白い旋律、青き密約~ふたりだけの放課後レッスン~
演技がロボット以下と罵られたオーディション通過直後のヒロイン。冷酷なイケメン俳優が、密室で彼女に教える「恋」のレッスン。それは、愛を知らない少女が、恋を知り、女になっていく、危険な放課後の秘密。
スタジオ・ゼノンの冷たい廊下で、シラハマ・マシロはアオヤギ・レンと出会う。彼は事務所から「恋人役専属契約」を結ばされた、鎖付きの王子様。恋愛禁止の契約を抱えながら、彼女の演技に欠けた「感情」を教えるためにやってきた。
「逃げたら、お前の役は、俺が降ろす」
そう告げた冷たい瞳の奥に、彼は何を隠しているのか。母のスパルタ教育に縛られ、友達も恋も知らないまま育った少女が、初めて触れる「心」の熱。棒読みロボットだった彼女が、彼との二人だけのレッスンで、少しずつ変わっていく。
これは、完璧な体を持つ少女と、完璧な演技を持つ青年が、ふたりだけの放課後に紡ぐ、白い旋律と青き密約の物語。
白い旋律、青き密約~ふたりだけの放課後レッスン~ - 恋愛シチュエーション、心臓に悪いです
朝の光が、代々木駅前の噴水にキラキラと反射している。
水しぶきが風に乗って、少しだけ冷たい。
シラハマ・マシロは、噴水の縁に立って、自分の手のひらを見つめていた。
(手、震えてる)
昨日の夜から、何度も寝返りを打った。
頭の中で、アオヤギ・レンの声がぐるぐる回っていた。
『俺が、お前の恋人役を演じる』
心臓が、うるさい。
「……大丈夫、練習、練習だから」
自分に言い聞かせる。
でも、声は自分で思っているよりずっと小さくて、かすれていた。
(そう、これは全部、演技の練習)
(レン先輩は、私の先生で——)
その時。
「五分前か。上出来だな」
低い声が、すぐ後ろから聞こえた。
マシロはビクッと肩を震わせて、振り返る。
そこに立っていたのは、黒い髪を無造作に後ろに流した、長身の男。
アオヤギ・レンは、相変わらずの無表情で、マシロを見下ろしていた。
でも、いつもと違うところが一つだけある。
その手に、小さな紙袋が提げられていた。
「……あの、それ」
マシロが恐る恐る尋ねると、レンはほんの少しだけ眉を動かした。
「たい焼きだ。事務所の近くに、お前が好きだって言ってた店があったろ」
——え。
マシロの頭が、真っ白になった。
私、たい焼きのこと……そんな話、一回もしたことない。
「小島に聞いた。お前、甘いもの全般に目がないらしいな」
そう言って、レンは無造作に紙袋を差し出した。
袋を開けると、湯気がほわっと立ち上る。
焼き立ての、あんこがぎっしり詰まったたい焼き。
「今日のレッスンは長い。糖分を取っておけ。甘いものが切れると、お前は集中力が一気に落ちる。小島のデータで確認済みだ」
マシロは、たい焼きを受け取った。
指先が、じんわりと温かい。
(この人、調べてたんだ……)
(私の、好きなもの)
胸の奥が、きゅっとなる。
マシロは、自分でもよくわからない感情に、戸惑っていた。
「……ありがとう、ございます」
声が、上ずる。
レンはそれ以上なにも言わず、さっさと歩き出した。
マシロはたい焼きを胸に抱えたまま、慌てて後ろを追いかけた。
歩いて10分ほど。
二人は、「ラトリエ・ド・マミ」という小さなカフェのテラス席に座っていた。
オレンジ色のひさしがかわいい、フランス風のカフェだ。
通りに面したテラス席からは、代々木公園の緑が見える。
レンは、マシロの椅子を引いて、さも当然のように彼女を座らせた。
その動作があまりにも自然すぎて、マシロは逆に固まってしまう。
「飲み物は、カフェラテでいいか? 甘い方がいいなら、キャラメルラテも頼めるが」
レンの声が、いつもより少しだけ柔らかい。
マシロの顔が、一気に熱くなった。
「え、あ、はい、あの、普通のカフェラテで……大丈夫、です」
しどろもどろになるマシロを、レンはただじっと見つめている。
(やめて、そんなに見ないで……!)
