クロウカードの影で〜大道寺知世の秘密の撮影日記〜
夕暮れの撮影室、モニターに映る親友の勇姿。大道寺知世は、魔力を持たない自分にできる「たった一つのこと」——撮影に全てを懸けていた。だがある日、映像の片隅に映り込んだ小さな影に気づく。さくらがカードを封印するたび、決まって現れる、輪郭のぼやけた観察者のような影。敵意はない。でも、だからこそ不気味だった。過去のデータを全て見返し、知世は一つの法則にたどり着く。あの影は、さくらを「撮影」している——自分と同じように。夢の中に現れた黒いローブの声が告げる。「お前の撮影した映像に、秘密が隠されている」。戦えない少女が、カメラという武器で真実に迫る。これは、クロウカードの影で静かに綴られる、大道寺知世の秘密の撮影日記。
クロウカードの影で〜大道寺知世の秘密の撮影日記〜 - 消しゴムの記憶 ― 影の真実と撮影再開の決意
朝の光が、厚い遮光カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
知世はベッドの中で目を覚ました。まぶたが重い。枕元の鏡を手に取ると、目の周りが赤く、頬に乾いた線が残っていた。
(こんな顔、さくらさんには見せられませんわ)
そう思ったけれど、胸の奥は昨夜よりずっと静かだった。窓の外から小鳥の声が聞こえる。友枝町の朝の空気は、柔らかくて、少し甘い。桜の季節が近づいているせいかもしれない。
知世はゆっくりと立ち上がり、机の前に立った。一番上の引き出しを開ける。右側の隅。小さな巾着袋が、静かにそこにあった。
袋を手に取り、口を開けて、中身を手のひらにそっと出す。
使いかけの、小さな消しゴム。
影に壊されたのは映像のデータ。でも、これは実物。私の手の中に、確かに残っている。
知世は消しゴムを両手で包み込んだ。
小学三年生の頃の記憶が、鮮明に蘇る。
転入してきたさくら。隣の席になったさくら。消しゴムを忘れた自分。
「これ、使っていいよ!」
さくらが差し出してくれた、あの笑顔。
「ありがとう。お借りしますわ」
「ううん! それ、あげる!」
「え? でも……」
「いいの! わたし、いっぱい持ってるから! それに、知世ちゃん、友達になってくれたでしょ? 友達の印!」
あの日のさくらの声が、今も耳の奥に残っている。
映像は消えてしまった。でも、記憶は消えない。さくらさんの笑顔は、私が覚えている。この消しゴムと一緒に。
知世は消しゴムを胸に抱きしめた。
「映像は消えても、私の記憶は消えませんわ」
小さく呟いた。
「さくらさんの笑顔は、私が覚えています。この手で、この心で」
また涙が滲んできた。でも、昨夜の涙とは違う。これは悲しみの涙じゃない。
(私、まだ泣いてばかりですわね)
知世は苦笑いした。
(でも、もう大丈夫)
(さくらさんの笑顔を守りたい。その気持ちだけは、誰にも消せない)
知世は消しゴムを巾着袋に戻し、大切に引き出しにしまった。そして、机の上に置いたままだったビデオカメラを手に取る。
ずっしりとした重み。この重みが、知世の役割だった。
「私、もう一度撮りますわ。今度は、さくらさんの笑顔を守るために」
カメラを握る手に、力がこもった。
まだ完全には立ち直れていない。怖い。またあの影が現れるかもしれない。
でも。
知世は撮影室へ向かった。
---
撮影室の空気は、ひんやりとしていた。
遮光カーテンを開けると、朝の光が部屋の中に流れ込む。モニターの画面が白く反射した。
知世は机の前に座った。
(破損したデータ。あの中に、小さな影が映り込んだ最初の映像があるはずですわ)
パソコンを起動する。復元ソフトを立ち上げた。
昨夜は「復元可能なデータはありません」という冷たい文字しか返ってこなかった。でも、今日は違う。
知世は深呼吸して、マウスを握った。
(お願い。どうか、手がかりを)
カチッ。
復元処理が始まった。
画面の進行バーが、ゆっくりと伸びていく。10%、20%、30%……。
知世は祈るような気持ちで画面を見つめた。
40%、50%……。
(あの影は、何者なの?)
(なぜ、さくらさんの戦いの映像に、いつも映り込むの?)
(あの影は、本当に敵なの?)
