュのスカーフで、頬から顎にかけてを隠している。それでも、隠しきれない傷の痕が、わずかに覗いていた。二十八歳くらいだろうか。プラチナシルバーの髪は、兄と同じ色。目は、兄よりずっと柔らかい、でも芯の強さを感じさせる茶色だった。
カザマ・サヤ。
レンの、妹。
会場が、しんと静まり返った。
カメラのフラッシュが、一瞬、止んだ。
サヤは、真っ直ぐに前を見据えた。たくさんのカメラと、たくさんの視線の前に立って、彼女は、ほんの少しだけ、唇を噛んだ。それから、口を開く。
「[gentle]私の兄は——」
声は、小さかった。でも、紛れもなく、強かった。
「[gentle]兄は、復讐がしたかったんじゃないんです。私みたいな人が、二度と出ないようにしたかっただけなんです。八年間、ずっと、そのことだけ考えてたんだと思います」
ユイの視界が、にじんだ。
(ああ、そうか)
(あの人の、言いかけた言葉の続きを)
(この人が、全部、知ってるんだ)
スクリーン越しのレンの横顔が、ほんの一瞬だけ、伏せられた。
あの、寂しげな横顔。
それが今日、初めて、解けていく。
ユイは、壁に手をついて、必死にこらえた。泣きそうだった。でも、ここで泣くわけにはいかない。まだ、終わっていない。
会見が終わり、各メディアの速報が流れ始めた夕方。
総務部のフロアは、静かな興奮と混乱に包まれていた。あちこちで社員たちが固まり、スマホのニュースを見ながらひそひそと話し合っている。今日一日で、世界が変わってしまった——そんな顔だった。
ユイは、廊下に出た。人気のない場所で、一つ、大きく息をつく。
「[gentle]ユイさん」
振り返ると、サワダが立っていた。いつもの穏やかな先輩の顔。でも、その目には、今日一日の疲労と、何か、別のものが滲んでいる。
「[gentle]今日は、お疲れさまでした」
彼はそう言って、少しだけ笑った。でも、その笑顔は、いつものように優しくはならなかった。何かを、必死に飲み込もうとしている顔だった。
「[sad]先輩も、一緒に戦ってくれたおかげです」
ユイがそう言うと、サワダは、静かに首を振った。
「[whispers]俺……ずっと、ユイさんのことが心配で。でも、それだけじゃなかったんだよな」
ユイは、言葉を失った。
サワダの目が、一瞬だけ、熱を帯びる。眼鏡の奥の優しい茶色が、真っ直ぐにユイを見つめていた。そこに宿っている感情の名前を、ユイは、もう、知っている。
でも、彼はすぐに、視線を逸らした。
「[sad]でも、今日の、あの人の顔を見たら……言えないな」
そう呟くと、彼は先に歩き出した。
「[gentle]明日も早いですよ。ゆっくり休んでください」
背中越しの声は、もう、いつもの先輩の声だった。
ユイは、廊下でしばらく動けなかった。
サワダの気持ちを、正面から受け取った重さ。それでも、レンへの感情が、揺らがない自分。
(私は、ずるいのかな)
夕暮れの光が、廊下の窓から差し込んで、ユイの影を長く伸ばしていた。
夜十時すぎ。
スマホが震えた。
【今夜、最初の場所に来てほしい】
レンからの、短い一文。絵文字もなければ、「会いたい」という感情もない。最低限の、言葉だけ。でも、それで十分だった。
ユイは、銀座の雑居ビル五階へと向かった。
隠れ家的なバー、「ミッドナイト・ブルー」。ダークブルーの照明が、店内を静かに包んでいる。カウンター八席と個室ブース二つだけの、小さな店。月曜休みのこの店が、今夜だけは、二人のために開いていた。
カウンターの端に、レンが座っていた。
初めて会った、あの夜と、同じ位置。
プラチナシルバーの髪は、今日の戦いの疲れか、少しだけ乱れている。スーツの上着を脱いで、白いシャツだけの姿だった。手には、琥珀色のウイスキーグラス。
