灰の森の果て、賢者は少年の前世を知る
大陸の辺境、かつて森エルフが栄え、今は滅んだとされる地。瘴気と獣が人を拒む深い灰の森がどこまでも広がる。魔法は古代の遺物と呪いとしてのみ残り、体系化されることはなかった。集落は孤立し、閉じた社会は異端者を激しく排斥する。少年が生まれた村には、呪い子を殺さず隔離するという掟があった。
前世の記憶を持つ少年ソルは、呪い子として孤独な隔離生活を送ってきた。村人に疎まれ石を投げられ、存在を否定されながら、外の世界に助けを求めることを決意する。村を逃げ出した彼は、魔物に襲われたところを、本心を見せない流浪の魔女エフィに救われる。彼女はその代償として、なぜ行くのかと問う。賢者に会うためだと答えるソルだったが、その心は揺れていた。二人は賢者を目指して灰の森を越え、少しずつ奇妙な信頼を築いていく。
だが、ついに賢者と出会った夜、ソルは自分の前世が、賢者の滅ぼした種族を追い詰めた者だったことを知る。賢者、最後の森エルフは、ずっと彼を待っていた。エフィもまた森エルフの血を引いていた。隠れ家を村の追手が包囲する。エフィは命を燃やす呪いで時間を稼ごうとする。ソルは前世と今世の自分を切り離せず、賢者に自分を
「灰の森の果て、賢者は少年の前世を知る」をオーディオドラマ(音声)で無料で聴く — キャラごとの声のフルボイス(AI読み上げ/AI声優/オーディオブック)。
灰の森の果て、賢者は少年の前世を知る - 暁光
広場の空気が、肌に張り付いた。
満月だった。
雲ひとつない空に、白い月が、まるで見下ろすように浮かんでいる。その光が、ルスタ村の広場を、青白く照らしていた。
中央には、浄灰の香炉が据えられていた。灰白色の煙が、細く、まっすぐに立ち上っている。煙の匂い。苦くて、甘い、腐った花のような匂い。ソルは、その匂いを、十六年間、嗅ぎ続けてきた。
香炉の周りには、薪が積まれていた。
乾いた灰松の薪。樹脂の匂い。火が点けば、あっという間に、すべてを燃やし尽くすだろう。
(あれが、俺を焼くための薪だ)
ソルは、広場の端に立っていた。
両腕を、後ろ手に縛られている。荒縄が、手首に食い込んでいた。縄の繊維が、皮膚を擦る。痛みは、なかった。
痛みを感じる余裕が、なかった。
村人たちが、広場を囲んでいた。
老いも若きも、男も女も、子供も。ルスタ村の百二十人全員が、そこにいた。誰もが、ソルを見ていた。
(見られている)
(それでいい)
(俺は、自分で、ここに立つと決めた)
広場の中央、香炉の前に、フェドが立っていた。
鼠色の混じった白髪を後ろに撫で付け、鋭い灰色の目が、月明かりの下で、冷たく光っていた。右目を縦に走る古い傷痕が、青白い光の中で、一層深く刻まれて見える。左手の殺生石の指輪が、鈍く輝いていた。
フェドの隣には、祈祷師のマーグがいた。
痩せた体を黒い衣で包み、白い髭を胸まで垂らした老人。その目は、ソルを見るとき、いつも何かを見定めるように細められた。
マーグの後ろに、追手衆の男たちが並んでいた。
八人。全員が、殺生石を握りしめ、ニガヨモギの匂いを漂わせている。猟犬が二頭、彼らの足元で、低く唸っていた。
「これより、掟に従い、浄灰の儀式を執り行う」
フェドの声が、広場に響いた。
低く、抑揚のない声。だが、その声には、有無を言わせぬ重みがあった。
「忌み子ソル。お前は、森人の穢れを身に宿し、この村に災いをもたらした。凶作も、疫病も、火事も、すべてはお前の穢れが原因である」
フェドは、古い掟の条文を、暗誦し始めた。
「穢れの器は、浄灰の炎にて浄められねばならぬ。されば、村に安寧が戻り、灰の森の怒りも鎮まるであろう。これ、いにしえより伝わる掟なり」
村人たちの間から、小さなどよめきが漏れた。
老人たちが、浄化の言葉を唱え始める。低く、くぐもった、呪文のような声。その声が、広場の空気を、さらに重くした。
若者たちは、固唾を呑んで、ソルを見ていた。
(あいつらは、迷っている)
(あの日、広場で、俺の言葉を聞いた者たち)
(でも、まだ、動けない)
ソルは、村人たちの顔を、一人ひとり見た。
若い男が、目を逸らした。
中年の女が、うつむいた。
