「またあんたかい。今日は何味にするんだい?」 昼休み開始と同時に鳴り響く、専用メロディ『決戦のランチタイム』。ネルフ学園購買部前、通称「戦場」は今日も異様な熱気に包まれていた。 そして、その最前列に立つのは、またしても俺だった。 「また一番だ……」 俺は碇シンジ。中学2年生。くせっ毛の黒いショートヘアに、深い茶色の目。身長165㎝の細身で猫背ぎみ。ネルフ学園の紺ブレザーを着崩すこともなく、赤いネクタイをきちんと締めた、どこにでもいる普通の男子生徒だ。 普通、のはずなのに。 「買えたー!」 「くそっ、またシンジが一番か!」 「パンの申し子め!」 後方からは、殺到する生徒たちの地響きと怨嗟の声。ぴったり閉じた購買部のシャッターの前で、俺は一人、注目を浴びて立ち尽くしていた。 (なんで、こうなるんだよ……) 走ってきたわけじゃない。教室から歩いてきただけなのに、気がつくと一番乗り。しかも後ろから来る列は、なぜか俺を避けて通るように左右に割れていく。まるで運命のレールが、俺を購買部のカウンター前まで運んでくるみたいに。 \u3000列の先頭で、小さな老婆が豪快に笑った。 「あんたに文句はないよ。一番乗りが悪いなんて、この学園のどこにも決まっちゃいない」 白髪まじりの短い髪を三角巾でまとめ、細く温かい笑い目。エプロン姿の鳴瀬トミ子さん。ネルフ学園購買部の伝説の調理員だ。68歳。元は洋食屋「カツレツ鳴瀬」の二代目で、ハコネサキ市の湯元町からこの学園まで毎朝通ってくる。 作り置きのパンを並べるだけの時間なのに、トミ子さんは必ず、俺の顔を見てから一つ頷く。それがなんとなく、恥ずかしかった。 「今日のカレー味は、あと一個だよ。買うかい?」 「……カレー味、で」 迷った末にそれしか言えなかった。ぐらぐら揺れる心を隠すように、カウンターのガラスケースをじっと見る。 この学園では、昼休みのパンがすべてを決める。本当に、すべてだ。 特に購買部のコロッケパン、一個180円。一日三十五個限定。揚げたての衣はサクサクで、中のジャガイモは甘くてほくほく。食が人間関係を支配するこの街の、ちっぽけな王様みたいな存在だ。 日によって味は変わる。月曜・水曜・金曜のカレー味。火曜・木曜のチーズ味。そして月に一、二回しか姿を現さない幻の「ミサトさんスペシャル味」。激辛と甘口と酸味が同時に襲ってくる、好き嫌いが極端に分かれるカオスなやつ。好きになったら最後、抜け出せないらしい。 どれを買うかで、その日の午後の機嫌と、クラス内の派閥まで変わる。バカみたいな話だけど、ここはそういう学園なのだ。 私立ネルフ学園、ハコネサキ市の丘陵地に建つ中高一貫校。生徒数約六百二十名。創立十八年。校訓は『逃げちゃダメだ』。 ……校訓からして、俺には厳しすぎる。 「最後のカレー味だ。しかも今日は当たりだよ」 トミ子さんが茶色い包みを手渡してくれた。まだ湯気で袋が曇っている。 「当たり、って……別に俺、狙って並んだわけじゃ」 「わかってるよ。あんたは並んでない。列があんたを先頭にしたんだ。十四年この仕事してりゃ、そういう不思議な子の一人や二人、いるもんさ」 トミ子さんは笑った。うまく言い返せず、渡されたパンを抱えて後ろを向く。瞬間、後続の生徒がカウンターに殺到した。 「カレー二個!」 「チーズ!」 「焼きそば!」 列が雪崩のように押し寄せる。俺は人波を縫うようにして脱出した。後ろでは、みんなが残り少ないパンを奪い合う。まるで戦争みたいな声と熱気。 (また、買えちゃった) 店から十歩も離れると、熱気が嘘みたいに冷めた。昼休みの廊下はしんと静かになる。