心の中で叫んだ。
ほどなくして、カフェラテが二つ、運ばれてくる。
細長いグラスに、ミルクがきれいな層になっている。
マシロは緊張のあまり、手が震えていた。
カップを取ろうとした、その瞬間——
ガチャン。
派手な音を立てて、カップが倒れた。
茶色い液体が、テーブルに広がっていく。
「あっ……!! ごめんなさい、ごめんなさい!!」
マシロは真っ青になって、何度も頭を下げた。
急いでナプキンを手に取る。
レンは無言で、こぼれたカフェラテを別のナプキンで拭き取った。
「落ち着け。まだ飲んでもいない。問題ない」
彼の声は、まったく動揺していなかった。
「本当に、すみません……」
マシロは耳まで真っ赤だ。
(最悪だ……なんでこんな、初日から……)
新しいカップが運ばれてくるまでの間、マシロは「大丈夫です」と「ごめんなさい」を合計で12回は繰り返した。
気を取り直そうと、マシロはテーブルの端にあった小さな容器に手を伸ばした。
角砂糖が入っている。
一つ、二つ。
カップに落とす。
レンの方にも、同じように入れてあげようとした。
「……おい」
レンが、無表情のまま、マシロの手を止めた。
「それは塩だ」
——え?
マシロは、自分の手の中にある小瓶をまじまじと見つめた。
透明な小さな粒。
ぺろり。
指先についたのをなめてみる。
……しょっぱい。
「……うそ」
マシロはその場で、小さくなった。
もう顔から火が出そうだ。
レンはというと、すでに一口、口をつけたあとだった。
「……しょっぱいな」
ぽつり、とつぶやく。
マシロの心臓が、バクバクと暴れている。
あまりの恥ずかしさに、消えてしまいたい。
「本当に、私、もう……なんでこんな……」
うつむくマシロに、レンは短く言った。
「失敗していい。それが練習だ」
——練習、か。
その言葉を聞いた瞬間、マシロの心臓が、また一つ、大きく跳ねた。
そうだ、彼は練習で優しくしてくれているだけ。
全部、演技で。
なのに。
(なんで、こんなに胸が苦しいんだろう)
マシロは、唇を噛んだ。
その後、場所は代々木公園の並木道に移った。
大きなケヤキの木が、トンネルのように道の上を覆っている。
緑の葉が風に揺れて、サワサワと音を立てていた。
レンは、ベンチに座っていたマシロの前に立つと、突然、手を差し出した。
「次のトレーニングだ。立って」
マシロはおそるおそる、その手を取る。
レンの手は、大きくて、指の関節が少し固かった。
アクションシーンの稽古でついた、小さな傷の跡がある。
(男の人の手だ……)
そう思った瞬間、レンがぐいっと手を引いた。
マシロの体が、ふわりとレンの方に近づく。
二人の距離が、急に縮まった。
「『好き』の表現を練習する。いいか、目を見ろ」
——目。
マシロは、恐る恐る顔を上げた。
目の前に、レンの涼しげな一重の黒目がある。
こんなに近くで見たのは、初めてだった。
グレーがかった黒目の奥が、夏の陽射しを吸い込んで、小さくキラキラしている。
「いいぞ、そのまま。……好きだ」
——今、なんて。
低くて、少し掠れた声が、耳のすぐ横を通り過ぎた。
レンはマシロの手を握ったまま、彼女の耳元に顔を近づけていたのだ。
「マシロ、好きだ」
声の振動が、空気を震わせて、マシロの耳の産毛をくすぐった。
体温が、一気に上がっていくのを感じた。
顔が、耳が、首が、まるで蒸気機関車みたいに熱い。
心臓の音がうるさくて、レンにも聞こえてしまうんじゃないかと思う。
「聞こえているか。……好きだ、マシロ」
三度目。
その瞬間、マシロの膝から力が抜けた。
ストン。
まるで糸の切れた人形みたいに、その場にしゃがみ込んでしまう。
「む、無理です……心臓が、壊れます……!」
マシロは真っ赤な顔で、レンの手を離し、両手で自分の耳をふさいだ。
沈黙。
そして。
「……ふ」
微かな、空気の漏れるような音。
マシロは、恐る恐る指の隙間から顔を上げた。
レンが、笑っていた。
口元をほんの少しだけ緩めて、目を細めている。
いつもの氷みたいな表情とは、まったく違う顔だった。
「お前、面白いな」
そう言った彼の声は、呆れているようでいて、心なしか、優しかった。
——ああ。
マシロは、その笑顔を、目の奥に焼き付けた。
嬉しかった。
レンが笑ってくれたことが、心の底から、嬉しかった。