子供が、親の背に、顔を埋めた。
誰も、ソルを見ていなかった。
(そうか)
(お前たちは、まだ、黙るのか)
フェドが、右手を上げた。
「縄をかけよ」
追手衆の男が二人、ソルの両脇に近づいてきた。
一人が、ソルの首に、太い荒縄を回す。
縄の感触。首の皮膚に、ざらざらとした繊維が食い込む。
(これが、生贄の縄だ)
(十六年間、俺は、この縄を恐れてきた)
(でも、今は、違う)
ソルは、顔を上げた。
そして、フェドの目を、まっすぐに見た。
フェドの灰色の目が、一瞬、ひるんだ。
(ああ、そうだ)
(お前は、俺のこの目が、怖いんだ)
(お前は、ずっと、何かを恐れてきた)
ソルは、縄をかけられる直前、胸元に手をやった。
縛られた手首。指先が、胸の内側に押し込んであったものに、触れた。
羊皮紙。
古い掟の写し。
昨夜、村長の家の床下から、奪還したもの。
そして、ヨルゲンとマーグの協力で、読み解いたもの。
ソルは、それを、引き出した。
「待て」
声が、出た。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
フェドの手が、止まった。
村人たちのざわめきが、ぴたりと、やんだ。
広場が、水を打ったように、静まり返った。
ソルは、縛られた両手で、羊皮紙を、高く掲げた。
月明かりが、古い羊皮紙を、透かした。
「これを見てほしい」
ソルは、言った。
「これは、この村に伝わる、掟の写しだ。村長の家の、床下に隠されていた」
村人たちの間に、どよめきが走った。
「何を言うか、穢れの子が」
フェドの声が、鋭く響いた。
「そのようなもの、どこから盗み出した。穢れの子の手にかかれば、清い掟も穢れる。早く、その汚らわしいものを、捨てよ」
フェドは、一歩、ソルに近づいた。
だが、ソルは、羊皮紙を、下ろさなかった。
「これは、盗んだものじゃない。返してもらったものだ」
ソルは、フェドの目を、見つめた。
「お前が、隠していたものを。村人たちに、知られては困るものを」
「黙れ!」
フェドの声が、初めて、感情を帯びた。
怒り。そして、その奥に、隠しきれない動揺。
「穢れの子の妄言など、誰が信じるものか。その紙切れが、何だというのだ。偽物に決まっている。穢れの子が、村を惑わすために、でっち上げたものだ」
フェドは、村人たちを見渡した。
「皆の者、惑わされるな。この男は、忌み子だ。森人の穢れを宿し、村に災いをもたらす者だ。その言葉に、耳を貸してはならぬ」
村人たちは、沈黙していた。
誰も、何も、言わなかった。
だが、誰もが、ソルの掲げた羊皮紙を、見ていた。
ソルは、羊皮紙を、ゆっくりと、広げた。
「この写しには、血の文字で、掟が記されている」
ソルは、言った。
「でも、新しい条項ほど、血の文字が消されている。代わりに、別の言葉が、書き加えられている」
ソルは、羊皮紙の一点を、指でなぞった。
「ここだ。ここに、もともとあった言葉は、『森人への贖罪』だった。でも、今は、『穢れの浄化』に、書き換えられている」
村人たちが、ざわついた。
「ここの条項もだ。『遠征軍の罪を償うために』と書かれていた部分が、『穢れを払うために』に、変えられている。血の文字が、削り取られた痕が、残っている」
ソルは、羊皮紙を、月明かりに透かした。
「見えるか。削られた跡が。血の色が、薄くなっている。新しいインクで、上から、別の言葉が、書かれている」
村人たちは、羊皮紙を、凝視した。
だが、彼らは、文字を読めなかった。
読めるのは、村で、三人だけ。
フェドと、マーグと、そして、ヨルゲン。
「マーグ」
ソルは、祈祷師の名を、呼んだ。
「あんたは、読めるはずだ。この写しが、本物かどうか。この文字が、書き換えられたものかどうか」
マーグは、動かなかった。
黒い衣をまとった、痩せた老人。白い髭が、風に、微かに揺れた。
「……あんたは、知っていたはずだ」
ソルは、続けた。
「掟が、書き換えられていたことを。生贄の儀式の、本当の意味を。でも、あんたは、黙っていた。十六年間、ずっと」
沈黙。
広場の全員が、マーグを見ていた。
マーグは、ゆっくりと、目を閉じた。