壁には『走るな』と書かれた紙が七枚も貼ってある。床のリノリウムは、生徒たちの靴底で磨かれてテカテカ光っている。 温かいパンを片手に、俺はこの世界で一番困っている顔をしていたと思う。 ――なぜなら、この後、教室に戻ると決まってこうなるからだ。 「シンジ!今日こそそのパン、俺に譲れや!」 「いや、昨日の借りは今日返してもらう。シンジ、そのパンで決着つけようぜ」 教室の入り口で、トウジとケンスケが左右から詰め寄ってきた。 鈴原トウジ。ガタイが良くて、襟元を少し緩めた学ラン姿。髪は短くツンツンで、いつも口角を上げて笑っている。体育会系のノリで、すぐ肩を組んでくる。 相田ケンスケ。トウジより一回り小柄で、カメラを首から下げた軍オタク。眼鏡を光らせながら、戦略を練るみたいにニヤニヤする。 「あの、これ、俺の昼ごはんなんだけど」 「細かいことはええやんか。どっちが譲り受けるか、じゃんけんで決めようぜ」 「先に言っとく。俺は昨日、購買部で焼きそばパンを譲った。トウジに借りがある」 「はぁ!?あれは貸しじゃなくて、お前が賭けに負けた分やろ!」 「黙れ。パンは平等に分けられるべきなんだ」 二人が俺のパンを挟んで、わあわあやり始める。俺の意思は、完全に無視。教室の空気が、昼休みの熱に染まっていく。 パンを抱えたまま、隅っこに縮こまる。心の中で、何度も思う。 (やめてくれ……食べる前から、取り合わないでくれ) その時だった。 「パンは平和に食べるものよ!」 声が教室に響いた。ひときわ高く、まっすぐな声。 振り向くと、教室の前の黒板付近に立っていた。艶のある黒い髪を全体的にお団子にまとめ、意志の強い大きな黒い瞳がぎらりと光っている。背は百五十二センチ。制服のブレザーもスカートの裾も、きっちり寸法通り。姿勢は背筋が伸びて、一本の線みたいだ。 洞木ヒカリ。ネルフ学園の生徒会長で、俺のクラスの学級委員長。 「またあんたたち?いい加減、学習しなさい。パン条約第一条、一人一個までって決まってるの」 「いやいや、持ってるのはシンジで、俺らは受け取る側や。誰が決めたって、一つのパンを二人で分けるのはセーフやろ」 「そうよ。一人一個なんだから、シンジが持ってる一個を俺らが分ける。何の問題もない」 「問題だらけよ!そもそも碇君の昼ごはんは、誰の了承も得ずに賭けの景品なんかじゃないの!」 ヒカリが一歩、トウジたちに詰め寄る。小柄な体で、二人まとめて威圧している。吐き出す言葉には、ためらいがない。 (すごいな、ヒカリは) 俺には絶対にできない。感情をそのまま、正面からぶつけること。強く、曲がらないこと。 「碇君、あなたもよ」 急に矛先がこっちに来た。ヒカリが、くるっと振り返って、きりっとした目で俺を射抜く。 「このパンを誰に渡すか、あなた自身が決めなさい。それが持ち主の責任なの」 「僕が……決める?」 「そう。あなたが一番乗りで買えたコロッケパンは、今日、この教室でトレードされる運命にあるんだから」 俺は口を開けて、すぐに閉じた。 自分の意思を表明するのは、昔から苦手だ。断ることも、否定することも、怖い。何かを選ぶたびに、誰かが嫌な顔をする。それが怖くて、いつも誰かの顔色をうかがってしまう。 教室の隅で、ふと目に入った。 綾波レイ。 最前列の窓際で、無表情に本を読んでいる。肩まであって、青みがかった銀色の髪。白い肌は紙みたいで、触れたら消えそうに見える。赤い瞳はいつだって、どこか遠くを見ている。 彼女はカレー味を指名買いしている。トミ子さんも、レイが来るとさりげなく取っておく。それくらい、レイとカレー味の結びつきは強い。 (レイ、なら……) そう思った瞬間、心臓が小さく跳ねた。 でも、近づく勇気がない。声をかけたら、どんな顔をするかわからない。無視されるかもしれない。感謝されないかもしれない。いや、感謝なんて求めていないんだけど。 ただ、俺の手の中のパンが、一番自然な持ち主のところへ行けばいい。そう思う。 「……碇君、聞いてる?」 「え、あ、うん」 「もう。いつもそうなんだから。逃げてばかりいたら、パンの時間は待ってくれないのよ」 ヒカリの声が、少しだけ柔らかくなった。 「三年前のこと、覚えてる?第一次コロッケパン暴動。購買部の前でみんなが押し合いになって、棚が倒れて、コロッケパン二十二個が床に散らばったの」 「僕、まだ入学してなかったけど……」 「私も。でも、入学したときに歴史の資料室で調べたの。あの日、大怪我をした生徒がいたっていう記録が残ってる。パン一個のために、後遺症が残るかもしれない怪我をするなんて、絶対おかしいでしょ」 ヒカリが、強く拳を握る。 「だから、パン条約があるの。一人一個まで。走って人を押さないこと。……三つ目は守られてないけど、それでも私たちは、パンを争いの種にしちゃいけない」 静かだった。 トウジもケンスケも、ぐうの音も出ない。ヒカリの言葉は、正しさで空間を殴る。 俺は、自分の胸の内側が、もやもやと熱くなるのを感じた。 (そうだ。僕が、毎回一番に買えることが、おかしいんだ) 歩いただけで一番になる。まるでパンに選ばれているみたいに。 (でも……そのせいで、こんな争いに巻き込んでる) 気づいたら、足が動いていた。 パンを抱えたまま、教室の入り口へ向かって小走りになる。 「碇君!逃げたって何も解決しないのよ!」 声が背中を追いかけてくる。 (わかってる。わかってるよ……でも) 足が止まらない。心の中で、校訓がチラついた。 ――逃げちゃダメだ。 (ダメだって、わかってる) 昼休みの喧騒が、遠くで大きく波打っている。購買部の戦場はまだ終わっていない。俺は廊下を抜けて、昇降口の方へ。屋上へ逃げよう。あそこなら、誰もいない。 「こら、そこのパンの子!」 突然、特徴的な声が廊下に反響した。 振り返ると、商品の入ったカゴを抱えたトミ子さんが、カウンターから半分身を乗り出してこっちを見ていた。 「逃げるんじゃないよ。あんた、そのパン、あとで感想を聞かせとくれ!」 豪快な笑顔。大きな声。 トミ子さんの目は、逃げる俺の背中ごと、全部を見透かしているみたいだった。肩の力が、一瞬抜けた。 (ああ……そうだな) パンは温かくて、湯気で袋が曇っている。八百屋で見るあのコロッケの匂いじゃない。油とパンとほんのり香るスパイス。甘い、匂い。 このパンを、誰に渡したらいいんだろう。 レイの静かな横顔。トウジのずるい笑顔。ケンスケの眼鏡の光。ヒカリの、まっすぐな目。 (誰が一番、笑ってくれるんだろう) 俺は、しばらく廊下で立ち尽くした。 昼休みの学園が、少しずつ、食事の時間になっていく。購買部の前からは、早くも完売を告げる声と、悔しがる声が聞こえていた。 ――結局、俺は教室に戻ることにした。 逃げても、この苦しさは消えない。むしろ、誰かに譲らずパンを一人で食べたら、今日の午後のクラスの空気がもっと悪くなる気がする。 自分のせいで争いが起きるのは、もうたくさんだ。 教室に戻ると、トウジとケンスケがまた、口論を再開していた。俺を見つけると、どちらも手招きする。 「シンジ!こっちに渡せや!」 「いや、まずは俺に。話がある」 二人の間をすり抜けて、俺は窓際の一番前、教室の隅へ歩いた。 レイがいる。 