60%、70%……。
知世の心臓が、早鐘を打つ。
80%、90%……。
そして。
100%。
「復元が完了しました」
知世は、息を呑んだ。
「……復元できましたわ」
震える指で、ファイルを開く。
画面に映し出されたのは、小学四年生のさくらがクロウカードの精霊と戦う映像だった。
さくらが封印の杖を構える。ケルベロスが叫ぶ。風が舞い、光が弾ける。
知世は、コマ送りにした。
一コマ、一コマ、慎重に。
(この辺りに……)
いた。
さくらの背後。木の陰。
小さな影が、映り込んでいた。
猫ほどの大きさ。輪郭がぼやけていて、形がはっきりしない。
知世は、その影の動きを追った。コマ送りで、少しずつ。
影は、じっとしていた。
いや、違う。
影は、さくらを見ていた。
でも、さくらの魔力を吸っているようには見えない。
むしろ、その逆だった。
知世は、さらにコマを進めた。
すると。
画面の端に、もう一つの影が現れた。
最初の影より、もっと黒い。もっと濃い。もっと、不気味な。
それは、さくらの背後に、じわりじわりと近づいていた。
まるで、寄生するように。
(あれは……)
知世の背中を、冷たいものが走った。
(さくらさんに、取り憑こうとしている)
その時だった。
最初の小さな影が、動いた。
ふわり、と。
小さな影は、黒い影とさくらの間に、割って入った。
そして。
威嚇するように、体を低くした。
毛を逆立てるように、その輪郭が震える。
黒い影は、一瞬、動きを止めた。
二つの影が、にらみ合う。
そして、黒い影は、すっと消えた。
小さな影も、その後を追うように、画面から消えた。
知世は、しばらく画面を見つめたまま、動けなかった。
(小さな影は……さくらさんを守っていたの?)
(あの黒い影から、さくらさんを?)
知世の心臓が、ドクン、ドクンと音を立てる。
(私、ずっと勘違いしていた)
(小さな影は、敵じゃない)
(さくらさんを守る、何か……)
知世は、もう一度、最初から映像を再生した。今度は、もっと注意深く。
小さな影は、いつも、さくらの近くにいた。でも、さくらに危害を加えることは、一度もなかった。むしろ、さくらの周りに現れる黒い影を、追い払っていた。何度も。何度も。
(この黒い影……)
知世は、黒い影が映り込んでいる場面を、全て抽出した。
黒い影は、さくらがカードを使うたびに、現れていた。さくらの魔力に、引き寄せられるように。そして、さくらの魔力を、喰おうとしていた。
(この黒い影が、真の敵)
知世は、さらに解析を進めた。黒い影が現れる前後の映像を、何度も見返す。
すると、あることに気づいた。
黒い影は、映像の中のさくらに、何かをしていた。それは、魔力を吸うというより、もっと恐ろしいことだった。
映像の中のさくらの表情が、ほんの一瞬、曇る。そして、次の瞬間には、何事もなかったように笑っている。でも、その笑顔は、どこか、うつろだった。
(記憶を……書き換えている?)
知世は、自分の考えに、ぞっとした。
(映像を媒介にして、さくらさんの記憶を……)
手が震える。
(この黒い影は、さくらさんの記憶を喰らう影)
(記憶喰らいの影……)
知世は、拳を握りしめた。
(私の映像が、さくらさんの記憶を守る鍵になる)
(でも、私一人では、限界がある)
知世は、スマートフォンを手に取った。画面に、桃矢からのメッセージが残っている。
「おい、大丈夫か? なんかあったら言えよ」
知世は、その文字を、じっと見つめた。
(桃矢さん……)
(私、一人で抱え込むのは、もうやめますわ)
知世は、返信を打った。
「桃矢さん。お話したいことがあります。今から、お伺いしてもよろしいでしょうか」
---
木之本家の前に立つと、知世の心臓は、また早くなった。
(桃矢さんに、全部話すの?)