そして、再び、目を開けた。
「……あの写しは、本物だ」
マーグの声は、かすれていた。
「わしは、あの写しを知っている。村長の家の床下に、隠されていたことも、知っていた」
村人たちの間に、動揺が、走った。
「そして、あの写しに、血の文字が消され、別の言葉に書き換えられた痕があることも、わしは、知っていた」
マーグは、深く、息を吐いた。
「生贄の掟は、本来、森人への贖罪のために、作られた。灰燎の遠征で、森人を滅ぼした、我々の祖先の罪を、償うために」
「黙れ、マーグ!」
フェドが、叫んだ。
「お前まで、穢れの子の妄言に、惑わされたのか! 祈祷師としての、お前の立場を、忘れたのか!」
だが、マーグは、首を振った。
「……もう、いいだろう、フェド」
マーグの声は、静かだった。
「わしは、もう、黙っていることに、疲れた。十六年間、この子を、見殺しにしてきた。いや、もっとだ。わしが祈祷師になってから、何人もの忌み子を、この手で、送り出してきた」
マーグは、自分の手を、見つめた。
「この手は、もう、血に染まっている。浄灰の炎で、焼かれた、子供たちの血に。でも、それは、掟のためではなかった。村の安寧のためでもなかった。ただ、真実を隠すために、わしは、子供たちを、殺してきたのだ」
マーグは、村人たちを見渡した。
「お前たちも、知るべきだ。この村の掟は、最初から、偽りだった。生贄は、森人への贖罪でも、穢れの浄化でもない。ただ、自分たちの血の罪を、隠すための、生け贄だったのだ」
広場が、静まり返った。
老人たちの唱える浄化の言葉も、もう、聞こえなかった。
誰もが、マーグの言葉を、聞いていた。
フェドの顔が、青白い月明かりの下で、さらに、青ざめていった。
「黙れ……黙れ、黙れ!」
フェドは、叫んだ。
「これは、村のためだ! 村の安寧を守るために、必要な儀式なのだ! お前たちは、凶作を、疫病を、忘れたのか! 忌み子の穢れが、村に災いをもたらすから、浄化が必要なのだ!」
フェドは、村人たちに、向かって、両手を広げた。
「この穢れの子は、お前たちを、惑わそうとしている! 偽りの写しで、掟を、村を、壊そうとしている! 聞くな! 耳を貸すな! 浄化の炎だけが、我々を救うのだ!」
だが、村人たちは、フェドの目を、見なかった。
誰もが、うつむいていた。
あるいは、ソルを見ていた。
あるいは、マーグを見ていた。
フェドの言葉は、もう、誰にも、届いていなかった。
ソルは、羊皮紙を、胸の前に、抱えた。
「俺は、もう一つ、伝えなければならないことがある」
ソルの声は、静かだった。
でも、広場の隅々まで、届いていた。
「俺は、記録庫で、もう一つの真実を見つけた」
ソルは、村人たちを、一人ひとり、見た。
「灰燎の遠征。森人を滅ぼした、人間の軍。その名簿が、記録庫に、残っていた」
ソルは、言葉を、続けた。
「そして、この村の、初代の村民たちは、その遠征軍の、生き残りだった。兵士だった。森人を、殺した者たちだった」
村人たちの間に、どよめきが、走った。
「お前たちの祖先は、森人を滅ぼした。そして、その罪を隠すために、掟を書き換えた。生贄を、森人への贖罪から、穢れの浄化に、すり替えた」
ソルは、自分の右肩を、左手で、触れた。
灰紋。
生まれつき、右肩から鎖骨にかけて走る、灰色の痣状紋様。
「俺も、同じだ」
ソルは、言った。
「俺の前世は、遠征軍の、生き残りだった。森人を、滅ぼした、軍の一員だった」
広場が、凍りついた。
「俺は、忌み子として、お前たちに、蔑まれてきた。穢れの子として、殺されかけてきた。でも、俺の血も、お前たちの血も、同じだ。同じ、遠征軍の血だ。同じ、森人を殺した、血の重みを、背負っている」
ソルは、フェドを見た。
「俺は、お前たちを、責めない。責める資格が、俺には、ないからだ。俺の前世も、同じ罪を、犯した。森人を、追い詰めた。滅ぼした」
ソルは、マーグを見た。
「でも、赦すことも、できない。お前たちが、掟を書き換え、子供たちを、生贄にしてきた、その罪を。俺が、赦すことは、できない」
ソルは、村人たちを、見渡した。