バーテンダーのサカモトが、無言でユイの前にカクテルを置く。あの夜と同じ色の、淡いピンクのグラスだった。この老バーテンダーは、すべてを知っているのだろう。でも、何も言わない。それが、この店の流儀だった。
ユイは、レンの隣のスツールに腰掛けた。
沈黙が、流れる。
遠くで、氷がグラスに当たる小さな音がした。
「[whispers]初めて会った夜、今夜だけでいいと言った」
レンが、ぽつりと言った。グラスを手に持ったまま、青い目は、その琥珀色の液体を見つめている。
「[whispers]それを、撤回したい」
ユイは、顔を上げた。
レンの青い目が、まっすぐにユイを見た。
その目は、いつもの冷たい湖ではなかった。もっと深くて、もっと熱くて、そして、少しだけ怖がっているような——そんな目だった。
「[whispers]昼も夜も、ここからは、隠さない。……俺のそばに、残れ」
低い声が、ユイの胸の奥に、真っ直ぐに飛び込んでくる。
胸の真ん中が、じわりと熱くなる。
(ああ)
(これが、答えだ)
ユイは、自分でも驚くほど、迷わなかった。
「[gentle]はい」
流されて頷いた、あの夜の自分ではない。自分の声で、自分の意志で言える、一文字。
レンの手が、グラスをカウンターに置いた。
彼の長い指が、ユイの顎をすくい上げる。
ゆっくりと、でも確かに、唇が重なった。
あの夜のキスより、深くて、穏やかで、どこか取り返しのつかない甘さがあった。ユイの唇の、かすかな震えを、レンの唇が静かに包み込む。目を閉じる。吐息が混ざる。鼻先が触れ合って、くすぐったい。
ユイは、キスの途中で、少しだけ、笑ってしまった。
レンの眉が、不満そうに、ほんの少しだけ寄せられる。
「[whispers]……笑うな」
その声が、ほんのわずかだが、拗ねている。
それがおかしくて、ユイはまた、小さく笑った。
(この人、こんな顔もするんだ)
(こんな声も、出すんだ)
二人の間に、初めて、柔らかい空気が生まれた。
サカモトが、静かにカウンターを拭いている。気の利いた老バーテンダーは、何も見なかったふりをして、ただ、グラスを磨き続けていた。
バーを出ると、銀座の夜道は、冷たく澄んでいた。
ネオンの光が、濡れたアスファルトに反射して、まるで星の欠片が落ちているみたいだった。
レンが、ユイの手を引いて、タクシーを止めようとした——その瞬間。
二人のスマホが、同時に通知を鳴らした。
ブルッ、ブルッ。
ポケットの中で、不吉に震える振動。
レンが、スマホを取り出す。画面を見た彼の顔から、柔らかさが、さあっと消えた。いつもの、冷静な目に戻る。
「[cold]……まだ、終わっていない」
ユイも、自分のスマホを見た。
ニュース速報。
『ブライト被害者の会、前経営陣個人への損害賠償追加訴訟を提起』
『前経営陣、大手法律事務所「桜庭総合法律事務所」と契約——議事録の証拠能力を争う姿勢』
(まだ、戦いは終わらない)
(あの人たちは、まだ)
ユイは、レンの手を、離さなかった。
「[serious]私も、一緒にいます」
レンは、何も言わなかった。でも、彼の手が、ユイの手を、ぎゅっと握り返した。
夜の銀座に立つ二人の間に、甘さと緊張が、同時に漂っていた。
一方、同じ夜。
中野の小さなアパートで、サワダ・タクミは、スマホの画面を見つめていた。
ニュース速報。そして、ユイのSNSのプロフィール写真。
写真の中のユイは、いつもの、少し自信なさげな笑顔で笑っている。守ってあげたくなるような、放っておけない空気の、彼女の笑顔。
サワダは、しばらくその写真を見つめてから、そっと、画面を閉じた。
部屋は、暗かった。窓の外の遠くの街灯が、カーテンの隙間から細い光を落としているだけだ。
彼は、眼鏡を外して、静かにため息をついた。
想いを飲み込む決意と、それでもまだ消えない感情の、どちらも抱えたまま。
「[whispers]……それでも、僕は」
次の戦いへの覚悟を、静かに固める夜だった。