(信じてもらえるかしら)
(でも、もう一人では……)
インターホンを押そうとした、その時。
ガチャリ。
扉が、内側から開いた。
そこには、桃矢が立っていた。黒い髪が、少し乱れている。鋭い黒い瞳が、知世をじっと見据えていた。
「……来ると思ってたぜ」
桃矢は、ぶっきらぼうに言った。
「桃矢さん……どうして私が来ると」
「お前、ここ数日、ずっと変な顔してたからな。それに、さくらの様子も、なんだかおかしい」
桃矢は、腕を組んだ。
「上がれよ。話があるんだろ」
知世は、こくりと頷いた。
---
木之本家の居間は、温かい空気に包まれていた。テーブルの上には、湯気の立つお茶が二つ。
桃矢が、知世の前に座った。
「で、何があった。全部話せ」
桃矢の声は、低く、真剣だった。
知世は、深呼吸した。それから、ゆっくりと、話し始めた。
夢に出てきた黒いローブの人物のこと。映像に映り込む小さな影のこと。影に撮影データを破壊されたこと。そして、ついさっき、復元した映像で見つけた、記憶喰らいの影のこと。
知世は、隠さずに、全てを話した。
桃矢は、黙って聞いていた。時々、眉をひそめながら。
知世が話し終えると、桃矢は、深いため息をついた。
「……だから言っただろ。一人で抱え込むなって」
桃矢の声には、怒りが込められていた。でも、その怒りは、知世を責めるものではなかった。
「お前、俺が何のためにああ言ったと思ってるんだ。さくらのためだけじゃねえ。お前のためにも言ったんだぞ」
知世は、うつむいた。
「……ごめんなさい、桃矢さん」
「謝る必要はねえ。それより、その映像、見せろ」
知世は、持ってきたノートパソコンを開いた。復元した映像を、桃矢に見せる。
桃矢は、画面を食い入るように見つめた。
「……これか、その影ってのは」
「はい。この小さな影が、さくらさんを守っていました。そして、こちらの黒い影が……」
「ああ、見える。こっちの黒い方は、やばい気配がする」
桃矢は、目を細めた。
「俺にも、少し見える。この黒い影は、さくらの魔力に取り憑いてる。それだけじゃない。さくらの記憶にまで、手を出してやがる」
桃矢の声が、低くなった。
「お前の言う通りだ。これは、ただの影じゃない。記憶を喰らう、何かだ」
知世は、桃矢の言葉に、背筋が伸びる思いがした。
(桃矢さんには、見えている。この影の正体が)
「桃矢さん、私の映像を、あなたの魔力で解析していただけませんか。私一人では、ここまでが限界でした」
桃矢は、知世の顔を見た。
「……いいぜ。ただし、俺の魔力は、そう万能じゃねえ。できるかどうかは、やってみないと分からねえ」
桃矢は、ノートパソコンに手をかざした。
知世は、画面を見つめた。
桃矢の手から、淡い光が放たれる。その光が、画面に吸い込まれていく。
すると。
映像の中の黒い影が、はっきりと、その形を現した。
それは、人の形をしていた。いや、人だったもの、と言うべきか。ぼろぼろのローブをまとった、痩せ細った影。顔はなく、口らしき場所だけが、ぽっかりと黒く開いている。
「……見えたぞ」
桃矢の声が、緊張を帯びた。
「こいつは、映像を媒介にして、記憶を書き換える。古代の魔法具の残り滓だ。元々は、人の記憶を守るための道具だったらしい。だが、壊れて、逆に記憶を喰らうようになった」
知世は、桃矢の言葉を、一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。
「弱点は、あるのか」
桃矢は、さらに魔力を込めた。画面の中で、黒い影が、苦しむように身をよじる。
「……ある。こいつは、映像の中に残された、強い記憶の輝きに耐えられない。お前が撮った映像には、さくらの笑顔や、勇気や、優しさが、そのまま残っている。それが、こいつにとっては、毒なんだ」
知世は、息を呑んだ。
(私の映像が……毒?)
(私の撮った映像が、あの影を追い払う力になる?)
