クロウカードの影で〜大道寺知世の秘密の撮影日記〜
夕暮れの撮影室、モニターに映る親友の勇姿。大道寺知世は、魔力を持たない自分にできる「たった一つのこと」——撮影に全てを懸けていた。だがある日、映像の片隅に映り込んだ小さな影に気づく。さくらがカードを封印するたび、決まって現れる、輪郭のぼやけた観察者のような影。敵意はない。でも、だからこそ不気味だった。過去のデータを全て見返し、知世は一つの法則にたどり着く。あの影は、さくらを「撮影」している——自分と同じように。夢の中に現れた黒いローブの声が告げる。「お前の撮影した映像に、秘密が隠されている」。戦えない少女が、カメラという武器で真実に迫る。これは、クロウカードの影で静かに綴られる、大道寺知世の秘密の撮影日記。
クロウカードの影で〜大道寺知世の秘密の撮影日記〜 - 撮影室の涙 ― 消しゴムと絶望の夜
復元ソフトの進行バーが、また止まった。
画面の文字は、何度見ても変わらない。
「データを読み込めません」
知世はマウスを握る手にそっと力を込めた。指先がかすかに震えている。昨夜、影に破壊された映像データ。さくらとの思い出が詰まった記録の数々。その復元を朝からずっと試みていた。
(お願い。どうか、戻ってきて)
心の中でそう祈りながら、もう一度復元ボタンを押す。
カチッ。
小さな電子音。画面が一瞬暗転する。そしてまた同じ文字が浮かび上がった。
「データを読み込めません」
「……あら」
知世は小さく呟いた。
(何度試しても、同じですわ)
胸の奥が冷たくなっていく。大切なものが指の隙間からさらさらと零れ落ちていくような感覚。
撮影室は厚い遮光カーテンに閉ざされ、静寂に包まれていた。モニターの青白い光だけが知世の横顔を照らしている。机の上には何台ものビデオカメラとケーブルが複雑に絡み合っている。壁一面の棚にはこれまで撮りためた映像を保存した無数の記録メディアが整然と並んでいた。
その中のいくつかが、もう二度と再生できない。
知世は深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
(小学三年生の、消しゴムの映像。さくらさんの、初めてのバトルコスチューム姿。放課後の、あの笑顔)
どれも知世にとってかけがえのない宝物だった。
映像の中でさくらは笑っている。無邪気に、太陽のように明るく。その笑顔を何度も何度も見返してきた。辛い時も悲しい時も、さくらの笑顔があればまた頑張ろうと思えた。
(その笑顔が……)
知世は唇を噛んだ。
(私の、さくらさんとの思い出が……消えた)
目頭が熱くなる。視界がじわりと滲んだ。
知世は慌てて目をこすった。
(いけないわ。泣いてはいけない)
(これは私が選んだ道。さくらさんを守るために私が始めたこと)
(だから、泣いてはいけないの)
そう自分に言い聞かせる。でも涙は止まらなかった。
ぽたり。
一滴の涙がキーボードの上に落ちた。
(ああ……)
知世はそっとその雫を指で拭った。
(私、泣いてしまいましたわ)
自分がこんなにも脆い人間だったなんて。知世は少し自分に呆れた。
これまでさくらの戦いを何度も撮影してきた。カードの精霊たちが起こす様々な不思議な出来事。危険な場面も何度もあった。でも知世は一度だって泣いたりしなかった。
(さくらさんが頑張っているんですもの。私が泣いている場合ではありませんわ)
いつもそう思っていた。
でも、今は。
さくらの映像を失った今は。
自分の無力さが身に沁みた。
(私には魔力がない)
(戦うこともできない)
(さくらさんを守ることもできない)
(ただ撮ることしかできないのに)
(その撮影さえも……)
知世はぎゅっとスカートの裾を握りしめた。
(私、どうしたらいいのかしら)
答えは出なかった。
---
朝の光が友枝町の坂道を明るく照らしていた。
空は雲ひとつない青空。空気は少しひんやりとしていて、頬に触れる風が心地よい。
知世はいつものようにさくらと一緒に私立友枝小学校へと向かっていた。
さくらはローラーブレードを履いて知世の隣を楽しそうに滑っている。その姿は今日も変わらず元気いっぱいだ。
「ねえねえ、知世ちゃん! 今日の給食、何だと思う?」
さくらが弾むような声で話しかけてくる。
「あら、さくらさん。給食の献立は毎週金曜日に配られるお便りに書いてありますわ。今日はたしか、さくらさんの大好きなカレーライスだったと思いますのよ」
知世はさくらの顔を見てにこりと微笑んだ。