本を読んでいる。こっちには気づかない。 ……いや、気づかないフリをしているのかもしれない。この教室の騒がしさの中で、彼女だけが、別の空気をまとっている。 静かに、机の端へパンを置いた。 「……ありがとう」 レイは本から目を上げなかった。でも、小さな声が確かにそう言った。 教室が、一瞬静かになった。 「なんでレイなんだよ!?」 「俺ら、じゃんけんする前から負けてたってことかよ」 レイがパンの包みを開ける。 カリッ。 衣が割れる音。スパイスの香りが、教室の空気をゆっくり染める。甘くて香ばしい、いい匂い。 レイが、一口かじった。 小さな口が動く。あまり感情は見えないけれど、目が、ほんの僅かに細くなった気がした。 「……おいしい」 ぽつりと、呟いた。 ヒカリが、ホッとしたように微笑んだ。 「よかったわ、碇君。ちゃんと、持ち主に届いたみたいね」 俺は、うまく笑えなかった。 (これで、よかったのかな) 心の中で、何度も自問する。 自分から、誰かを笑顔にできたかもしれない。いや、笑顔にしたのは、きっとトミ子さんのパンだ。俺はただ、転がしただけ。それでも、後悔はしないって、思えた。 ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなった。 その後、教室の後ろが、悲鳴を上げた。 「あー!また買えなかった!シンジ君、あんた、明日は先生の分もよろしくね!」 声の主は、葛城ミサト先生。 現国の教科書を片手に、髪を一つに結った大人の女性。だらしなくネクタイを緩めて、缶ビールでも持ち出しそうな空気。正式には、パン条約第三条で『教職員は生徒の後に並ぶこと』と決まっている。 でも、ミサト先生はそれを毎日破る。 入学以来、一度も守ったところを見たことがない。 「ミサト先生!また条約破りですか!教職員は生徒の後って、何度言ったらわかるんですか!」 「いいじゃないのよ。私だって生徒と対等に戦いたいだけなんだから。ねえシンジ君、明日は買えたら先生にちょうだいよ。カレー味でもいいから」 「え、僕、明日、一番に買えるかどうかも……そもそも、毎回買えるわけじゃ……」 「なに言ってるのよ。あんた、今日も一番だったんでしょ?パンの申し子!」 ミサト先生が、俺の肩をバシバシ叩く。 「や、やめてください……」 「あーあ、今日も戦い負けちゃった。せっかくコロッケの匂いだけで夕方まで働く気してたのに」 ミサト先生はからから笑いながら、自分の席へ。ヒカリはまだ怒っている。 「とにかく、明日からパン条約の強化を検討します。監視カメラの設置も、生徒会で決議しますから!」 「へえ、カメラ。それで私が大人しくなると思って?」 「思ってません。だから、監視カメラと同時に、朝の教職員朝礼で冬月副校長に報告します」 教室は、また騒がしくなる。 俺は机に座って、窓の外を見た。昼の光が部屋に斜めに入って、誰かの机を白く照らしている。 (明日も、一番乗りでパンを買わなきゃいけないのかな) 誰かの顔色をうかがう。誰かに譲る。誰かを笑顔にする。 たかがパンなのに、たった一個のパンが、この学園の全部みたいに思える。 「……僕、本当は、焼きそばパンが食べたいんだよな」 口に出したら、ちょっとだけ、らしくないことを言った気がした。 レイが、まだ一口目の余韻を噛み締めるみたいに、小さくパンを持ち上げている。 カリッ。 また、あのいい音。 昼休みが終わるまで、あと少し。 俺は、明日の昼休みのことを考えていた。 窓の外で、風がカーテンをふくらませた。 ランチタイムは、静かに、でも確かに、終わろうとしていた。