でも。
胸の真ん中あたりで、チクリと、針のような痛みが走る。
(全部、演技なんだ)
(優しい声も、たい焼きも、『好きだ』も、全部)
私は、ただの練習台。
レン先輩にとっての、教え子。
それだけ。
嬉しい、と、痛い、が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざった。
名前もつけられないこの気持ちの正体を、マシロはまだ知らなかった。
日が落ちて、空が濃い青に変わる頃。
二人はスタジオ・ゼノンの屋上にいた。
レッスンはとっくに終わっていた。
でも、二人とも、なんとなく帰る気になれなかった。
屋上には、自販機が二台と、古びたベンチが一脚。
フェンス越しに、東京タワーがオレンジ色に灯るのが見えた。
レンは、フェンスにもたれて、缶コーヒーを飲んでいる。
マシロは少し離れたベンチに座って、炭酸飲料の缶を両手で包み込んでいた。
遠くから、都会のざわめきが、風に乗って聞こえてくる。
「……俺は、誰かを本気で好きになる資格がないんだ」
突然、レンが言った。
マシロは顔を上げた。
レンは東京タワーを見つめたまま、もう一度、缶コーヒーを一口だけ飲んだ。
「今の契約を結んでから、ずっとそう思ってきた。この仕事が好きだから、他の全てを捨てた。でも……たまに、わからなくなる」
東京タワーの灯りが、レンの瞳に小さく映り込む。
彼の声は、誰かに話しているというより、自分自身に言い聞かせているみたいだった。
「……自分の人生なのに、自分で選べないことが多すぎて、疲れるんだ」
マシロは、なにも言えなかった。
ただ、レンの左手が、缶を握る力に任せて、わずかに震えているのに気づいた。
無意識に、自分の左手首をぎゅっと握りしめている。
(この人が、こんな顔をするなんて)
私の中のレン先輩は、いつも冷たくて、強くて、完璧だった。
でも今、目の前にいる彼は、とても脆くて、壊れてしまいそうに見える。
そっと、手を伸ばしたくなった。
その震える手に、触れたくなった。
でも、できなかった。
——違う。
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
これは、練習の延長じゃない。
先生に抱くような、敬意だけじゃない。
私は。
(私は、レン先輩のことが——)
唇を噛んだ。
歯の間から、鉄の味がほんの少しだけ滲んだ。
その感情の名前を、声に出してしまうのが怖かった。
夜も更けた、杉並の一軒家。
真っ暗なリビングを通り抜けて、マシロは自分の部屋に戻った。
母は、もう寝ている。
部屋の明かりをつける。
6畳の小さな部屋。
壁際のベッドの上や、本棚の隙間、机の下まで。
50体以上のぬいぐるみたちが、思い思いの場所に座って、こっちを見ていた。
マシロは、ベッドに倒れ込んで、その中で一番大きなウサギのぬいぐるみを抱きしめた。
真っ白で、耳が長くて、ちょっと困ったような顔をしている。
名前は「ゆきみ」。
小学生の時、初めて自分のお小遣いで買った、最初の友達だ。
「……ゆきみ。私ね」
声が震えた。
目尻が、じわりと熱くなる。
今日一日、ずっと心の奥に押し込めていた言葉が、堰を切ったように溢れ出てきた。
「私、レン先輩のことが、好きなんだ」
口に出した瞬間、涙が一粒だけ、こぼれ落ちた。
「これは、演技じゃない。練習じゃない。私、本気で、あの人のことが——」
ぎゅっ、と、ゆきみを抱きしめる腕に、力がこもる。
嬉しいような。
怖いような。
痛いような。
いろんな感情が一度に押し寄せてきて、頭がぐちゃぐちゃだ。
窓の外を見る。
遠くに、東京タワーが、小さな豆粒みたいに光っていた。
さっき、レンがあんな顔で見ていた灯りと同じだ。
「……私、こんな気持ち、初めてで。どうしていいか、わからない」
ゆきみの長い耳に、静かに涙が滲みていく。
この胸の痛みと、温かさを抱えたまま、明日からも彼の隣で、練習を続けなければならない。
それが、嬉しいような、つらいような。
マシロは、ぬいぐるみを抱きしめたまま、目を閉じた。
部屋の中の50体のぬいぐるみたちが、静かに彼女の初恋を見守っていた。Noveliaとは?
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