(さくらさんはいつも通り。私が心配をかけるわけにはいきませんわ)
そう思いながら普段通りの笑顔を心がけた。
「ほんと!? やったあ! わたし、カレー大好きなんだ!」
さくらはぴょんと跳ねるように喜んだ。
「あらあら、そんなに喜んでいただけると私も嬉しいですわ」
知世はさくらの笑顔を見て胸がほんの少し温かくなった。
(さくらさんの笑顔はやっぱり素敵ですわ)
(この笑顔を守りたい)
(そのためには私、もっとしっかりしなくては)
知世はそっとポケットの中の消しゴムに触れた。
(大丈夫。私にはこれがある)
(さくらさんが私にくれた大切な宝物)
消しゴムの感触が知世の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
その時だった。
「……知世ちゃん」
さくらがふいにローラーブレードを止めた。
「最近の撮影、ちょっと減ってない?」
さくらは知世の顔をじっと見つめた。
その大きなエメラルドグリーンの瞳が心配そうに揺れている。
「わたし、知世ちゃんの撮った映像、見るの大好きなんだ。……なんかあったら、言ってね?」
さくらは寂しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、知世の胸は張り裂けそうになった。
(さくらさん……)
(違うの。あなたは何も悪くないの)
(悪いのは全部私)
(私があなたに心配をかけている)
(私があなたの笑顔を曇らせている)
知世はとっさに笑顔を作った。
「そ、そんなことありませんわ。ただ……少し、編集に時間がかかっていて」
(ごめんなさい、さくらさん)
(私、あなたに嘘をついている)
(でも本当のことを話したら、あなたはきっともっと心配する)
(だから、これでいいの)
「心配をかけてごめんなさい。でも大丈夫ですわ。またたくさん撮らせてくださいね」
知世は精一杯の笑顔でそう言った。
さくらは知世の顔をしばらくじっと見つめていた。
それからふにゃりといつもの笑顔に戻った。
「うん! 約束だよ! わたし、知世ちゃんの撮った映像、楽しみにしてるんだから!」
「ええ、もちろんですわ。さくらさんの勇姿は一秒たりとも逃しませんわ」
知世はさくらに笑いかけた。
でも心の中は嵐のようだった。
(さくらちゃん、ごめんなさい)
(私、貴方を守りたいだけなのに)
(守りたいのに傷つけてしまっている)
(私の笑顔、きっとひどくぎこちなかったでしょうね)
知世は自分の頬に手を当てた。
(笑えているかしら。私、ちゃんと笑えているかしら)
自分の笑顔がひどくぎこちないことを知世は自覚していた。
---
放課後。
知世は教室で帰り支度をしていた。
夕日が窓から差し込み、教室をオレンジ色に染めている。
「大道寺」
声をかけてきたのは李小狼だった。
短い黒髪が夕日に照らされて光っている。琥珀色の瞳は真剣な光をたたえていた。
「あのさ……さくらに告白するって話、まだ諦めてないんだ。もう一度、相談に乗ってくれないか」
小狼は知世の目をまっすぐに見つめた。
その真剣な表情に知世は胸を打たれた。
(李小狼さんはこんなにさくらさんのことを真剣に想っていらっしゃるのね)
(その想いに応えたい。力になりたい)
(でも……)
知世は自分の手を見つめた。
(今の私にはその資格がない)
(自分のことすらままならないのに)
(さくらさんの恋の相談に乗ることなんて)
「私、今は……さくらちゃんの力になれる自信がありませんの。ごめんなさい」
知世は小狼の顔を見ずにそう言った。
小狼は一瞬黙った。
それから小さくため息をついた。
「……そうか」
小狼の声は落ち込んでいるように聞こえた。
知世は胸が痛んだ。
(私のせいで李小狼さんまで悲しませてしまった)
(私、本当に役立たずですわ)
「でも、何かあったら言えよ。お前、最近顔色悪いぞ」
小狼は不器用にそう言った。
知世は驚いて顔を上げた。
小狼は照れくさそうに視線をわずかに逸らしていた。
(李小狼さん……)
(こんな時でも私のことを心配してくださるのね)
知世は胸がじわりと温かくなった。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですわ」
知世は小狼に微笑んだ。
(本当は大丈夫じゃない)
(でも心配をかけるわけにはいかない)
(李小狼さんはさくらさんのことで頭がいっぱいなはず)