「責めることも、赦すことも、できない。だから、俺は、ただ、事実を、お前たちに、突きつける」
ソルは、羊皮紙を、高く、掲げた。
「お前たちが、穢れと呼ぶものは、俺の血ではない。お前たちが、自分の父祖が犯した罪を、私に、着せただけだ」
沈黙が、村を、覆った。
重い、重い、沈黙。
月明かりだけが、青白く、広場を、照らしていた。
誰も、動かなかった。
誰も、声を、出さなかった。
その時だった。
一人の老人が、動いた。
ソルの背後から、ゆっくりと、近づいてくる。
しわだらけの手が、ソルの、縛られた腕を、掴んだ。
「……黙れ」
老人の声は、震えていた。
「黙れ、穢れの子。お前の言葉など、誰が信じるものか。お前は、忌み子だ。生贄だ。お前の存在が、村を、穢しているのだ」
老人は、ソルの腕を、力任せに、引っ張った。
ソルの体が、よろけた。
別の老人が、ソルの肩を、掴んだ。
「そうだ。こいつを、早く、火の中へ。浄化の炎で、穢れを、焼き払うのだ」
複数の手が、ソルに、伸びた。
ソルは、抵抗しなかった。
(これが、村の答えか)
(それでも、いい)
(俺は、事実を、伝えた)
(あとは、お前たちが、選ぶ)
ソルは、目を、閉じた。
その時だった。
「もう、やめろ」
声が、した。
震える、若い男の声。
広場の、端の方から。
「もう、やめてくれ。これ以上、この人を、傷つけるのは、もう、やめろ」
若者の声は、小さかった。
でも、静まり返った広場に、はっきりと、響いた。
老人たちの手が、止まった。
「俺たちは、ずっと、間違ってた。掟が、正しいと、信じてきた。でも、違った。掟は、偽りだった。生贄は、罪を隠すための、道具だった」
若者は、一歩、前に出た。
「俺は、もう、この掟に、従わない。この人を、殺すことに、加担しない」
別の若者が、声を上げた。
「俺もだ」
「私も、もう、嫌だ」
「うちも、同じだ」
声が、連鎖した。
一人、また一人と、村人たちが、顔を上げた。
老人たちが、手を、離した。
ソルを押さえていた手が、一本、また一本と、離れていく。
フェドは、広場の中央で、立ち尽くしていた。
「……お前たち」
フェドの声は、かすれていた。
「お前たちは、掟を、捨てるのか。村の、安寧を、守るための、掟を。先祖が、守り続けてきた、掟を」
だが、誰も、フェドの目を、見なかった。
村人たちは、ただ、ソルを、見ていた。
ソルは、縛られた腕を、差し出した。
「……誰か、この縄を、解いてくれないか」
若者の一人が、近づいてきた。
震える手で、ソルの手首の縄を、解き始める。
荒縄が、ほどけていく。
ソルの手首には、縄の跡が、赤く、残っていた。
首の縄も、別の村人が、解いた。
ソルは、自由になった両手を、見つめた。
(解かれた)
(俺は、生贄の縄を、解かれた)
(村人たち自身の手で)
ソルは、顔を上げた。
フェドが、立っていた。
手に、縄を、握ったまま。
その手から、力が、抜けていくのが、見えた。
フェドの手から、縄が、滑り落ちた。
地面に、落ちた。
乾いた音が、広場に、響いた。
掟は、村人たち自身の手で、放棄された。
フェドは、膝を、ついた。
広場の中央で、がっくりと、膝をついた。
「……わしは、間違っていたのか」
フェドの声は、消え入りそうだった。
「わしは、村を、守ってきたつもりだった。凶作から、疫病から、灰の森の脅威から。そのために、掟を、守ってきた。忌み子を、生贄にすることで、村が、安寧を得られると、信じていた」
フェドは、地面を、見つめた。
「だが、違った。わしは、村を、守っていたのではなく、自分を、守っていたのだ。自分の権力を、守っていたのだ。掟を、利用して」
フェドは、ゆっくりと、顔を上げた。
「……ソルよ」
フェドは、ソルを、見た。
「お前は、これから、どうするつもりだ。村を、出るのか。それとも、村に、復讐するのか」
ソルは、フェドを、見つめた。
長い沈黙。
月明かりが、二人の間に、影を落としていた。
「……俺は、村を、出るつもりはない」
ソルは、静かに、言った。
「復讐するつもりも、ない。俺は、この村に、残る。自分の意志で、残ることを、選ぶ」
村人たちが、ざわついた。