「桃矢さん、それでは、私の映像が、さくらさんを守る武器になるのですか」
「ああ。お前の映像は、さくらの記憶を守る、盾にも剣にもなる」
その時だった。
「ふふ、面白いですね」
突然、部屋の中に、澄んだ声が響いた。
知世と桃矢は、同時に振り返った。
いつの間にか、部屋の隅に、エリオルが立っていた。濃紺の髪が、柔らかく揺れている。深い紫の瞳が、穏やかな微笑みを浮かべながら、知世たちを見つめていた。
「柊沢さん……! いつの間に」
「てめえ、どうやって入ってきやがった」
桃矢が、鋭くエリオルを睨んだ。
エリオルは、微笑みを崩さない。
「どうやって、という質問には、お答えできませんね。ただ、あなたたちの話は、聞かせていただきました」
エリオルは、ゆっくりと、知世に近づいた。
「大道寺さん。よくぞ気づきました」
エリオルの声は、静かで、深かった。
「あの影は、映像を媒介に記憶を書き換える、古代の魔法具の残滓です。かつて、人の記憶を守るために作られたものが、長い時を経て、歪んでしまった。そして今、さくらさんの魔力と記憶を狙っています」
知世は、エリオルの目を、まっすぐに見つめた。
「柊沢さん。あなたは、最初から知っていたのですか」
「ええ。知っていました。だから、警告したのです。あなたの観察眼は危険だと」
エリオルの瞳が、一瞬、冷たく光った。
「あなたに力がないことが、問題だと。そう言いましたね」
知世は、エリオルの言葉を、しっかりと受け止めた。
「ええ。でも、私は、力がないからこそ、撮るのです。撮ることしかできないから、撮るのです」
知世の声は、震えていなかった。
エリオルは、少し驚いたように、目を見開いた。そして、ふっと、笑みを深くした。
「……なるほど。それが、あなたの答えですか」
エリオルは、ゆっくりと頷いた。
「さくらさんを守る鍵は、あなたの映像にこそあります。あなたが撮り続けてきた、さくらさんの記憶の輝き。それが、あの影を退ける、唯一の武器になるでしょう」
知世の胸の奥で、何かが、ふっと軽くなった。
(私の映像が、さくらさんを守る)
(私にできることが、ある)
「柊沢さん。教えてください。私は、どうすれば、あの影を……」
「あなたは、あなたの役割を果たせばいいのです。撮影者として。記録者として。さくらさんの記憶を、映像に刻み続けること。それが、あの影への、最大の対抗手段です」
エリオルは、そう言うと、窓の方を向いた。
「時間がありません。あの影は、すでに、さくらさんの記憶に、手を伸ばし始めています」
知世は、ハッとした。
「さくらさんに……何か?」
エリオルは、静かに頷いた。
「今夜、さくらさんの身に、異変が起きるでしょう。記憶の侵食が、始まります」
知世は、立ち上がった。
「私、さくらさんのところへ行きます」
「ええ。そうしてください。そして、カメラを、お忘れなく」
エリオルは、微笑んだ。
「あなたの映像が、さくらさんの記憶を守る、唯一の光です」
---
夕暮れの友枝公園。
桜の木々が、オレンジ色の光に染まっていた。
知世は、ビデオカメラを抱えて、走った。
(さくらさん、無事でいて)
(お願い、無事でいて)
心臓が、激しく脈打つ。息が、切れる。それでも、足を止めなかった。
公園の入り口に着くと、ベンチに座っている、見慣れた後ろ姿が見えた。明るい茶色のショートヘア。ピンクの髪留め。
「さくらさん!」
知世は、叫んだ。
さくらが、ゆっくりと振り返った。エメラルドグリーンの大きな瞳が、知世を見つめる。
でも、その瞳は、いつものように、輝いていなかった。
「……知世ちゃん?」
さくらは、首をかしげた。
「はにゃーん……知世ちゃん、だよね?」
知世の心臓が、ぎゅっと縮んだ。
「なんだか……思い出せないの。知世ちゃんの顔は、分かるんだけど……知世ちゃんと、何を話したかとか、何をしたかとか……」
さくらの声は、震えていた。
「ごめんね、知世ちゃん。わたし、なんでだろう……すごく、悲しくて……」
さくらの目から、涙がこぼれ落ちた。
知世は、さくらの前に駆け寄った。そして、さくらの手を、両手で握りしめた。
「さくらさん。大丈夫ですわ」
知世は、さくらの目を、まっすぐに見つめた。
「私が、絶対に、さくらさんの記憶を取り戻します。私の撮った映像で。私の、このカメラで」
知世は、ビデオカメラを、ぎゅっと握り直した。
「さくらさんの笑顔を、私は一秒たりとも逃しませんわ。これまでも、これからも、ずっと」
さくらは、涙で濡れた顔で、知世を見つめた。
「知世ちゃん……ありがとう……」
さくらの手が、知世の手を、握り返した。その手は、冷たかった。でも、確かに、温かさが残っていた。
知世は、カメラを構えた。レンズの向こうに、涙を浮かべたさくらの顔が映る。
(この笑顔を、守る)
(この涙も、全部、私が記録する)
(そして、さくらさんの記憶を、取り戻す)
知世は、静かに、撮影を始めた。
夕暮れの光が、二人の影を、長く伸ばしていた。空が、ゆっくりと、夜の色に染まっていく。
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