(私が余計な心配をかけるわけには)
小狼は知世の顔をじっと見た。
それから何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに背を向けて去っていった。
知世は小狼の後ろ姿を見送った。
(ごめんなさい、李小狼さん)
(せっかく相談してくださったのに)
(私、何の力にもなれませんでした)
小狼の真剣な想いに応えられない自分への情けなさが知世の胸に重くのしかかった。
---
帰宅後。
知世は大道寺邸の自分の部屋に戻っていた。
広い屋敷は静まり返っていた。母の園美は仕事で海外出張中。使用人たちももう自分たちの持ち場に戻っている。
知世は机の前に座り、スマートフォンを手に取った。
画面には木之本桃矢からのメッセージが届いていた。
「おい、大丈夫か? なんかあったら言えよ」
知世はその文字をしばらくじっと見つめた。
(桃矢さん……)
(あなたはいつも私のことを気にかけてくださる)
(さくらさんのお兄様で、私の又従兄妹でもある)
(不器用だけど、とても優しい方)
知世はゆっくりと返信を打った。
「ありがとうございます、桃矢さん。でも……これは私が解決すべきことですわ」
送信ボタンを押す。
(これでよかったの)
(桃矢さんに迷惑をかけるわけにはいかない)
(これは私が始めたこと。私が終わらせなくては)
しばらくしてスマートフォンが再び震えた。
桃矢からの返信だった。
「お前さ、一人で抱え込む癖があんだよ。さくらも心配してたぞ」
知世はスマートフォンをぎゅっと握りしめた。
(桃矢さん……)
(さくらさんも……)
(私、みんなに心配をかけてばかり)
(誰かに打ち明けたい)
(この苦しい気持ちを全部)
(でも、できない)
(話したらみんなを危険に巻き込んでしまう)
(あの影は私を狙っている)
(私が撮ることをやめさせようとしている)
(もし私が誰かに話したら、その人まで危険な目に遭うかもしれない)
(だから一人で抱え込むしかないの)
知世はスマートフォンを机の上に置いた。
「桃矢さんにも、さくらちゃんにも、心配かけてばかり……」
知世は小さく呟いた。
その声は静かな部屋に溶けていった。
---
その夜。
知世は撮影室にこもっていた。
最後の望みをかけて破損したデータの復元作業をもう一度だけ試みていた。
モニターにはまたあの文字が表示されている。
「データを読み込めません」
「……やはり、ダメですわね」
知世は深いため息をついた。
(もう手の施しようがない)
(あの映像は完全に失われてしまった)
(私の宝物がまた一つ消えた)
知世は椅子の背もたれに深く寄りかかった。
天井を見上げる。遮光カーテンに閉ざされた部屋は昼間でも夜のようだ。
(何もかも失ってしまった)
(撮影データも、自信も、そして……)
(さくらさんを守る力も)
その時だった。
空気が冷たくなった。
ぶわり、と鳥肌が立つ。
知世ははっとして顔を上げた。
(この感覚……)
(まさか)
ゆっくりと振り返る。
そこにいた。
あの小さな影が。
猫ほどの大きさの黒い影。
輪郭がぼやけていて形がはっきりしない。
それが撮影室の隅っこに佇んでいた。
「あ……」
知世は声にならない声を上げた。
影はゆっくりと知世に近づいてくる。
「お前の存在そのものが、さくらの影を歪めている」
低い囁くような声。
それは空気を震わせるのではなく直接知世の頭の中に響いてくるようだった。
「お前が撮るから、さくらは危険に晒される。消えろ」
「いやっ……違う! 私は、さくらちゃんを守りたいだけなのに!」
知世は叫んだ。
「守る? お前に何ができる。魔力もない、力もない、ただの人間が」
影の言葉が知世の胸に突き刺さる。
「お前の撮影は、さくらの記録ではない。さくらを縛る鎖だ。お前が記録するから、さくらはその姿に縛られる」
「そんな……そんなこと……」
知世は首を振った。
「認めろ。お前の存在が、さくらを歪めている。お前がいるから、さくらは危険に晒される」
影は知世の目の前まで迫ってきた。
そしてその黒い手のようなものをモニターに向かって伸ばした。
「やめて……お願い……それだけは……」
知世は必死に叫んだ。
モニターには復元ソフトの画面。その奥にかろうじて読み込めていた一つの映像があった。
小学三年生の頃の映像。
転校してきたばかりのさくら。
少し緊張した顔。
でもその目はまっすぐで輝いていた。
「はじめまして! 木之本さくらです!」