「この村の、惨い歴史を、直視しながら。俺自身の、血の罪を、背負いながら。それでも、お前たちと、目を合わせて、生きていく。それが、俺の、選んだ道だ」
ソルの声は、静かだった。
でも、その静けさの中に、確かな、強さがあった。
フェドは、何も、言わなかった。
ただ、ソルを、見つめていた。
その目には、怒りも、憎しみも、もはや、なかった。
ただ、深い、深い、疲れだけがあった。
ソルは、フェドに、背を向けた。
広場の、端へと、歩いていく。
村人たちが、道を、開けた。
誰も、ソルを、止めなかった。
誰も、ソルに、声を、かけなかった。
でも、誰もが、ソルを、見ていた。
(これで、いい)
(俺は、自分の足で、ここから、歩いていく)
(生贄としてではなく、一人の人間として)
ソルは、広場の端に、立った。
振り返らなかった。
焼け跡に、戻るつもりもなかった。
ただ、広場に、立ったまま、空を、見上げた。
満月が、青白く、輝いていた。
(夜明けまで、あと、どれくらいだろう)
ソルは、その場に、立ち尽くしていた。
村人たちも、誰も、動かなかった。
広場全体が、静寂に、包まれていた。
時間が、ゆっくりと、流れていった。
やがて、東の空が、うっすらと、白み始めた。
夜が、終わろうとしていた。
十六年間、毎日のように見てきた、夜明けの気配。
でも、今日のそれは、どこか、違って見えた。
(ああ)
(朝が、来る)
(俺は、生きている)
(生きたまま、朝を、迎える)
ソルは、ゆっくりと、息を、吐き出した。
白い息が、夜明け前の冷たい空気に、溶けていった。
広場の、向こう側。
人垣の、一番外側に、ヨルゲンが、立っていた。
杖をついた、老人。
深く刻まれた皺。
その目が、ソルを、見ていた。
ヨルゲンは、静かに、頷いた。
一度だけ。
ゆっくりと。
ソルは、その頷きを、見た。
(ああ)
(俺は、間違っていなかった)
ソルは、ヨルゲンに、軽く、頭を下げた。
ヨルゲンは、それ以上、何も言わず、人垣の向こうに、消えていった。
その時だった。
地面が、微かに、震えた。
ソルは、足元を、見た。
石畳が、小さく、揺れている。
(何だ)
(地震か)
でも、違った。
震えは、地面からではなく、もっと遠くから、伝わってきていた。
北の方角。
灰の森の、最深部。
ソルは、北の空を、見た。
灰の森の上空に、何かが、立ち上っている。
瘴気。
濃い、濃い、瘴気の柱。
それが、月明かりの下で、うごめいていた。
脈動していた。
これまでにない、強さで。
(あれは……)
ソルは、胸元の、黒石の守りを、握りしめた。
石が、熱かった。
今までにない、熱さ。
まるで、燃えているかのような。
(エフィ)
(お前は、知っていたのか)
(お前が、身をもって示した、存在ごと消える覚悟)
(その先に、何が、待っているのかを)
ソルは、灰の森の方を、見つめていた。
瘴気の柱が、ゆっくりと、形を変えていく。
何かが、目覚めようとしている。
灰の森の、奥深くで。
滅んだはずの、何かが。
村人たちも、気づいた。
北の空を、見ている。
恐怖の表情で。
「……なんだ、あれは」
誰かが、呟いた。
「灰の森の、方角だ。瘴気が、あんなに、濃く」
村人たちが、ざわつき始めた。
ソルは、黒石の守りを、握りしめたまま、夜明けの空を、見上げた。
東の空が、金色に、輝き始めていた。
朝の光が、灰の森の、瘴気の柱を、照らし出していた。
(それでも)
(俺は、ここに、生きる)
(一人の人間として)
(この村で)
(この世界で)
朝の光が、ソルの顔を、照らした。
ソルは、目を、細めた。
眩しい、朝の光。
十六年間、隔離小屋の窓穴から、毎日のように見てきた光。
でも、今日のそれは、何よりも、眩しかった。
ソルは、広場の中央に、立っていた。
生きたまま、一人の人間として。
その場に、立ち尽くしていた。
胸の奥に、新たな脅威の予感を、抱えながら。
それでも、ソルは、立っていた。
自分の足で。
自分の意志で。
この村に、生きることを、選んだ者として。Noveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。