映像の中のさくらの声。
そして知世が消しゴムを借りた時のあの笑顔。
「あげる!」
無邪気に笑うさくら。
その瞬間を、影は指先一つで砂のように崩壊させた。
モニターの画面が砂嵐に変わった。
「やめて……お願い……それだけは……」
知世は床に崩れ落ちた。
力が抜けた。
涙が止めどなく溢れてくる。
「撮るのをやめれば、お前もさくらも救われる」
影はそう言い残すと空気に溶けるように消えていった。
撮影室に静寂が戻る。
知世はしばらくその場に座り込んでいた。
---
どれくらいそうしていただろうか。
知世はゆっくりと顔を上げた。
床には破壊されたデータの残骸が散らばっていた。
モニターは砂嵐を映し出したままだ。
知世は震える手で床に散らばった記録メディアの破片を拾い集めた。
「私、魔力もない。戦えない。撮ることしかできないのに、その撮影も壊されて……」
声が震える。
「何も残らない。さくらちゃんの笑顔を守りたいだけなのに、私がいることで、さくらちゃんを不安にさせて……」
涙が止まらない。
「私、間違っているのでしょうか」
知世は机の上に置いてあったビデオカメラを手に取った。
その重みを確かめるようにじっと見つめる。
(このカメラで私はさくらさんのたくさんの笑顔を撮ってきた)
(でも、もう撮れない)
(撮る意味がない)
(私が撮るからさくらさんは危険な目に遭う)
(私がいるからさくらさんは不安になる)
(だったら、私は……)
知世はカメラを机の上に置いた。
「もう……撮る意味なんて、ありませんわ」
知世は撮影室を出ると自分の部屋に戻った。
ベッドに倒れ込む。
枕に顔を埋めた。
「うっ……ううっ……」
声を押し殺して泣いた。
母も不在の広い屋敷に知世のすすり泣く声だけが響いていた。
---
翌朝。
知世は泣き明かして腫れた目をこすりながら起きた。
窓の外は今日もいい天気だった。
小鳥のさえずりが聞こえる。
でも知世の心は晴れなかった。
(学校、行きたくない)
(さくらさんに会いたくない)
(どんな顔をして会えばいいの)
(また嘘をつくの?)
(またさくらさんを悲しませるの?)
知世はベッドの中で丸くなった。
しばらくそうしていた。
でも行かなくては。
学校に行かなければさくらさんがもっと心配する。
知世は重い体を起こした。
着替えをして机の前に座る。
鏡を見るとひどい顔だった。
目は赤く腫れている。
(こんな顔、さくらさんに見せられない)
(でも学校は休めない)
知世は冷たいタオルで目の周りを冷やした。
少しはましになっただろうか。
知世はため息をついて机の引き出しを何気なく開けた。
一番上の段、右側の隅。
小さな巾着袋。
知世はその袋を手に取った。
(これは……)
袋の口を開ける。
中から出てきたのは使いかけの小さな消しゴムだった。
(ああ……)
知世はその消しゴムを手のひらにそっと包み込んだ。
(影に壊されたのは映像。でもこれは実物)
(私の手の中に確かに残っている)
知世は消しゴムをぎゅっと握りしめた。
小学三年生の頃の記憶が蘇る。
転入してきたさくら。
隣の席になったさくら。
消しゴムを忘れた知世。
「これ、使っていいよ!」
さくらが差し出してくれた消しゴム。
「ありがとう。お借りしますわ」
「ううん! それ、あげる!」
「え? でも……」
「いいの! わたし、いっぱい持ってるから! それに、知世ちゃん、友達になってくれたでしょ? 友達の印!」
無邪気に笑うさくら。
その笑顔が知世の宝物になった。
(映像は消えてしまった)
(でも記憶は消えない)
(さくらさんの笑顔は私が覚えていますわ)
(この消しゴムと一緒に)
知世は消しゴムを胸に抱きしめた。
「さくらちゃんの笑顔は、私が覚えていますわ」
知世は呟いた。
「……私、もう一度撮ってみます。今度は、さくらちゃんの笑顔を守るために」
知世は立ち上がった。
机の上に置いたままだったビデオカメラを手に取る。
手が震えている。
(まだ完全には立ち直れていない)
(怖い。またあの影が現れるかもしれない)
(でも……)
知世はカメラをぎゅっと握りしめた。
(私は撮る)
(さくらさんの笑顔を守るために)
(たとえ何を失っても)
(たとえどんなに怖くても)
知世は涙を拭いて一歩踏み出した。
まだ完全には立ち直れていない。
それでも彼女は前を向いた。
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